南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2012年

沖縄から南東に400キロ。太平洋に浮かんだ絶海の孤島でも人々の暮らしがありました。2012年の情報をお知らせします。

村の診療所。

2012-10-19 17:42:07 | 日記




 人が住んでいる島であるため、医療機関が必要となります。病気になっても那覇までは400キロもあり、定期便は1日2便しか飛来していないため、突然に病気になったら大変です。島で発病した患者を診るために、村役場の反対側には南大東診療所が設置されています。この診療所の正式名称は「沖縄県立病院附属診療所」と申しまして、医師は県立病院から派遣されているようです。沖縄県の他の離島でも同じようなシステムになっていて、それぞれの離島には診療所が設置され、県立病院から医師が派遣されています。しかし、宮古島、石垣島のように面積が広くなく、かつ、那覇まで極端に離れている南大東島に自ら進んで派遣されたいと考える医師は珍しいでしょう。このため、派遣される医師の心中はどのようなものでしょうか。20年以上前には、派遣される医師の性格が悪く、暴言をはく人もいたそうで、村で問題になったこともあった、と聞きました。
 現在の診療所は医師1名、看護婦1名が常勤していて、CTスキャナーは有りませんがレントゲン、超音波検査機などの最新の設備が揃ってます。診療科目を見ると「全科」となっていて、何でも診療することになってます。皮膚科から内科までの診療を1名で行うのですから大変なことです。土日は休診ということになっているのですが、医師の官舎は診療所の裏にあり、急患であれば夜中でも叩き起こされそうです。日本の過疎地での医療の現実を見せつけられるようです。島で脳梗塞や心臓発作を起こしたなら致命的なことになりかねません。万一、診療所で引き受けられない重症患者が発生した場合は、那覇から航空自衛隊が特別機を発進して患者を緊急輸送をしてくれます。年平均で17回程度の緊急輸送があります。
 島の診療所の歴史は古く、開拓の翌年である明治34年には早くも病院が建設され、大正時代には島を管理していた東洋製糖が病院を増強し、医者2名、薬剤師1名、看護婦3名、産婆1名が常駐していた、という記録があります。しかし、当時としても離島まで赴任する医者がどの程度の実力があったか疑問です。大正時代に、赴任していた医者がパラチフスをインフルエンザと誤診したため、全島で200名が死亡するという大惨事が発生しました。それでも戦前は島全体が民間会社の持ち物であり、従業員の福祉のために病院設備を充実させるため、医療従事者を雇用していたのですが、最悪になったのは戦後のことでした。
 戦後になると、島の資産は沖縄民政府に没収されたため、大日本製糖の病院に雇われていた医者などは本土に戻ってしまい、無医村となってしまいました。このため、元の病院施設を利用して村営の診療所を開業することになったのですが、医師のなり手が見つかりませんでした。当時は米軍の統治下にあって、本土と沖縄とで人的交流は出来ず、内地からの医師の招聘も難しかったのです。このため、医介輔を所長に雇用して開業することになりました。「医介輔」は沖縄だけに存在する特別な制度で、戦後に医者が不足していた沖縄では、医者の免許が無くとも病院勤務経験者や衛生兵体験者などに医療行為を許可していたのです。沖縄での医師不足は本土復帰後も永い間続き、離島では最近まで医介輔に頼らなければ住民の治療ができなかったところが多かったようです。
 1961年(昭和36年)になってやっと本土から医者が派遣されたのですが、この医者が何と75歳でした(当時の新聞による)。現在なら信じられないことで、定年をとっくの昔に迎えたご老体の医者でした。それでも、本物の医師免許を持った医者が派遣されてくる、というので、島では全島挙げての歓迎式を行った、というのだから凄いことでした。その後も医師不足が続いていて、1974年(昭和49年)には韓国から医師を招聘して医療に当たらせていました。当時の日本は高度成長期で、医師は実入りの良い都会の病院経営に走り、僻地には医者が行きたがらない風潮でした。そこで、政府は戦前に日本の医学部を卒業した外人医師を特別ビザで招聘することになった経緯がありました。韓国、台湾などから多くの医師が来日し、彼らの大半はそのまま日本に永住したようです。
 このように医療体制が不足していることから、離島での生活は正に命懸けで、大病を患うと命取りになります。離島の住民は、日頃から節制し、健康に気づかうしかないのです。



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