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DEBONAIR LIFE+LOVE

とりとめる

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2011年08月15日 | Weblog
プロダクトの良さは何よりも雄弁ですね。それこそが一番のコミュニケーションツールだと最近よく思います。

シンプルでありながら複雑なプロセスがあるものづくりを目指すようになったんです。

-”複雑なコンテクストを持ったうえでのベーシックな服”

以上、honeyee.com 7jours avec Masion Kitsuneより http://www.honeyee.com/feature/2011/maison_kitsune/

やっぱり好きなものを作る人って好きなことを言うんだよなあ
新宿伊勢丹は好きじゃないのでいかないだろうけど試着しに行きたい。
この秋冬、他にはkolorが好きすぎてほとんどの服を試着したけど、な~や~むぅ

男の人で服装に関心がない人って、僕から言わせれば、だいたいナルシストだと思う。

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2011年08月15日 | Weblog
金曜日、某イタリアンで晩御飯を食べていたらザッケローニが来た。
最近、芸能人や有名人に遭遇することが多い気がする。
某ワインショップにて眞鍋かをり、某ダンス会場にて本木先輩。
その人がいそうな所に、その人はいるもんなんだな

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2011年08月15日 | Weblog
週末はワシントン・ナショナルギャラリー展と名和晃平の展覧会、本を何冊かとクリント・イーストウッド『グラントリノ』
ワシントン・ナショナルギャラリー展で気になったのはメアリー・カサットの作品
彼女の絵に描かれている子供の不機嫌さ

”アメリカ”の”女流画家”によって描かれている子供の不機嫌さ
未成熟さ(『ロッタちゃん』を描くのは奈良美智)ではなく、
どちらかといえば『チャーリーとチョコレート工場』や『シンプソンズ』に描かれるほどでないにせよ
子供の存在そのものが快適ではない(つまりそれは大人にとって)そういう印象。
たとえば、この展覧会ではマネの版画のモデルとしてのみ登場し作品の展示はなかった(ような気がする)
同じ印象派、ただし”フランス”の”女流画家”ベルド・モリゾは子供をこうは描かない。
メアリー・カサットの活躍している時期をみると、ウーマン・リブの少し前で、
wikiによると後半生は女性参政権の活動。なーるほど。
久しぶりに内田樹さんの本を引っ張り出して読む。
しかしどの本に読みたかったことが書いていおるかを覚えていない。

(ネットで調べるとメアリー・カサットは必ずしも子供を不機嫌に描いているだけではないようだけど
今回展示されていた3作品から受けた印象)

この展覧会、作品充実していた。


松本大洋の新刊が出るよ!!!!!!!!!!!




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2011年08月06日 | Weblog
かわいらしいというだけで恋におちるなんて、みんななんて謙虚なんだろう。  『東京タワー』江國香織

「お客さまっていうものは、もてなされるために来るのよ」  『すきまのおともだち』江國香織



 このぼくの知るかぎりではもっとも楽しい夢から、『創造的進化』と題された本の核心への移行は、まったくありえないことだ。境界線の彼方の地の夢にたどりついたのと同様、ごく自然に行きついたアンリ・ベルクソンによるこの書物の中で、ぼくはふたたび完全な孤独にひたり、ふたたび異邦人に、ふたたび鉄橋の上に立ち内と外の異様な変身を見守っている年齢不詳の男になる。もしこの書物が、あのときぼくの手に入っていなかったなら、おそらくぼくは発狂していたことだろう。別の巨大な世界がぼくの手の上で崩れかけていたとき、ちょうどその書物が手に入ったのだ。たとえそこに書かれていることがまるで理解できなかったとしても、ただ一つ《創造的》という言葉さえ心にとどめていれば、それだけで十分だった。この言葉はぼくの護符であった。この一言を武器に、ぼくは全世界を相手に、なかんずく友人たちを相手に、戦うことができた。
 友情の意味を理解するためには、友人たちと袂を分かたねばならないときもあるのだ。奇妙な言いぐさと思われるかもしれないが、この書物の発見は、ぼくにとって武器の発見にも等しかった-ぼくを取り巻いている、だがぼくにとってもはや何の意味も持たなくなった友人たちを、吹き飛ばすのに絶好の道具だったのだ。この書物は、友人などいらぬことを教えてくれたがゆえに、ぼくの友となった。それはぼくにひとり立ちをする勇気を与え、孤独を愛することを教えてくれた。本の中身はついぞ理解できずじまいだった。時にはもう少しで理解できそうに思えたこともあったが、けっきょく本当にはわからずじまいだった。だがぼくにとっては、わからないことのほうが重要だった。この本を手にし、友人たちに読んで聞かせ、質問をしたり説明をしたりしているうちに、ぼくには友人のないこと、ぼくはこの世でただひとりであることが、痛いほど身にしみて感じられた。ぼくもぼくの友人も、そこに書かれた言葉の意味が分からないことにより、一つの事実がきわめて明白になった-つまりわからぬということにもさまざまな差のあること、ある個人の不理解と他の個人の不理解の相違からは、理解の相違以上の堅い大地が生み出されるということだ。それまでぼくの理解していると思いこんでいたものはすべて崩壊し、ぼくは白紙の状態で残された。だが友人たちは、自分たちの掘ったささやかな理解の穴に、ますますかたくなに身をひそめていた。彼らは世の中の有益な市民となるべく、理解のささやかなベットの中で安らかに死んでいったのだ。ぼくは彼らを憐れみ、いささかの後悔もなく、ただちに一人ずつ捨てていった。

『南回帰線』ヘンリー・ミラー

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2011年06月24日 | Weblog
昨日と今日は仕事で札幌に。
仕事の後、旭川にいる義妹と合流。
待ち合わせの書店で「未来ちゃん」(第6版)を立ち読み。印刷が格段にいいんですけど!
買い直したくなるぐらい印刷がいいんですけど!