たかが何某、されど何某
よく物の価値を再評価するときに、たかが何某、されど何某という慣用句を我々はよく使う。わたしはこの慣用句の価値を十分認識した上で、逆もまたしかりと思う。
何か自分の能力を超えるものを実行せねばならなくなったとき、それは、されど何某、たかが何某に変わるのだ。例えば与えられた課題ができなかったら、親兄弟子孫累々に及んで惨殺すると迫られたら、どんな困難な出来事であったとしても、たかが何某と腹を括ってやらざるを得ないであろう。そして大抵何某はクリアできるのである。
人間には秘めた潜在能力がある。普段は潜めているが、危機感を感じたとき、殻を破って爆発的にその能力が発揮されるのである。だから、たかが何某、されど何某と言っている間は、おきらくな楽観主義者が口に吐く言葉なのだ。
真に迫った人間にとって、どんな困難な出来事でもたかが何某なのである。
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