城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

越中国 増山城

2024-07-30 08:57:25 | 城館
越中国増山城 [マスヤマジョウ]
別称和田城
城郭構造連郭式山城
築城年1363年
廃城年1615年
指定史跡国指定
住所砺波市増山 [MAP]
スタンプ設置場所砺波市埋蔵文化財センター
09:30~17:00
御上院販売場所砺波市埋蔵文化財センター
09:30~17:00

概要
城は、立地条件によって平城、平山城、山城に分類されますが、増山城は典型的な山城です。山城は、山そのものに普請(土木工事)を加え、郭や堀などの防御施設を作り出すタイプのお城です。
富山県内には大小400以上の城があるといわれますが、増山城は規模や歴史的重要性などから”越中三大山城”(増山城・森山城(高岡市)・松倉城(魚津市))に数えられています。増山城の歴史は古く、南北朝時代の14世紀後半に「和田城」として登場します。17世紀初頭の廃城までの約250年の間、越中の覇権を争って戦乱の舞台となりました。めまぐるしく城主が交代し、それぞれが修築や整備を重ね現在の縄張(城の構造)に到達しました。砺波・射水・婦負の三郡の境に位置し、越中西部を見渡すことができる眺望の良さ、そして交通の要衝に位置することなど、中世山城にふさわしい地の利を備えているといえます。
※現地看板より

駐車場



登城口





大堀切

F郭
三方を斜面で囲まれた平坦地で、北のウラナギ口(冠木門側)からのルートを監視する目的で設けられたとみられる。郭の規模は31×30m(930㎡)、郭の内部は南北に2段となっている。たとえこの郭が陥落しても馬之背ゴや一ノ丸からの攻撃に晒される縄張となっている。
発掘調査では、土層断面から2段の造成があったことが判明。斜面の裾には、排水溝と思われる幅40cm・深さ20cmの溝がめぐっていることがわかった。遺物では16世紀中頃から後半にかけての中世土師器皿が集中的に出土し、その時期に郭が機能していたことを裏付ける。瀬戸美濃の天目茶碗も出土している。
※現地看板より

馬の背ゴ
増山城内で最も西に位置する曲輪で、北のウラナギ口(冠木門側)、西の七曲りの両方から侵入する敵を最前線で防ぐ。平面がL字をしており、南辺と西辺に土塁が残る。2つの土塁は城内で最長かつ、この曲輪最大の特徴である。曲輪名は、土塁の形状が馬の背に似ていることから名付けられたとみられる。また、西の斜面には竪堀を設け、敵の横移動を防いでいる。
発掘調査によって16世紀中頃と16世紀末~17世紀初頭の2段階の造成を確認した。最初の造成で土塁を作り出し、谷地形と斜面に盛土をして平坦面を造成。2回目の造成で平坦面を北側に拡張したことが判明した。ほかに、西辺の土塁の裾でL字状にめぐる排水溝が見つかった。
※現地看板より



又兵衛清水
天保11年(1840)の古絵図に記されている清水。名称は、増山城築城の際に神保氏の家臣山名又兵衛という人物が発見したとの伝承に由来する。
主郭である二ノ丸の直下にあり、城内でも重要な水源であったとおもわれる。いわゆる「水の手郭」(水を得るための空間)としての性格をもっていたのであろう。馬洗池や神保夫人入水井戸とともに、増山城が水源に恵まれた城であったことを示す湧水である。
この清水は、段丘礫層と青井谷泥岩層の不整合面から湧き出ており、今も水は枯れていない。昭和61年(1986)、砺波市内では瓜裂清水とともに「とやまの名水」に選ばれている。
※現地看板より


石垣跡


一の丸
主郭(城の中心)ではない。天保11年(1840)の古絵図には「一之丸・桝形」とある。桝形とは敵の動きをさまたげるための空間であるが、残存していない。一ノ丸は、城下町からの「七曲り」と「ウラナギ口(冠木門側)」からの道の合流点を見下ろすことができ、守りの要として重要である。構造としては馬之背ゴの土塁と一ノ丸で挟撃する形となる。もし敵が又兵衛清水方向に進んだとしても、一ノ丸から常に横矢が掛かる(敵を側面攻撃する)状態となっている。郭の規模は30×79.5mで、東側に一段低く帯郭がめぐる。南側の斜面には「ヘットリ」という腰郭が取りつく。また、城下町側には1本の竪堀が掘られている。この郭からは加賀越中国境の稜線を一望できる。
※現地看板より

眺望




二の丸
二ノ丸は、天保11年の絵図に「二之丸」とある。中心部の最高所を占め、
縄張りのほぼ中央にあたり、城内最大の隅櫓が存在することなどから、主郭(本丸)とみられる。
曲輪の規模は約90×50mで、城内最大の広さを有する。北東角と南西角には隅櫓が2か所残る。北東隅櫓(鐘楼堂)には、中心的な建物があったとみられる。南西隅櫓は虎口と一体化し、出入口を守っている。東には土塁が残るが西にも存在した形跡がある。江戸時代の地誌「越の下草」には神水鉢付近に「広式屋敷」(広間屋敷)の一画があったという。曲輪の正面虎口下には城内唯一の石垣があるが、防御のためのものではなく、城主の権威を示す鏡石の役割があったとみられる。
※現地看板より


二ノ丸鐘楼堂





安室屋敷
安室屋敷は、二ノ丸と三ノ丸に面する曲輪で、空堀で隔てられている。天保11年絵図には安室屋敷と記され、今も呼び名が受け継がれている。安室は、家督を嫡子に譲って隠居した人の住居を意味するといわれる。
曲輪の平坦面は35×72m程の広さを有し、二ノ丸に匹敵する大きさである。東から北にかけて土塁が残るが、とくに東の土塁の規模が突出している。土塁の上面は広く平坦であるため、多聞櫓のような建物が建っていた可能性もある。現況の堀底との高低差は13mもあり、東側の防備を強化していたことがうかがえる。北にあるL郭とは大堀切で隔てられているが、土橋でつながっている。
※現地看板より



馬洗池
二ノ丸の鐘楼堂(櫓台)の東にある城跡内唯一の池。山間の湧水を利用した池で、歴代の城主が馬の水をくんだと伝える。天保11年(1840)の古絵図には「馬洗渕」とある。この池は、二ノ丸の東にある大規模な空堀を利用して作られたとみられる。南北39m、東西7~15mを測る。寛政年間(1789~1801)には水田となり、二畝十八歩(257.9㎡)の土地を3名で所有したとの記録がある。
発掘では二ノ丸側の斜面裾から厚い焼土層が見つかったほか、16世紀後半の漆椀や16世紀末~17世紀初頭の瀬戸美濃の徳利が出土した。この池とは別の話だが、上杉謙信が増山城を攻め水の供給を絶った際、城中では白米で馬を洗い、敵をあざむいたという伝説がある。
※現地看板より

三の丸
三ノ丸は、安室屋敷と空堀を隔てて東に位置する曲輪である。天保11年絵図には「三之丸」とあるが、別に「オオヤシキ」とも呼ばれている。同絵図には角櫓や高段という表記があり、櫓台や土塁の存在をうかがわせるが、今は失われている。
曲輪の規模は64×70mで、南から東にかけて一段低く帯曲輪や腰曲輪がめぐる。北東に面したへりに土塁が設けられている。三ノ丸は鐘撞堂から続く大堀切に接し、北東側にも空堀が接する。大きな曲輪が密集する中心部の東端に位置し、重要な防御線の一角を占める。
安室屋敷との間の空堀は、発掘によって堀底が現況よりも3.1mも下にあることが判明した。三ノ丸平坦面までの高低差は10mを測る。
※現地看板より

この先は、お隣の亀山城へと抜けられる。

無常

二ノ丸から細長く張り出した尾根を作り変えた曲輪。全長は80m、北端の付け根付近の幅は7m、南端の広がった所で32mの幅を測る。両側に帯郭があり、東側の帯郭には鐘撞堂、その先には大堀切を挟んだ対岸に南櫓台がある。この2地点は櫓台となっており、城下町からの敵を挟み撃ちするための防御施設とみられる。鐘撞堂の発掘調査では、堀底付近で斜面の岩盤を掘り込んで作った階段遺構が見つかっている。無常の西には大小6本の竪堀からなる連続竪堀群がある。敵の横移動を防ぎ、箱堀である大堀切に誘導する意図があったとみられる。無常は、城の中心の一呼称である「実城」が転じたもの、または寺院にある葬送施設「無常堂」に由来するなど諸説ある。
※現地看板より

J郭
増山城の主郭(二ノ丸)の南側の腰郭。
主郭の横堀の一段下に存在する広い平坦面である。43×18mの規模をもつ。主郭南側の谷に面しており、谷沿いに侵入した敵を防ぐ役割がある。また、東側のへりには竪堀に沿って土塁があり、南側は段々となっている。
※現地案内板より

鐘撞堂
無常の南にある櫓台状の遺構。無常との狭間の堀切、南櫓台との狭間の大堀切を見下ろすことができる。上部は7×6mの平坦面で、櫓状の高層建物があった可能性がある。大堀切から鐘撞堂に至る切岸は城内有数の急勾配である。天保11年(1840)の古絵図には「鐘搗堂」、同15年(1844)の古絵図には「早鐘搗堂」と記されている。
※現地案内板より


南櫓台


堀切

砺波市埋蔵文化センター
続日本100名城スタンプ設置場所

2024/5訪問


 
 


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