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猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

箱根ランナーが繋いだ御縁?=大正11年第三回箱根駅伝:法政大学六区・川村衛と東洋大牛久高校

2019-12-22 22:23:23 | インポート
東洋大学の付属高校では東洋大姫路高校が野球の方で活躍し、校名も全国的に知られておりますが、東洋大牛久高校の方はスポーツでは相撲が全国大会にも出場しているようです(あまり詳しくないもので…)

その東洋大牛久高校が茨城県高校新人大会の駅伝部門で優勝したとの事。

平成29年度 茨城県高等学校新人駅伝競走大会(男子)

新人戦とはいえ、創部三年目で初めての優勝ですので、今後の活躍が大いに期待されます。



東洋大牛久高校が開校したのは昭和39年のことです。
牛久市は上野から常磐線で約一時間、東京から通勤圏内のベッドタウンでありますが、市になったのは昭和61年のことで、昭和28年までは牛久村でありました。昭和29年1月に牛久町となり、同年4月にはお隣の岡田村と合併し、初代町長には川村衛という方が就任いたしました。
更にその翌年の昭和30年には奥野村が編入されました。そのため、昭和37年にそれぞれの村にあった中学校は牛久中学と岡田中学が統合されて牛久第一中学、奥野中学は牛久第二中学に改められました。旧岡田村にあった岡田中学は廃校となり、台地の上にあった校舎跡地(宮の台)の転用先を探していたのであります。

そこで、牛久在住で東洋大学経済学部教授の坂本市郎氏が大学に働きかけて、牛久の町に付属高校が建てられることになる訳でありますが、そのきっかけについて『東洋大学校友会100周年記念誌』で坂本氏が次のように回想しておられます。

昭和38年の晩春、町長と床屋で偶然一緒になった。いろんな話の末「牛久にも高校が欲しい。できることなら大学の付属高校がいい」。
かつて箱根駅伝の法大ランナーであった町長は「母校に話してみようかと思っている」と語った。それから数日経って町長室を訪ね「東洋大学の付属を誘致したらどうか」と進言したら「とにかく見に行こう」ということになり、はじめて草深い「宮の台」へ案内された。
松籟爽やかな宮の台は、学祖建学の理念を顕現するのにふさわしい教育環境であった。町長は「あなたは牛久の住人だ。東洋大の付属を誘致してもらえないか。校地・校舎を無償で貸与してもいいんだ」と言うので、すぐに大学の意向を打診してみることになった。
(『東洋大学校友会100周年記念誌』所収「牛久高校覚え書」)


法大出身の町長が母校に話していたら、東洋大の付属高ではなく「法政三高」が出来ていたのか?、だとしたらその方が近隣住民にとっては……などと今更言っても仕方のない“たられば話”はさて置きまして、ともあれ床屋さんでの出会いがきっかけで、その後周辺用地の買収が難航するなど色々紆余曲折はあったものの、どうにか昭和39年4月5日に第一回の入学式が執り行われたのであります。

さて、気になるのは“箱根駅伝の法大ランナーであった町長”でありますが、箱根駅伝の公式サイトで調べてみると、大正11年に行われた第三回の六区の走者で、1時間39分32秒(七位)の記録が残っておりました。

選手詳細情報 川村衛
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出場したのはこの第三回だけだったようなのですが、この川村衛氏についてはこのところ大きな図書館に立ち寄る時間がなかなか取れず、詳しくはわからなかったのですが、ウェブ上に公開されていた牛久市の広報誌『USHIKU CITY NEWS 2009・5・1第1000号 』に掲載されている「歴史・読み物 昔の牛久」に氏の経歴が載っておりました。

同記事によりますと、明治35年に岡田村長の村田喜太郎の末っ子長男として生まれ、竜ケ崎中学から大正10年に法政大学に進みましたが、中退して岡田村に戻ったとの事。中退した時期はわかりませんが、箱根の六区を走ったのは一年生のときだったことになります。
岡田村に帰ってからは税務署吏員、小学校の訓導を経て昭和8年に村会議員に当選し、昭和10年には村会議員の互選により村長に選ばれ昭和17年まで在任、一方で昭和10年から22年までは県会議員も兼務していたそうです。

戦後はGHQの公職追放令により議席を離れますが、昭和26年に解除されると岡田村村長に返り咲き、先に記したように昭和29年に牛久町の初代町長に就任しました。

その後、昭和38年9月に参議員の補欠選挙に立候補することとなり、東洋大牛久高校が開校する前に町長の座を辞してしまいますが、体育館建設のための基金募集のための後援会長を務めるなど牛久高校誘致のために尽力されたようで、坂本市郎氏も先に紹介した回想録「牛久高校覚え書」の末尾の一文を
仮に地主の協力がなく、川村というひとりの人間がいなかったならば、今日の牛久高校は存在しえなかったであろう。

と結んでいます。

奇しくも黎明期の箱根駅伝ランナーとの因縁が牛久の土地に導いた東洋大牛久高校。
創部間もない駅伝部からも近い将来、箱根路を駆け抜ける選手が出て来ることでありましょう。


*H31年1月20日追記
平成29年の新人大会では優勝した東洋大牛久でしたが、翌年の茨城県高等学校駅伝では強豪の水城高校に24秒差の二位に終わり“都大路”への夢は断たれてしまいましたが、その時のメンバーの内前田義弘選手と板倉颯大選手が平成31年度の新入生として東洋大の門をくぐることになったようです。
特に前田選手は第24回都道府県対抗男子駅伝の茨城県代表チームに選ばれ、5区8.5キロの区間を13位で走りました。

東洋大の付属校では東洋大姫路と、昭和52年に閉校となった青森県の東洋大南部からはこれまでに各一人OBが箱根駅伝を走っております。

前田・板倉の両君が付属高出身箱根ランナーとなることを心より願うのであります……。

東洋大南部:沢村佐多夫
昭和52年 1977 第53回 九区 12位 1:24:04
昭和53年 1978 第54回 七区 11位 1:09:54
昭和54年 1979 第55回 六区 8位 1:02:28

東洋大姫路:多田裕志
平成11年 1999 第75回 六区 2位 0:59:40
平成12年 2000 第76回 六区 8位 1:01:27




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昭和10年にマラソンの世界最高記録を出した池中康雄さんの東洋大学在学年(付:第二学寮など)

2019-12-01 07:21:22 | インポート
*H31年2月11日
古書店で昭和13の学生名簿などを入手したので、それに基づき書き換えました。


ラグビーワールドカップでの“歴史的勝利”の陰に隠れて?あまり話題になっていませんが、かつての山の神・柏原竜二選手が9月20日に行われたシドニーマラソンでフルマラソンに初めて挑戦いたしました。結果は2:20:44で七位でしたが、卒業後は故障もあって今一つの成績でしたので、これを機に再び大きな大会で注目を浴びる選手に戻ってほしいものであります。
ちなみに、優勝したのも東洋大OBの北島寿典選手でタイムは2:12:44。北島選手は逆に在学中故障に苦しみ、箱根駅伝には一回しか出場できませんでしたが、ここは先輩の意地を見せての優勝でしょうか。

今や世界のマラソン界は最高タイムが2時間2分台に突入しており、オリンピックや世界陸上では日本選手は影が薄くなってしまいましたが、かつて東洋大学在学中に当時の世界最高タイムを記録したのが池中康雄さんで、ベルリンオリンピックを二年後に控えた昭和10年4月3日に行われたオリンピック第一・第二候補挑戦競技会でのことでした。

池中、マラソンに世界最高記録
二時間二六分四四秒
◇最も期待されたマラソンでは果然池中康雄選手(第二候補・東洋大学)が素晴らしき快調を示し律動的なペースに乗って遂に二時間二六分四十四秒で優勝、楠選手が去る昭和八年の日本選手権大会で作った世界最高記録二時間三一分十秒を堂々四分半も突破する大記録…

マラソン
1.池中康雄(東洋大)二時間二六分四四秒【世界最高記録】
2.鈴木重房(日大)二時間三三分五秒 3.孫基禎(朝鮮養正)二時間三九分三四秒 4.相良賢一(麻布AA) 5.松永重(日大)

▼…午前十一時競技場を出発、参加者相良、池中、鈴木、松永、孫の五名、往路は孫極めて好調にスピーディーなペースでリードし、相良、鈴木、池中更におくれて松永の順でつづき六郷の引返点では孫が一時間十一分三〇秒という素晴らしいタイムでトップに立ち約百米遅れて相良、さらに二十米の差で鈴木、池中つづき松永は可成りの差をつけられた。復路相良は疲れておくれ池中、鈴木が孫に迫って鎌田付近ではこの三者一団となり大接戦となる。池中は頗る快調に乗り鈴ヶ森付近から完全にリードして先頭に立てば孫疲労気味でスピード落ち鈴木にも置かれたが鈴木のペースも稍鈍って八つ山では池中断然リードして鈴木に二分の差をつけ優勝は決定的なものとなり堅実なペースを運んで芝園橋を通過するとき丁度二時間。更に赤坂を登って青山一丁目に到ったとき実に二時間二十分五十二秒で世界最高記録の実現は確定的となり悠々競技場ゴールへ入った。鈴木約七分の差で二着となり孫は更に六分遅れて困憊気味に三着となった。
(『読売新聞』昭和十年四月五日付朝刊)


読売新聞
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朝日新聞
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この結果、ベルリンオリンピック代表の有力候補となった池中さんは、昭和11年5月21日に行われたオリンピック最終予選会に出場しましたが、レース直前に病気の弟さんの為に輸血を行い、体調を崩したまま出場したため途中棄権。オリンピック出場の夢はかないませんでした。
代表に選ばれたのは南昇竜・孫基禎・鈴木重房の三名でしたが、予選一位の南選手のタイムは2:36:03、三位の鈴木選手で2:39:41でしたので、池中さんが万全の体調でこのレースに臨むことができたなら、代表の座を手にしていた可能性は大いにあったと思われます。

池中さんに関しては*陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さん

の中の
池中康雄伝説~“鉄紺東洋”の黎明期を支えた元マラソン世界最高記録保持者~
で詳しく紹介されておりますので、こちらのサイトもぜひご覧ください。


ところで、私は以前から池中さんの在学年数に関して、ずっと腑に落ちない点がありました。
池中さんは在学中箱根駅伝に六回出場しております。現在と学制が違いますので他校の選手の中には、もっと多く出場している選手も多いのですが*、その点を先の“輝け鉄紺さん”をはじめ幾つかの駅伝関連サイトでは、“戦前の大学は予科三年・本科三年だったため”としています。
ところが、東洋大学の予科は戦前は二年制で、三年制の予科ができるのは戦後の昭和二十一年から学制改革で新制大学に移行する昭和二十四年までの間だけなのであります。
(戦前の『大学令』では「大学予科ノ修業年限ハ三年又ハ二年トス」とあり、三年制の予科は旧制中学の四年修了者、二年制の予科は旧制中学卒業者が「入学スルコトヲ得ル」と定められています。)

また、池中さんの六回の出場歴は昭和8年~12年と昭和15年で、間にブランクがあるのも気になっておりました。

そこで、『東洋大学百年史通史編Ⅰ』などを改めて見直してみたところ、「第七章 学友会の設立と学生の活動」という項に“池中康雄(昭和九年専門部東洋文学科、同十二年国文学科卒業”とあるのを見つけました。
さらに、著作権切れの資料を順次デジタル化してウェブ上で公開している国会図書館近代デジタルライブラリーに、うまい具合に昭和九年と十二年の『東洋大学一覧』がUPされているのに気が付き、それぞれ在学生と卒業生の項目を見てみたところ、やはり昭和九年版では専門部卒業生と国文学科学生、昭和十二年版では12年度の国文学科卒業生欄に“池中康雄”の名前があるのを確認できました。(下記リンク先を御参照下さい)

『東洋大学一覧・昭和9年度』
昭和9年専門部東洋文学科卒業生名簿
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463208/120
昭和9年度国文科学生名簿
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463208/79
『東洋大学一覧・昭和12年度』
昭和12年度国文科卒業生名簿
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463221/124

戦前の私立大学は大正七年に大学令が出されるまで、大学を名乗ってはいても制度上は専門学校に位置付けられていました。大学令により私立でも大学に昇格できることになり、東洋大学も昭和三年に大学昇格を果たしましたが、東洋大学に限らずほとんどの私立大学は昇格後も専門学校にあたる専門部も引き続き残しておりました。

池中さんも当初専門部に入学したようで、そうなると昭和九年度の卒業から逆算すると入学したのは昭和六年ということになります。
(先に紹介した“輝け鉄紺”さんやWikipediaなどでは昭和七年となっています)


昭和六年の『官報』に掲載された学生募集広告
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以前、古書店で入手した昭和十六年の『東洋大学案内』の学部入学資格には
(一)本大学予科を修了したるもの(考査をせず)
(二)欠員ありたる場合は更に左記出身者の入学を許可す
一、高等学校高等科卒業者
二、元私立哲学館大学、専門学校令に依る東洋大学及東洋大学専門部卒業者にして大正七年文部省令第三号第二条に依り指定せられたる者(倫理学教育学科及東洋文学科卒業者)

とありますので、池中さんも昭和九年に専門部東洋文学科を卒業し、国文学科に入学したようです。

昭和十六年入学案内
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学部入学資格
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さて、そうなると六回目の箱根駅伝出場となった昭和十五年は国文学科も卒業してから三年後のこととなってしまいます。

其の点について、たまたま池中さんにも関連する戦前の陸上関連雑誌に“新鋭選手”として紹介されている、興誠商業(現浜松学院高)在学中の佐々木利一選手の記事に、
…又今は學校を御去りになった池中康雄先生(前マラソン記録保持者)大藏優一先生にも御愛情ある御鞭撻を受けました。
(『陸上競技』昭和十五年七月号)

とあるのを見つけました。
佐々木選手は後に東洋大学へ進学するのですが、“學校を御去りになった…”とあることから、昭和十二年に卒業後、一年間は静岡の興誠商業で教鞭を執っていたのではないかと考えられます。(もう一人の大藏優一という方のお名前は、昭和十一年の東洋大・箱根駅伝出場者の中にありますので、この方も東洋大OBではないかと思われます)

更に、国会図書館デジタルコレクションに収録されている『静岡県運動年鑑』昭和13年版を見ると、第五回静岡県陸上競技選手権の5000mと10000mの優勝者に池中さんのお名前があり、所属は(興商)(興商教)となっています。
従って、昭和12年は3月に東洋大を卒業後静岡の興誠商業で教鞭を執り、翌年の4月に東洋大学に再度入学したと思われます。

『静岡県運動年鑑』昭和13年版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109487/34
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これらの点を踏まえ、『運動年鑑』などから拾い出した池中さんの競技歴を年次ごとにまとめてみてみることに致しましょう。
(上位入賞記録だけですので、これ以外にも大会などに出場している可能性はあります)
昭和 6年 4月 専門部東洋文学科入学

専門部一年(昭和6年4月~昭和7年3月)

専門部二年(昭和7年4月~昭和8年3月)
昭和 7年 9月 24・25日 第十四回関東学生対抗選手権第二部
10000m:三位
昭和 7年 11月 10日 第一回関東学生マラソン
二位(2時間42分6秒) 
昭和 8年 1月 7・8日 第十四回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(東洋大学の初出場)
5区八位

専門部三年(昭和8年4月~昭和9年3月)
昭和 8年 9月 23・24日 第十五回関東学生対抗選手権第二部
10000m:一位(33分17秒6)・.1500m:二位
昭和 8年 10月 7・8日 第七回明治神宮大会兼第二十回全日本陸上競技選手権関東予選
マラソン:三位(2:42:26)
昭和 8年 11月 19日 第二回関東学生フルマラソン
一位(2時間33分44秒)
昭和 9年 1月 6・7日 第十五回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走
5区五位

昭和 9年 3月 専門部東洋文学科卒業
昭和 9年 4月 大学部 国文学科入学

国文科一年(昭和9年4月~昭和10年3月)
昭和 9年 6月 16・17日 第七回日本学生陸上競技対抗選手権
10000m:六位
昭和 9年 9月 29・30日 第十六回関東学生対抗選手権第二部
      1500m:一位(一周多く回った為全員記録無し)
      10000m:一位(34分0秒6)・800m:三位
昭和 9年 11月 18日 第三回関東学生フルマラソン
一位(2時間34分30秒)
昭和10年 1月 5・6日 第十六回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走
5区一位
昭和10年 3月 21日 全国マラソン連盟主催神宮コースマラソン
        三位(2時間39分25秒)

国文科二年(昭和10年4月~昭和11年3月)
昭和10年 4月 3日  オリンピック候補挑戦競技会マラソン
       一位(2時間26分44秒:当時の世界最高記録)
昭和10年 9月 28・29日 第十七回関東学生対抗選手権第二部
       10000m:一位(33分37秒2) 
昭和10年 10月 12・13日 第二十二回全日本陸上競技選手権予選兼第一回東京選手権
マラソン:三位
昭和11年 1月 4・5日 第十七回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走
3区二位
昭和11年 3月 29日 全国マラソン連盟主催神宮コースマラソン
        一位(2時間33分56秒)

国文科三年(昭和11年4月~昭和12年3月)
昭和11年 4月 5日 第一回オリンピック候補挑戦競技会20マイルマラソン
       七位(1時間57分10秒)
昭和11年 4月 12日 第二回オリンピック候補挑戦競技会10マイルマラソン
       四位(55分11秒)
昭和11年 5月 21日 オリンピックマラソン予選(5月21日)
途中棄権
昭和11年 5月 30・31日 第十八回関東学生対抗選手権第二部
        1500m:四位
昭和12年 1月 9・10日 第十八回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走
5区二位

昭和12年 3月 大学部国文学科卒業

静岡・興誠商業教員(昭和12年4月~昭和13年3月)
昭和12年 6月 13日 第五回静岡県陸上競技選手権(於・静岡師範学校校庭)
5000m:一位(16分33秒4)
10000m:一位(35分9秒4)
再入学?(昭和13年4月~昭和14年3月)
昭和13年
???(昭和14年4月~昭和15年3月)
昭和14年 6月 3・4日 第二十一回関東学生対抗選手権第三部
       10000m:一位(36分46秒) 
7月 23日~ 東京・青森耐熱マラソン*
8月 7日
昭和15年 1月 6・7日 第二十一回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走
3区四位

???(昭和15年4月~昭和16年3月)
7月 25日~ 宮崎・東京奉祝駅伝*
8月 7日
昭和16年 1月 12日 第一回東京青梅往復大学専門学校駅伝
6区九位



競技歴からも、昭和14年4月から16年3月までの二年間は再度学生戻って?いることがお分かりになるかと思います。

その後、昭和14年7月発行の『東洋大學々生名簿』(昭和十四年七月一日現在)を古書店で入手したのですが、それを見ると池中さんのお名前は職員の欄の付属図書館にありました。
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更に、『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・下』に載っている昭和18年の京北中学校教員の一覧の中に池中も池中さんのお名前を見ることができます。

下記はその中の項目の幾つかを抜粋したもので、

教員免許状
記載学科目
担任学科目 毎週授業時数 職名 就職年月日 専任、
兼任ノ別
氏名
国漢 歴史 十六 教員 昭和十三年四月 兼任池中康雄

(『東洋大学百年史・資料編Ⅰ下』所収「京北中学校教員調(昭和十八年一月」より)

とあるように、担任学科目が歴史となっています。
当時、東洋大学では専門部東洋文学科では卒業者に中等学校の国語・漢文、大学部の国文学科はそれに加えて高等学校の国語の教員免許が無試験で 得ることができましたので、免許状記載学科目は国漢となっています。


“就職年月日”から興誠商業の職を一年で辞した後、昭和13年から東洋大学の図書館と京北中学の兼任講師を務めながら、学生としても競技に復帰していた事になります。

ただし、昭和14年の『東洋大學々生名簿』の在学生の欄には池中さんのお名前は見つけることができませんでした。

これは飽くまで筆者の推測ですが、昭和15年の箱根駅伝は科目履修生のような立場(選科生と呼ばれていたようです)で学籍を得ての参加だったのではないでしょうか。

取得している教員免許は“国漢”でありながら京北中学での担任学科目は“歴史”となっていることから、史学科で歴史関係の科目の習得が必要だったのではないかと思います。(東洋大学に史学科が開設されたのは昭和13年4月からです)

出場に際しては学連の資格審査はあったとのことですが、現在のように年齢や回数の制限はなく、日大の曽根選手は法学部と医学部で計八回出場するなど、複数の学部に在籍して出場して選手も多いようです。


昭和十五年以降に関しては、昭和十六年度の職員名簿の教練課の欄に名前が載っています。
教練課というのは、それまでも行われていた軍事教練を一層強化するためにこの年新たに設けられた部署で、池中さんは体育係主任となっています。
また、この年はそれまでの学友会(現在の自治会と文連と体育会が合わさったようなもの)が護国会という学校当局とが学生団体を一体化したものに再編されて発足しており、池中さんは護国会でも鍛錬本部体育部長についております。こちらは部長の下に学生の幹事がおり、各運動部を統括するような立場だったようです。

“輝け鉄紺”さんでは、「…昭和20(1945)年6月、郷里・中津に帰って母校・中津中学で教師の道をスタート」とありますが、東洋大学は5月24・25日の空襲で被災し、また学生も勤労動員などで授業もほとんど行われなず、学長らも疎開し始めていましたので、池中さんもこのころに帰郷され、故郷大分で教員生活を始められたものと思われます。


以上、まだまだ不十分ではありますが、筆者の憶測も含めてまとめてみました。


付:第二学寮
昭和14年の『東洋大學々生名簿』を見ると、池中さんをはじめ翌15年の箱根駅伝に出場している選手の殆どの住所が第二学寮となっています。

一区 高岡 幸雄 第二学寮
二区 高瀬 登 第二学寮
三区 池中 康雄 第二学寮
四区 小椋 実 不明
五区 朴 鉱采 第二学寮
六区 松尾 喜雄 第二学寮
七区 赤木 義夫 上十条(実家)
八区 小川 務 第二学寮
九区 安城 敬二郎 第二学寮
十区 武智 徳令 第二学寮

また、箱根駅伝出場者以外に三名が第二学寮を住所としていますが、そのうち岩本榮一は砲丸投げの選手でした。

小西吉彦
廣井金吾
岩本榮一

『東洋大学百年史通史編Ⅰ』によれば、学寮は第一、第二とも昭和13年4月に開設され、第一は昭和18年10月に閉鎖され、第二学寮については開寮後の消息は不明とのことです。

以前ご紹介した昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」に書かれている
台所から焦げ飯の匂いが漂い奥座敷から花の一騎打ちで騒擾を演ずるかと思えば、何処からか宵待草のメロディが流れてくる。我等はこの中に何物かを掴んで已まないものがある。

の光景も第二学寮のものかと思われます。

詳細は分かりませんが、陸上選手の合宿所のような機能を果たしていたのでしょうか。


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関連記事
Wikipedia・池中康雄さんの項に関する疑問点=幻の五輪代表?

箱根駅伝に出場した東洋大学の戦没者
昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」
*陸上部については陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さんに詳しく紹介されています。




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番外編:戦前の東洋大学の運動部

2019-11-19 00:01:46 | インポート
*2019年11月18日:昭和11年5月3日のオリンピック陸上競技関東予選会マラソン・原茂清選手の結果を追加いたしました
近年では駅伝や野球等スポーツの分野でも名を知られるようになった東洋大学ですが、「東洋大学野球部の歴史-戦後編⑦昭和35年追記:グラウンドについて 」の稿でも書いたように、スポーツの強化に大学として取り組むようになるのは昭和30年代半ば頃からです。

昭和53年に野球部が二回目のリーグ優勝したころに発行された『校友会報』の座談会・「東洋大学スポーツの現況を語る」では、戦前の運動部の様子などについて、当時在学していたOBの方が次のように回想しておられました。
司会:まずは、戦前のスポーツということで始めたいと思いますが、陸上部OBでもあり、監督の経験もある兼頼先生から口火を切っていただこうと思うのですが…。

兼頼:私は昭和5年に入学しまして陸上部に入りました。当時すでにインター・カレッジに参加していましたね。創立は古くて大正末年(大正13年創立)と聞いていますが、私が入った頃には、先輩がいまして、頭ごなしに“練習不足だ”と言って怒られましてね。

司会:なるほどね、当時も厳しかったんですね。で、部員はどれ位いたんでしょうか・

兼頼:60名前後であったろうと思いますね。成績はやっと二部の上位だったんですが、一部は教育大、早大、慶大など10校でしたね。全種目出場しないとなかなか一部に上がれないんですよ。その頃入学してきたのが池中君なんですが、彼は長距離しかやらないというんで“じゃ、箱根駅伝に出場しようじゃないか”というわけで、その頃勝承夫先生が報知新聞におられたのでお願いして、昭和8年1月7、8日に初参加できるようにしてもらったんですよ。そして勝先生には、池中君を自分の家へ寄宿させたりして色々と面倒を見てもらったんです。
結果は、その年同じ初参加の拓大がびりでその前がわが東洋大でしたね。長距離が専門じゃない選手も入っているんですから。でも池中君は5区の山登りで個人の記録としては2位だったと思います。その後彼はフルマラソンに出場し、2時間26分44秒の世界記録を出してオリンピックの候補選手になったんですよ。

司会:そのほかのスポーツの活躍は、どうだったんでしょうか。

伊賀上:そうですね。戦前で優勝したことのあるのは軟式庭球部でしょう。私たちの入学当時は柔道部、剣道部、野球部、庭球部といった部があったくらいでしょうか。野球は、東洋・大正・駒沢の3校でよくやってましたが“なんだ坊主ばかりじゃないか”なんていったもんですよ。

司会:あとは弓道部、空手部なんかも古いところでしょうか。

伊賀上:弓道部は名前はありましたがまだまだだったですね。あ、それから乗馬部もありましたね。

司会:部としてはだいたいそんなところだったんでしょうかね。しかしそれの施設面とか学生の応援なんかはどんな風にやっていたんでしょうか。

兼頼:今の講堂の所に柔道・剣道なんかの道場がありましたね。あと、だれでもができるバスケットのコートがありましたね。陸上部は西巣鴨にあった国立の蚕糸専門学校のグラウンドを借りてやっていましたね。野球部は新井薬師の方でやってたと記憶していますが…応援の方は、紋付、袴の出で立ちでやっていましたが剣道、柔道がやっぱり主体でしたね。陸上の方も“駅伝”の時には、トラックに乗って声援に来てくれたこともありましたが。当時は何といっても文化の単科大学ですから地味でしたよ。

伊賀上:今と比べたらとても考えられないですよね。スポーツもただ好きな者がやっているという形ですからね。

兼頼:まだ大学の中で組織的に位置づけて、云々というところまではいってなかったわけで、金銭的にも個々人の寄付だとか、働きかけが主体でしたからね。

司会:今はかなり全国レベルで活躍している部もありますが創設のころはやっぱりどこも苦労したわけですね。

(『校友会報』=昭和53年発行の部長・監督とOB座談会より)
発言者の兼頼は兼頼米太郎氏。昭和10年卒。箱根駅伝初参加時の一区走者。後陸上部監督も務める。
伊賀上は伊賀上茂氏。昭和6年卒。昭和30年から33年まで校友会事務局長。

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昭和四年、東洋大・駒澤大・大正大 三大学リーグ戦
東洋大学野球部:戦前の試合記録
上に引用した座談会でも語られていますが、『東洋大学百年史』等によればいくつかの運動部は戦前に全国大会に出場した旨の記述されています。
そこで同書や新聞・運動年鑑等から拾い出した記録を簡単にまとめてました。

①庭球部
『百年史』によれば庭球部は明治39年の同窓会規則に運動部としてテニスが載っており、大正14年学友会の一部として独立した、とある。

大正 9年関西地方遠征(5月:約20名)
大正13年関東学生軟球連盟リーグ戦優勝(5月)

『運動年鑑』大正14年度より)
画像

















大正14年都下大学専門学校軟式リーグ戦優勝
大正15年埼玉県足利体育会主催軟式庭球大会出場(10月)
大正15年草加庭球倶楽部主催関東庭球大会出場
大正15年大正大学招待大会出場(11月)
大正15年日本軟球会主催明治神宮奉賛軟式庭球大会出場
昭和 2年市川庭球倶楽部主催関東庭球大会出場(5月)
昭和 2年伊勢崎市主催全関東軟球選手権、島田・長井組優勝(6月)
 同 年 全国大学専門学校軟式庭球大会、島田・西寺組優勝(10月)
昭和 6年関東学生軟球聯盟リーグ戦、優勝(10月)

*筆者が昭和2年の朝日新聞を見たところ、6月に朝日新聞主催の第一回“全日本”大学専門学校軟式庭球大会が行われており、そこには東洋大の名前はなかった。翌年の同大会開催告知には「従来二派に分かれて居た日本軟球界は本年合同の運びとなり・・」とあるので、東洋大が優勝したのはもう一つの派(日本軟球会)が主催した大会のようだ。この昭和3年の大会の記事では、試合結果は出てないが、大会を盛り上げた新人として東洋大島田・長井の名が他校の何名かの選手と共に挙げられている。また、昭和4年11月の明治神宮大会では庭球の種目に“準硬式”があり、結果に

シングルス
二回戦豊永(東洋大)6-1草木(佐原)
準決勝佐藤(広島)  6-3豊永(東洋大)
ダブルス
決 勝大森(七尾中)6-2上村(東洋大)
     小川         豊永

とある。この、“準硬式”庭球というのは調べてみたがよくわからない。いずれにせよ、軟式庭球では当時は高いレベルの選手が活躍しており、東洋大の運動部で“優勝”したのも軟式庭球が第一号のようだ。グラウンドのない時代にあっても庭球部は京北中学のコートを借りて練習していたとの事なので、その点では恵まれていたと言えよう。

②剣道部

大正11年第五回剣道大会主催(10月)
      *剣道部の主催で都下大学専門校21校・有信館・研武館が参加。
大正15年東京学生剣道連盟大会出場(5月:10名参加) 
昭和 2年東京都学生剣道聯合会春季大会(5月:10名参加6勝2敗)
昭和 2年東北・北海道武者修行(6月11日~21日)
       *福島・秋田・仙台・弘前・青森・函館・五稜郭・札幌・水戸等の道場を転戦
昭和 8年全国大学専門学校大会出場(6月)
      *風間元蔵(昭和9年卒)が出場、参加72名総当たりの予選を勝ち抜いてベスト16。
     決勝トーナメント一回戦:○浦田(明大)-風間●

剣道部は昭和8年頃は十条の健武館を借りていたが、旧講堂を改装して柔剣道場が作られ昭和9年5月に開場式が行われたとの事である。

③柔道部
大正15年国学院大学と対抗試合(6月)
昭和 2年東北・北海道遠征(9月20日~10月2日:10名)
昭和 2年柔道部秋季大会(10月)
      *各大学専門校・中等学校・町道場の選手を招待。毎年行われ7~80名参加。   
昭和 3年都下学生柔道連盟満州遠征に主将・永沢淳治四段が参加。
昭和12年第一回全国中等学校柔道大会を開催(11月:朝日新聞社後援)
      *東洋大学創立五十周年記念行事。翌年も第二回を開催。
尚、朝日新聞には柔・剣道大会となっており参加78校、優勝は柔道・豊島師範、剣道・大田原中とある。
昭和13年東北・北陸武者修行(6月20日~26日)
       柔道・剣道部の一行9名で石川・福島・会津若松・新潟・長岡の中学校など。


④競技部(陸上競技)
競技部は昭和2年学友会の独立した部となった。

昭和 2年 全日本選手権大会に砲丸投げ・鹿野節が参加。(2月)
*上記の項は『百年史』によるが新聞・年鑑等では未確認。
昭和 3年 専修大学と対抗戦(6月於・一高:東洋39ー18専修)
拓殖大学と対抗戦(10月於・芝公園:東洋17-39拓殖)
大正大学と対抗戦(11月於・一高:東洋36-27大正)
昭和 4年 第十一回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点4点で二部十七位)
       走り幅跳び:玉橋六位(5米98)
       走り高跳び:齋藤二位(1米65)
      
京都高等蚕糸と対抗戦(6月於・高等蚕糸:東洋37 1/2ー16 1/2高等蚕糸)
大谷大学と対抗戦(6月於・高等蚕糸:東洋38 1/2ー18 1/2)大谷
専修大学・拓殖大学と三大学対抗戦(10月:一位拓殖、二位専修、三位東洋)
昭和 5年 大谷大学・大正大学と三大学対抗戦(5月:一位大正40、二位東洋34、三位大谷22)
第十二回関東学生対抗選手権第二部参加
       鉄槌投げ:五位植木隆治
      
専修大学・拓殖大学と三大学対抗戦(10月於・井草:一位拓殖89、二位専修77、三位東洋56)
昭和 6年 駒澤大学と対抗戦(6月於・府立園芸競技場:東洋24-33駒澤)
専修大学・拓殖大学と三大学対抗戦(6月於・井草:一位専修94 1/2、二位拓殖75 1/2、三位東洋52)
第十三回関東学生対抗選手権第二部参加(9月)
二百米:六位藤波 
一万米:六位早川
円盤投げ:六位植木 
昭和 7年 第十四回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点17で二部八位)
四百米:五位橋本  
一万米:三位池中康雄 五位宮尾 同六位早川
鉄鎚投げ:一位植木隆治(29米10) 

関東学生マラソン(10月)
二位池中康雄(2時間42分6秒) 同七位早川

専修大学・拓殖大学と三大学対抗戦(専修が105点で優勝)
昭和 8年 第十四回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走初出場(1月:10位)

第十五回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点14点で二部十位)
     一万米:一位池中康雄(33分17秒6) 、同四位富屋直彦、
     千五百米:二位池中康雄(4分27秒2)
    
第七回明治神宮大会兼第二十回全日本陸上競技選手権関東予選(10月)
       マラソン:三位池中康雄(2:42:26)
関東学生フルマラソン(11月)
一位池中康雄(2時間33分44秒)
昭和 9年 第十五回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:13位)
第七回日本学生陸上競技対抗選手権(6月:得点1点)
      一万米:六位池中康雄
第十六回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点18点で二部七位)
      二部千五百米:一位池中康雄(一周多く回って千九百米の為全員記録無し)
      一万米:一位池中康雄(34分0秒6) 同五位原茂晴 
      八百米:三位池中康雄
     
      関東学生フルマラソン(11月)
      一位池中康雄(2時間34分30秒) 
昭和10年 第十六回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:11位)
全国マラソン連盟主催神宮コースマラソン(3月21日)
        三位池中康雄(2時間39分25秒)
オリムピック候補挑戦競技会マラソン(4月3日)
       一位池中康雄(2時間26分44秒:当時の世界最高記録)
第十七回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点11点で二部九位)
       一万米:一位池中康雄(33分37秒2) 五位原 
       走り幅跳び:六位大蔵
      
関東学生マラソン(11月)
六位原
昭和11年 第十七回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:11位)
全国マラソン連盟主催神宮コースマラソン(3月29日)
        一位池中康雄(2時間33分56秒)
オリンピック候補挑戦競技会20マイルマラソン(4月5日)
       七位池中康雄(1時間57分10秒)
オリンピック陸上競技関東予選会マラソン(5月3日)
       四位原茂清(2時間57分7秒)
オリムピックマラソン予選(5月21日)
池中康雄(途中棄権)
“・・池中選手又引返して直ぐ橋のたもとで落伍するの大番狂はせとなった・・”(朝日記事より)
第十八回関東学生対抗選手権第二部参加(5月)
       一万米:三位原茂晴(39分19秒) 
       千五百米:四位池中康雄 
       走り幅跳び:五位土屋法正
昭和12年 第十八回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:11位)
第十九回関東学生対抗選手権第二部参加(6月:得点3点で二部十五位)
       一万米:四位原茂晴
昭和13年 第十九回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:7位)
第二十回関東学生対抗選手権第三部参加(6月:この大会から三部制、得点15点三部五位)
       一万米:一位朴鉱采(40分10秒)
      
第二回全国中学校マラソン大会を開催(11月:競技部主催、報知新聞社後援)
       *京北中前出発、板橋第一小折り返し7マイル。早稲田実業選手が優勝。
       前年に創立五十周年行事として第一回が行われたと思われる。翌年も開催されている。
昭和14年 第二十回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:8位)
第二十一回関東学生対抗選手権第三部参加(6月:得点47点で三部三位)
八百米:一位高岡幸男(2分9秒7)
       千五百米:一位高岡幸男(4分29秒2) 
       一万米:一位池中康雄(36分46秒) 
昭和15年 第二十一回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:5位)
第二十二回関東学生対抗選手権第三部参加(5月:得点82点で三部優勝、二部へ昇格)
四百米:六位長井猛雄  
八百米:二位高岡幸雄(2分6秒1)・三位渥美良教・四位高瀬登
千五百米:一位金光益俊(4分29秒4)三位渥美良教・四位池中康雄・五位高岡幸雄 
一万米:一位金光益俊(36分34秒)二位池中康雄(37分32秒)六位赤城義夫 
4×四百リレー:二位(3分46秒2)
走幅跳び:三位長井猛雄(6米6)  
円盤投げ:三位森寿一(28米10)
やり投げ:二位森寿一(42米09)
砲丸投げ:一位森寿一(10米64)四位岩本栄一(9米29)  
鉄鎚投げ:一位金享道(39米60)三位岩本栄一(24米15)五位森寿一(17米65)
昭和16年 第一回東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会(1月:6位)
第二十三回関東学生対抗選手権第二部参加(5月:得点36点で二部四位)
       八百米:六位高瀬登  
       千五百米:一位金光益俊(4分21秒0)
       一万米:一位金光益俊(34分29秒)五位渥美良教
       4×百米リレー:五位   
       4×四百米リレー:四位
       円盤投げ:五位森寿一(29米86)
砲丸投げ:一位森寿一(11米)五位岩本栄一(9米75)  
鉄鎚投げ:二位金享道(33米96)六位森寿一(25米18)
第二回東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会(11月:8位=戦争激化のため繰り上げ開催)
昭和17年 第二十四回関東学生対抗選手権第二部参加(5月:得点60点で二部四位)
       八百米:一位佐々木利一(2分5秒2) 
       千五百米:一位塚脇秋盛(4分20秒2)  
       一万米:塚脇秋盛(34分36秒0)
鉄槌投げ:一位金宮享道(33米36) 
*鉄鎚投げ=ハンマー投げの事

関連記事
昭和10年にマラソンの世界最高記録を出した池中康雄さんの東洋大学在学年について
昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」
*池中康雄さんについては陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さんに詳しく紹介されています。


『日本学生陸上競技年鑑.』昭和4年版:東洋大学対専修大学の対抗戦記録
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⑤スケート部(アイスホッケー)
現在のスケート部は昭和35年創部となっているが、『東洋大学百年史』には“スケート部は昭和四年宮崎孝悌(昭和五年卒)により再組織され誕生した”とあるが、運動年鑑によれば昭和三年の全国大会にスピード、昭和五年にはアイスホッケーでも出場している。

昭和 3年第三回全国学生氷上選手権
  五百米:四着・宮崎(東洋大)
千五百米:四着・宮崎(東洋大)

各校得点:早大36点 明大25点 南満医大14点 法大12点 慶大6点 洋大2点

昭和 5年:第五回全日本学生氷上選手権(1/5~8:於長野県松原湖)

 五百米:五着・宮崎(東洋大) 小柳(立大)

 
一回戦10:40開始レフェリー:飯田・原
東北大26― 0東洋大
(1P)10-0
(2P) 6-0
(3P)10-0
石川  FW宮崎
上中 内山
原田 万年山
(山下)
相澤  DF井川
鹽谷 (小笠原)
時村
綿貫  GK齋藤

各校得点:早大51点 明大32点 立大3 1/2点 慶大3点 北大2点 洋大1 1/2点

昭和 6年第六回全国学生氷上選手権(1月)
      ○早稲田大(棄権)東洋大●
昭和 7年第七回全国学生氷上選手権(1月)
      大会告知記事の出場校に名前はあるが、氷の状態が悪く中止となる。
FWの“宮崎”が再結成した宮崎孝悌さんと思われる。団体競技で全国大会に出場したのはアイスホッケーが最初かもしれない。
関連記事
孤軍奮闘?宮崎孝悌氏=昭和初期の全日本学生氷上選手権

⑥馬術部
大正15年頃には乗馬倶楽部が既にあったとの事である。
大正15年第三五回関東学生聯盟馬術優勝競技大会(9月:3名出場)
昭和 4年第五回全国乗馬大会(3月:リレー第一回A班青木正一、河野通一が出場)
 同 年  関東学生乗馬聯盟主催秋季大会参加(9月)
昭和 6年 全国馬術大会参加(7月)
 同 年 関東医歯薬聯盟主催馬術大会参加(11月)


⑩その他の運動部
籠球部
昭和 5年 都下中等学校籠球大会主催(10月:時事新報社後援)

卓球部
昭和 5年 創部(5月:発起人5名)
昭和 6年 全関東学生卓球連盟加入

水泳部
昭和 2年 創部(5月:山本英隆ら有志による)

山岳部
昭和 7年 再組織(昭和2、3年頃あったとみられる。成石義之ら発起人)

(学内誌『東洋学苑』第二十四号:昭和七年一月二十四日発行)
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空手部
昭和 5年 創部

拳闘部
昭和 6年 創部(広井辰太郎部長)

射撃部
昭和 7年 創部

モーター倶楽部(自動車部)
昭和 8年 創部

相撲部
昭和15年創部
相撲部堂々晴れの神宮大會出場へ
本學相撲部は現主将金川弘雄君が創設以来、四元武道部長の熱誠溢るる御監督の下に殆ど毎日の如く練習を續け神宮大會、関東大会に出場する事各々二回、昨年は大阪の全國大會に迄出場し本學のために大いに奮闘して來たが、去る九月二十二日兩國出羽の海部屋で行われた、神宮豫選に金川、乾山、呉、高根、寺前の五名が本學を代表して勇躍出場。
第一回戦には横濱専門を先鋒、呉君の上手投げ極まって先制し中堅高根君の吊り出し、副将乾山君の叩き込み、大将金川君の寄り切りで四ー一で屠り、第二回戦には日本體操を先鋒呉君の得意の上手投げで勝ち、二陣寺前君内掛けで勝ち、中堅高根君の打棄り、大将金川君の特技寄り切りで亦も四ー一で二戦二勝。
第三回戦東京醫専との対戦には中堅高根君が一點入れたのみにて一―四で惜敗、総得點九點を以て優秀四校の中に入り、中央大、立大、本校、東醫の四校でトーナメントを行った結果、東京醫専を逆に三ーにで破り堂々三位に入賞し晴れの神宮大會に全日本大學専門優秀二十校の中に出場する光栄を獲得した。去る九日午後五時よりの大會抽籤には金川主将参加し來る十一月三日明治神宮外苑相撲場で行われる大會には、第一回戦に鳥取高農、第二回戦に金澤高工、第三回戦に關學大と戦ふ事になった。大會出場選士は金川弘雄、乾山東成、高根明、寺前稔、呉峰雄の五君である。
(『東洋大學護国會會報』第三号=昭和16年10月31日発行より)

昭和16年第十二回明治神宮国民体育大会(11月:於明治神宮)
一回戦:3-2鳥取高農 二回戦:3-2金沢高工 三回戦:0-5関学大
相撲部善戦の跡
○第十二回明治神宮國民體育大會
    十一月三日、於神宮外苑
晴れの神宮出場に健闘宜しく、左の如き二勝一敗の好成績で全國第十一位となる。
一回戦
本學 三ー二鳥取高農
二回戦
本學 三ー二金澤高工
三回戦
本學 零ー五關學大

○第二回佛教三大學リーグ戦
   十一月二日、於大正大
一位 駒大 全勝    十三點
二位 本學 一勝一敗   九點
三位 大正 零勝二敗   五點

○第廿三回大毎東日主催全國學生相撲關東地区大會
   十一月廿三日 於外苑
明大、駒大に實力の差如何ともし難く惜敗、対横濱専門には乾山、寺前、金川の三君に依り三點獲得。本年度対横濱戦は二戦二勝である。
(『東洋大學護国會會報』第四号=昭和16年12月30日発行より)



おまけ:入学前に“日本一”になっていた人
『朝日新聞』大正13年9月21、22日の記事より
全国中学選手権競技大会
第一日予選戦 予選をパスした者
走高跳 南部(北海中学)以下十一名

第二日
走高跳 坂口(豊山中)、中村(附中)、安楽(二中)、内藤(木更津)一米五七(以上一等)

坂口(豊山中)坂口安吾の事。 
私も大昔インターミドルで走高跳に優勝らしきことをやったことがあった。この日は大雨で、トラックもフィールドもドロンコである。当時は外苑競技場が未完成で、日本の主要な競技会は駒場農大の二百八十米コースの柔くてデコボコだらけのところでやる。排水に意を用いたところなどミジンもないから、雨がふると、ひどい。走高跳の決勝に六人残って、これから跳びはじめるという時に、大雨がふってきた。六人のうち五人は左足でふみきる。拙者一人、右足でふみきる。助走路は五対一にドロンコとなり、五人は水タマリの中でふみきるが、私はそうでないところでふみきるから、楽々と勝った。実際はその柄ではない。
(『世界新記録病』より)

予選通過者の北海中学・南部は昭和7年ロサンゼルスオリンピック三段跳びの金メダリスト南部忠平。南部は走り高跳びでは安吾に敗れているが、この他百米、走り幅跳び、ホスジャンプ(三段跳び)にも出場し、それぞれ11秒8、六米十九、十二米七八で三種目とも優勝している。


『運動年鑑』より
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坂口安吾は豊山中学を卒業したあと一年間荏原尋常小学校の下北沢分教場で代用教員を務めたのち、“坊主”になりたくて大正十五年東洋大学に入学する。運動はやらず入学当初は一日四時間の睡眠で勉強に専念した。学友ともあまりつき合わなかったようだ。

東洋大学の学生だったころ、丁度学年試験の最中であったが、校門の前で電車から降りたところを自動車にはねとばされたことがあった。相当に運動神経が発達してゐるから、二三間空中に舞ひあがり途中一回転のもんどりを打って落下したが、それでも左頭部をコンクリートへ叩きつけた。頭蓋骨に亀裂がはいって爾来二ヶ年水薬を飲みつゝ゛けたが、当座は廃人になるんぢゃ無いかと悩みつゝ゛けて憂鬱であった。
(『天才になりそこなった男の話』より)

*坂口安吾の作品は電子図書館青空文庫で読むことができます。
『世界新記録病』 :スポーツについてのエッセイ(上の引用元)
『勉強記』      :“涅槃大学校印度哲学科”を舞台にした短編
『二十一』      :在学していた二十一歳の頃の話

*平成二十年十一月に上記三作品と引用した『天才になりそこなった男の話』を収録した『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』が岩波文庫より発売されました。




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東都大学野球の二部最下位&三部優勝回数

2019-11-17 08:22:49 | インポート
東都大学野球で三部リーグができた昭和26年春以降の二部最下位と三部優勝校、及び入替戦の結果を一覧にしてみました。(2019年11月17日更新)
東都大学野球リーグ三部制
東都大学野球連盟は五日成蹊大および芝浦工大の加盟を承認した。この結果、加盟大学が十七校となったため、従来の二部制を改め三部制とすることとなった。
【一部】日大、中大、専大、駒大、農大、国大
【二部】工大、一橋大、東洋大、大正大、紅大、学習院大
【三部】上智大、教大、青学大、芝浦工大、成蹊大
(『朝日新聞』昭和26年2月7日付朝刊)
*紅大は紅陵大=現拓殖大、教大は東京教育大=現筑波大


二部六位 三部一位
S26春 東洋大 青学大
S26秋 大正大 成蹊大
S27春 上智大 芝工大
S27秋 一橋大 東洋大
S28春 一橋大 明学大
S28秋 成蹊大 一橋大
S29春 東工大 東洋大
S29秋 東洋大 東教大
S30春 明学大 東教大
S30秋 国学大 東教大
S31春 東洋大 一橋大
S31秋 東洋大 東教大
S32春 明学大 東教大
S32秋 東洋大 東教大
S33春 (青学大) 武工大
S33秋 東洋大 青学大
S34春 武工大 東洋大
S34秋 成蹊大 東経大
S35春 東経大 上智大
S35秋 東経大 成蹊大
S36春 明学大 東経大
S36秋 成蹊大 亜 大
S37春 東経大 明学大
S37秋 東経大 成蹊大
S38春 東経大 国士大
S38秋 学習大 上智大
S39春 学習大 明学大
S39秋 学習大 上智大
S40春 学習大 上智大
S40秋 上智大 学習大
S41春 上智大 学習大
S41秋 学習大 立正大
S42春 立正大 拓殖大
S42秋 拓殖大 学習大
S43春 学習大 立正大
S43秋 立正大 拓殖大
S44春 立正大 成蹊大
S44秋 東農大 拓殖大
S45春 国学大 拓殖大
S45秋 国学大 成蹊大
S46春 東農大 拓殖大
S46秋 立正大 拓殖大
S47春 国学大 大正大
S47秋 国学大 拓殖大
S48春 国学大 拓殖大
S48秋 国学大 拓殖大
S49春 国学大 拓殖大
S49秋 芝工大 国学大
S50春 芝工大 国学大
S50秋 拓殖大 国学大
S51春 芝工大 拓殖大
S51秋 拓殖大 大正大
S52春 国学大 上智大
S52秋 国学大 大正大
S53春 拓殖大 芝工大
S53秋 国学大 芝工大
S54春 拓殖大 芝工大
S54秋 拓殖大 学習大
S55春 拓殖大 学習大
S55秋 学習大 順 大
S56春 学習大 拓殖大
S56秋 学習大 拓殖大
S57春 学習大 拓殖大
S57秋 学習大 拓殖大
S58春 拓殖大 順 大
S58秋 拓殖大 順 大
S59春 (拓殖大) 順 大
S59秋 順 大 学習大
S60春 順 大 成蹊大
S60秋 東農大 拓殖大
S61春 (国士大) 拓殖大
S61秋 順 大 国士大
S62春 国士大 成蹊大
S62秋 国士大 学習大
S63春 日本大 順 大
S63秋 立正大 順 大
H1春 立正大 大正大
H1秋 立正大 大正大
H2春 拓殖大 大正大
H2秋 東農大 大正大
H3春 拓殖大 大正大
H3秋 東農大 順 大
H4春 国士大 大正大
H4秋 東農大 順 大
H5春 拓殖大 大正大
H5秋 拓殖大 大正大
H6春 拓殖大 大正大
H6秋 拓殖大 大正大
H7春 大正大 拓殖大
H7秋 拓殖大 大正大
H8春 東農大 大正大
H8秋 東農大 大正大
H9春 拓殖大 大正大
H9秋 国学大 学習大
H10春 拓殖大 順 大
H10秋 拓殖大 一橋大
H11春 拓殖大 大正大
H11秋 拓殖大 順 大
H12春 順 大 拓殖大
H12秋 拓殖大 順 大
H13春 順 大 拓殖大
H13秋 東農大 大正大
H14春 立正大 大正大
H14秋 東農大 順 大
H15春 順 大 東農大
H15秋 専修大 大正大
H16春 拓殖大 大正大
H16秋 拓殖大 順 大
H17春 拓殖大 順 大
H17秋 拓殖大 大正大
H18春 大正大 拓殖大
H18秋 大正大 順 大
H19春 大正大 拓殖大
H19秋 拓殖大 大正大
H20春 国学大 大正大
H20秋 拓殖大 大正大
H21春 国士大 大正大
H21秋 専修大 大正大
H22春 日本大 順 大
H22秋 専修大 大正大
H23春 専修大 大正大
H23秋 東農大 順 大
H24春 東農大 順 大
H24秋 国士大 順 大
H25春 東農大 順 大
H25秋 東農大 大正大
H26春 東農大 芝工大
H26秋 東農大 大正大
H27春 東農大 順 大
H27秋 国士大 学習大
H28春 国士大 順 大
H28秋 東農大 大正大
H29春 国士大 大正大
H29秋 東農大 学習大
H30春 東農大 順 大
H30秋 東農大 大正大
R1春 東農大 大正大
R1秋 東農大 大正大
R2春
R2秋
残留 100 35 昇格
自動降格 3 3 自動昇格
*▼△は出場停止等による自動降格・自動昇格。

二部最下位 回数 残留 降格 自動降格 残留率
拓殖大 29 21 7 1 0.724
東農大 23 21 2 0.913
国学大 13 12 1 0.923
学習大 11 7 4 0.636
国士大 9 8 1 0.889
立正大 8 7 1 0.875
東洋大 6 4 2 0.667
順 大 6 2 4 0.333
大正大 5 2 3 0.400
東経大 5 3 2 0.600
専修大 4 4 1.000
上智大 3 1 2 0.333
成蹊大 3 1 2 0.333
明学大 3 2 1 0.667
芝工大 3 2 1 0.667
一橋大 2 1 1 0.500
日本大 2 2 1.000
東工大 1 1 0.000
武工大 1 1 0.000
青学大 1 1 0.000
138 100 35 3 0.725



三部優勝 回数 昇格 残留 自動昇格 昇格率
大正大 37 3 34 0.054
順 大 23 3 19 1 0.174
拓殖大 22 8 13 1 0.409
学習大 10 3 7 0.300
成蹊大 7 2 5 0.286
東教大 6 6 0.000
芝工大 5 1 4 0.200
上智大 5 1 4 0.200
東洋大 3 2 1 0.667
明学大 3 1 2 0.333
一橋大 3 3 0.000
国学大 3 1 2 0.333
青学大 2 2 1.000
東経大 2 2 1.000
国士大 2 2 1.000
立正大 2 2 1.000
武工大 1 1 1.000
亜 大 1 1 1.000
東農大 1 1 1.000
138 35 100 3 0.270






*東教大・明学大・東経大は昭和39年に脱退し、新たに結成された首都大学リーグに参加。

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東洋大学の全日本大学駅伝での戦績Ⅰ(1970年・第1回~1989年・第30回)

2019-11-03 08:26:00 | インポート
1970年に始まった全日本大学駅伝での東洋大の戦績を、まずは第1回から第30回まで一覧にしてみました。
第31回以降はこちらで↓ ↓
東洋大学の全日本大学駅伝での戦績Ⅱ(1999年・第31回~2016年・第48回)

*区間の後ろの数字は各区間の距離。漢数字は学年。円内数字は上段が区間順位、下段は総合順位。但し、第1回から第9回までは前半(一区~四区)と後半(五区~八区)での各総合順位。



1970年 第1回 118.0Km 不出場 優勝 日体大
1971年 第2回 111.4Km 不出場 優勝 日体大
1972年 第3回 111.4Km 不出場 優勝 日体大

1973年 第4回 111.4km 4位 5:50:38 優勝 大東大
一区 15.6 二区 11.5 三区 5.3 四区 23.8
根岸明夫 保田仁 高橋富志雄 松田進
0:48:31 0:35:53 0:16:52 1:16:32
0:48:31 1:24:24 1:41:16 2:57:48
五区 14.3 六区 8.1 七区 12.8 八区 20.0
塚越久男 川村要二 近野清作 井上文男
0:45:19 0:26:21 0:40:22 1:00:48
0:45:19 1:11:40 1:52:02 2:52:50


1974年 第5回 109.0Km 3位 5:37:45 優勝 大東大
一区 13.4 二区 11.5 三区 5.3 四区 23.6
保田仁 河田潔 関口操 井上文男
0:42:55 0:35:26 0:16:33 1:12:26
0:42:55 1:18:21 1:34:54 2:47:20
五区 23.6 六区 8.1 七区 12.8 八区 20.0
根岸明夫 高橋富志雄 近野清作 松田進
0:44:08 0:25:02 0:39:49 1:01:26
0:44:08 1:09:10 1:48:59 2:50:25

1975年 第6回 109.0Km 9位 5:58:42 優勝 大東大
一区 13.4 二区 11.5 三区 5.3 四区 23.6
保田仁 河田潔 工藤悟 井上文男
0:44:43 0:38:28 0:18:02 1:20:53
0:44:43 1:23:11 1:41:13 3:02:06
五区 23.6 六区 8.1 七区 12.8 八区 20.0
高橋富志雄 小屋迫宏 近野清作 関口操
0:46:22 0:26:13 0:40:31 1:03:30
0:46:22 1:12:35 1:53:06 2:56:36

1976年 第7回 109.3Km 7位 5:50:29 優勝 大東大
一区 13.4 二区 11.5 三区 5.9 四区 23.0
河田潔 藤田修 深見寿 関口操
0:44:23 0:36:19 0:19:05 1:13:36
0:44:23 1:20:42 1:39:47 2:53:23
五区 14.6 六区 8.1 七区 12.8 八区 20.0
前田篤秀 武半和久 堤隆裕 相良和彦
0:45:37 0:25:57 0:41:30 1:04:02
0:45:37 1:11:34 1:53:04 2:57:06

1977年 第8回 109.3Km 7位 5:45:07 優勝 日体大
一区 13.4 二区 11.5 三区 5.9 四区 23.0
山橋淳一 武半和久 深見寿 吉田二郎
0:43:18 0:36:03 0:19:05 1:12:56
0:43:18 1:19:21 1:38:26 2:51:22
五区 14.6 六区 8.1 七区 12.8 八区 20.0
前田篤秀 松本正 藤田修 相良和彦
0:45:09 0:25:42 0:40:37 1:02:17
0:45:09 1:10:51 1:51:28 2:53:45

1978年 第9回 109.3Km 不出場 優勝 日体大
1979年 第10回 109.4Km 不出場 優勝 福岡大
1980年 第11回 109.4Km 不出場 優勝 日体大
1981年 第12回 109.4Km 不出場 優勝 福岡大

1982年 第13回 109.4Km 8位 5:34:38 優勝 福岡大
一区 15.1 二区 13.5 三区 23.5 四区 11.5
林清司 佐藤和也 仙内勇 増沢和彦
0:46:00 0:40:16 1:12:29 0:35:58
0:46:00 1:26:16 2:38:45 3:14:43
五区 13.5 六区 10.7 七区 21.6
柴崎万伸 大宮祐治 田中弘
0:41:53 0:32:58 1:05:04
3:56:36 4:29:34 5:34:38

1983年 第14回 109.4Km 10位 5:43:13 優勝 日体大
一区 15.1 二区 13.5 三区 23.5 四区 11.5
山本裕芳 増沢和彦 林清司 大野利丈
0:47:57 0:41:59 1:13:30 0:36:24
0:47:57 1:29:56 2:43:26 3:19:50
五区 13.5 六区 10.7 七区 21.6
菊池清治 柴崎万伸 田中弘
0:44:01 0:33:11 1:06:11
4:03:51 4:37:02 5:43:13

1984年 第15回 108.9Km 不出場 優勝 大東大
1985年 第16回 108.9Km 不出場 優勝 日体大
1986年 第17回 108.9Km 不出場 優勝 京産大

1987年 第18回 108.9Km 8位 5:37:10 優勝 日体大
一区 15.1 二区 13.5 三区 23.4 四区 11.1
今井哲 中村幸彦 及川篤 新井哲
0:46:53 0:40:58 1:15:53 0:35:10
0:46:53 1:27:51 2:43:44 3:18:54
五区 13.5 六区 12.1 七区 20.2
菊池和成 定方久男 志津野誠
0:40:35 0:36:17 1:01:24
3:59:29 4:35:46 5:37:10

1988年 第19回 108.9Km 不出場 優勝 日体大
1988年 第20回 108.9Km 不出場 優勝 日体大
1989年 第21回 108.9Km 不出場 優勝 大東大
1990年 第22回 106.9Km 不出場 優勝 大東大
1991年 第23回 106.9Km 不出場 優勝 日本大

1992年 第24回 106.9Km 9位 5:30:53 優勝 早稲田大
一区 14.6 二区 13.2 三区 9.5 四区 14.0
永井聡 小平剛志 小山強志 多胡秀昭
0:44:51 0:40:35 0:29:34 0:42:44
0:44:51 1:25:26 1:55:00 2:37:44
五区 11.6 六区 12.3 七区 11.9 八区 19.7
斎藤孝徳 加藤洋晃 後藤正樹 後藤英明
0:36:11 0:38:02 0:36:26 1:02:30
3:13:55 3:51:57 4:28:23 5:30:53

1993年 第25回 106.8Km 7位 5:34:59 優勝 早稲田大
一区 14.6 二区 13.2 三区 9.5 四区 14.0
小山強志 斎藤洋一 竹内秀和 松山克敏
0:46:19 0:40:20 0:29:08 0:43:03
0:46:19 1:26:39 1:55:47 2:38:50
五区 11.6 六区 12.3 七区 11.9 八区 19.7
永井謙二 柴田清成 小沢希久雄 後藤英明
0:37:15 0:38:27 0:38:38 1:01:49
3:16:05 3:54:32 4:33:10 5:34:59

1994年 第26回 106.8Km 不出場 優勝 早稲田大
1995年 第27回 106.8Km 不出場 優勝 早稲田大

1996年 第28回 106.8Km 7位 5:27:23 優勝 神奈川大
一区 14.6 二区 13.2 三区 9.5 四区 14.0
佐藤武 千原詩郎 竹内秀和 星野隆男
0:44:54 0:40:20 0:28:30 0:42:33
0:44:54 1:25:14 1:53:44 2:36:17 ⑥0
五区 11.6 六区 12.3 七区 11.9 八区 19.7
神田哲広 三島淳司 萩野聡 小沢希久雄
0:35:28 0:37:46 0:36:45 1:01:07
3:11:45 3:49:31 4:26:16 5:27:23

1997年 第29回 106.8Km 不出場 優勝 神奈川大
1998年 第30回 106.8Km 不出場 優勝 駒澤大



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*陸上部については陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さんに詳しく紹介されています。


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