坂田山心中とよばれた、悲恋心中の代表格とも言える心中事件が昭和の初めの暗い時代に起こった。
この事件が世間を賑わせたのには幾つかの理由があったが、なぜかこの男女の心中事件は、暗い時代を生きる人々にセンチメンタルな感動を呼び起こした。
このあと、似たような心中事件が、同じ現場で流行り風のように繰り返され、一世を風靡したのである。
その事件とは次のようなものであった。
昭和七年(1932)5月9日の昼下がりのことである。東海道本線大磯駅の裏山、通称坂田山とよばれる雑木林で、若い男女の心中死体が発見された。
男は慶応大学の制服制帽、女は洋髪で、和服姿の丸顔の美人だった。心中死体の枕頭に一鉢の草花がそえられていた。また、付近に写真現像用の昇汞水の空き瓶がころがっていたのが発見された。二人は、それを飲んで死んだらしいことをうかがわせた。
男の洋服のポケットから遺書が発見された。それによって、男は五郎といい、女は八重子という名前であることは知れたが、それ以上の詳しいことは不明であった。
さっそく、各新聞社がこの心中事件を報じた。「慶大制服の青年心中 令嬢の女と大磯駅裏で」(東京朝日新聞)
この社会面の隅に掲載された心中事件記事を読んだ男女の親たちが、すぐさま地元の大磯署に名乗り出た。それでようやく身許が判明したのである。
男は調所五郎、二十四歳、慶大の理財科(今の経済)三年在学中。女は湯山八重子、二十一歳、東京のミッション・スクール頌栄高等女学校出身。男の父親は男爵調所定。五郎はその長男であった。女の実家は静岡県駿東郡の財産家であり、父親は湯山昭作。彼女はその令嬢であった。
双方とも家柄の良い家の子弟であることで、この心中事件は、まず清らかなイメージを世間にあたえることになった。
そもそも二人のなりそめは、東京の芝三光町にある高蘭女学校内の教会堂でのことだった。
二人は熱心なクリスチャンで、三光町に住まいのあった五郎と、高蘭女学校の寄宿舎にいた八重子は、日曜日のある日、ここで知り合ったのである。知り合ってからすでに三年という月日が流れていた。
が、八重子は卒業とともに、静岡の実家にひきもどされていた。従って、二人の交際は、恋しい手紙のやりとりという形で終始していた。八重子は毎日のように五郎に恋文をしたためていたという。
そのうち、年頃の八重子にいくつもの縁談が持ち込まれるようになる。当然のことながら、彼女はいろいろな理由をつけては、それらを断りつづけていた。が、ついにそれもかなわない状況に追いやられる。
というのも八重子の家族は五郎との結婚には反対であった。五郎がまだ学生であること、それゆえに社会的地位が定まっていない、というのが反対の理由であった。五郎以外の相手とはやく結婚させれば、五郎との関係も切れるだろうと家族は考えたのである。
一方、八重子は旧習にしばられての結婚を断じて拒否するタイプの近代女性であった。信仰の影響もあったのだろう。不本意な結婚を強いられるなら死んだ方がましだと思いつめていた。
その頃、八重子は肺炎をわずらっていたという。そのことで、彼女はいっそう結婚そのものに消極的になっていたのかも知れない。
女は恋しい男に心の内を明かす。男はそれに同情する。それならばいっそ二人して、という気持ちになったことは充分に推察できる。
大磯駅で降り立った二人が、坂田山(当時は八郎山といった)に登って行く姿を土地の人が見かけたのは、5月8日の夕暮れ時であった。その夜に二人が予定の計画を実行に移したことは、翌日に死体が発見されたことで想像できる。
発見された遺書は次のような書き出しで始まっていた。
「もし私が明六日夜になっても帰らなかったらこの世のものでないと思って下さい。数々のご恩の万分の一もお返し出来なかった自分を残念に思っています。御相談申し上げなかったのは八重子さんに私を卑怯者と思われたくなかったからです」
遺書の日付は5月5日夜となっていた。心中行はそれから三日遅れとなったが、覚悟の心中であることをうかがわせた。奇しくも5月8日という日が五郎の母の命日であったのは、偶然のことであったのだろうか。
〃つもる思いは遺書に
手向けの花は枕辺に
互いに抱き抱かれて
浮世に残る夢もなし〃
これは、二人の死後作られ、ヒット曲になった歌の一節(作詞 大木惇夫 作曲 近藤政二郎)である。
二人はかつて訪れた場所に再びやってきた。それも死に場所を求めて。すべては懐かしい。その思い出を共有し、思い出のなかにひたっていると、この世に対するあらゆる未練が消えうせる。今のこの瞬間の時の流れを停止させることで、二人の幸せを絶対化したい。
静まりかえった坂田山の雑木林。おぼろ月が二人の影をゆらめかせる。
互いの思いを果たした後、女は死後の寝乱れを恐れて、錦紗の袷の着物の裾を紐でしっかりと結ぶ。男はおもむろに、写真現像用の昇汞水の入った瓶を女にわたす。女はそれを静かに口に運ぶ。女の死を見とどけてから、男もまた一気に昇汞水をあおる。
二人は互いに抱き合うようにして死んでいたという。枕辺に、素焼きの小鉢に紫色の香水草の花をそえて。
* * *
この時以来、心中現場である坂田山は、あたかも聖地のようにあがめられた。
記録によれば、この事件後の三年間、坂田山の麓の病院にかつぎ込まれた瀕死の生命を救われた者が、なんと六百人におよんだという。すさまじいまでの後追い行為の連続である。ひとつの心中事件がひとつの場所に特別の意味を付与し、そこが聖地化された好例といえよう。
ところで、死にまつわる場所が聖地化される例は、なにも心中現場だけではない。が、こと心中事件に限っていえば、その心中が美しいものであって初めて心中事件の現場は聖地化されるのである。
坂田山心中は、そうした意味で、世の人々の心に美しくも悲しい出来事と映じたのである。当時のマスコミも、この事件を、そろって美しい悲恋物語に仕立てた。(天国に結ぶ恋-坂田山心中)と命名して書き立てた。
当初、新聞はこの事件を「大磯駅裏心中」と呼んでいた。ところが、この事件に世間の熱いまなざしが注がれるのを受けて、いつの間にか「坂田山心中」と改題した。「坂田山」といえば、誰もが連想する、ひとつの意味ある固有名詞に仕立てあげていた。「坂田山」にまつわるイメージは、ますます神聖なものになっていった。
さらにポリドールレコードが、この事件を題材にした歌謡曲『相模灘エレジー』(のちに『天国に結ぶ恋』に改題)を発表。それを追いかけるように松竹映画『天国に結ぶ恋』が上映される。映画は心中現場の坂田山でロケを決行するという念のいれようであった。 歌も映画も、当時の世人、特に妙齢の女性たちに一大センセーショナルを巻き起こした。その結果が、前述したような、おびただしい数の後追い行為(自殺あるいは心中)となったのである。
一方、事件後、さまざまな噂が取り沙汰された。その最たるものは、女が処女であったかどうかという下世話な噂であった。
だが、すでに世間はこの事件を美しく飾り立てている。その現場は、今や名所になっている。
あくまでも、この心中事件は美しく、清くなければならなかった。新聞はそうした世間の意を体して「床しくも処女であった」とわざわざ報道した。流行した歌の文句も「ふたりの恋は清かった。神様だけがご存じよ」となっている。
クリスチャンであった男女の生々しい心中現場は、こうしてしばらくのあいだ神聖化されることになった。
そもそも五郎と八重子が、大磯を選んだ理由は、かつて、ここが二人の楽しい思い出の場所であったためである。そこは二人がよく連れ立って散歩したところであり、八重子が女学校の頃に遊びに来た場所であった。
人が自分の最後の場所として選ぶところ--すなわち己の生命をゆだねたいと願う場所は、その人なりの特別の意味が付されたところなのである。それは死ぬ者が残す最後のメッセージといえる。
ところで、二人が死に場所とした坂田山とは、一体どんな場所なのだろうか。
東海道本線の電車が大磯駅に近づくと急に山が迫ってくる。木々の緑の濃い、いかにも湘南の陽光が降り注ぐ山といった印象だ。それが坂田山である。
標高110メートルの小山のわりには高い山に思えるのは、急勾配でせり上がる山容のせいかも知れない。それに雑木のうっそうとした感じも高さを印象づけている。
ここを訪れる前に想像していたのとはだいぶちがう山の景観に意外性を感じた。実は、もっと草地の多い展望のきく山だと思っていたのである。多分、心中事件があった頃の景観も今見るようなものであったのだろう。
ちがっているといえば、今や山腹のあちこちに住宅やら別荘が建っているということだろうか。人の住まいがこんなにところにまで侵食している状態にあらためて驚かされるほどである。
駅の東側にある歩道橋をわたり、閑静な住宅街の間に細く切り開かれた坂道をのぼる。道は九十九折りのように曲がり曲がりしながら、急速に勾配を増してゆく。ようやく登りつめたと思われるところで、急に視野が開ける。そこは高田公園とよばれる芝の緑が鮮やかな公園で、ちょうど坂田山の山頂付近に位置する。
その公園は、戦中戦後を当地に住んだ随筆家高田保を記念してつくられた公園である。公園の北端に故人の墓碑がひっそりと立っている。
高田保が亡くなったのが昭和27年2月20日であるから、その公園ができたのは、もちろん坂田山心中後のことである。
ついでながら、氏の随筆『ぶらりひょうたん』は、かつて多くのファンに親しまれた作品で知られている。
さて、公園の中央に立ち、坂田山心中の現場はどの辺であったのだろうか、とやや野次馬的好奇心がわきあがる。
大磯図書館所蔵の『大磯歴史物語』(池田彦三郎著)によると「高田保の墓碑のある裏手の林の中---大きなふた股の松の木の根方が心中の現場」となっている。
今、その墓碑の裏手の林は、うっそうとした雑木林だ。そこは昼なお小暗い感じで、人がその中を歩き回ることは下草も生い茂り、ほとんど困難という状態である。
67年前はどんなぐあいだったのだろうか。想像もつかない。もう少し、人が歩ける余地があったのではないかと思われるのだが。 細い山道に分け入って雑木林の中を覗き見ても、大きなふた股の松の木を識別することができない。ふたたび公園にもどり、高田保の墓碑のある方向を望むと、雑木林から頭だけ姿を見せる松が見えた。あの根方が心中現場か、と推定してみるが、それを確かめるすべがない。
現場を訪れる前、坂田山を草山のように想像したと記したが、心中現場というものは、そんな見晴らしのいい明るい場所であるはずがない、とあらためて納得したのである。
* * *
大磯の海岸から町の方角を見やると、坂田山がちょうど町の背後に控えているのが分かる。町にとって、坂田山が景観上のアクセントになっている。緑濃い山が、ある種の雰囲気を醸し出している。この沿線でもこうした起伏に富んだ風景をもつ場所はほかにない。
大磯の町は、江戸期東海道の整備にともない、ここが品川から数えて八番目の宿駅に定められてからいっそう発展し、賑わったといわれる。歌川広重の『東海道五十三次』にも雨の降る大磯の宿場風景が描かれている。
ところで、その絵に「虎の雨」の印が押してあるのに気づかれた方はいるだろうか。
これは、曽我兄弟が、富士の狩場で父の仇工藤祐経を討ったその日が雨であったので、世人が、それはきっと宿願を達成したことを喜んだ〃虎の涙雨〃にちがいないと称して同情したという故事によったものだ。
虎というのは、曽我兄弟のひとり十郎祐成の恋の相手虎御前のこと。二人の恋物語は『曽我兄弟』によって広く世間に知られている。鎌倉時代の大磯を代表する恋物語だ。坂田山の恋心中と同種の悲恋物語といえよう。
そんな伝説の伝わる大磯の町が、近代に入って新たなリゾート地として脚光を浴びる日がくる。
明治18年、この地に「日本最初の海水浴場」が開設されたためだ。初代軍医総監松本順の尽力によって、町の前面に広がる照ガ崎海岸が海水浴場第一号に指定されたのである。
これは、明治維新以来、宿駅としての役割を失い、活気を失っていた町の繁栄策として前途有望な話題であった。
さらに、明治20年、東京-国府津間に東海道本線が開通。ちなみに、東京-大磯間は2時間20分を要した。これを機会に各界名士の大磯来遊者がふえる。さらに、この地の風光を慕って移り住む者も次第に数を増すようになる。
明治31年の時刻表『汽車汽船旅行案内』は湘南大磯を次のように紹介している。
「大磯には海水浴場あり。招仙閣、祷竜館、松林館等巨大なる旅館あり。貴顕紳士の別荘は高麗山麓に散在せり。鴫立沢又は曽我兄弟の旧跡あり」
この頃、伊藤博文をはじめとする政財界名士の邸宅や別荘が百五十戸も建ち並んでいたという。
明治41年、『日本新聞』が実施した避暑地百選全国投票では、大磯がその第一位に選ばれている。これを記念して駅前に「海内第一避暑地」の碑が建てられた。この碑は現在も駅前にひっそりと立っている。
大磯の最盛期はちょうどこの頃までであったが、その後も長い間、大磯といえば、湘南の別荘地として、また格式のある海浜リゾート地として、一定のイメージを世間に与えていたところなのである。
五郎と八重子の二人が、デート地として、大磯の地を選んだのも、そうした場所であったからであろう。美しく死ぬにふさわしい場所としての大磯。そこに二人はやって来る。そして、死に場所として定めたのが坂田山であった。
生い茂る緑につつまれた盛り上がる地形は、従容として死ぬにふさわしい、身も心も休まる場所として二人の目には映ったのであろう。 若い恋人が聖なる地として選びとった場所を、その後、しばらくの間、世の人々も聖地として見なし、そのように了解したのである。
