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出羽国久保田城 [クボタジョウ] | ||
別称 | 窪田城・矢留城・葛根城・秋田城 | ![]() |
城郭構造 | 平山城 | |
築城年 | 1604年 | |
廃城年 | 1880年 | |
指定史跡 | 市指定 | |
住所 | 秋田市千秋公園1-39 [MAP] | |
スタンプ設置場所 | 久保田城御隅櫓開館時間:9:00~16:30 | |
御城印販売場所 |
概要
久保田城は、秋田二十万石佐竹氏の居城である。
秋田初代義宣(よしのぶ)が慶長七年(1602)入部し、翌八年現在地に築城した。天守と石垣のない城として知られている。本丸は明治十三年公園として開放されその後千秋公園と称し現在に至っている。
※現地看板より
二の丸跡
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本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内堀を渡って二の丸に集まった。勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などがおかれ、特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、能や踊りの見物のために町人に開放されることもあった。
※現地標柱より
長坂門跡
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長坂門は、本丸の玄関口である表門(一の門)の前に設けられており、二の門とも呼ばれていた。現在、久保田城跡に唯一残っている御物頭御番所(秋田市指定文化財)がこれらを管理していた。長坂門の名称は、二の丸から本丸へとのぼる長い石段「長坂」にちなんで名付けられたものである。
※現地標柱より
御物頭御番所
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御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属す役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。御番所の南側14畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。北側には7畳半の休息所や台所・便所があり、中二階には8畳の部屋が配置されている。「国典類抄」などの資料によれば、御物頭御番所は宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。久保田城内で旧位置のままで残っている唯一の建造物である。昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。
※現地看板より
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中二階
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久保田城表門
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久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていました。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には、門の警備と管理をする「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていました。
※現地看板より
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本丸跡
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佐竹義堯公銅像
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第12代秋田藩主佐竹義堯〈文政8年(1825)~明治17年(1884)〉は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では、新政府方に属して戦いました。明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。
※現地看板より
八幡秋田神社
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八幡秋田神社は、初代藩主佐竹義宣公始め、歴代の藩主を祀る、秋田県の有形重要文化財でありましたが、平成17年1月9日の放火により社殿を焼失しました。以来、皆々様のお力を戴きまして、平成20年12月に竣工することができました、これも偏に皆様の御陰様と心より感謝をし、厚く御礼を申し上げます。又、社殿の再建は成りましたが、皆様より尚一層のご理解、力強いご支援、ご協力を賜ります様、切にお願い申し上げます。
※現地看板より
御鷹屋御番所跡
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久保田城御隅櫓
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本丸北側の高台にあり、見張り場と武器庫の役割を担っていた建物を、姿勢00周年事業として、平成元年に建設されたものです。
※現地看板より
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/11/7321516fc5e07099e19242a227c306d1.jpg)
眺望
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多門長屋跡
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埋門跡
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埋門は、本丸の背面(西側)に設けられ、土手を切って出入口とし、その上に多門長屋を渡した一種の隠し門である。門は西曲輪の兵具蔵に通じており、攻撃や防御また緊急避難的な役割をはたしていたと考えられる。
※現地標柱より
帯曲輪門跡
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本丸の奥から二の丸の土門方向へ通じる門であり、本丸の下の帯曲輪に続いている。門の構造等は不明であるが、絵図等の記載では、土塁の上を巡る板塀に連結される形に描かれている。
※現地標柱より
裏門跡
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二の丸から本丸へと続く門のひとつで主に夜間の出入りの際に使用した重層門の跡。2度の大火で焼失し、そのつど再建され、明治13年の本丸の大火では焼け残ったが、移築・改修されて、鱗勝院(旭北栄町)の山門になったと伝えられている。現在は柱を支えた礎石が残っている。
※現地標柱より
胡月池
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茶室「宣庵」
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手水鉢
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庭園に設置された舟形の手水鉢は、文禄の役の際に加藤清正が朝鮮から持ち帰り、大阪城内にあったものを石田三成のはからいで佐竹東家に贈られたと伝えられています。
※現地看板より
2016/10訪問
2024/7訪問