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出羽国秋田城 [アキタジョウ] | ||
別称 | 出羽柵 | ![]() |
城郭構造 | 柵 | |
築城年 | 733年 | |
廃城年 | 不明 | |
指定史跡 | 指定なし | |
住所 | 秋田市寺内大畑4-1 [MAP] | |
スタンプ設置場所 | ・秋田市立秋田城跡歴史資料館 ・史跡公園管理棟(無料で押印可) | |
御城印販売場所 |
概要
秋田城は奈良時代から平安時代にわたっておかれた、日本最北端の大規模な役所で政治、軍事、文化の中心地でした。
天平5年(733)に、秋田村高清水岡に造られた当初は「出羽柵」と呼ばれ、やがて天平宝字4年(760)年ころ秋田城と呼ばれるようになりました。秋田城跡は、昭和14年(1939)9月に90ヘクタールが国の史跡に指定されました。昭和47年(1972)から発掘調査を開始し、現在も継続中です。
※現地案内板より
駐車場
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城内東西大路
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この道路は、政庁から外郭東門に至り外郭外側までほぼ真っすぐに延びていました。ここが道路だと分かったのは、固く締まった道路面や、東西方向の素掘りの溝である側溝などが発掘調査で検出されたからです。その発掘調査から、6時期の変遷があったと考えられる道路幅は、奈良時代には12m、平安時代には9mありました。今回復元対象とした道路は奈良時代のものです。また奈良時代の道路周辺からは、外郭東門周辺部と同様に周囲に遺構が認められないことから、周辺の利用に関しては建物を建てることができないほどの制約があったと考えられます。なお平安時代以降については、政庁にほど近い道路北側が恒常的に鍛冶等の生産施設として利用されていたことが、発掘調査から分かっています。
※現地案内板より
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政庁東門
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東脇殿
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正殿跡
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正殿は、秋田城で最も重要な建物です。正殿や前面の広場では出羽国の政務や、定期的に貢ぎ物を持って訪れる蝦夷に対しての贈り物、宴も行われていたと考えられます。また、時には外国からの使節を迎えての儀式も行われていました。この建物は、ほぼ同じ場所で6回建て替えられています。最後の建物は石の上に柱を立てる礎石式の建物ですが、それ以前の建物は直接地面に柱を埋め立てる掘立式の建物でした。
※現地案内板より
北東建物跡
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ここでは5回建替えられた建物跡が見つかっています。Ⅰ期~Ⅲ期の建物はいずれも東西の方向に長く、Ⅱ期では、東西両側に壁で仕切られた部屋があり、建物の南には、目隠し塀が付いていました。壁で仕切られた部屋のある役所の建物は、後殿や脇殿に見られますが、分室化されているのは、建物の機能や使われ方に関係があるものと考えられます。
※現地案内板より
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東大路
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模型
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外郭東門
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平成元年度の発掘調査で発見された奈良時代の外郭東門を復元したものです。
秋田城の東門の特徴は、軒先につく軒瓦がないこと、部材をつなぐところに舟肘木を使用しているところです。
木材の仕上げは槍の穂先のような槍鉋という古代と同じ工具で削り、また、表面は丹土を塗っています。
※現地案内板より
沼
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前方の沼は、縄文時代以前に飛び砂によって沢がせき止められてできた自然の沼を復元したものです。沼は、城内でおこなわれた大祓などのまつりで使われた人形、斎串、矢羽根、人面墨書土器などを流す神聖な場として利用されています。また沼底の泥炭層からはスギ、マツ、イネなどの植物の花粉が多数発見され、現在とあまり変わらないようすであったことがわかります。
※現地案内板より
井戸
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覆屋の中の井戸は、平安時代に作られたものです。構造は厚い板を3~4段井籠組にし、その外側に板を縦に2~3重に立て並べた簡単なものです。板材には、井戸と関係のない切り込みがあることから再利用の材料であることがわかります。周辺の地形は、平安時代も現在と大きな変化がないことから、当時から浅い井戸だったと思われます。また水は古代から涸れることなく今でもこんこんと湧き出ています。
※現地案内板より
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鵜ノ木地区
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奈良時代には重要な役所、平安時代には寺として使われていたことが遺構などから推測されています。
井戸跡
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高清水の地に出羽柵が遷された翌年にあたる「天平6年」(734)の木簡や「(天平)勝宝5年調米」(753)と書かれた納税を示す木簡が発見されています。
古代水洗厠舎跡
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平成6年の第63次発掘調査で、鵜ノ木地区東側にあった古代沼地付近から、全国的に珍しい奈良時代後半の水洗式トイレが発見されました。上屋となる掘立柱建物跡や、建物内にある3基の便槽から沼地側に延びる排出用暗簗の状況が見学できます。
建物内
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便槽
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用を足した後は、甕から水を汲みんで流します。
注意:現地ガイドさんによる実演です。
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木樋が沼地の沈殿槽に向かい傾斜している様子が見られます。
竪穴式住居跡
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秋田城跡では、奈良・平安時代の竪穴式住居跡が300軒以上発見されていますが、これはもっとも古い竪穴式住居跡の1棟です。床面からは、煮炊き用のカマドや甕、食器類が見つかりました。しかしこの竪穴式住居跡は、建っていた時期や場所から一般の住居としてではなく、建物造営のための作業小屋か、管理のための宿舎として使用されたと推定されます。ここでは地表から下の部分を、焼失住居跡等をてがかりに復元し表示しています。
※現地案内板より
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現代の道路で切られてしまっている東大路
2016/7訪問
2024/7訪問