宮ケ崎城 [ミヤガサキジョウ] | ||
別名 | 宮崎城,天王城 | |
城郭構造 | 梯郭式平山城 | |
築城者 | 宮崎(鹿島)家幹 | |
築城年 | 1220年(承久2年) | |
廃城年 | 1416年(応永23年) | |
指定史跡 | ー | |
場所 | 茨城県東茨城郡茨城町 地図 | |
スタンプ設置場所 | なし | |
御城印販売場所 | なし |
概要
鎌倉時代初期1220年代、鹿島郡領、鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹はこの地に土着し宮崎氏を名乗り
領地は宮崎郷の内 五十町と当麻津(鉾田市)を支配していた。 特に水運を押さえる水軍として活躍した
初代家幹はこれより南方「きゅうでん掘」と呼ばれている150m×100mの方形を呈した館に居住していた。
その後、南北朝から室町初期には吉田郡河崎村(水戸市)から、用次、飯岡、菅谷、
瀬落(小美玉市、鉾田市)までも領有し、鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持ち、茨城町一番の豪族となった、
また鹿島大使役として幹親(文永 年中)幹詮(建式)、(暦応から康永)が三度鹿島神社七月大祭の
際使を務めている。
南北朝期には北朝方として北畠親房方の神宮寺城、阿波崎城の攻撃戦闘に参加をしている。
宮崎城は戦乱の時、詰めの城として使用した二本の堀と土塁で別けられた五つの曲輪から構成され、
江戸氏の時代(1550年頃)に再整備されてものである。
1416年(応永二十三年)十月上杉禅秀の乱に加担した宮崎氏は、烟田氏、江戸氏らに敗れ、
九代200年の永きに渡った 茨城町一円の支配を終わる事となった。
この地の北宮、定光院跡地は宮崎氏一族の墓地があり、多数の五輪塔、層塔、宝篋印塔と共に静かな
眠りについている。
※現地案内看板より
駐車場
看板の前に2~3台停められるスペースがあります。
主郭
宮ヶ崎城跡整備記念之碑
空堀
令和6年3月登城