城犬のおいど

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陸奥国 浪岡城

2024-07-30 05:41:00 | 城館
陸奥国浪岡城 [ナミオカジョウ]
別称浪岡御所
城郭構造平城
築城年不明
廃城年1578
指定史跡国指定
住所青森市浪岡大字浪岡五所14?1 [MAP]
スタンプ設置場所浪岡城跡案内所
御城印販売場所

概要
浪岡城は、南北朝時代に後醍醐天皇を助けた、北畠親房、顕家の子孫が居住したといわれています。城ができたのは応仁の乱(1467-77)ころ、最盛期は天文年間(1532-55)ころと思われます。永禄5年(1562)に親族間の争い(川原御所の乱)が起こり、城主が殺され浪岡北畠氏の勢力も衰え、天正6年(1578)、大浦(津軽)為信に攻められ、浪岡城は落城しました。
※現地案内板より

城跡公園
昭和15年に青森県初の国史跡指定を受け、一部が公園、ほかは農地として利用されてきました。その後史跡公園にするため、昭和44年から49年までで、約8割の114000㎡を町で公有化し、昭和52年から62年までで全体の3割程度の発掘調査を行いました。この調査で多くの建物跡や遺物が見つかりました。これらの結果をもとに、昭和62年から史跡浪岡城跡環境整備事業を行っています。
※現地立体模型より

浪岡城跡案内所
浪岡城跡は、浪岡川の扇状地丘陵上に造られた戦国時代の城館です。
新館・東館・猿楽館・北館・内館・西館・検校館・無名の館という名称の居館が連立し、その間に幅20mほどの堀や土塁があります。
15世紀中頃に浪岡北畠氏が築城したとされていますが、それ以前から館として使用され浪岡北畠氏が現在みられる城館に拡張していったものと思われます。昭和52年(1978)から始まった発掘調査によって、城館期の建物跡や生活用具が数多く発見され、戦国城下町としての浪岡城が次第に明らかにされつつあります。現在、発掘調査の成果をふまえ「史跡公園」として環境整備を進めています。
※浪岡城跡案内所内浪岡城跡全体図より

続日本100名城スタンプ設置場所

猿楽館
能舞台があったと想定される。

東館
浪岡城が滅ぼされた後、一時的に津軽為信の弟が「代官」としていた場所だとされています。









北館

浪岡城主の家臣らが居住し、武家屋敷町がありました。

ここは「北館」という名前の曲輪(くるわ)です。1500~50年頃は屋敷町のように規則的に区画されていたようです。この一区画の中は、大きな建物が一軒と、小さな建物が数軒、井戸が一つ入っていることが発掘調査でわかりました。
※現地案内板より

大きな建物は、地面に掘った穴に柱を直接埋めて建てる「掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)」です。小さな建物は、地面を掘り下げて地下に床を作る「竪穴建物(たてあなたてもの)」でした。井戸は、4~5mの深さがありました。なかには崩れないよう木で補強したものもあります。
※現地案内板より

現在、板塀で区画していますが、当時は何を使って区画していたのかよくわかっていません。いずれにせよ迷路状の道を作ることで本丸である内館までの通路をわかりにくくしたことと、ここに家来たちが住んでいて城に入って来た人々を監視したのかもしれません。石垣や天守閣ができる以前から城の中心(城主)をまもる工夫がされていたのです。
※現地案内板より




奥の方が西館

西館
左の地段高い平地が内館
検校館


2018/5訪問


 
 



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