『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

日本にも来ていたグローバル・ユダヤ〜 とんでもない蘇我氏

2024-09-26 17:27:27 | 歴史・郷土史

── 聞いてみれば、

「社会主義」というのも、マルクス(ユダヤ人)を使って流行らせた「グローバリズム」の一環なのだそうだ。

「社会主義」は、伝統と文化を否定して破壊するが、グローバリズムもまさにそうである。

 

世界史を見回してみても、

フランス🇫🇷革命(1789〜95)とは、「ユダヤ人の解放」であるそうだ。

当時、狭いゲットー(ユダヤ人居住区)に押し込められていたユダヤ人は、解放されてようやく市民権を得ることになる。キリスト教の建物もかなり破壊されている。

市民革命のような言い方をされているが、実のところユダヤ人のための革命であり、その標的とされたのは伝統(≒キリスト教)だったというのである。

ロシア🇷🇺革命(1917〜1923)とて同様の消息が潜んでおり、

帝政ロシアへの国内不満のはけ口(スケープゴート)にされて、【ポグロム(ユダヤ人大虐殺)】されたユダヤ人が、革命側(共産党側)についたと言われています。

いわばロシア革命は、ユダヤ人によるポグロムへの復讐だったと言えるそうです。

共産主義は、ユダヤ人が編み出してグローバルユダヤの手段となったものの、そのソ連が崩壊し、いままた中国も危うい状態となっている。

ユダヤ人の生み出した「社会主義」は、いまや風前の灯である。

また、第二次世界大戦もまた、

ユダヤ人にとって癪にさわるドイツ🇩🇪と日本🇯🇵を叩くために、ユダヤ人が仕掛けた戦争という見方もできるそうです。

(この両国は、伝統と文化の力が厚い国で、ゲルマン魂と大和魂でナショナリズムが強力だから、ワンワールドを目指すグローバリズムにそぐわないから)

ロシア革命前のポグロムから、命からがら逃げ出したユダヤ人の向かった先は、アメリカ🇺🇸のニューヨークだったそうです。

(リトアニア🇱🇹でユダヤ人を逃した杉原千畝が助けた人々も、ナチスドイツから逃げてきたのではなく、帝政ロシアのポグロムから逃げてきた人々が大半だったそうです)

そして、その子孫たちが、例えばブリンケン国務長官などで、「ロシア憎し・許さじ」と強硬な姿勢をとっている根拠となっているわけです。

 

アメリカ人の人口の2%にも満たない、世界中でも1500万人しかいないユダヤ人が世界金融をにぎり、アメリカという超大国の行末を左右するほどの権限を有しているなんて、驚くべきことです。

 

 

大学の歴史学会では、戦後、恐ろしい奇妙なことが起きています。

それは何か、といえば、

学者の誰も歴史全体を語ることをしようとしない、またできなくなったということです。

特に日本では、

学問が細分化されると同時に、イデオロギー化され、

マルクス主義的観点(階級史観的、ジェンダーフリー的、LGBT🏳️‍🌈的など)からしか、歴史を見ることをしようとしなくなりました。

そして先生がそうなら若い学生もそれに従わざるをえない、ということになったのです。

[※  『日本とユダヤの古代史&世界史〜 縄文・神話から続く日本建国の真実』田中英道✖️茂木誠(対談集)より]

 

…… げに恐ろしいことです。

グローバリズムとは「国境をなくしてワンワールドをつくることだ」であり、

世界中を均一にしようとします

世界中に同じものをつくるということ

ex.  スターバックス、マクドナルド、シャネル、ルイ・ヴィトン

そうすると、文化が生まれてこない。

そのグローバリズムの中に、マルクス主義、社会主義が含まれているのです。

社会主義とはつまり革命のグローバリズムです。

 

…… 日本もさんざん踊らされてきましたが、

そろそろマルクス主義やグローバルユダヤ、左翼ユダヤも限界を迎えているそうです。

なぜなら、グローバリズムによる社会主義では「経済」を運営できないからです。

経済は需要と供給で成り立つので、そこにイデオロギーは必要ない。計画経済は必ず汚職を生むので、それで万民平等を実現するのは不可能だと。(田中英道)

 

 

そこで、このグローバリズムの張本人である、グローバル・ユダヤについて、

日本の歴史のなかに痕跡を残している「謎めいた蘇我氏」の事例を取り上げて探ってみよう。

蘇我氏って、日本人離れした暴力性を発揮して、

皇太子どころか天皇までも弑し奉った、日本史上最悪の貴族官僚である。(史上、みずから天皇になろうとした人物すら、日本では三人といないのに)

この異常性は一体どこから来るのか、長年疑問を懐きつづけてきた。

また一方で、なぜ秦氏は、ユダヤ人なのにユダヤ色を出さずに、日本に同化(帰化)したのかという疑問とともにあった。

そーした疑問を一気に晴らしてくれた本が、上記に引用した田中英道と茂木誠の対談集である。

世間では、いわゆる「トンデモ」であり「オカルト」の範疇にくくられるお二人なのであるが(ともに、専門の歴史学者ではない)…… 

片や「美術史」がご専門の東北大学名誉教授で、一方は予備校講師であり作家、YouTuber である在野の人である。エビデンスを突きつめれば、飛躍している処も多々あると思う。

でも、それぞれ自分の体系(筋道)を持ったお方たちだから、その文脈のなかで導き出された結論は目を瞠るものがある。

少なくとも、誰も言っていないし、誰も思いつかなかったことである。けだし、慧眼である。

 

 

 

──日本史の蔭で、莫大な財力や技術力を基に暗躍しているのは、だいたい渡来人である。

1万5000年にも及ぶ縄文時代は、日本は竪穴式住居だった。

しかし、ある日に突然、巨大な古墳時代があらわれる。(その規模は、世界に誇れるスケールであり、大変な土木技術の結晶なのである)

 

(田中)> 元来、木の文化である日本に 【石の文化】を持ち込んだのは、渡来人たち、つまり秦氏です。

 

…… 土木と建築の技術を有して、巨大な石を運び、加工したのです。

秦氏によって造られた古墳は、少なくとも16万5000基(3〜6世紀頃)と云われています。

古墳は、内部に石棺をもち、本来は墳墓の表面は数多くの石🪨が敷き詰められ覆われています。(「武蔵野陵」を参照)

石棺に遺体を安置するということは、「蘇り」を意図したものであったようです。(この時点で日本人の死生観とは合わない)

 

古墳は、埋葬するに際して殉死者を伴うものなので、その尊い犠牲をなくして埴輪(土師器=素焼きの土器)で代用させましょうと天皇に奏上したのが、

土師(はじ)氏の野見宿禰であった。

相撲の祖であり、菅原道真公(天神さま)のご先祖である。

秦氏も、その下で古墳の造築や天皇の葬儀を司った土師氏も、ともにユダヤ人である。古代日本には存在しなかった、それらの大規模な土木・建築技術をもたらした渡来人であった。

膨大な数の古墳づくりによって、地域の経済が潤い、人々の生活を豊かにし、農業や土木建築産業の基礎が出来上がったそうだ。

中国の兵馬俑のように、殉死者の代替えだった埴輪であったが…… 

その中に、非常に特徴のある兵士像がふくまれていたのである。

田中教授は、それを「ユダヤ人埴輪」と名付けた。

田中先生は、

歴史を「文献」ではなく「形」から見るフォルモロジー(Formologie、形象学)」の権威でもある。

「人間がつくった形というものは、必ずある種の意味がある」という視点から、物や美術作品を解析する学問である。ゲーテの「形態学」から発展した。

 

 

もみあげの所にあるクルクル髪が、「みずら(ペイオト=ヘブライ語 “ PAYOT ”」というのだけれど…… 

古事記にはアマテラスやスサノオ神にも、秦の始皇帝にも、ミズラがあったという描写があるそうだ。

大和朝廷でも、ミズラは大いに流行ったらしくて、天武天皇の勅命(681年)で「みずらはやめなさい」と禁止されるまで続いたらしい。

ユダヤのそーした慣習も含め、かなりの深度でユダヤ風俗が日本に浸透していたことを物語るものである。

 

 

【旧約に詳しく記載されている「失われた聖櫃(アーク)」と日本の神輿の酷似。頭上にある天使ケルビム🪽と鳳凰🐦‍🔥も対応し、移動式の神殿であるという機能までおなじである。ユダヤ人はアークを担いで戦場にも持っていった。】

 

 

 

 

(茂木)> 西暦135年、ローマ帝国のハドリアヌス帝が、ユダヤ人を完全にエルサレムから追放したあとは、もうずっと彼らには国がありません。

1948年にイスラエル国🇮🇱が樹立されるまで、1800年もの間ずっと国がなかった。このことを理解しないと、ユダヤは語れませんね。

 

…… 135年が、ユダヤ人の「ディアスポラ(離散)」の決定的な始まりでした。

ユダヤ人の歴史を概観してみると、

> ユダヤ人の建国と離散 ①② より

B.C.13世紀 出エジプト

B.C.10世紀 ヘブライ王国(サウル王/ダビデ王/ソロモン王)

その後、「北イスラエル王国」と「南ユダ王国」とに分かれる

B.C.722年 「北イスラエル王国」は、

アッシリアにより滅亡→離散、【失われた10支族】であり、★「多神教でもいいじゃないか」という戒律が緩い支族

B.C.586年 南ユダ王国(ユダ族と少数のベニヤミン族)」は、

新バビロニアにより滅亡→「バビロン捕囚」、神殿が破壊される→エルサレム帰還 ★「一神教を守ろう」という頑なな2支族

B.C.538年   ペルシャ・ギリシャ統治時代 ユダヤ人帰還、第2神殿を再建

B.C.64 年   ローマ統治時代 ユダヤ人による自治➡︎ ローマの属州

   ↓

⚫︎ A.D.33   イエス処刑

 ↓

A.D.66〜73   第1次ユダヤ戦争 ローマ軍と戦う(73年 マサダの戦いでユダヤ人1000人玉砕)

A.D.132〜135    第2次ユダヤ戦争 ローマ軍と戦う(ハドリアヌス帝)

 ▼

◉ ユダヤ人完全追放

◉ 決定的離散(ディアスポラ)

 

…… ユダヤ人という名称は、バビロン捕囚された多くがユダ族だったことに由来する。

古代世界🌏において、ユダヤ人はユーラシア大陸をものともせず、日出る処に向って東慚しました。そして日本列島に辿り着いたものでしょう。

(田中)>「故郷(ふるさと)がない」ということは人格形成にとって、とても重要なことです。

あらゆる民族は、たとえ故郷が貧しい場所でも、故郷があれば帰るのです。

故郷というのは長い旅行をして戻るところです。

 

…… 彼らユダヤ人には、最初から帰るべき故国が無かったのです。

(茂木)>帰るところがないから、せめてもの魂のよりどころとして、神をつくった のかもしれないですね。

 

 

秦の始皇帝(BC221)は、ユダヤ人が君主になった稀なケースらしいのだが、

基本的にユダヤ人は為政者の下にいて、あらゆる政権にサポートする側で立ち振舞うと云う。

始皇帝に仕えた徐福もまた、ユダヤ人の方士(道教マスター)であり、蓬莱山をめざして3000人引き連れ来日して、富士山の麓で暮したらしい。

『古事記』『日本書紀』に記載があり、戦前は紙幣の顔にもなった武内宿禰(長命、2〜3世紀)もユダヤ系の渡来人だと思われる。

古代世界の往き来は、現代から想像する以上に広範囲に及び、遥か遠い地にもかかわらず、頻繁に往復したものらしい。

(亡国のユダヤ人のネットワークは、凄まじい正確さだったようだ。伊勢白山道の霊視によれば、モーゼもキリストも来日している。マルコ・ポーロの「ジパング」が知られるずっと以前に、東方の果て・日本🗾については、熟知していたものと思われる。)

 

 

(田中教授)> 【ユダヤ人渡来、5つの波 🌊】

・第1波 BC13世紀 出エジプト〜 縄文時代・日高見国・スサノオ

  ↓

・第2波 BC722年以降

アッシリア捕囚と失われた10支族〜 日本建国

  ↓

・第3波 BC3〜2世紀

秦の始皇帝・徐福と3千人〜 秦氏、各地に渡来

  ↓

・第4波 AD3〜4世紀

弓月国から秦氏2万人〜 応神天皇が受入れ

  ↓

・第5波 431年以降

エフェソス公会議・ネストリウス派〜 蘇我氏

 

…… 仏教伝来について、秦氏は蘇我氏とともに、聖徳太子をささえた崇仏派でした。

が、蘇我氏が朝廷で大っぴらに暗殺を実行し、横暴に専制するようになると、機を逃さずに赤穂に逃げました。

聖徳太子を補佐できるほどの財力を有していた秦河勝は、その後、政治の表舞台からは一切身を引いてしまいました。

能の世阿弥や忍者の服部半蔵のご先祖だということで、「悪党」の楠木正成や鉱山師や治水土木の技術者とも、深いネットワークを持っていたことと思います。

鎌倉期に、八幡神社や稲荷神社を全国につくらせたのは、秦氏ですから。

その秦氏は、八幡様に応神天皇を祀っていたように、弓月君の子孫で紛れもなくユダヤ人なのです。

蘇我氏4代、稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿も、その変わった名前と経済力、政権の中枢にもぐりこむ政治力からいって、間違いなくユダヤ系渡来人でありましょう。

天皇や皇太子を弑し奉ってまで、おのれの野望を遂げようとする暴力性・排他性は、純日本人には決して見られない資質です。

そんな蘇我氏と秦氏が、組まなかったのは何故なのか?

 

田中教授は、蘇我氏がキリスト教ネストリウス派だからだと云うのです。

時代的に、エフェソス公会議で追放されたネストリウス派(=景教)だとすれば、年代は見事に合致します。

蘇我氏は、聖徳太子を庇護して育ててもいますから、

「厩戸皇子」という御名前とエピソードは、イエスキリストに倣ったものだと、容易に推察されます。

仏教の導入は、単に廃仏派の古代豪族・物部氏を斃すためだったのだろうか?

物部氏は、徐福の引き連れてきたユダヤ人だと言っている人もいる。

軍事を司る一族だから、先祖が渡来人であっても不思議ではない。

すると、蘇我氏・物部氏・秦氏と、ユダヤ人の三つ巴の争いということになる。

 

ディアスポラで世界中に離散したユダヤ人は、東方に広がる過程で、ユダヤ教からキリスト教へ改宗していたとされています。

時系列からいって、蘇我氏よりもはるかに早く来日していた秦氏は、「原始キリスト教」だったと思われます。

北イスラエル王国の末裔とすれば、秦の始皇帝や徐福も、多神教を認めるような緩い支族で、隠れ蓑に「原始キリスト教」だったであろう。

そうすると、日本に同化した秦氏・物部氏に対して、蘇我氏は厩戸皇子を日本のキリストに仕立てようとした、新しいユダヤ系勢力です。

田中教授は、蘇我氏というのは「我、蘇り」だと解きます。キリストの復活なのです。

 

「人間マリアは人間イエスを生んだ。

しかるのちに神がイエスに降臨した。

だからイエスは神として祀るべきだが、マリアは人間だから祀るべからず」

(神学者ネストリウスは異端とされる)

> 「神がマリアの腹に宿り、イエスとして生まれたのだ。

イエスは胎児の時から神であり、神を生んだマリアは “ 神の母 ” として祀られるべきだ」

(神学者アタナシウスのマリア崇拝は公認される)

 

…… 聖母マリア信仰をみとめるアタナシウス派は、のちのカトリックへと繋がってゆく。

聖母マリアを認めない(マリアの神性を認めない)ばかりに、ネストリウス派は異端となった。

そんなネストリウス派と釈迦の仏教とは、相性がいいのだそうだ。

つまり独身男のキリストと、家族を捨てて出家した釈迦が被るのである。

イエスキリストが、「私」ということを言い始めた。(近代個人主義の元祖)

個人宗教のキリスト教は、

カトリック教会が共同宗教に変質させ、

これを破壊したルターやカルヴァンの宗教改革で

また個人宗教に戻りました。

このから西洋近代文明という「病」が始まります。

明治以降の日本人もこれに毒されました。

 

男性原理の原始キリスト教が、

アタナシウス改革でマリア信仰を取り入れた結果、ヨーロッパ布教に成功したように、

男性原理の原始仏教もまた、

菩薩信仰を取り入れた大乗に発展することで、

東アジアで爆発的に信徒を獲得していきました。

西暦1〜3世紀頃のことで、『法華経』やら『般若経』などがつくられるのがこの頃ですね。

 

……神仏習合の日本(神道という共同宗教と仏教という個人宗教との融合)と

キリスト教をうまく「飼い慣らした」ヨーロッパ(マリア信仰という共同宗教とキリスト教という個人宗教との融合)のみが、

ユーラシア大陸の東西で、「文化というもの」を持つようになったと指摘している。

 

共同宗教ー神道、旧約(ユダヤ教、イスラム教)

個人宗教ー新約(キリスト教)、仏教

 

ネストリウス派の蘇我氏は、個人宗教である仏教にキリスト教を上書きしようとしたが、

当の聖徳太子は個人宗教たる仏教はみとめず、出家を否定したのだと云う。

> (聖徳太子は)在家で日常的に修行ができる『維摩経』あるいは『勝鬘経』を取り入れました。

 

…… つまり、はなっから皇太子である厩戸皇子は、「神道」を信奉しており、仏教は神道を補佐するものという認識だったらしい。

蘇我氏の野望に踊らされる聖徳太子ではなかったのです。その英明さが、不幸にも蘇我氏による暗殺を招いたということです。

そして、「日本のキリスト」をつくることに失敗した蘇我氏は、そのあまりの横暴ぶりから、一族の命脈を絶たれてしまったのです。

ひところ、梅原猛『隠された十字架』はベストセラーになったものだが、この本は同様に「聖徳太子暗殺説」をとっているが、黒幕として比定されているのは、「中臣氏(=藤原氏)」なのである。

蘇我氏の、日本人離れした暗殺志向や政治力を、キリスト教異端ネストリウス派と離散ユダヤ人と絡めて、論証したのは、田中英道教授が初めてである。

 

わたしは、このネストリウス派(=景教)からの視点に、えらく惹かれるものがあった。

なぜなら、極東の島国・日本に、突如として

法然の「浄土教」、それに続く親鸞の「浄土真宗」があらわれたのは、如何にもおかしいからだ。

それらが、仏教の主流からは外れながらも、キリスト教のような世界宗教としての「格」と「奥行き」をもち、「誰でも一人残らず救う」という宗旨は、とうてい個人の思いからの立宗ではないと思われた。

法然上人は、たしか母方が秦氏の家系だったと思う。

親鸞上人は、夢殿で聖徳太子との神縁が深い。(伊勢白山道の霊視では、聖徳太子は碧い眼のハーフで、キリスト教だったような…… )

 

秦氏を通して、日本の念仏宗にキリスト教の教義が流入した可能性は、私は少なくないと感じていた。

 

ただ弓月君や始皇帝が奉じていたのが、景教だとすると、流石に時代が合わない。

彼らは、世に云う「改宗ユダヤ人(コンベルソ)」であったろうし、その宗旨は「原始キリスト教」だったであろうとする説には、瞠目した。

 

ユダヤ人は、日本に来ると心の奥に蔵ったユダヤ教を放棄するのである。(伊勢白山道は、ユダヤ教の『旧約』の神・ヤハウェは、日本の国常立大神と同体だからと言っていた。いわば日本が本家なのである)

 

 

ユダヤ教は、失われた10支族の住んだ北イスラエル王国では、多神教と親和性があり、寛容であったようです。

それは、エジプトが太陽神ラーを祀ったように、ユダヤ教の前身も「太陽信仰☀️」だったからです。

原始キリスト教も、そんなユダヤ教の系譜を継ぎますから、太陽信仰の「神道」とは同化しやすかったと思います。(クリスマスは、本来は冬至におこなう太陽の祝祭である)

実際、原始キリスト教の秦氏は、ユダヤ方式を押しつけることなく、宗教的にも日本に完全に帰化しました。

ところが、蘇我氏である。ネストリウス派である。

聖母マリア信仰や守護聖人信仰などは、要するに多神教へのアプローチであり、厳格な個人宗教であるネストリウス派は、それを容認できないのです。

日本の、聖徳太子が目指された「神仏習合」とは、多神教への妥協をゆるすことで、厳格な一神教の呪縛から解き放たれることを希求している。

そのバランスのよい寛容さのお蔭で、豊かで潤いのある「文化」が実り、独自の伝統が培われる風土を醸成することになる。

 

…… グローバリズムは、この各国の独自の文化を否定して、一律におなじものを作り上げる世界システムである。

が、離散ユダヤ人が永年の夢であった、祖国イスラエル🇮🇱を建国してから、グローバル・ユダヤの生き方も見直さざるを得なくなった。

故郷である母国を手に入れた今、純粋な正統のイスラエルは、グローバリズムに反するからである。

 

日本文化は、各国のオリジナル(=伝統)を決して損なうことなく、融合できる大らかさを兼ね備えている。

だから、イスラエルに行きたくない離散ユダヤ人を日本に移民させたらいいのではないか。

全員来たって、1500万人だから、一緒に神輿かついだらいいんだよ。

彼らの目指す「カナンの地」は、日本の加南だという人もいる。

ユダヤ人は独特の佇まいをもっていて、日本には馴染むのではないか、短調で暗い日本国歌『君が代』が大好きな民族だから。

 

わたしも歳取ったら、バーバラ・ストライザンド(ユダヤ人)が美人に見えてきて仕様がないのよ。彼女は、若いうちから何かオバサンくさかった印象があったんだけど、それがきっとユダヤ的な人間味なんだろうなと最近は思う。

 

 

 

ヘブライ語の歌で、日本で昔歌われていたのをピックアップしてみた。日本人の琴線に触れたんだよね。

 

伊勢白山道の霊視では、失われたアークは、伊勢神宮の多賀宮の丘に眠っているらしいね。はやく、日の目を見ないかな。

世界🌏🌍🌎が腰を抜かす様を見てみたいものだ。

         _________玉の海草

 

 


 文系も理系も、 学問はこの人に始まる 〜アリストテレス

2023-08-28 02:05:21 | 歴史・郷土史

__ 人類って、狩猟生活から農耕生活への大転換を始めとして、幾多の変遷をへて、余剰な財産が貯まったことで、いわゆる「文化生活」に入るわけなんだけども、

いまに繋がる「豊かな市民生活」の原点は、古代ギリシアにあるように思うんだよね。

エジプト文明やメソポタミア・インダス・黄河もあるのだが、現代世界に直接つづいているかと言えば、そうではない。

日本最後の碩学といわれる井筒俊彦博士🎓は、ギリシアも広くアジア圏に含めておられる。

となると、アジア・ユーラシアが世界を席巻したということになる。

 

 

世界の各地で、賢者がいてそれぞれの文明を押し上げたわけだけども、それらをかき混ぜて、色々な画期的な化学反応を引き起こした人物がいる。

アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)である。

大王の故国マケドニアは、ギリシアのすぐ北の隣国であった。大王の父君は、愛息のためにわざわざこい願ってギリシアから賢者アリストテレスを呼び寄せて、息子の家庭教師に任命した。

アレキサンダー大王は、つまりアリストテレス(BC384〜BC322)の直弟子である。

そして大王は、マケドニアの版図を拡げるにあたり、アリストテレス学も一緒に伝播させた。

アジア方面の東征はインドまで及んでいる。

アリストテレスの論理学は、間違いなくナーガルジュナ(龍樹)の仏教(大乗哲学)に影響を及ぼしている。

仏教界は、アリストテレス論理学を受け入れる際に、それを「因明」という形に整えた。

大乗仏教にしても、ガンダーラ美術(古代ギリシア彫刻由来)にしても、アレキサンダー大王のもたらしたアリストテレス学を取り込むことによって生まれたといっても過言ではない。

 

【ヘレニズム文化(ギリシア文化とオリエント文化との融合)の結実、西洋的な風貌をしたガンダーラ仏像】

 

そして、その龍樹の論理学を、ヴェーダーンタの始祖・シャンカラが借用して、現在もっとも精緻と思われるアドヴァイタ(非二元)へと結晶化して…… 

現代の聖者といわれる聖ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジを輩出するに至る。

古代ギリシアは、人文系では「ギリシャ神話」や「ギリシャ悲劇」を産んだ国である。

古代ギリシア系の哲学・論理学が、インドのヒンドゥー哲学の礎となったばかりか、西洋に伝播してはキリスト教系の神学となって花開いた。

キリスト教の原始教典は、ギリシア語やラテン語で綴られている。

同様の文化的な攪拌は、シルクロードを通って、インドにも中国にも波及したのである。

アリストテレス学は、アレキサンダー大王の征服にともなって、世界中に移植され育苗されたといえるのではないかな。

 

 

おおきな思想的建築を作ろうと思ったら、「構造」をもたない、ただの信仰だけではできない(森敦説)

カルチャーが、カウンターカルチャーを取り込んで完成形に近づける……    この複雑さが構造をもたらすのです。

仏教建築の大伽藍は、そうした「構造」の集積を象徴しているのかも知れない。

例として、

仏教とキリスト教とのコレスポンデンスを対比してみると…… (以下、瀬戸内寂聴の説

・密教の灌頂<キリスト教の洗礼

・坊さんの「七条の袈裟(糞掃衣由来なのだが、豪華な拵え)」<カソリックのミサで神父の着るガウン

・仏教の柄香炉(えごろ)<カソリック・ミサで香炉を振る

・仏教の「声明(しょうみょう)」<グレゴリオ聖歌

日本の声明は、中国で大成されたものを受け容れた。そのためインド由来のチベット声明とは全く異なっている。この日本の声明の呂律(ろれつ)から、能ー謡ー浪花節ー子守唄ー民謡等々の節回しが生まれる。

 

 

アリストテレスの学問(数字・ファクト・ロジック)は、上記でみてきた人文系だけに留まらない。

NASAは、アリストテレスを源流としたニュートンの科学を採用している。(つまりプラトンは認められていない)

アリストテレスの、数学・天文学・科学を発展させた最終形が、NASAという組織に結実する。

 

つまり、驚くべきことに人文系も科学系も、その礎となった人物は古代ギリシアのアリストテレスだということだ。

またヨーロッパ思想の地下水脈を辿れば、アリストテレスの師・プラトンのネオ・プラトニズム(新プラトン主義)にも突き当たる。

生涯に四度見神しているプラトンは、多分にオカルティックな人物だが、詩情ゆたかな処や数学(特に幾何学)を重視した処に「知の巨人」の面影を観る。

 

【ラファエロ『アテナイの学堂』、天を指すプラトンは当時のダヴィンチがモデルで、掌で地を指すアリストテレスは当時のミケランジェロがモデルだそうです。ソクラテスとアレクサンダー大王は、画面のもっと左側に話しかける男と右手を大きく挙げた男として描かれています】

 

プラトンの師・ソクラテスから、ある意味ギリシア哲学を完成させたアリストテレスにまで、色濃く浸透している或る思想がある。

ピュタゴラス教団である。

ピュタゴラスの秘教スクールは、秘密教団の魁といえるものである。

ピュタゴラス(BC582年〜BC500年頃)は、数学者として史上有名だが、実のところ宗教者といった方が適切な感じがする。

隠された秘教(=オカルトoccult)を、古代ギリシアの哲学者たちに伝えたのであろう。なかでも「輪廻転生」思想はインドから伝わったように言われているが、果してどうなのだろうか? 案外ピュタゴラスが先なのかも知れなかった。

哲学は、その秘教の一部だったろうと思われる。

ピュタゴラスは、グルジェフの大著『ベルゼバブ』にも、実名で出てくるほどの聖者である。

[※  『ベルゼバブ』の物語は、聖なる位階にある宇宙人ベルゼバブが、惑星地球の三脳生物(つまり人類)の異常な生態を調べるために地球に滞在したときの思い出語りとなっている。古代エジプトや古代インド古代中国、古代チベットの聖者たちが出てくるが、史上知られた名前で出てくるのは、ピタゴラスと仏陀くらいであろうか。]

ピュタゴラスの天文学は、コペルニクスが地動説の拠り所としたくらいに史上重要な叡智が含まれている。

 

古代ギリシアの物語が、世界中で語り継がれるのは、おそらくピュタゴラスの普遍性によるものだと思う。

ピュタゴラスの思想を全面的に、市民生活に合うレベルに顕現させたのが、アリストテレスということになろうか。

ピュタゴラスの数学は、音楽🎵にまで及んでいる。世界中の音楽の父は、ピュタゴラスといってもよいだろう。

16世紀初頭に、突如として完成した形で出現した楽器「ヴァイオリン🎻」のように…… 

ピュタゴラスの時代に、古代ギリシアに突如として、ある程度網羅した形で、論理学→数学→科学の礎が築かれた。こうした構造的な変化は、地球由来のものではないような気がする。

 

 

ーざっと、古代ギリシアのカルチャー(文化)の流れを追ってみたが、まさに人類科学文化の原点である。

一言でいえば、「健全なる肉体に健全なる魂が宿る」

つまり、体主霊従の構図であろう。

天地照応(コレスポンデンス)の調和は、人間では霊肉の調和である。

その調和を見出すために、全世界で「修行」なるプラクティスをやるようになったかと思うと、そぞろに可笑しくなる。

内外ともに美しい、そこに人間の原型(イデア)をおいた古代ギリシアは、けっこう日本と似ている。

三島由紀夫が理想としたのも、古代ギリシアであった。

       _________玉の海草

 

 


《玉断》 庄内人らしく〜 極上の香りをまとった俳優 「成田三樹夫」

2022-11-04 01:54:18 | 歴史・郷土史

__ 成田三樹夫、この人が出演しているだけで、その映画やドラマを観てしまう、そんなお人だった。

いまや、絶滅危惧種となった、ニヒル、ダンディー、掛値なしに強い悪玉のボスを演じさせたら、天下一品他の追随を許さない入魂の芝居を魅せてくれた。

インテリ893には、いい漢のエッセンスが含まれていると思うんだよね、これがサマになる役者は、間違いなくいい役者である。

そんな陰翳を帯びたイイ男の代表格が、成田三樹夫である。

 

【画像=『柳生一族の陰謀』より、烏丸少将文麿の片肌脱ぎ。これほど、成田三樹夫の天稟が生かされた配役はなかった。万能の後鳥羽院の御例もある。

 

【この、繊細さというか脆さに、湊町・酒田人の栄華を垣間見る。酒田の街は、各々がプライド高すぎて、一向に纏まりがないんですね。他郷からは「殿様商売」と揶揄されてます。】

 

 

 

🔴  一周まわって‥‥
[2019-10-04 01:08:09 | 王ヽのミ毎]

 

いま、山形県内では今は亡きニヒルな悪役俳優・成田三樹夫のCMがリバイバルで放映されています (嬉しいっ )
そーいえば、来たる2020年で早や没後30周年にもなる

 

【成田三樹夫の「メンズ・ニシムラ」CM全集、10本あります ♪ 】

 

昔、バリッとしたスーツ姿で「メンズニシムラ(山形県内チェーンの紳士服販売店)」のコマーシャルに出演されていました
私は、大阪に上阪する時に、酒田市のメンズニシムラで濃紺の仕立てのいいスーツ一式を求めました


そー、母校 (酒田東高の先輩・成田
三樹夫に憧れていたからです
彼は、数学好きで東大の理学部に入ったのですね (中退したけど)
高校の頃、たしか日曜の午後二時ころでしたか…… テレビ版『柳生一族の陰謀』が放映されていました

なかでも、極めて異彩を放っていたのは……
映画版から引き続き、宮中の軍師・烏丸少将文麿 を演じた成田三樹夫でした

そもそも新陰流の麒麟児とうたわれた柳生十兵衛に匹敵するほどの公家侍なぞ、まったく想定外でしたが、しかし考えてみれば、鬼一法眼に端を発する「京八流」や「鞍馬古流」を修めた公卿がいても、何らおかしくありません

たとえば、蹴鞠は高度な身体操法を有する武技でもあるのですから、それでも筋肉隆々で馬上にて佩刀を片手斬りにする烏帽子の兵法者は、きわめて斬新でした 

こんなにカッコイイ武人は初めてです、『五条霊戦記』の遮那王(源義経の幼名)みたい

[※  後年に、今川流剣術の創始者・今川氏真公が、烏丸少将と同じく烏帽子を冠った文武両道タイプなのに気がついた、こちらの拙稿もご参照くだされ]

リンク ▼

意外にも剣豪〜 蹴鞠名人の今川氏真公 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

加えて、優雅で円やかな公家言葉も、そのギャップ故に萌え上がりました 


当時、進学高に通っていた私は、数学の章末テストとゆーものが二週に一度あるのですが、合格点とるまで何度でも追試を行うのです

追試受けているうちに、次の章末テストが来たりして 、まさに自転車操業の忙しさでした
心も追い詰められて荒んでいたものです

そんな状況下で、この烏丸少将と三条大納言(テレビ版では中院通村)との、朗々と歌うように喋る公家言葉のイケズで間延びした遣り取り(おそらくテレビ版 📺 第六話だと思う、大傑作です ♪)には、

お腹の筋肉 がよじれるほど笑わせてもらいました ♪

暗く苦しい高校生活で、腹の底から笑いが込み上げてきたのは、この「おじゃる言葉」の掛け合いだけだったかも知れません

[ この公家の口語「〇〇でおじゃる」は、梅津栄さんの発案創始されたものです。室町時代の公家はこのよーに遣ったよーですが、江戸時代の公家に「おじゃる」と喋らせたのは梅津さん夫妻の図書館通いの成果と飛び抜けたセンスであったのです]

 

 

ーご自身のブログのなかで「俳優 成田三樹夫論」をアップされ、最大限の賛辞をお寄せくださっている『花房院長のブログ』から引用させていただきます

詳しくは、リンク ▼

俳優 成田三樹夫論 : 下田循環器・腎臓クリニック 花房院長のブログ

 

 

> 先日発売の「昭和40年男」の、俺たちのダークヒーロー特集に俳優として唯一取り上げられていたのが成田三樹夫でした。
「ニヒルな知略家から不気味な悪玉、そして憎めない小悪党まで、昭和の映画やドラマを盛り上げたダークヒーローと言えば、この男優をおいて他にない。にじみ出る知性とダンディズムで俺たちを痺れさせたミッキーの魅力に迫る!とありました。

 

> フランス文学者の鹿島茂は倚馬七紙なる作家であり、100冊目の記念に上梓した「甦る昭和脇役名画館」において、12人の俳優をあげていますが、最後にあげられているのが成田三樹夫です。
勝新太郎主演「兵隊やくざ」において

「長身の引き締まった肉体

いかにも強烈な意思の力を感じさせるアゴ

睨み付けるだけで相手を縮みあがらせる鋭い眼

大きく尖った鼻の下で真一文字に結ばれた口・・・」

とその独特の風貌を彼独特のレトリックで描写して、鍛え上げられた悪の魅力を論じています。
主客転倒、まさに主役と互角に渡り合う成田に悪のエロスを醸し出しているといいます。


成田三樹夫という強烈な個性の悪役は、そのマイナスベクトルのエロスをしっかり受け止めて、これを跳ね返すほどのプラスベクトルのエロスの持ち主が主役を張っていない限り、少しも輝かない。
換言すれば、成田三樹夫と渡り合える主役級の俳優はそうはいないということになります。

 

> 能や焼き物などの骨董に造詣が深く、文芸評論家の小林秀雄や画家の梅原龍三郎とも親交があった随筆家 白洲正子の随筆集『ほんもの』 の中で、

「雲になった成田三樹夫」なる随筆を発表しています。
白洲正子が特に注目したのは、ヤクザ役イメージを払拭できない成田がNHK大河「新平家物語」で保元の乱で敗れてしまう藤原頼長という平安末期の当代一の大学者役を演じるそのギャップと、


「品のいい立ち振る舞い、衣装束帯の似合う役者は、歌舞伎の世界にもまれにしかいない」と言わしめています。

そして「ワキ役とはいえ、彼が現れると、主役を喰ってしまう場合が多かった。いわゆる「花」のある役者とは違うのだが、強いていうなら 黒百合の花にたとえられようか」と述べています。

 


 

 

‥‥ 嗚呼、あの藝に人一倍厳しい白洲正子女史をして、エッセイの主題に据えざるを得ないほどの役者だったんだねえ〜
感無量です、「太陽の塔」背面の「黒い太陽」のごたる凛乎たる存在感をお持ちだったと思います

 

最後に、成田三樹夫遺稿句集『鯨の目』🐋より


朧世の底つきぬけ櫻は散るぞ   (病中)

物云いたげな急須の口や秋深し

恋終り空のひろさや

【なんと箱入りなんですよ、私も愛蔵しています。醒めた色味の薄紫の表紙が実に渋い、句風は西東三鬼を思い出します。】

 

 

 

🔴成田三樹夫を慕っていたお人

[2017-03-20 16:23:34 | 王ヽのミ毎]

 

1990年、55歳をもって此の世を去られた、クールな俳優・成田三樹夫……

故郷の酒田で執り行われた、彼の葬儀にかけつけ、憚ることなく泣き崩れた俳優・渡瀬恒彦の姿は、口伝てに酒田市民に広まり、人びとの胸にあたたかいものを灯して行ったものだ

 

成田三樹夫遺稿句集『鯨の目』🐳 (無明舎出版刊にも、真心の込もった追悼文をお寄せ下さっている

>成田三樹夫さんの事 ”            渡瀬 恒彦

困っています。

原稿用紙を前にして、困り果てています。

成田さんの事を書かなければならないのに、書けることがないのです。成田さんと共演した映画を調べてみました。

 

『仁義なき戦い・代理戦争』

『安藤組外伝・人斬り舎弟』

『実録外伝・大阪電撃作戦』

『赤穂城断絶』

『影の軍団・服部半蔵』

 

以上の五本のはずです。ですが、面と向ってカランだ記憶がないのです。

成田さんと酒席を共にした事も、たった一度しかないのです。

成田さんと食事をした覚えもないのです。ただの一度も。

成田さんは酒が好きでした。

成田さんは犬が好きでした。

成田さんは当然映画が好きでした。

東映京都撮影所でお会いすると、野太い声で「元気?」「飲んでる?」後は犬の話し。格別 何かの話をしたという事もないのです。

 

ですが、いつも何か気になる存在でした。この人には「イヤな奴」と思われたくない。ブザマな所は見せられない。そう思ってしまうのです。

私が成田さんと共有できた時間の短さに驚きながら、私にとって成田三樹夫さんは何だったのか、どうして成田三樹夫さんの事が気になったのかを考えてみました。

答えは簡単でした。

私は成田三樹夫さんのファンだったのです。

古武士を思わせる風貌と失われつつある日本人の原点を持っていた成田三樹夫さんに魅了された一ファンだったのです。

先輩として見たこともなく、同業者として見たこともなく、いつもファンという立場で、成田三樹夫さんの事を見ていたのです。

残念です。

 

‥‥ お兄さん・渡哲也の大ヒットドラマ『大都会』三部作〜『大追跡』〜そして、渡瀬さん主演の『大激闘マッドポリス’ 80』へと続く

MPを率いるキャップ・氷室は、黒づくめのタイトな感じで、ハンチングでRX–7を乗り回し、すこぶる武闘派のカッコよさ……

やはり「眼」がよかった

なんかリアルな感じがしましたね

 

 

 

 

大野雄二の「大激闘のテーマ」の名曲にオーバーラップして遜色ない役者、バイオレンス物なのにそこはかとなく哀愁が漂っておりました

科学忍者隊でゆーと、兄貴の渡哲也さんが大鷲のケン、渡瀬さんはコンドルのジョーって感じでありましょー

地球を救ったのは、ジョーがベルク・カッツェに投げつけた羽根手裏剣だったのです

人に知られず尽くす御仁(人気シリーズ『おみやさん』に結実)、渡瀬さんにはそんなスサノオ振りのイメージがあります

 

ー三國連太郎がそーであったよーに、成田三樹夫もみずからの生業を「河原乞食」の様なものと自認していた

菅原文太の読んだ弔辞に「あなたは芸能人ではなく、俳優であり続けたのです」とあったよーに、成田三樹夫は「わざおぎ=俳優」で在り続けたのである

俳句がブームになっているので、彼の遺稿句集『鯨の目』より私好みを引用する……

 

> 大空の下で大根を抜く

> 一線をまたげば異邦去年今年 (こぞことし)

 

> 背をのばせばどこまでも天

> 友逝きて幽明界の境も消ゆ

> 逝きし友万化の宙に俳優げり(わざおげり)

 

> ひそと動いても大音響

> 神々ののどかさよ天に満ち満ち

> 天上も天下も抜くよわらべかな

 

> 波ひいてもぬけのからのいとおしき

> 春ゆくや煮こごりのくづれゆく

 

> 咳こんでいいたいことのあふれけり  (病室)

> 荒海や王道自在のシロナガス  (病中)

> 痛みのなかで安心 (あんじん微笑をかいまみる   (院中)

 

‥‥ 成田さんの遺稿の読書メモより、私と共通する蔵書をピックアップしてみる

> メキシコ ヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン

カスタネダのドン・ファンシリーズ6 二見書房

> 「うつろ舟」澁澤龍彦著 福武書店

> 「大仏以後」杉山二郎著 学生社

> 「ダヤン・ゆりの花蔭に」M・エリアーデ著 筑摩書房

> 「縛られた巨人」神坂次郎著 新潮社

> 「タルホ事典」潮出版社

> 〈 柔軟心 (にゅうなんしんを学ぶ=道元 〉

 

‥‥ 中沢新一の本も何冊か愛読されていたよーだ

このインテリ振りも宜なるかな、成田さんは内緒にしておられたのだが、東京大学を一年で中退されて山形大に入り直しておられる学歴をお持ちである

お兄さん方も頗る優秀で、そーゆー家風で育っておられたよーだ

この「雅び」な処が、最強のお公家さん・烏丸少将文麿に通じるのであろー

 

この遺稿句集『鯨の目』の巻頭の肖像写真……

白皙の額に彫りの深い風貌、白のブルゾンを立て襟にしてチェック柄のシャツ、着古したジーンズに人差し指を突っ込んだ憂い顔……

その凜呼たる侵すべからざる気品は、誇り高き湊町・酒田の先人たちが持ち合わせていたものである

 

渡瀬さんを出汁にして、成田三樹夫を語ったが、おとこ・渡瀬恒彦はそれをよしとして下さると信ずる

 

【松濤館流の天才空手家・江上茂(極真・安田英治の師、青木宏之の兄弟弟子)、早稲田大学で渡瀬恒彦にも教える。渡瀬恒彦は、ケンカが強すぎて芸能界最強と噂されたが、江上師から伝授された直弟子だったのなら充分頷ける。渡瀬さんの訃報は、伊勢白山道の記事にも取り上げられていた。(昭和に降臨した「獅子の神使」であり「真の男だな」と観ていたと)兄・渡哲也との兄弟ケンカは、『北斗の拳』なみに熾烈で凄まじいものだったらしい。】

 

 

🔴俳優成田三樹夫の境涯

[2009-04-05 13:47:03 | 玉ノ海]

 

勉強に明け暮れし、追試に追われる高校生活でしたが『書』に邂逅し、また成田三樹夫を母校の先輩に持てたことには、後年感謝すること頻りでありました

55歳の若さで病いで帰天された彼であったが将棋と俳句が好きなインテリ俳優であった

 

咳こんでいいたいことのあふれけり

目あくれば晒した顔をまだ見ている妻

 

    [※  遺稿句集『鯨の目』無明舎出版・1991-より]

 

 

今あれだけニヒルな悪役ができる役者がいるでしょうか? あれだけ憎めない悪役ができる役者がいるでしょうか? あれだけ......

いや、やめましょう。 あの人が素晴らしすぎただけなんです。

[ネット上のサイト『名優・成田三樹夫』からの引用]

 

※   尚、「名悪役」については、こちらの拙稿もご参照くだされ。(井上昭文、金田龍之介、梅津栄、成田三樹夫を語っています)

 

 時代劇 「おじゃる言葉」 をあみだした怪優 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

__お公家さんの 「〇〇でおじゃる」 とゆー話し振りは、映画『柳生一族の陰謀』(1978)において、初めて登場した 深作欣二監督と、千葉真一ががっぷり四...

goo blog

 

 

 

松田優作が 最高の悪役” と讃えた彼の風姿には、善悪二つ枠では収まり切らない、人間の剥き出しの『生』の凄み、深み、滑稽味が滲み出ていた

 

悪役であって、美しい人 と云ふのも、映画史上稀れではあるまいか

 

湊・酒田の産んだ凄絶な二枚目俳優、成田三樹夫

光栄にも、彼の姪御さんとは同級生である

当時、スラッとした 端正な佇まい の心優しい美少女であった  。。。

         _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 

 


《玉断》 庄内人らしく〜 悲劇的によく出来た名将 「酒井玄蕃」

2022-04-14 01:23:43 | 歴史・郷土史

●  庄内自慢 〜道元さんを出汁にして

[2019-08-18 20:01:58 | 王ヽのミ毎]

鶴岡も、地震やら最高気温やらで、最近よく全国ニュースに出てくる

またちょうど、「白山(しらやま)だだちゃ豆」の季節でもある

白山神とのご神縁の深い道元禅師といえば、酒田のお寺に道元作の仏像がある

南宋から帰朝される船上で彫られた十一面観世音立像で、秀吉公の持仏だったとゆー曰く付きの仏像で、最上義光公経由で酒田に安置されてある

 

先年亡くなられた渡部昇一は鶴岡の人であるが、彼の著したエッセイ『青春の読書』によると…… (以下の引用はすべてこの本)

> 母校(旧制・鶴岡中学校、現・鶴岡南高校)自慢になるが、中学で一緒だった伊藤、阿部、宮本の三哲学者が、戦前九つあった帝国大学のうち、三つの大学の哲学科を背負っていた。

つまり東大の伊藤、東北大の阿部、京城(ソウル)大学の宮本である。

当時の庄内の気風がわかる気がする。

阿部、宮本、伊藤の三人は、一高・東大哲学科で岩波茂雄と一緒である。

そして、岩波茂雄が哲学の本を続々と出す頃になると、

阿部次郎は『倫理学の根本問題』を書き、宮本和吉(わきち)は『哲学概論』を書き、また波多野精一博士との共訳ということで『カント 実践理性批判』の翻訳を出す。

そのなかでも、二年後輩の伊藤吉之助は最高の秀才と認められ、『岩波哲學小辭典』の編集者という名誉ある大役をもらうことになった。

 

‥‥ うちとこの庄内がこんなにも哲学志向が強いとは驚いた

伊藤教授の鶴岡中学での一年後輩に、かの大川周明がおられる

庄内は、銅像が少ないと云われるが、具体的人物像よりも抽象理念が好きな土地柄なのかも知れん

郷土の異才・清河八郎を「回天倡始(しょうし=一番最初に唱える)」と称えたのも大川周明であった

 

伊藤吉之助は、35歳でドイツ留学された時、個人教師としてかの哲学者マルティン・ハイデッガーを傭ったことがあった

> こんな話がある。

ある会合で蓑田胸喜が、道元禅師とハイデガーを比較し、ハイデガーの『存在と時間』の説は、日本ではずっと昔に道元が「有事(うじ)」の説で述べていると言って道元を褒めた時、

それを横で聞いていた伊藤吉之助が言った。

「君! ちょっと聞くがねえ、道元はハイデッガー程度の男かい」と。

それでさすがの蓑田も参ったという。

ここで重要なのは、伊藤がハイデガーをもヤスパースをも、日本のほかの哲学者がよくやるように偶像化して仰ぎ見ていないことである。

 

‥‥ この条りなんか、庄内人の面目躍如たるものがある

生意気なんだけど、その見識には堂々たるものがあり、不断に積み重ねた素養の膨大な蓄積と相まって、舌鋒鋭く本質を抉る処に傲岸不遜なまでの自信が潜んでいる

まだ続きがある……

> 日本ではいまもハイデガー研究が盛んなようであるが、彼が使った有名な術語に「世界内存在」(Das In der Welt Sein)があるが、あれは元来、岡倉天心が『茶の本』をニューヨークで出した時、

荘子の「処世」を「Being In The World」と訳したのを、1908年にシュタインドルフが右のようなドイツ語に直訳したものである。

伊藤吉之助が留学から帰る時、自分の家庭教師をしてくれたハイデガーに、お礼のつもりで『茶の本』のドイツ語訳を手渡した。

それが1919年のことで、1925年にハイデガーの名を高からしめた『存在と時間』が出版された。

そしてそこにはあの術語が何のことわりもなしに使われていたので、伊藤吉之助は憤慨した。

 

> 旧庄内藩の偉い人たちの間には、ドイツを尊敬する風潮があったらしい。

旧藩主の御兄弟も長くドイツに留学されていて、忠篤伯はプロイセン陸軍中尉になられた。

藩内の家からは高山樗牛、伊藤吉之助、宮本和吉、阿部次郎、石原莞爾(彼はフリードリッヒ大王の研究家)、相良守峯(ドイツ文学者、鶴岡市名誉市民第一号)などなど、ドイツやドイツ語に関係した人たちが多い……

 

__ なるほど渡部昇一の、初期のデビュー作みたいな名著も、『ドイツ参謀本部』🇩🇪だったし……  剽窃疑惑に対する秦郁彦教授との因縁でも、逃げず胡魔化さず徹底した論陣を張る処や、完膚なきまでに叩きのめすと云った評論の仕方も、いかにも庄内人らしい ♪

 

‥‥ まー、庄内藩は徳川四天王でもあり、わざわざ漢学は徂徠学を学ぶほどにこだわりの強い処がある

この純粋な理想主義的な志向が、西郷さんの王道と共鳴し合ったのかも知れない

 

「身の病者なれば、病を治して後に、好く修行せんと思はば、無道心の到す処也。」

[※『正法眼蔵随聞記』より]

自分が病気であるから、その病を治してから立派に修行しようと思うのは、ヤル気が無い証拠である。

いつまで経っても、そのままである。

> ヒルティは「本を書くならまず第一行を書け。準備ばかりしていると、いつになっても出来上がらないぞ」という主旨の忠告をしている。

 

‥‥ スイスのカール・ヒルティ『眠られぬ夜のために』から、私はキリスト者の道を学んだ

渡部昇一からは、途轍もなく冴えた頭脳をもつカソリック神父・岩下壮一を教えてもらって、光る人を知り得たことに恩義を感じている

つつしんで哀悼の気持ちを捧げます

あなたの、インテリ心をくすぐる読書話はすこぶる面白かったです

ご両親が学のある人ではなかったのに、学問の家に生まれ育ったわけでもないのに、自助努力の末、ヒルティ式の「仕事をする技術」を絶え間なく実践されることによって、よくぞ知識人の先頭を切って走られるまでの見識を獲得されたものだとやおら尊敬の念を抱かずにはいられない

地方の野心家も、正見を志すことで晩年なかなかの境地に到達するものである

庄内人には、「死して後已む」の精神が脈々と受け継がれているよーです

 

●  楽しみな番組予告

[2019-09-02 00:14:20 | 王ヽのミ毎]

『つぶれない店』にて、昭和に有名だったお米「ササニシキ」の今を取り上げていて、興味深く拝見した

うちの山形県の海沿い(庄内地方)でも、昭和の頃は田んぼ一面ササニシキを植えていたものだったが……

コシヒカリの粘り気があり冷めても美味しい処に押されて、いまやほとんど作付けしている農家さんを見なくなった

実際、日本海沿いで新潟県との県境にある温海温泉(こないだの日本海沖地震の被災地)には、新潟県からササニシキの買い付けに来る人々が結構いたとゆー話を地元の人から聞いたことがある

「コシ」はもち米みたいに粘って旨みも強いが、毎日食べるのはあっさりおいしい「ササ」が好いとゆーのが、買いに来るお客さんの生の声だったそーだ

その「ササ」が、宮城県のお寿司屋さんで採用されているのが大変嬉しかった

 

そんな「ササニシキ」の様な飽きない味わいのある御仁が遂にテレビに登場する

嬉し〜い

庄内の誇る名将の御披露目となろー

 

>9/4 (水曜)10:30

NHK総合 歴史秘話ヒストリア

「西郷と最後まで闘った男」

 

[番組内容]

日本最大の内戦「戊辰戦争」。

この戦いで強大な明治新政府軍に一度も負けなかったサムライがいた。

山形・庄内藩の酒井玄蕃(さかい・げんば)だ。当時20代の若さで美男、しかも無類のいくさ上手でもあった玄蕃は、固い決意と「北斗七星」の隊旗(破軍星旗)のもと戦い続ける。

ナチスドイツの逆卍(ハーケンクロイツ)が右回転で、正卍の左回転と反対の意味を持つように、逆さ北斗七星旗は、「破軍星旗🚩」と呼ばれ、進行方向を破軍星にとらせることに特別な意味があります。

北斗七星は、人間の生死を司るとされ、7つの星一つ一つに名前があります。「貧狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、破軍」。北斗七星を柄杓に見立てると、柄の先端部分に当たる星が第7星の「破軍星」で、戦さを司る神であることから、「破軍星に向かって軍を進めると必ず負け、逆に破軍星を背にして戦うと必ず勝つ」という信仰が生まれました。日本にも「七星占(しっしょうせん)」として伝わっているそうです。そうした謂れから、酒井玄蕃自身は軍事を司る「玄蕃」を代々継ぐ家系だけに、自分の指揮する庄内藩二番大隊に、北斗七星を上下逆さにして一番上に破軍星を戴く「破軍星旗」を掲げたのです。

つまり敵軍が玄蕃軍に向かうときは、破軍星に向かって進軍することになります。逆に玄蕃軍は破軍星を背にして戦うことになるわけです。

玄蕃の「破軍星旗」は実物が遺っておりますが、1.5m×2mの巨大な長方形の旗です。青地に金色の逆さ北斗七星、真紅の縁取りに真紅のフリルが施された、戦場では一際目立つド派手な軍旗でした。】

 

劣勢の旧徳川幕府軍で唯一負け知らずだった玄蕃たち庄内軍。それは敵だった西郷隆盛をも動かし、敗者庄内の運命をも悲惨な東北・戊辰戦争での胸がすく秘話を紹介。

 

‥‥ まー、ね

こんな日が音連れよーとは思いも寄らなかった

出陣した戦さのすべてに勝ったのに、【全勝したのに敗将】と呼ばれる悲運の武将・酒井玄蕃……

このかたは、若くして亡くなった、毒殺された説(佐藤賢一『遺訓』等参照)もある

漢詩を詠み、篳篥(ひちりき)を奏し、書は書家となった実弟よりも達筆なのに、武芸十八般の兵法家、正味のいくさ人……

徳川四天王の庄内酒井家では「敬家」と呼ばれる名門(徳川宗家で言ったら、御三家・御三卿のよーな感じ)の生まれで、軍事を司る役職名・玄蕃を代々名乗る

まー、石坂浩二似のイケメンである

 

『幕末雄藩烈伝』を著した歴史作家伊東潤さんは、庄内藩二番大隊長・酒井玄蕃にはやくから注目して下さっていて……

楠木正成と真田昌幸とならぶ「日本三大軍略家」の一人とまで述べられているんです

彼の破軍星旗(逆さ北斗七星旗)にちなんで、哲学漫画『北斗の拳』の登場人物にかさねると……

酒井玄蕃は、南斗六聖拳の盲目の戦士「仁星のシュウ」になんとなく似ている

少年兵の捕虜を助けたエピソードがある。

[※ この少年は後年、奇しくも総理大臣・小磯国昭の叔父さんとなり、小磯国昭自伝『葛山鴻爪』に「酒井玄蕃」の名を刻むことになる]

 

ーこのたび、満を持して、庄内の偉人・歴史に埋もれた蓋世の英雄がテレビで取り上げられることと相成った

こんなに待ち遠しいのは、初代『仮面ライダー』の本郷猛が急に出なくなり、二号ライダーの一文字隼人の《変身》に熱中しながらも、本郷にどーしても逢いたいと熾烈に思っていたときに……

ショッカーを追って外国に行った設定の本郷猛が急遽帰国 、強敵・スノーマンに二号と共に戦う回を迎えた時以来の興奮であろーか

番組冒頭のスノーマンとの戦闘シーン(なんとライダーキックを弾き返される)のあとに、土煙りの中、本郷猛が背広姿で端正に脱力して歩みを進めるシーンから受けた衝撃はいまにして忘れられない

懐かしき本郷は、達人の佇まいをしてふたたび目の前に現れた

今回の酒井玄蕃の歴史秘話ヒストリアも、再現ドラマの俳優の表情もよく、思いやりの武将・玄蕃のあらたな一面に接することの出来るよーな予感がある

 

いいひとだからこそか、はやくにコノ世を去る

夭折の天才は、いつの時代も人々の記憶の中で長生きしている

 

●  戊辰戦争負け組〜 もうひとつの歴史

[2019-09-05 23:17:11 | 王ヽのミ毎]

NHK大河で、会津藩から観た幕末物語『八重の桜』が放映されたとき……

会津の方々は、きっとこんな心持ちで御覧になっていたのかなと今回不図思い致しました

とうとう迎えたこの日、ワクワクしながら拝見しましたよ♪

> 歴史秘話ヒストリア

「西郷と最後まで闘った男」

〜伝説の名将・酒井玄蕃〜

 

‥‥ いやあ、よく描かれておりましたね

凛々しく毅然とした懸け声を放つ若き役者・崎本大海の武者振りが実に佳かったです

端正な佇まい、知性溢るる眼差し、不退転の気迫と覚悟…… 玄蕃の面影が彼の所作に重なる瞬間がたしかに御座いました

34才で亡くなられていますから、今の大海君と同年代です

城下町・鶴岡の古老たち(庄内藩士の子孫)は、いまでも静かな口調できっぱりとこう云ってのけます、

「庄内は、負けて降伏したわけじゃありませんからのぅ」

酒井玄蕃がその子孫に遺言した文中にあったよーに、庄内にとって当時の官軍・明治新政府軍は「賊軍」に他ならなかったのです

 

正史は勝者の歴史、しかし、敗者の埋もれた歴史にも光りのあたる時節が着実に音擦れて来ているよーです

> 庄内藩軍の強さの秘密は三つある。

(1)まず(酒井)玄蕃の戦略・戦術眼と指揮能力が傑出していたこと。

(2)藩軍と農兵が一体化していたこと。

(3)そして豪商の本間家が、財政的にバックアップしていたことだ。

 

この三位一体化したチカラにより、始祖の酒井忠次(徳川四天王筆頭)の名に恥じない武辺ぶりを発揮した庄内藩軍は、戊辰戦争を通じて【全勝のまま終戦】という奇跡を成し遂げたのだ。

[ 伊東潤『幕末雄藩列伝』より

引用文中( )内の補筆は私注による ]

 

‥‥ まー、肖像写真の玄蕃は優男で、肩の力が抜けた自然体で写っているが、かなり剣術も出来たよーだ

最近になってやっとネットで出回り始めた、西郷さんの優しげな眼差しの肖像画は、庄内藩士・石川静正の筆になる油画だが……

この静正翁の父上の石川猪太夫こそ、玄蕃の剣術の師であり、「新九流兵法」を修め、藩の武術師範役も勤める剣の達人であった

玄蕃は、20才で免許皆伝を得ている

京都は会津藩の見廻り組、江戸は庄内藩の新徴組の「御回りさん」が、市中取締り役(今の警察官)を務めていたから……

玄蕃も先頭に立って不逞浪士の輩を日夜検挙していたわけである

天然理心流・三術を網羅する達人にして、北辰一刀流千葉道場塾頭をもつとめた真田範之介とも立ち合っているから、その腕前は相当なものだったろー

東郷隆『我餓狼と化す』によれば、その真田との捕物に際して、玄蕃がつかったのは、室内戦闘用の脇差で大坂正宗と呼ばれた井上真改の作であるそーだ

新九流剣術の他にも、重正流馬術や長沼流兵学も修めている

 

余談だが、玄蕃のご兄弟もまた揃いも揃って「人物」である

御弟の酒井調良は、平核無し(種無し)柿の先駆たる「庄内柿」の開発者(発見者は鶴岡市鳥居町の鈴木重光)で、渋柿ゆえにアルコールによる渋抜きも定着させた御方

妹御の白井久井は婦人活動家で、明治期に女性の働けない時代に女教師となり、いちはやく幼稚園を創立された

下の御弟の黒崎研堂は、日下部鳴鶴に師事した能書家で庄内書道界を牽引された漢学者

そのご子息の黒崎幸吉は、無教会派の内村鑑三の高弟でクリスチャン……

彼が庄内で行った講演を聴いていた鶴岡中学の一学生(長谷川信夫翁)が、その講演に感動して、後年『荘内南洲神社』を酒田市に建立することと相成る(昭和52)

彼の講演での第一声が「君たちは、『南洲翁遺訓』を知っていますか?」だったそーだ

幸吉翁のご子孫に、NHK元アナウンサーの黒崎めぐみさんがおられるとの事

 

酒田は鳥海山文化圏(陽・日)で商人の湊町、鶴岡は月山文化圏(陰・月)で荘内藩士の城下町、京大坂のごとく陰陽相まって庄内は発達してきた

玄蕃たちの武士道の発露を、蔭で支えてきたのは、豪商の本間家をはじめとする平民たちでもあった

所有農地3000町歩、小作人3000人、実高25万石の日本一の地主が本間家であり、吾々の先祖がたは心からの親愛をこめて「本間さま」と呼び慣わしてきたのだ

庄内浜の砂防林に莫大な費用を注ぎ込んだ三代目・光丘翁のお名前は酒田市の地名となって遺っているくらいだ

翁の家訓に「徳は得なり」とある(なんかRさんの言葉みたいだ)

本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に

この俗謡には、庄内の真実の一面を精確に伝えている、あながち冗談で言っているわけではないのだ

 

戊辰戦争では、酒井家は論功行賞には身分を問わず公平なので、商人や農民の町兵も働きによっては、名字帯刀を許すとか褒賞に関して気前がよかった

それゆえ、酒田の街からは裕福な財力をもとに自前の鉄砲持参で戦さに馳せ参じるものも少なくなかったと云ふ

笑い種みたいだが、酒田の町兵は正規の庄内藩兵より装備が充実していて(本間様はロシアやプロイセンの武器商人とも取引があった)……

7連発の米国製スペンサー銃(八重が持っていた銃)とか、英国製のスナイドル銃とか当時の最先端の兵器を抜け目なく手に入れていた

酒田の街衆は、その心意気を大いに買われ、その名も黄金隊と命名され、大いに奮戦されたと云ふ

庄内藩の兵力4500人のうち、商人や農民の町兵は2200人もいて、武家にしたがい一丸となってよく働いたと聞く

酒田は、「西の堺、東の酒田」と云われたよーに、自由な気風で滅茶苦茶活発な処が少なからずある

 

ー徳川家が幕政をしいてより、260年間、庄内の主はずっと酒井の殿様であり続けた

伊東潤さんの云われる、日本藩政史上珍しい「三位一体」は、

酒井家で綿々と培われて来た清廉な武士道、

本間家の仁徳と途方もない財力(公益に対する思い)

高度な農業技術をもった真面目な農民兵とが、

この不思議な地「庄内」で絡み合って醸成され或は精錬され結晶化されたものだと思う

 

ー司馬遼太郎が人気シリーズ『街道を行く』で、庄内地方をあえて描写しなかった、出来なかったのは、いまにして思えば流石に正解だったのだろー

わたしも、いまだに自分の故郷のことがよく分からない、それだけの魅力や秘密がある土地だとゆーことかな

今回の『歴史秘話ヒストリア』は、二回三回繰り返して拝見させてもらいました

いやはや、心ゆくまで堪能いたしました

NHKならではの良き番組です、深く感謝致しております

          _________玉の海草

 


 酒田の本間家〜 志をもった財力

2022-03-02 15:57:08 | 歴史・郷土史

__ 一つ前の記事のコメント欄に、「酒田人の悪相」と書いた手前、写真つきで補足説明して、偉大なる本間家の生き方をサッと素描してみたい。

 

わたしが、酒田人らしい悪相だなと思ったのは、この御方です。

本間祐介(明治40年〜昭和58年、1907〜1983)

荘内日報社の「郷土の先人・先覚117」より引用する。

戦後の昭和20年から50年までの間、本間祐介は酒田の顔であった。その顔は評論家の大宅壮一から【何代もかけてできあがった顔】、と評されたほどの深みのある立派なものであった。

写真家の土門拳の風貌とよく似ており、人を威圧する鋭い眼や、がっしりとした骨格は瓜二つである。

【強面カメラマンの嚆矢かも知らん、土門拳、酒田で育ったわけではないが、典型的な酒田の風貌】

 

__ この悪人顔が、意外にも都会人には評判がいいのですよ。

大谷壮一の人物鑑定眼には、井目おかねばなるまいな。わたしの在郷コンプレックスも大きく作用しているかも知れない。

中町にあった(過去形なのが悲しい)デパート清水屋の顧客になっている酒田の上流層は何か傲慢な処があるんだよね、その反映が清水屋の売り子さんによく顕われていたんですよ。

中町商店街のお店に入っても、売り場の雰囲気が双方向のコミュニティー空間になっていないのね、極端にゆーと「昔ながらの、売ってやるよ」的な商売人のいやみが滲み出ているのよ。過去私が酒田人から受けた非道い扱いが心に染みつき、観る眼を狂わせたものかも知れない。

戦後、日本の軍備弱体化のために行われた「廃刀令」の最中…… 

本間薫山(酒田市)と佐藤寒山(鶴岡市)のご両山が、日本刀の海外への流出を未然に防ぎ、日本刀の鑑定の一指標を打ち出したことはあまり知られていない。

古刀は薫山、新刀は寒山が日本刀研究の権威であった。

古武術家のYouTubeを観ると、刀剣の箱書きに「寒山」の名を見かける。いわば刀剣鑑定の祖・本阿弥光悦の折り紙付き(=お墨付き)の確かな刀剣みたいなもので、戦後の刀剣相場を決めたのはこのお二人であると言っても過言ではあるまい。

【本阿弥家が発行した「折紙」、水戸黄門の印籠みたいな効果があった】

 

この薫山・本間順治は、本間祐介の実兄である。

本間美術館を創設して、「本間焼」を創り出した。

本間祐介・池田退輔のご両所が、著名な陶芸家に弟子入りして、「陶土」をつくり上げて打ち出した長次郎の楽茶碗は、平成9年に「本間焼」と命名された。

実は、わたしも退輔先生のお弟子さんの指導をうけて、作陶したことがある自称孫弟子である ♪

わたしの先生のもとで、退輔先生のやり損ね(釉薬がしたたり過ぎたもの等)はよく手にとって拝見させて戴いた。黒の楽茶碗だったが、そのまろやかで重厚な味わいに陶然とした覚えがある。当時、黒楽一碗50万円だったと思う。

祐介翁も作陶なされていて、あのお顔からは想像できない柔らかな手馴染みしそーな逸品である。

【本間祐介翁実作の赤楽茶碗、意外にもふんわりと温かみがある】

 

酒田の本間様(地元の者は、今でもこうお呼びする)は、たんに大地主であるだけではないのだ。

打ち続いた飢饉の折には、自らの蔵に貯蔵していた米俵2万4千俵を民衆に放出したり(お蔭で餓死者はひとりも出なかった)、鶴岡の酒井の殿様を援助したり、戊辰戦争では多量の最新鋭鉄砲を購入して荘内藩を後方支援したりなさっていた。

酒田の日本海沿いに延々と広がる砂防林を造ってくださったのも本間さまである。

近年では、財団法人『荘内育英会』も、『光丘文庫』も、本間家の真精神を端的に世に顕したものであるなあ。

 

本間祐介遺稿『無為庵覚書』より、ちょっと豪商・本間家の内情を窺ってみよー。

> 本家の伯父(光弥氏)が、

ザリコールとかいう病気に冒され、慶応病院に入院治療されていたので、…… ()……

暑いさかりの七月下旬の朝まだき54歳を一期に人生の幕を閉じられた。

これは後に聞いたことであったが、臨終の迫ったことを察して、伯父は看護婦に手伝わせて衣類を正装に整え、皇居の方に向かって正座して遥拝し、故郷にも向かって有難うと言って、間もなく引きとったということであった。

 

> この伯父さんを霊柩列車で酒田に送り、盛大な葬儀の行われたことは当然であったが、この時、宮内省の角楠さんという建築の博士から贈られた弔歌を今も忘れることはできない。

「天も泣け 地も泣け 出羽よ最上よ 国の主を失いせしこの日よ」

と記憶するが、実際光弥大人の生前は一庄内などということではなく、県全体としての主というに相応しい存在であった。

 

> 本間家先代光正氏のこの戦争(第二次世界大戦)に対する協力の態度は、さすがに見上げたものがあった。

陸海軍に飛行機を一機ずつ献納したのを始め献金のこと、その他寄付のこと、そんなに激しく献金をやるんでは本間家の財産は何も無くなるでしょう、と申し上げたら国が亡んで本間のみが残って何になるんだと叱られたことがあった。

が代々の本間の精神からいえばいかにもと思った。

 

__ ザッと祐介翁の遺稿に目を通すと、その高い見識と代々受け継がれてきた真精神にぐーの音も出ません。

かの「庄内竿」の名品を一手に集めた釣具屋でもあり、城下町鶴岡とはまた違う風流が酒田にも息づいていたのが見てとれる。リール竿とのせめぎ合いが、かえって酒田からリール竿を発信することを促したりする展開は、庄内武士道の裏芸であった「釣り」の盛衰を左右したりしている。

「庄内竿」については、博学無比の今東光が、本間家の土蔵に設置された「庄内竿」独特のメンテナンスを釣り雑誌に紹介して、世間の釣りバカをいたく刺激したものだ。

本間家では、長い庄内竿を何本も壁一面に横に寝かせて、一時間毎にクイッと竿の軸を回すのだそーだ。そーして偏りなく均等に「まっすぐな状態」で竿が保管されるよーに管理したとゆー徹底ぶりが如何にも風流だと、豪商本間家を称えた寄稿であった。

わたしたち庶民はうすうすながらも本間家の度外れた最先端への探究心(マーケティングなのかも?)や天下人的な見識を感じとったからこそ、別格扱いで「本間さま」と呼び慣わしたものと思います。

本間一族の有名人の風貌もついでに挙げておきましょー。

 

【酒田ナンバーワンの色男、本間郡兵衛、葛飾北斎の弟子で号は「北曜」、あの集合写真のフルベッキお気に入りの一番弟子で、英語もよく出来たので薩摩藩の英語教師となった。残された資料からは、ジャニーズ張りにモテたのが伝わってくる。北斎の娘さんのお栄(葛飾応為)とはどーだったものか?】

 

【いわずと知れた、相場の神様・本間宗久。本間家の代々受け継がれた家訓から云えば、宗久翁の相場で儲けるやり方は邪道であった。分家筋の宗久の出世は必ずしも歓迎されなかったわけである。相場で稼いだその莫大な蓄財を、本家の本間光丘翁は庄内浜の破防林に注ぎ込んでチャラにしたのではないかと憶測している。本間家の徹底した奉仕精神は「武士道」にも劣らぬ潔さがあって、なまなかの心境で為せるものではない。】

 

庄内人は、人と話をするのに悪口から入るとゆー位に、人をよく見て疑ってかかる批判的精神を身につけてきた。そんな庄内人がすすんで「ほんまさま」と口にするのは並大抵のことではなかっただろー。表に出ない歴史があったことと思う。

戯れ歌とはいえ、その地位(菩薩位とゆーべきか)は酒井の殿様よりも遥かに上と庶民から認められている。

「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」

 

追伸;昭和の20年頃かしら、酒田の山王祭りの際に、本間家の本家の門前で舞う「奴振り」は、観音寺の町奴と決まっていたそーである。格式高く華やかで難しい奴振りが本間様から評価されてお呼びがかかり、私の親父世代はその晴れ舞台を随分と誇らしく思っていたと云ふ。

          _________玉の海草