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そして紅茶の海を行く

お絵かきと自転車と写真が趣味のナオミア、福岡に移住。

お月さまが紫陽花になった話

2007-06-20 23:29:56 | 創作
夏至ちかい夕暮れです。まだ新月なので、本日のお役目は夕方の空をちょっと飾っておしまい。気が向いたお月さまは、先日アイルランドの牧場で買ったばかりの、群青色の小さな傘をぱっと広げて、メリーポピンズみたいにぴょ~っとまっすぐ地上へ降りて行きました。
そして青いガス灯の並ぶ土手に革靴のかかとをそろえて降り立つと、ポケットから煙草とライターを出して一服。あたりには月見草が黄色い花を咲かせています。お月さまは鼻歌を歌いながら、のんびりと土手の上を歩いていきました。頭上には小さな星々がきらきらしはじめています。なかなか気持ちのよい初夏の晩です。

そこへ、犬の鳴き声が聞こえたかと思うと、ガス灯に照らされて、灰色の犬がこちらに走ってくるのが見えました。その後ろから追いかけて走ってくる少年の姿もあります。
「ディライト!待ってよ、速いよ!!」
「わん、わん!」
そしてお月さまがおやおや、と思う間も無く、灰色の犬はおつきさまに飛びついたのです。つかの間の抱擁。がし。
とはいえ実はお月さまは犬が苦手。こんなときのためにいつも用意しているマシュマロも、今日は持っていません。腕の中に飛び込んできて、しっぽを振っているこの生き物をどうしたらいいのかと思いつつ、火のついた煙草を落とさないよう注意していました。
その時、犬の飼い主らしい少年が、驚いた顔でおつきさまを見つめて叫びました。
「・・・後藤君!」
「?」
「後藤君じゃないか!久しぶり!ぼくだよ、佐原だよ!」
「??」
少年はしゃがんで犬を抱えているお月さまに向かって叫びました。
「なんだよ、僕のこと覚えてないの?ほら、夏期講習で隣の席だったじゃないか、いつだったかあんまり天気がいいんで、一緒に授業をサボって坂の上の喫茶店に行ったろ?」
お月さまはよ~く考えましたが、思い出せません。
「君ったら、カプチーノに角砂糖を5つも入れるんだもんな、忘れようが無いよ」
「・・・・」
確かに、お月さまは実は甘党で、コーヒーを飲むときは角砂糖を5つは入れないと気が済まないのでした。しかしこんな少年は知らない。そこまで考えこんでお月さまはハッと気が付きました。
「人違いですよ、僕はゴトウなんて名前じゃないもの」
「人違いなもんか、絶対後藤君だって、な、デイライト」
「わん!」
「それに、いつも駅まで迎えに来るデイライトに、マシュマロくれたじゃないか」
お月さまは困ってしまいました、それで立ち上がると、かすれた声で「いや、人違いですよ」というと、走り出しました。
「後藤君!」
「わん、わん!!」
お月さまは一生懸命土手をかけおりましたが、灰色犬のデイライトが追いかけてきます。お月さまは怖くなってきました。急に走ったのでわき腹も痛いし、濡れたようなつめくさの斜面を駆け下りるには革靴がつるつるして転げてしまいそうです。それでお月さまはあわてて蜜蜂になりました。蜜蜂になって一目散に土手のしたの茂みに逃げ込んだのです。そこにはひっそりと紫陽花が咲いていました。
蜜蜂になったお月さまは、紫陽花の影で息を潜めていました。灰色犬のデイライトは、お月さまのかくれている紫陽花の傍までやってきます。お月さまは恐ろしくて仕方が無くなって、とうとう紫陽花の花になってしまいました。
デイライトの鼻でもこうなってはお月さまの行方はわかりません。くるくるとそのあたりを廻ると、やがて土手の上の少年の所へ駆けてもどりました。
お月さまが青い花の陰から覗くと、ガス灯の下に立ってこちらを見ている少年の様子がはっきり見えます。でも少年もやがてあきらめたらしく、デイライトを連れて、土手を通り過ぎて行きました。

お月さまはそれから、紫陽花の花になったままひざを抱えて、あの少年に会ったことがあるかどうか、一生懸命思い出そうとしました。もしやあれがオレオレ詐欺というヤツだろうか・・・いや、それにしては角砂糖やマシュマロの事を知っていた。そして考えれば考えるほどお月さまは、どこか小さな町の夕暮れの駅前で、灰色の犬にマシュマロをやったことがあるような気がするのです。
夜が白んできます。じっと膝を抱えて首をかしげたまま、紫陽花の花の中でお月さまは泣きたくなってしまいました。



ちょっぴし「一千一秒」風に(^-^)

ナオミアと不思議な帽子(ムクドリの野外工場編)前編

2007-04-28 01:42:23 | 創作
朝起きると、空が青い。良い天気です。ベッドの脇の窓を開けて、寝ながら空を眺めるワタクシ。こういう日はピクニックに行くにかぎる。
最近一人ピクニックをよくします。ピクニックと言っても、お茶とお菓子かパンを持って近所の土手へ行き、芝生の上でのんびり編み物をするというもの。特に先日発見したばかりの「三本やなぎ」がお気に入りの場所です。
三本やなぎは柳が3本、川っぺりに並んで立っている場所。目の前は緑の芝生が広がっていてお休みの日はキャッチボールやバトミントンをする人で賑わう広い土手です。すぐ傍に鉄道の橋が通っていて電車の音が大きいのがちょっと難点。
でも電車の騒音の過ぎたあとの沈黙と鳥の声がますます素晴らしいので、特にお気に入りの場所なのでした。
朝ごはんを食べた後、早速バスケットに紅茶と昨日友達に貰ったキットカットを入れて自転車に乗り、3本やなぎへでかけました。今日は平日なので空いているに違いない・・・と思ったのですが行くと先客が。たくさんのムクドリです。でも私は一応ニンゲンなので図々しく割って入るのでした。ゴメンネ。

木の根元に自転車を止め、木陰にレジャーシートを敷いて、編み物を始める前にちょっとごろん。柳の葉が柔らかくゆれるのが青空に映えて優しいこと極まりない光景。
お日様の光がちょっとまぶしいので、このまえ編んだベレー帽を顔に載せて目を閉じ・・・耳を澄ますとさわさわと葉ずれの音がします。それから時折通り過ぎる船の音、そして電車の騒音。さらにその規則正しい音にかき消されないくらい騒々しく鳥が鳴いています。そのまま目を開けると、ベレー帽の編み目ごしに柳の葉がぼんやりと夢のように見えるのでした。
「なかなか素敵な帽子ですね」
「はいッ!?」
急に声がしたのであわてて顔を上げると、いつのまにか黒いスーツを着た40代位の男の人が傍らに立っていました。
「ほう!しかもなにやら魔法がかっているようですねぇ」
「は?」
「私の言葉がわかるとは」
そういってスーツの人はにやにや笑うのでした。怪しい人だったらどうしよう。犬の散歩でもなさそうだし。
「失礼しました、私○○と申します。本日この地域での空織りを担当しておりますムクドリたちの責任者をしております」
○○というのは伏字ではないのです。そこだけ急に甲高い鳥のような声を出したので聞き取れなかったのです。
「ソラオリ?」
「空を織っているんですよ。実は昨日が春の空の納期だったんですが、間に合わず、一部・・・ほら、あのあたりを雲で隠してごまかしている状況でして、今急ピッチで仕事を進めているしだいなんです」
と、そのなんとかというセキニンシャさんが指差した方を見ると青空のそこだけ薄い白い雲で覆われています。空を見上げた私がそのまま視線を下に移すと、いつのまにか目の前の芝生にずらりと織機が並んでいて、たくさんの人がぱたんぱたんと青い布を織っているところなのでした。ビックリ。
「すみません、ここを使うんですね、お邪魔しました」
言ってる事はよく分からないけど、とにかくこんなところで昼寝している私は邪魔らしいと気が付き、あわてて立ち上がりレジャーシートを片付けようとすると、セキンシャさんはそれと止めるように言いました。
「いえいえ・・・ところでもしも時間があるようでしたら・・・よろしければ手伝って下さいませんか?空織り。手が足りなくて困っているんです。お礼はいたしますから」
「ええ?」
私は驚いて織機を振り返りました。広い芝生に織機は50台位あるようです。ビリヤード台のようにきちんと並んでいます。その隅の4台ほどが織手の無い状態です。
「でも、はた織りなんてしたことないです、腕力もないし・・・」
「簡単ですよ。それにウチの織機は軽くて、腕力なんて必要ありません、お願いしますよ」
「・・・・・・」
今日は暇だし、セキニンシャさんは困っている様子だし、やってみたい気がうずうずしています。とにかく私は子供のころから一度はた織りというヤツをやってみたかったのです!たのしそうだよねぇあれって!(笑)
「じゃあ・・・すこしだけ手伝ってみたいです」
ついそう答えてしまいました。
(後編へつづく)

ナオミアと不思議な帽子(ムクドリの野外工場編)後編

2007-04-28 01:39:35 | 創作
さて、帽子をきちんとかぶって、セキニンシャさんにいざなわれて織機に座ると、綺麗な青い糸が既に張られて途中まで織られている状態でした。
「ここをこうやって・・・足でここを踏んで、この杼をこの間に通すんです」
「ひ?ああ、この糸の巻いてあるヤツですね・・・こう・・・ですか」
「お上手ですよ!」
おだてられて、気分良く織機を動かし始めました。これは楽しい!ぱたんとんぱたんとん音がして糸もぴんと張られていて何か楽器を扱っているみたいです。それになんて綺麗な青い糸なんだろう・・・まさに春の空の色。みずみずしい薄い青には濃いところも薄いところもあって、それが織られていくにしたがって、織機の上に青空ができあがっていくのでした。
セキニンシャさん遠くで織機を扱っている人に呼ばれていきました。納期が遅れているというワリにせっぱつまった感じではありません。周囲の人たちは隣の人と楽しくおしゃべりしながら機織を動かしています。明るい話し声は時々チューナーが狂うみたいに鳥のさえずりに聞こえます。時折電車が鉄橋を渡る音がします。この野外工場状態、電車に乗っている人からは丸見えの筈だけど、何事?と思われないのかしらん。
しばらくするとセキニンシャさんが戻ってきました。
「どうです?上手く行ってますか?」
「ええ多分、それにしても・・・すごく綺麗な糸ですね」私は手を止めずにつぶやくように言いました。
「そうですか?そうでもないです。なにしろ東京の空ですからね」セキニンシャさんは織物の出来をさりげなくチェックしながら答えます。
「昨年の春の終わりの綿雲を使っているんですよ。梅雨の晴れ間のなるべく空の綺麗な日に雲の綺麗なところを選んで紡ぐんですが、最近はなかなか澄んだ色の綿が取れなくて」
「これ、雲を紡いでるんですか?青いですけど・・・」
「空の近くへ上った雲は青く・・・空の色に染まるんです、ご存知ありませんでしたか?」
「・・・知りませんでした」
青く織りあがって行く布を眺めると刷毛で描いたような白い雲も浮かび上がっています。しかも・・・どうやら動いているようだ・・・
「あんまり覗き込むと空に落ちますよ、これはプラズマテレビとは違いますからね」
セキニンシャさんが言ってはっはっはと笑いました。どう反応していいものやら。
「出来は上々ですな、はじめてにしては上手いですよ。その調子でお願いします」

もともとこういう作業は好きなので、その後は出来上がっていく空色の布を見ながら黙々と仕事に励むワタクシ・・・ついつい機織の音に合わせて鼻歌も出てきます。最近図書館で借りて聞いている遊佐未森とか・・・ハッ!もしやこのまんまトリになっちゃいそうな気が、いかんいかん。
「あなたニンゲンなの?」
となりの女の子が声をかけてきました。
「はい多分」と私が答えると笑っています。多分、というのがおかしかったみたいです。
「あなたがたはムクドリなんですか?」
「多分そう」くすくす。
「ムクドリが織機で空を織ってるなんて知りませんでした」
「あら、鳥ならみんなするわよ、はた織。ニンゲンも知っていると思っていたけど」
「そうなんですか」
「『鶴の恩返し』とか『織姫』とか、お話あるじゃない」
なるほど言われてみればそうだ。
「あれ?でも織姫も鳥なんですか?」
「織姫と彦星のベガとデネブは白鳥座にあるでしょ?」
そうなのか?どうなんだ?しかしみんな都会の鳥だからか、人間の事情に詳しいムクドリたちなのでした。感心です。その後も、近くのいい感じの公園とか、おいしいケーキ屋さんを教えてもらいました。どうやらすぐ近くには私の知らない図書館もあるという話。今度行ってみよう。
そんな風に織っているうちに日が暮れて来ました。気が付くと織られている布も夕日の色に染まっています。へええ、この布、日も暮れるのか!・・・って空なのだから当たり前なのですが。織りながらちょっとまぶしい。輝く空に金色の雲が流れ・・・このままだとやがて星もでてくるのかしらん。ドキドキしながら眺めていると、『夕焼けこやけ』の曲が聞こえました。地元の自治体が流している5時の時報です。
とたんに、ばたばたばたとたくさんの羽ばたきの音がして、風で吹き飛ばされたみたいに機織もみんなの姿も見えなくなってしまいました。
広い芝生にぽつんと私は取り残された私。ええッ!?
見ると空をたくさんのムクドリが飛んでいます。やがて一匹が、呆然と立っていた私の足元に降りてきて、小さな姿に似合わぬセキニンシャさんの声で言いました。
「今日はありがとうございました、おかげでほぼ、仕事が終わりました」
声が小さいのでしゃがまないと上手く聞き取れません。しゃがんで耳をすませると、あとから4羽ほど何かをくわえて下りて来ました。
「もうしわけありませんが、報酬にこれを受け取っていただけると幸いです」
みると鳥たちが運んできたのはさっきまで機織に使っていたきれいな糸の束です。
「え?いいんですか!?ありがとうございます」
「ざんねんながら現金は持ち合わせがありませんので・・・」
「いえ、嬉しいです。あんまり綺麗なんで欲しいなと思っていたんですよ」
「ま、あまり人間世界で出回っている糸ではありませんからね」誇らしそうに胸をそらすムクドリのようすは確かにセキニンシャさんのようです。黄色いくちばしがカワイイけど。
「ではまた機会がありましたらよろしくお願いします」
セキニンシャさんと4羽のムクドリたちはそう言って飛んで行きました。私も貰った糸を大事にバスケットにしまって、冷めてしまったお茶を一口飲んでから、自転車に乗って帰ってきたのでした。
織機は持っていないので、貰った糸は編み物に使うつもりです。何か編んだらまた写真をUPします。なかなか楽しい一日でした。これだから一人ピクニックはやめられません。

月とヴァイオリンと粋人君の失われた6時の物語

2007-01-13 01:24:38 | 創作
三日月は地平線に沈んだばかり。辺りは青く輝く夕暮れです。粋人君はマフラーをぐるぐる巻いて日の暮れた公園を歩いていました。やがて公園の街灯がぱぱぱといっせいに灯る刹那、どこからかヴァイオリンの音が聞こえました。なんだろう?と思って粋人君が音の方へ行ってみると、クリスマスの電飾の外された大きなもみの木の下に、お月様が一人ヴァイオリンを弾いています。細い三日月な横顔。
お月様はヴァイオリンがなかなか上手なのでした。粋人君は立ち止まって聴き入りました。お月様は片目を開けてちらりと粋人君をいちべつしました。愛想も無く。ですが、粋人君という観客の登場に気を悪くしていないことは、その音色でわかりました。

それにしてもなんという素敵な音楽だったのでしょう、粋人君は寒いのも忘れて草の上に座りました。そして気が付くと、本当にもうあまり寒くないのでした。音楽は群青色の空にそびえるもみの木を中心にして、ぐるりと地球に響いていました。まるでオルゴールの中にいるようです。さすがお月様!と粋人君は思いました。並みの演奏じゃないな。それに音色も素晴らしい、きっとあのヴァイオリンは噂に聞くストラディヴァリウスというやつに違いない。そして曲が途絶えるたびに拍手しました。
お月様は気を悪くした風ではなく、黙々と色々な曲を弾きました。懐かしいような、ですが聴いたことの無い曲ばかりでした。粋人君はうっとりと聴き入りました。時を忘れるほどに。
とはいっても、そう長くは忘れては居られなかったのです。それは粋人君のおなかが鳴ったからでした。今何時だろう?と粋人君は思ってポッケから銀の鎖のついた懐中時計をとりだしました。針はもうすぐで6時になるところでした。
粋人君が立ち上がると、お月様はふ、とヴァイオリンを弾く手をとめました。
「君、どこへいくんだね」
「帰るんです、もう夕飯の時間だから」
「夕飯?」
「僕のうちは毎晩6時きっかりに夕ご飯なんです。今夜はおいしいえびじゃがコロッケなんです」
粋人君の言葉を聞くとお月様は眉間に皺を寄せました。
「ほう、そのえびじゃがコロッケというヤツは、僕のヴァイオリンよりおいしいのかね」
「ええ、何しろ手作りなんです。妻が揚げてくれるんです。まずジャガイモをふかしてマッシュポテトを作ります。それにマヨネーズとえびを混ぜて、それから衣をつけて揚げるんです。あつあつでとてもおいしいんです」
粋人君は想像してつばをのみました。
「なるほど、だがせっかくの縁だ、もう少し聴いて行き給え」
お月様は当然のように言います。愛想も無く。粋人君は困ってしまいました。
「でも6時きっかりに出来るんです、早く帰らないとあつあつでなくなってしまいます」
お月様は肩をすくめてだまりこみました。粋人君はぺこりと頭を下げました。
「素敵な演奏ありがとうございました、じゃあまた・・・」
そのときですお月様はフェンシングのようにヴァイオリンの弓をすばやく振りました。するとポケットの中で、粋人君の時計が打ち震えました。びりりと。お月様はにやりと笑って言いました。
「だがねぇ君、もうえびじゃがコロッケはさめてしまったと思うよ、だって今7時だもの」
粋人君はあわてて時計をポケットから取り出しました。そしてびっくりしました。なんと文字盤から6時が無くなっていたのです。(昨日の写真参照)

「お月様!6時をどこへやってしまったのですか!」粋人君は思わずさけびました。
「6時?なんだねそれは?」お月様は知らん顔でけらけらと笑うともう一度ヴァイオリンの弓を振りました。するといつの間にか懐中時計は、こんどはお月様の三日月たる横顔の、おでこ・・・角と言ったらいいのでしょうか・・・そこにぶら下がっていました。
「返してください!」粋人君は言いましたがお月様は知らんふりしています。粋人君は、なんて身勝手なお月様なのだろう!と思いました。そして怒りに任せて言いました。
「例え7時でも僕は帰ります。食べ損なうよりマシですから!」
そして(6時の失われた時計なんてくれてやる!)と思いながら、ずんずん30歩ばかり歩きました、でもふと気になって振り返ってみると、お月様はうなだれてもみの木の根元を見つめていました。ぽつんと青白く、はかなげな光は今にも消えてしまいそうです。粋人君はハッとしました。お月様もああ見えて、実は寂しいのかなと思ってしまったのです。
「・・・じゃあ・・・もうちょっとだけ聴いて行きます」
思わず粋人君は引き返してそう言っていました。
「でも10時までには帰りますよ、いつも10時までには必ず帰るんです。10時をすぎると心配した妻が警察に電話してしまいます」
おつきさまは、うつむいたままフン、と言うと、もういちどヴァイオリンをかまえました。愛想も無く。ですがその横顔はちょっぴり嬉しそうに見えたのです。それで粋人君も気分を良くして、鞄からチョコレートを取り出して食べ始めました。お月様のヴァイオリンを聴きながら食べるチョコレートはかくべつでした。まるで音楽を食べているようなのです。なんと絶妙な甘さ、なんと拡がりのある香り。

やがて気が付くとお月様はいませんでした。(僕は断じてコンサートで居眠りする人間ではないのだが)と粋人君は思いました。空にももちろん月は無く、星がいっぱい光っています。寒気にぶるっと震えて粋人君は立ち上がりました。もみの木の枝に懐中時計がぶら下がっています。そしてその時計はやっぱり6時がなくて、9時が2つあって、もうすぐ10時になる所だったのです。