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とりとめのない考察

最近は政治関係の発言が多めです。

民間教育再生会議。

2006-12-18 19:25:19 | 教育。
政府の教育再生会議を支援することを目的として、日本教育再生機構が主催する民間教育再生会議というものがあることを今日になって知ったのだが、先月末に開かれた初会合では、いじめ問題を中心に同機構の役員40人が活発に議論し、家庭教育の充実や教員の威信回復などを訴えたということである。
あくまで支援が目的で、この会議自体に実効力があるというわけではなさそうだが、それゆえに教育を再生するという最大の目的のための提言を、政府の教育再生会議よりも踏み込んで行っている。
「個人の欲望を中心とする教育を改め、公に奉仕する精神を取り戻すべき」「倫理道徳の教育は外国では宗教から来ている。道徳教育の本当の出発点はどこにあるのかを議論すべき」「愛情のこもった体罰を復活させるべきだ。中学生までは厳しく規律を教え、教員の権威を高めることが必要」「日教組支配を断ち切らなければならない。教師が生徒をいじめ、教育委員会や学校が教師を守って子供を犠牲にする現状がある」「いじめを跳ね返す力がなくなっているのは“小さい自分”に固執しているからで、“大きな自分”を育てるべき」「原因は家庭が崩壊したことにある。『いただきます』を言わせない親、給食費を払わない親は問題」など、教育に反映させるべき提言が多く見られた。
政府の教育再生会議は、「有識者」の中におよそ教育再生の見識を持っているのかが疑わしい人物もまぎれていて、再生のために必要な提言が彼らの反対、もしくは消極意見のために形を変えて無力化してしまったりしている。
戦後行われてきた教育の姿勢が問題になっている現状において、問題点を直視せずに過剰に与えられた生徒の権利や日教組の影響力を維持しようとするのは大きな間違いだ。
民間教育再生会議の提言が、政府の教育再生会議に与える影響は多くはないかもしれないが、しかしこういった提言が、実際に教育に関わっている教員やそれを受ける生徒とその家庭に広まっていけば、教育を再生するという機運も高まるであろうし、日教組の不当権利の排斥にも繋がっていくかもしれず、その効果に期待したところである。


読書や挨拶は有効ではあるが。

2006-12-09 16:22:21 | 教育。
教育再生会議は9日、都内のホテルで前日に引き続き、来年1月下旬に公表する中間報告策定に向け、3つの分科会による集中討議を行った。
「規範意識・家族・地域教育再生」をテーマとする第2分科会では、主に「子供の心の成長」について議論し、中間報告ではいじめ問題を柱に据えて提言することを決めた。
討議では、社会や他人への奉仕の精神、優しさ、友情、勇気、親孝行などといった「徳目」を身につける上での読書の重要性が改めて指摘され、具体的には一部学校で実施されている始業前10分間の「読書の時間」を全国普及することなどが目指される。
また、礼儀作法などの「形」を学ぶことで「心」も養われるという意見が相次ぎ、登下校時や給食時のあいさつの督励も含め、学校現場に浸透・普及させていく方向となった。
読書の時間を設ける事には異論はなく、よい題材を取り扱った本を一定時間読ませることでなにがしらの効果が生まれないとも限らないが、ただ徳目を身につけるためにはこれだけでは到底及ばないことも間違いなく、教育再生会議には生徒に行わせることである読書以外にも、教師が学校でとるべき態度についてや、子供の育成には最も大きな影響を与えることになる家庭教育の崩壊への対策など、やってもらいたいと思うことは山ほどある。
しかしこういう教育を正そうとする動きに反対するのが日教組で、教育再生会議が徳目育成のための読書や心を養うための挨拶を普及させようとも、授業でそれをぶち壊すようなやりかたを混ぜ込んだり、金をもらっている以上サービス業であるから生徒に逆らってはいけないという姿勢を変えなければ、全体の方向性が定まらずにいびつな考え方を育てることにもなりかねない。
日教組という組織が、現状の発言力を維持しながら教育現場で幅を利かせている限り、教育再生会議の提言も意味をなさなくなる。
教育再生の本当の要となるのは、建て直しのために様々な提言を行って実行することよりも、こういった教育機関に根付いた癌細胞を地道に取り除き、またその洗脳下に置かれた人間を正気に戻すことなのかもしれない。


崩れていく教育。

2006-12-08 20:44:58 | 教育。
教員の評価を児童や生徒が行うというのは、どう考えても本末転倒であると考えられるのだが、教育再生会議はそうは思っていないのだろうか。
政府の教育再生会議が来年1月にまとめる中間報告の素案に、「児童・生徒らによる教員評価」が盛り込まれたらしく、「ダメ教師の排除につながる」という期待がある一方、教育関係者からは「子供や保護者に迎合する教員が増えてしまうのでは」という慎重論や批判が相次いでいて、教育再生会議では8、9日に都内で合宿審議を開き、議論する。
普通に考えて、物事をしっかり判断できる成人であるならともかく、まだ甘えが抜けきっていないような児童や生徒に、厳しい指導や教育を行う教師と怒りもしないし逆らいもしない、子供のわがままに素直に従う教師のどちらが好ましいかと聞けば、ほとんどは子供に都合のいい教師という答えが返ってくるだろう。
教育の現場において子供をまるで神聖視するかのような風潮が続いているようだが、そもそも教育は教師が絶対的な立場に立って児童生徒に対して指導を行う場所であるべきで、保護者がごちゃごちゃ言おうともその一線は譲ってはならないはずであったにもかかわらず、現状では保護者の非常識な文句を受け入れることで評価を得ようという姿勢が根付いてしまっていて、とてもではないが教師の指導力が発揮できなくなっているというのに、さらに追い討ちをかけるように児童生徒に教師の能力評価の権利を与えてしまえば、教師は教育の現場においていなかる権限も発揮できなくなる可能性が高くなる。
政府の規制改革・民間開放推進会議は「教育はサービス」などという世迷いごとをほざいているようだが、教育は義務ではあるがサービスではない。
識字率を含む国語力や基本的な計算能力などの日本の知識水準を維持するために必要不可欠なのが教育であり、学校側が児童生徒の親から金を取っているからサービス業であるなどとはとても言えず、その認識を誤ってしまえば日本の教育は、勉学の部分を学習塾に全権委任し、学校では教師が子供に媚びを売ってお金を戴くだけの組織に成り果ててしまう。
教師の中に、教師の資格をないような素質のない人材が存在するのは明確な事実であり、教育現場から排除していかなければならないこともまた事実であるが、それなら大学で教職免許をカリキュラムをこなせば取得できてしまうというシステム自体の見直しをしなければ意味がない。
教師になる人間に必要なのが、教える能力ではなく教員免許を取得できる能力では、どれだけ教育を見直そうとしても根本の部分から間違っている。
おそらく教育再生会議は、数年から数十年という長期的な視点ではなく、1~2年で何らかの成果を発表できるような短絡的なやり方を採用しているのだと思うのだが、教育現場をまともなものに変えていくためにはそんなやり方ではいけない。
それならせめて成果主義の部分では表面的な改善を掲げ、根本の部分は長期に渡ろうとも確実に改善していく道筋をつけていくやり方をしていかなければ、教育再生会議は教育改革を謳ったただの世論向けのアピール組織という枠組みを超えることは出来ないし、ひいては安倍首相がやろうとしているような教育改革はなにひとつ達成することは出来ない。
児童生徒が教師を評価するようになって「体罰反対」「反抗禁止」「悪い成績をつけるのは悪い教師」「気に入らない教師は出て行け」などとエスカレートしていき、教育が完全に瓦解してからでは遅いのである。


文科相が発した宗教教育への警告。

2006-12-05 20:13:23 | 教育。
伊吹文明文部科学相は5日午前、参院教育基本法特別委員会で、宗教教育のあり方について「日本の国民は宗教心が希薄だ。かなり慎重でないと司法の場で争うようなことになるのを恐れている」と述べた。
政府案の対案として審議中の民主党案16条で「宗教的感性の涵養(かんよう)」が明記されていることへの懸念を表明したもので、さらに「教える人の態度として布教的な態度で教えるとなると公教育の中立性に問題が起きる。(教員に)布教的な意識があるかどうかは(周囲からは)わからないので慎重であるべきだと思う」と指摘し、自民党など超党派の保守系議員が求めていた「宗教的情操の涵養」の盛り込みを見送ったことについても理解を求めた。
宗教的情操の涵養の中には、ごく当たり前に行われている食事前の「いただきます」や食事後の「ごちそうさま」も含まれているという見方がされていて、この文言を排除してしまうとそういった常識的なことも出来ない子供になるという懸念を以前示したことがあるのだが、考えてみるとこれを悪用して教育の中で洗脳活動を行おうというカルト教団の動きが発生しないとは言い切れないということに気づいた。
捉え方は人によって違うわけだから、神道的な考え方を常識とみなすか宗教的とみなすかは異なる見解があり、神棚を家庭から排除することを求めるような創価学会というカルト教団の信者が、ここぞとばかりに学校内で生徒に対して堂々と布教活動を行うことに対する言い訳を与えかねない可能性がある。
伊吹文科相が、実際に創価学会の活動の活発化の危険性を捉えて発言したのか、それとも単純にいかなる宗教的情操であろうとも教育現場に入り込むのを嫌忌したのか、そのあたりは明らかではないが、しかしそれによって常識的な行動である食事に対するあいさつを否定し、ひいては更なるモラルの低下を招く危険性を招くことにもなり、個人的には危機感を覚える。
少なくとも常識の範囲内では宗教的情操の涵養を認めるべきであり、それは必ず教育に対して一定の成果をもたらすことだろう。
今ここで単純な理屈で宗教的態度を嫌うあまりに全体を排除するような愚を犯してしまえば、教育現場に禍根を残すことににもなりかねず、教育を立て直す意識を持ったものたちは異論を唱えるべきであると考える。
少なくとも仏教や神道は人間の欲望を体現するための現世利益を目的としておらず、そういった宗教的な意識に目覚めても決して教育に不利益をもたらさないであろうし、それは逆に周りの教師など対する敬意を目覚めさせる効果もあるだろう。
だから「宗教的完成の涵養」の文言に関しては、決してカルト教団が入り込めないように補足を加えた上で、なさなければならないものである。
伊吹文科相はそのあたりも踏まえて考え直してもらいたいものである。


教員免許制度の見直しと同様に家庭の教育にも目を向けるべき。

2006-12-04 19:23:25 | 教育。
教員免許更新制度のあり方を検討している安倍首相直属の教育再生会議は4日、免許の更新期間を5年間に、正式任用前の「条件付き任用期間」を現在の1年間から3年間に延長する方向で最終調整に入った。
中央教育審議会が答申した「更新期間10年間で研修30時間」では、不適格教員を排除するには不十分だと判断した結果で、今月8、9日に開く分科会の合宿審議で詳細を詰め、来年1月の第1次報告に盛り込み、通常国会に関連法案を提出する方針だ。
中教審が答申したような、更新期間10年研修30時間というようなやり方では確実な成果を得るには不十分というのは当然で、研修を行えば確実に免許更新が行えるという無意味なシステムは決して採用してはならない。
しかしまだ教育再生会議が教員免許制度の運用をより厳格化し、首相が唱える「教育現場からダメ教師を排除し、教育の質を高める」ことに繋げるには不十分で、教員の資質を見極める権限を校長に与え、免許の更新時期を待たずとも不適格であるということが明らかになれば、職員会議などを利用して通達し改善を求め、それでも状況が変わらなければ現場から排除することが出来るというような強権も必要になるだろう。
少なくとも現在のような何の権限も持たされず、責任だけがかぶらなければならないような状況は改善する必要はある。
ただ、教育の現場は教師の優劣以上に生徒の質も大きく関わってくるもので、満足に躾けられていない非常識な生徒ばかりでは優秀な教師も実力は発揮できず、逆に優秀な生徒が多ければ教師としての能力に欠けていても一定の成果を残してしまうこともあるかもしれない。
そういった基準を安定化させるためには、子供に対して家庭が一定水準の躾を行っていることが必要になってくるように感じるが、教育再生会議にはぜひともそのあたりにも改善の手を差し伸べてもらいたい。
例えば小学校が、児童が最低限身につけているべき常識をプリントなり冊子なりにして各家庭に配布し、達成度を学校側が確認、当初は情報収集の意味でも確認程度でも構わないが、一定量のデータを収集した後に家庭における躾という教育を見直すための資料として活用し、モデルケースなりを提示するのもいいかもしれない。
教育は学校だけで行われるものではなく、勉学や集団活動といったものは学校が、個人としての常識に関わるものは家庭が担うべきである。
教師の質を高める事は大切だが、それを受ける立場の生徒の質も同時に高めていかなければ、ゆとり教育で崩壊しかけている教育現場を再生するのは難しいだろう。


ずれ始めた教育再生会議。

2006-11-29 18:45:26 | 教育。
いじめの現場を見てみぬふりをすれば加害者となる。
政府の教育再生会議は29日午前、安倍晋三首相出席のもと、首相官邸で総会を開き、全国でいじめを苦にした児童・生徒の自殺が相次いでいる事態を受けた8項目の緊急提言を了承した。
「いじめは反社会的な行為として絶対に許されず、見て見ぬふりをする者も加害者である」として学校に徹底した指導を求めるとともに、いじめを放置・助長した教員への懲戒処分適用を盛り込むなど責任を明確化した。
しかし見てみぬふりをそのまま加害者として扱うというのは暴論であるといえる。
教育再生会議がいじめの現場を正しく理解しているかどうかは知らないが、そこに関わってしまうことで傍観者から被害者になってしまう危険性を考慮していないのではないかと疑いたくなる。
その場合、自己保身のために消極的態度をとる者に自己犠牲を強いることになりかねない。
また、教育再生会議が最初に言っていた、いじめを行う生徒に対する出席停止処分を見送りとなり、「指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる」とし、社会奉仕や個別指導、別教室での教育などが行われることになりそうなのだが、そこに至った理由が「教育には愛情が必要だ」という慎重意見と「懲戒の手段として授業を受けさせないという処置は許されない」という1948年の当時の法務庁長官の見解を挙げていた。
言い換えれば、「加害者であっても子供なのだから厳しくするな」「罰則としての権利の剥奪はかわいそうだ」ということになると思うのだが、今一番教育再生会議が言ってはならないことである。
教育には愛情が必要と言って、生徒やその家族の言いなりになっている現状が招いた学校社会の腐敗を見れば、何より必要なのは生徒が常識や理性を正しく持つように厳しく指導することであり、それこそ立派な人物になってもらうように教育側が提示できる愛情である。
懲戒の手段として授業を受けさせないというのも、常識として罰則による権利の剥奪はごく当たり前の処置であり、子供だから例外にしていいというものではない。
どうにも教育再生会議は現状を甘く見すぎているふしがあり、また不適切な人物を内包しているがために機能不全に陥っている状況にあるのではないかと危惧する。
少なくとも教育再生会議のホームページから確認できる資料からは、実効性のある提言は確認できなかった。


出席停止に効果はあるのか。

2006-11-26 12:06:23 | 教育。
学校でいじめによる自殺が相次いでいる事態を受け、安倍首相直属の教育再生会議は25日、いじめ問題に対する緊急提言を来週にもまとめ、公表する方針を固め、それによると都道府県や市町村の教育委員会に対し、いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取ったり、深刻ないじめ問題が起きた場合に備え、緊急に学校を支援する態勢をつくることなどを求めることを決定したようであるが、いささか効果のほどを疑わざるを得ない。
学校教育法では、「児童の性行不良で、他の児童の教育に妨げがある時」は、市町村教委は保護者に対し、その児童の出席停止を命じることができると定めているということを適用しているのだと思うが、では出席停止を受ける生徒がそれを罰として受け止めているのかどうかが問われなければならないはずであるが、せいぜい学校に行かなくていい日が増えた程度の受け止め方なのではないかと疑いたくなる。
生徒に対する罰というよりは、同様のことが起きないようにひとまず問題の生徒を隔離して対策を練る時間を作るという学校側が必要だからやっていることであり、生徒に対する厳しい対応であるとはとても思えない。
そのいじめが生徒の自殺に直結しなければ本当の厳罰に結び付けられないから、とりあえず停学にしようというところかもしれないが、福岡での自殺の際に、加担していた生徒が遺族に言葉だけの謝罪を行った挙句、舌の根も乾かないうちに次のいじめを行っていた事実が発覚している。
反省さえすればそれで終わるという認識を持たせないためにも、いじめの程度によって強制的に留年させるなりの処罰は必要なのではないか。
とはいっても、こういうものは学校内だけで片付くような問題でもないので、生徒に罰を与えたり学校支援の態勢を整えたりするだけでは終わらない。
教育再生会議に出来る事には限界があり、権限のない状態では提言を行うくらいしかできないから仕方ないかもしれないが、しかし教育現場で行うことの出来る有用な手段の一つである体罰に対し、一部の有識者メンバーから容認論が出たにもかかわらず、現段階では提言に盛り込まないとしていることから、「子供の人権のためにいじめをなくすことの出来ない状態」が維持されることが懸念される。


給食を粗末にした児童に教育的指導。

2006-11-23 11:46:58 | 教育。
奈良県三郷町の町立三郷北小学校で、給食を粗末に扱ったとして、岡本喜代治校長が4年生の男子児童の尻をたたいて転倒させ、約1週間のけがを負わせていたことが22日、分かった。
町教委によると、男児が13日の給食中、茶碗の中でご飯を丸め、ふざけて天井にほうり投げたことに対し、担任はその場で指導し、教頭を通じて校長に報告した。
14日朝の登校時、岡本校長が男児を呼び止めてほおをつかんで引っ張り、尻を6、7回たたいた。はずみで倒れた男児は右ひざにけがをし、ほおにつめ痕が残り、帰宅後傷に気付いた家族が病院に連れて行き、全治1週間と診断された。
岡本校長は放課後に男児を自宅まで送り、保護者に謝罪。15日に町教委に報告した。町教委に「食べ物を粗末に扱うことに憤って指導したが、行き過ぎだった。けがをさせ申し訳ない」と話しているという。
この出来事をに関してどこが問題であるかを考えた時、食べ物を粗末にした児童と、そういった育て方をしたと思われる親のしつけに問題があるのだと思い至ったのだが、おそらく報道側からすれば「学校側の行き過ぎた指導」をあげつらいたいのだろうと感じた。
児童が負ったという全治一週間の怪我として「右ひざに怪我」をしたとしているが、この怪我は単に転んだ拍子にすりむいた程度のもので、過剰過保護の時代ではなかった昔なら「つばつけとけば治る」で済まされたレベルのものであり、怪我として取り上げるほどのものではないし、ほおにつめ痕が残ったというが、そんなものは1日で消える。
この児童の親が、学校側の謝罪に対してどのような対応を取ったのかを報道は伝えていないのだが、学校側の責任をクローズアップしたい報道側からすると、親の対応をかけないというのはすなわち、給食を粗末にした子供の非を認めて学校側に責任がないことを確認したのではないかと希望的に推測したいが、この程度の傷で病院にいくようなところを見るとそれは楽観的過ぎるか。
そもそも岡本校長の行った指導は極めて正しいもので、食品を金で買ったらそれは自分のものであるというような単純認識のおろかさ、農家が生産した食材が安全な流通経路を経て食品加工業者に渡り、食品衛生的に何ひとつ問題のない状態で購入を希望する人が苦労なく買い求めることの出来る日本社会に対する認識も同時に持たなくてはならない。
よく「衣食足りて礼節を知る」、正しくは「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」と言うのだが、これは衣食が足らない状態を身にしみて実感した上でこそ身につくものであって、飽食大国である日本では前提が存在しておらず、衣食はそこにあって当然、手に入らないほうが異常だという認識の中において衣食が満ちることで礼節が身につくことはありえない。
だからこそ食の大切さを子供の頃から正しくしつけることが大切なのであり、本来その役割を果たすべき親がそれを怠っていたことこそが非難されるべきであり、もしも岡本校長が不利益をこうむるようなことがあれば、「食の大切さを通じて道徳的な教育を行わず、子供や親のご機嫌を伺うのが教育と学校の正しい姿」という間違った方向性がまかり通るような教育現場になって行きそうで、危惧すべきことであると感じる。


高校での履修漏れによる補習をめぐる議論。

2006-10-29 08:31:29 | 教育。
富山県の高校で「受験に必要な科目を勉強したい」との生徒の要望を受け、当時の2年生の8割に、学習指導要領で必修の世界史の授業をしていなかったという報道から始まった全国規模の必修科目の履修漏れは、28日には41都道府県404校にまで広まっている。
おおごとになったことから、政府までが履修漏れを補習で補おうという議論に対して発言を行っていて、安倍首相は今回の未履修の問題は生徒ではなく学校側に問題があるとして、単位不足が懸念される生徒に対する救済策の検討を伊吹文部科学相に指示している。
一連の流れに対して学校側に責任があるのは確かではあるが、一部には生徒側も必修科目を履修していない事実を認識していながらも、受験には必要ないから問題視していなかったという話もあり、もしもそうだとしたら確信犯であるということにもなる。
それ自体は問題とされないかもしれないが、わかっていながら放っておいたという生徒側の意識も少し問題があるように思う。
必修科目の履修漏れに対する措置は、当然のことながら補習という形で補うことになるわけだが、これに対して生徒はこれから受験があるから勉強時間が取れなくなるとか、受験科目ではないからやりたくないだとか、学校側が悪いのだから補修には出ないだとか、随分とわがままな意見が噴出している。
例えば補習によって受験勉強の時間が取れなくなるという意見に対しては、ではこれまで必修科目を受けなかったことによって得られた余分な勉強時間に対しての認識が足りておらず、履修していたほかの学校の生徒と比べて時間的には優位な位置にあり、ならば補習によって他の生徒と同じ環境に戻すというのは正しいやり方だとは思う。
大学受験が差し迫っているという事情はわからなくはないが、受験科目ではないからやりたくないというのは高校の単位制度自体に対する認識不足で、ならば受験に必要な科目が3教科程度であれば、他の授業を受けなくてもいいかといえばそうではなく、高校において必修科目を修めることは高校卒業に対して必要なこと、受験は生徒個人の事情であって、受験科目でないからやらないのなら高校を辞めて大検でも受けたらどうかと提言したい。
これに対して、生徒のわがままにも配慮しながら学校側の単位制度のために補習を行う際に、生徒の負担を抑えるために補習時間を減らして単位取得を行わせるという各方面の提言は、高校という枠の中で解決させるぎりぎりの譲歩であるという印象はあるが、個人的には卒業を延ばしてでもしっかりと履修させるという方法を支持したい。
可能であるなら受験が終了した後でも構わないが、少なくとも事情は考慮しながらも補習逃れをさせないために、補習時間の8割以上の出席確認が取れなければ単位を与えないなどの措置をしなければ、中には学校が悪いの一点張りで補習には一切出ずに他の生徒と同様に単位認可を受ける不届き者も現れかねない。
なんにせよ、生徒の受験という事情だけを考慮して結論を出すことだけはやめてもらいたいと思うところである。


教師の質を高める議論。

2006-10-23 20:35:47 | 教育。
政府の教育再生会議のテーマとなる教員免許の更新制度をめぐり、下村博文官房副長官は22日、文部科学相の諮問機関である中央教育審議会の同制度に関する7月の答申について「これでは本当の改革はできない。だからこそ教育再生会議がある」と批判した。
いわゆるダメ教師の排除には不十分として、抜本的な見直しを強調したものであるが、下村氏は安倍首相に近く、再生会議の運営にも深くかかわっており、再生会議と文科省との間で対立が生じる可能性が出てきた。
中教審の答申は、いまは終身有効の教員免許に10年の有効期限を設け、満了前に講習を修了しなければ失効する仕組みの導入を提言しているが、その目的は「教員の専門性の向上」などで、不適格教員の排除は直接の目的ではないとしていて、「自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得るという前向きな制度」との位置づけだ。
中教審の言い分としては、終身有効の教員免許制度を見直すのではなく、世論を交わすためにひとまずの講習を設けて、それさえ受ければ教員としての資質を全く持たないダメ教師も免許の更新が出来るという、身内を守るために教育全体をないがしろにしたとんでもない意見であるが、こんなものを適用させてはいけない。
しかしそれ以上に問題なのは、伊吹文科相が中教審の方針を支持した上で、着々と準備を進めるなどと発言していることである。
教育再生会議において、下村官房副長官が教員免許更新に対してもっと厳しく見直すべきとして軋轢が生じる可能性があるというが、なあなあで終わらせることを教育再生に求めているのではなく、現場で正しく教育が行われることの出来る状態を獲得するために動くことが、この会議の存在意義であるわけで、中教審の現状維持に近い状況を支持するなどあってはならない。