人気ブログランキングへ ←1クリックしてくれたら嬉しいです
第八夜
自称神様が手を振り下ろすと同時、一瞬で目の前が真っ暗になった。
目を開けても、つむっても同じ。
光も輪郭も何もない、完全な暗闇。
「おい!どうなってんだよこれ・・・!」
隣で宮本くんが大声を出している。
どうやら、私だけがこの暗闇の中に居るんじゃないみたいだ。
しばらくの間、暗闇に対しての疑問や不安が、言葉になって、部屋の中に響いていた。
「五感の内、君たちの視覚だけを閉じてみたんだ。」
私達が少し落ち着いた頃、自称神様がそう言った。
「君たちは、視覚でこの世界を見て、形や色を認識している。視覚が無ければ世界の形や色が認識出来ないように、もし身体が無ければ、世界そのものを認識出来ないんだ。分かるかい?」
また謎かけだ。
身体が無かったら、世界を認識出来ない?そんなの当たり前。
死んじゃったら、何もなくなるってことでしょ。
・・・でも本当に私が、さっき聞いたとおり自殺してここに来たっていうのならどうだろう。
確かにあるように感じる、私の身体って一体何なんだろう。
そう思って、自分で自分の手を掴んだり、離したり、自分の顔をぺたぺたと触ってみた。
うん、確かに私の身体はちゃんとここにある。
「そう、そんな風に君たちの身体は確かに存在してるよね。例え世界が見えなくなっても、それは目に見えなくなるだけ。視覚が無くなっても、世界は変わらず存在しているはずだ。」
自称神様は、話をしながら歩いているみたいで、私達を囲んで円を描くように、声はゆっくり移動している。
自称神様は、ゆっくり確認するように、『見えないけれど身体がある』ということを、何度か私達に聞いてきた。
その度に、私達は「はぁ・・」とか「ええ・・」と、状況が掴めない中、ただ返事をしていた。
その間も、何度か強く瞬きをしたりしてみたけれど、やはり真っ暗なまま変化がない。
ついさっきまで、太陽の陽が差し込む、とても明るい部屋だったのに。
きっと部屋に変化があったというより、私の目そのものに変化があったんだろう。
『視界を閉じてみた』という言葉。きっと私の記憶を消したのと同じように、自称神様・・・いやこんな事が可能な人は居ないはずだ。
まあ私の記憶に無いだけかもしれないけど。
とにかく自称神様、いや神様には、きっと私達の視覚そのものを封じる方法があるんだろう。
「この暗闇に、何か意味があるんですか?」
私は、ちょうど前を通りかかった(ように感じた)神様にそう尋ねた。
足音が私の前で止まる。
「君達が、何にでも意味を付けていることに気づく、という意味があるんだ」
「意味を付けていることに気づく・・?」
「そう、君たちは目に映るモノ全てに、意味を付ける癖がある。白い部屋、椅子、椅子に座っている自分。もし認識する君達が居なければ、部屋も椅子も存在しないんだ」
「・・・言ってる意味が分かんねえよ。おっさんは俺たちをどうしたいの?」
宮本君がそう疲れた声で言った。
たしかに意味は分からない。
状況に混乱しているのもあるけれど、よく聞いてみても、見えないから何もないのと同じなんて、そんな屁理屈みたいなことを言ってるんだから。
だって、視覚が無くても、きっと白い部屋の中で、私は椅子に座っていて、身体もちゃんとここにある・・・はずだ。
・・・ちょっと、神様が何が言いたいのか、気がついたかもしれない。
「見えなくっても、全部ある・・・ありますよね?」
「おっ?いいねえ。ようし、それじゃあダメ押しだ。今度は君達に、目に見える前の世界に連れて行ってあげよう」
神様は心底うれしそうな声でそう言った。
今の私の発言に、何かヒントがあったのかな。
掴めそうで、まだ掴めないみたいだ。
「はぁ?それってどういう・・・」
宮本くんがそう言いかけたその時、今度は目の前がパッと明るくなった。
完全な暗闇から、一転光の中へ。
不思議とその切り替えに、まぶしさは感じなかった。
「「おい・・おい・・これって・・・」」
どこか、頭の中に響くような声がする。声質からすると、おそらく宮本くんの声だろうか。
私達は、もう暗闇の中には居なかった。
同時に、もう白い部屋の中にも居なかった。
とても明るくなったここには、何も存在していない。
白い部屋も、座っていた椅子も、大きな窓も、そこから差す日光も、何も無い。
それどころか、空間には上も下も無く、ただ光のプールの中に沈んでいるようだった。
「「私の身体・・・ない!」」
これは、私の声だろう。
ただ、どこから声が出ているのかは分からない。
なぜなら、肝心の私の身体が、どこにも見当たらないからだ。
いや、正確には見当たらないというのもおかしい。
慣れ親しんだ、自分の視界というものも無かった。
身体も空間も、その境目がないみたいだ。
ただ、存在しているだけという不思議な感覚。
もう、なにがなんだか分からない。
私は光の中にあって・・・いや、私が光そのものだろうか。
いや、光という表現すら当てはまらないかもしれない。
ただ、私はここに存在していた。
「「なーんにも無いでしょ、これが認識の前の世界なんだ。全ての可能性を内包していて、全てが存在している。だから逆に、何も認識が出来ない。認識というのは、全ての中から一つを選択する行為だからね」」
「「自分が自分じゃなくなりそう・・・」」
「「なんか、よく分からねえけど・・気持ちいい?」」
それぞれの声が響き、混ざり、どれが自分の声なのか分からなくなりそうだ。
頭の中に色んな声がしていて、でも頭も身体も無くて。
・・・!!
そうか、私の本質ってきっとこういうことなんだ。
存在を自分で、全ての中から選択しているんだ。
あぁ・・・そっか・・・・そうだったんだ・・・
「「・・・よし、それじゃあ認識の世界に戻ろう。」」
私?宮本君?神様?混ざり合う意識の中、誰かがそう言った。
スピリチュアル ブログランキングへ
呉 「マインクラフトに時間が吸い取られてます」
(´自ω我) 「夜始めたのに、気づいたらお日様にオハローっすね!」
第八夜
自称神様が手を振り下ろすと同時、一瞬で目の前が真っ暗になった。
目を開けても、つむっても同じ。
光も輪郭も何もない、完全な暗闇。
「おい!どうなってんだよこれ・・・!」
隣で宮本くんが大声を出している。
どうやら、私だけがこの暗闇の中に居るんじゃないみたいだ。
しばらくの間、暗闇に対しての疑問や不安が、言葉になって、部屋の中に響いていた。
「五感の内、君たちの視覚だけを閉じてみたんだ。」
私達が少し落ち着いた頃、自称神様がそう言った。
「君たちは、視覚でこの世界を見て、形や色を認識している。視覚が無ければ世界の形や色が認識出来ないように、もし身体が無ければ、世界そのものを認識出来ないんだ。分かるかい?」
また謎かけだ。
身体が無かったら、世界を認識出来ない?そんなの当たり前。
死んじゃったら、何もなくなるってことでしょ。
・・・でも本当に私が、さっき聞いたとおり自殺してここに来たっていうのならどうだろう。
確かにあるように感じる、私の身体って一体何なんだろう。
そう思って、自分で自分の手を掴んだり、離したり、自分の顔をぺたぺたと触ってみた。
うん、確かに私の身体はちゃんとここにある。
「そう、そんな風に君たちの身体は確かに存在してるよね。例え世界が見えなくなっても、それは目に見えなくなるだけ。視覚が無くなっても、世界は変わらず存在しているはずだ。」
自称神様は、話をしながら歩いているみたいで、私達を囲んで円を描くように、声はゆっくり移動している。
自称神様は、ゆっくり確認するように、『見えないけれど身体がある』ということを、何度か私達に聞いてきた。
その度に、私達は「はぁ・・」とか「ええ・・」と、状況が掴めない中、ただ返事をしていた。
その間も、何度か強く瞬きをしたりしてみたけれど、やはり真っ暗なまま変化がない。
ついさっきまで、太陽の陽が差し込む、とても明るい部屋だったのに。
きっと部屋に変化があったというより、私の目そのものに変化があったんだろう。
『視界を閉じてみた』という言葉。きっと私の記憶を消したのと同じように、自称神様・・・いやこんな事が可能な人は居ないはずだ。
まあ私の記憶に無いだけかもしれないけど。
とにかく自称神様、いや神様には、きっと私達の視覚そのものを封じる方法があるんだろう。
「この暗闇に、何か意味があるんですか?」
私は、ちょうど前を通りかかった(ように感じた)神様にそう尋ねた。
足音が私の前で止まる。
「君達が、何にでも意味を付けていることに気づく、という意味があるんだ」
「意味を付けていることに気づく・・?」
「そう、君たちは目に映るモノ全てに、意味を付ける癖がある。白い部屋、椅子、椅子に座っている自分。もし認識する君達が居なければ、部屋も椅子も存在しないんだ」
「・・・言ってる意味が分かんねえよ。おっさんは俺たちをどうしたいの?」
宮本君がそう疲れた声で言った。
たしかに意味は分からない。
状況に混乱しているのもあるけれど、よく聞いてみても、見えないから何もないのと同じなんて、そんな屁理屈みたいなことを言ってるんだから。
だって、視覚が無くても、きっと白い部屋の中で、私は椅子に座っていて、身体もちゃんとここにある・・・はずだ。
・・・ちょっと、神様が何が言いたいのか、気がついたかもしれない。
「見えなくっても、全部ある・・・ありますよね?」
「おっ?いいねえ。ようし、それじゃあダメ押しだ。今度は君達に、目に見える前の世界に連れて行ってあげよう」
神様は心底うれしそうな声でそう言った。
今の私の発言に、何かヒントがあったのかな。
掴めそうで、まだ掴めないみたいだ。
「はぁ?それってどういう・・・」
宮本くんがそう言いかけたその時、今度は目の前がパッと明るくなった。
完全な暗闇から、一転光の中へ。
不思議とその切り替えに、まぶしさは感じなかった。
「「おい・・おい・・これって・・・」」
どこか、頭の中に響くような声がする。声質からすると、おそらく宮本くんの声だろうか。
私達は、もう暗闇の中には居なかった。
同時に、もう白い部屋の中にも居なかった。
とても明るくなったここには、何も存在していない。
白い部屋も、座っていた椅子も、大きな窓も、そこから差す日光も、何も無い。
それどころか、空間には上も下も無く、ただ光のプールの中に沈んでいるようだった。
「「私の身体・・・ない!」」
これは、私の声だろう。
ただ、どこから声が出ているのかは分からない。
なぜなら、肝心の私の身体が、どこにも見当たらないからだ。
いや、正確には見当たらないというのもおかしい。
慣れ親しんだ、自分の視界というものも無かった。
身体も空間も、その境目がないみたいだ。
ただ、存在しているだけという不思議な感覚。
もう、なにがなんだか分からない。
私は光の中にあって・・・いや、私が光そのものだろうか。
いや、光という表現すら当てはまらないかもしれない。
ただ、私はここに存在していた。
「「なーんにも無いでしょ、これが認識の前の世界なんだ。全ての可能性を内包していて、全てが存在している。だから逆に、何も認識が出来ない。認識というのは、全ての中から一つを選択する行為だからね」」
「「自分が自分じゃなくなりそう・・・」」
「「なんか、よく分からねえけど・・気持ちいい?」」
それぞれの声が響き、混ざり、どれが自分の声なのか分からなくなりそうだ。
頭の中に色んな声がしていて、でも頭も身体も無くて。
・・・!!
そうか、私の本質ってきっとこういうことなんだ。
存在を自分で、全ての中から選択しているんだ。
あぁ・・・そっか・・・・そうだったんだ・・・
「「・・・よし、それじゃあ認識の世界に戻ろう。」」
私?宮本君?神様?混ざり合う意識の中、誰かがそう言った。
スピリチュアル ブログランキングへ
呉 「マインクラフトに時間が吸い取られてます」
(´自ω我) 「夜始めたのに、気づいたらお日様にオハローっすね!」
いつも丁寧なレスありがとうございます。
他の方のコメントも、レスも楽しく拝見してます。
あっ、もちろん小説も(半分気絶しながら)
最近、ふと気づいたというか感じた事があって、
私とは、「存在」だと思う!ってここでコメントした事が
あったんですが、
その時は、「存在」ってとても個人的なものだったんですよ。
それが、あるときふと、私とは、「存在のすべて」じゃーないの!?
と思いまして。。
そしたら、ダグラスハーディング氏の言ってることも
フニ落ちたんです。
せっかく呉さんの意見も頂いたのに、あの時はピンときませんでした。
今も分かってないかも知れませんですが、、
自分の身体の延長で世界がある感じです。
うーん。この考えが合ってる間違ってるという意見を求めるのは
オカシイと思ってますが呉さんどんな感じか知りたいです。
答えは小説のナカニ!?カニ!?
他のブログ読んでたはずなのにいつの間にか呉さんのブログを読んでいました。
後付けで原因は出てきましたが、導かれた事にしてます。
呉さんの一貫した表現のおかげでブレる事なく内容が入ってきました。
自由意思なんてないって事は理解できたのですが、そこからいわゆる既にあるとかワンネスとかの感覚が分からないです。
にゃー。さんの感覚が羨ましいです!
あとは『ハッ(゜ロ゜)!!』っと来るのを待つだけかなぁ.....
↑こんな風に思う自我も幻なんだよなぁ…とぐるぐる考えたりもしちゃいますが、出て来ちゃうもんはどうにもなんないですもんね。
呉さん、素敵なブログをありがとうございます。
ポチポチ毎日応援してます!
>そうか、私の本質ってきっとこういうことなんだ。
> 存在を自分で、全ての中から選択しているんだ。
どのような認識をするかは、自分で意図的に選択できるのですか?
でも、世間一般で当たり前にそれが原因だと思われることすら、幻ですか?
私が、原因はこれだと思い込んで信じて疑わないでいるから、その通りを見ているだけですか?
因果関係は、私が安心するために作り上げただけですか?(原因を解決すれば悩みも解決するのだ、という道を用意するために)
散々質問されてるのと同じような内容ですみません。返信頂ければと思います。
我が家には2歳になる娘がいるのですが、娘がこの世に来たての頃(生まれてすぐ)は、当たり前の事ですが「自分」というものが無く、この世のあれこれなんか勿論知らず、「ほんと、人は悟った状態でこの世に来るんだなぁ」と思っていたのを思い出しました。今では、どんどんと成長し、そして身に付いていく彼女の自我に振り回されながら(笑)、楽しく子育てしています。
人に自我が身に付いていくのは至極当然の事で、むしろ自我を身にまとうためにこの世に来たのかなぁと。そして強固な自我を作った上で、自分の内面と向き合い、時に(むしろ大半)苦悩し、本当の自分の存在を知ると、それが気付きとなる。「この世はうまくできてるなぁ」とつくづく感心します。
子育てをしてつくづく思うのことは「自我」と「育った環境」の深いつながりです。
私は悟りもないですし、人間関係にモヤモヤを抱えるママさんではありますが、呉さんのお勧めの「人生オートモード」中です!
もう意図して10年経ちます
信じようともあきらめようとも結局うまくいきません
嫌な予感だけは現実になるんですけどね。
スピにはまって10年経つのに未だダメダメな自分。
さすがにもうメソッドには興味ありませんが。
呉さんみたいに悟って上手く行く人に追い抜かされるのは何度目なのか。
自分がなさけないですし、この先、生きるのも怖いです
最近気付いたのは『今を受け入れてるか受け入れてないか』これだけですね。
受け入れてる人は幸せで、受け入れてない人は不幸に感じるだけですね。
前にこちらに来ていた高校生さんも最後?に同じこと言ってましたね(*U+2CAU+1D55U+2CB*)
今を受け入れずに、こんな現実嫌だ、こんな人生嫌だ、だとずっと苦しみループですね。
そして嫌だと言ってるのは誰なんだってだけなんですよね (´自ω我) ←
そこで私は今を受け入れよう、この人生を受け入れようとする時に感じる苦しみとか悲しみとか怒りとかの感情を感じました。
暴れる感情エネルギーが枯れるまで感じきればいいなと思ってやりました。
結果は以前よりはすっきりして結構良かったのでオススメですが、やっぱりまだ嫌がってるんです(;^_^A
そこでこんなに嫌がってるんだからもう無理矢理受け入れさせるのは可哀想なので、嫌がってる事を受け入れて自我を見守る作戦に切り替えました。
(´自m我) ← ああ嫌がってる、嫌がってる。本当に今が嫌なんだな~。この人生が嫌なんだな~って自我を見つめています。
この作戦っていいと思います(´自ω我)?
僕も、この身体も含めて単に風景の一部に過ぎないというか、勝手に動いてる不思議なモノというような感覚に陥ることがあります。
今は身体も意識も含めて全体の一部であり、かつ全体であるって認識です。
矛盾しているようで、一番これが近い表現じゃないかなと思ってます。
あんま深く考える必要はないかなと思ってます(笑)
ただ、どこまでも自分があるってことだけです。
>>クレアさん
体験っていうのは、別に大したことでも必要条件でもないと思うんです。
結局体験も気づきも、気づく為の自分が居ますからね。
そこに価値をつけて追い求めている自分に気づく、何かを探している自分に気づくことが何よりの収穫になるかもしれません。
応援ありがとうございます。本当しょうもないブログですが、地道にやっていきますのでよろしくお願いします。
>>サボテンさん
例えば、今そのような疑問が出てきているように、その疑問が浮かぶ為には自分という感覚、自我が必要です。それは当たり前の大前提になってます。
ただ、よく観察してみると分かりますが、私達は色んなことが当たり前になり過ぎて気づいていません。
あらゆることを認識しているのが、まず自分という存在。
生まれて、生きてきて、今日ここに至るまでの自分という感覚の上で成り立っていることに気づいたなら、どんな認識だって自由だと分かると思います。
>>4番目の方
もう、自らの言葉で答えが出てますよ。
そういうことです。
受け入れがたく、どこまでも現実逃避になるような気がするかもしれません。
今までの常識とはかけ離れた、生きてきた土台を全否定するような感じがするかもしれません。
それでもあえて言うなら、全てに原因なんてありません。
そんなもの結果の後に取り繕われた、「原因のように見えるもの」に過ぎません。
人間性の基準も、性格の基準も誰が決めているか。
世間でも他人でもなく、自分自身。もっと言えば自分という感覚すら勝手に出来上がってるものです。
最初から何も起きていません。
一旦積み上げて、崩していく。
人生ってホントに遊びみたいだなぁって思ってます。
ちっちゃい子って不思議ですね。誰から与えられたものでもないのに、いつの間にか自我が生まれてる。なんだか当たり前のようで、こんな面白いことってないなぁ・・と思います。
>>6番目の方
ダメダメな自分ってものも、追い抜かされる自分ていうものも、ついでに追い抜く僕という存在もありません。
悟りを境界線にして、何かが変わるという訳ではなくって、皆が元々同じベースの上に居るんです。
苦しくて、恐ろしいかもしれません。
メソッドにもスピにも答えはありませんが、生きる事が苦しくて怖いと思う自分は絶対にあるはずです。
それを解決しようとする時の自分の動きをどこまでも追ってみるといいかもしれません。
これも何度も聞いた言葉かもしれませんが、最後は自分の中にしか答えはありません。
>>りんごさん
りんごさんが、これがいい!と思えるものが最もいいものです。つまり、それでいいんです。自分の掴んだコツみたいなものが、何より大事なものだと思います。
「受け入れる」って言葉は色んな所で聞きますが、確かに的を得ていると思います。
ただ最近では、受け入れるも受け入れられないも、そのまま受け入れる(流す)って感じが僕の中でベターかなと思ってます。
自我を見つめると、色んなことが冷静に見えてきます。
そんな冷静に見ている自分を更に見つめて・・・って無限ループの中に、ヒントがあると思いますよ。
2点ほど
>生まれて、生きてきて、今日ここに至るまでの自分という感覚の上で成り立っていることに気づいたなら、どんな認識だって自由だと分かると思います。
まず自分というものの感覚ですが、これがよくわかりません。
例えば、何かを握る感覚(固い、柔らかい、暑い、冷たい)など、対象があるものならば、その対象物の感覚を知覚し認識することはそれなりに容易ですが、自分というものはおそらくは対象化できませんから、その自分の感覚とはどうすれば知覚認識できるのでしょうか?
何かヒントをいただけますか?
もう一つ
認識の自由とのことですが、それは例えば、私とは現実世界でこれこれこうである(金持ち、モテモテなど)というイメージ、あるいは宣言・意図などを選択すれば、現実としてそれが現れるということでしょうか?
よろぴくです