来年5月の裁判員制度開始をにらみ、現行の死刑と無期刑の間に、仮釈放のない「終身刑」創設を目指す超党派の議員連盟が8日、発足した。
議連の名称は「裁判員制度導入の中で量刑制度を考える会」で、一般市民による死刑判決をできるだけ避ける狙いがあり、死刑判決は裁判官と裁判員が全員一致した場合に限定する案も検討し、新議連は死刑の存廃を議論せず、賛同者を広げ終身刑の実現を目指すらしい。
要するにこの新議連は、国民が凶悪犯罪を犯した罪人に対して一般的な人間の感覚として簡単に死刑と言わせないために終身刑を創設し、裁判員制度で死刑が簡単に出てこないようにした上で、別角度から死刑廃止論を繰り出そうとしているのではないかと思うのだが、正直なところ光市母子殺害事件の被告弁護団によって、刑事裁判の被告弁護のための発言の異常性が明るみに出たことから、裁判員に選出された国民はそれぞれの正義感で死刑を選択することが予想される。
少なくとも裁判員は法律の基礎知識さえ持ち合わせていない一般国民から選ばれるわけだから、現状の死刑制度が存在する中で彼らに自由に量刑を決定させなければ、裁判官が裁判員を誘導して裁判官の思ったとおりの量刑を決定してしまうことになりかねず、そうなれば国民の意見を取り入れる裁判員制度の意義自体が崩壊しかねない。
そもそも裁判員制度は1審だけの制度で、それが本当に長く続く裁判に対して影響するのかどうか今のところ良くわからないし、逆に素人意見を簡単に取り入れることには危うさもあるように思う。
仮に私が裁判員に選出され、殺人事件の裁判に関わることになれば、おそらくほぼ無条件に死刑にすべきであると発言すると思うが、そういった個人的な感情を基にした判断を裁判が尊重するのならば刑法の部分崩壊に繋がるだろうし、あくまで法的判断を行うなら裁判員など最初から必要ない。
ともかく、死刑を回避させる目的のためだけに終身刑を創設し、死刑の存在を黙殺していくことで死刑制度の廃止をたくらむようなやり方を行おうとも、国民感情として凶悪犯罪には当然死刑という判断が行われるであろうし、こういった余計な小細工を行うことで余計に標準的な国民感情と政治・司法との乖離が明確化されるだけであると思うのだが。
議連の名称は「裁判員制度導入の中で量刑制度を考える会」で、一般市民による死刑判決をできるだけ避ける狙いがあり、死刑判決は裁判官と裁判員が全員一致した場合に限定する案も検討し、新議連は死刑の存廃を議論せず、賛同者を広げ終身刑の実現を目指すらしい。
要するにこの新議連は、国民が凶悪犯罪を犯した罪人に対して一般的な人間の感覚として簡単に死刑と言わせないために終身刑を創設し、裁判員制度で死刑が簡単に出てこないようにした上で、別角度から死刑廃止論を繰り出そうとしているのではないかと思うのだが、正直なところ光市母子殺害事件の被告弁護団によって、刑事裁判の被告弁護のための発言の異常性が明るみに出たことから、裁判員に選出された国民はそれぞれの正義感で死刑を選択することが予想される。
少なくとも裁判員は法律の基礎知識さえ持ち合わせていない一般国民から選ばれるわけだから、現状の死刑制度が存在する中で彼らに自由に量刑を決定させなければ、裁判官が裁判員を誘導して裁判官の思ったとおりの量刑を決定してしまうことになりかねず、そうなれば国民の意見を取り入れる裁判員制度の意義自体が崩壊しかねない。
そもそも裁判員制度は1審だけの制度で、それが本当に長く続く裁判に対して影響するのかどうか今のところ良くわからないし、逆に素人意見を簡単に取り入れることには危うさもあるように思う。
仮に私が裁判員に選出され、殺人事件の裁判に関わることになれば、おそらくほぼ無条件に死刑にすべきであると発言すると思うが、そういった個人的な感情を基にした判断を裁判が尊重するのならば刑法の部分崩壊に繋がるだろうし、あくまで法的判断を行うなら裁判員など最初から必要ない。
ともかく、死刑を回避させる目的のためだけに終身刑を創設し、死刑の存在を黙殺していくことで死刑制度の廃止をたくらむようなやり方を行おうとも、国民感情として凶悪犯罪には当然死刑という判断が行われるであろうし、こういった余計な小細工を行うことで余計に標準的な国民感情と政治・司法との乖離が明確化されるだけであると思うのだが。
