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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




企業の競争力は知的財産によって生み出されることが多くなっている。近年のヒット商品を見ると、アイデア、デザイン、ブランドなどが優れているものが多く見られる。
せっかく作りだしたアイデア、デザイン、ブランドが簡単に模倣されてしまってはいけない。これらの知的財産を保護する権利が知的財産権であり、これには産業財産権である「特許権」「実用新案権」「意匠権」「商標権」、文化的創作に関する「著作権」がある。
「特許権」は「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度なもの」を保護する。近年日本では年間で30万件以上出願されて、約20万件が登録されている。

特許の取得手続きの流れとしては、まず出願書類 (願書、明細書、特許請求の範囲、要約書、図面(任意)) を特許庁に提出する。それを受けて特許庁では方式審査を行い、書類が決められた形式を満たしているかを審査する。方式審査終了後1年6ヵ月経過すると (申し出により早めることも可能) 出願公開となり「特許公報」に掲載される。しかしそれだけではダメで、出願から3年以内に実態審査を請求する必要があり、この審査に合格すると特許査定となり、そのあと所定の特許料を納付することで特許権の登録がされる。
最短で特許を取得したい場合は、出願と同時に審査請求をすることになる。すぐに審査請求書を提出すれば1年2ヵ月程度で結果が通知される。個人や中小企業の場合は早く審査をしてもらうこともでき、早い審査ならば2ヶ月程度で結果が通知されるそうだ。いずれにしても年間で約30万件も出願があるような状況では審査は大変だろう。

それでは、特許制度ができた最初のタイミングでは、どのような経過で審査がされたのだろうか。

特許庁 産業財産権制度の歴史
https://www.jpo.go.jp/introduction/rekishi/seido-rekishi.html

江戸時代には、新しい事物の出現を忌避する傾向があったといわれており、1721年(享保6年)に公布された「新規法度」のお触れは、「新製品を作ることは一切まかりならぬ」というものでした。開国により欧米の特許制度が紹介され、1871年(明治4年)我が国最初の特許法である専売略規則が公布されました。しかしながら、当時の国民は特許制度を理解し利用するに至らず、当局においても運用上の問題が生じたため、翌年その施行は中止されました。
その後、特許制度整備の必要性が再認識される一方で、近代化の実を示す必要があったため、高橋是清初代専売特許所長の尽力により、1885年(明治18年)「専売特許条例」が公布されました。特許第1号は7月1日東京府の堀田瑞松により出願された「堀田式錆止塗料とその塗法」でした。
以後、順次特許制度が整備されるとともに、明治38年には実用新案法が整備されました。大正10年の改正では、それまでの先発明主義から先願主義に移行し、その後、昭和34年にこの大正10年法が全面的に改正され、現行特許法、現行実用新案法となりました。


ここのあるように特許第1号は、堀田瑞松(ほったずいしょう)による「堀田式錆止塗料とその塗法」である。堀田瑞松は現在の日本化工塗料株式会社の創業者だ。

日本化工塗料 日本の特許第一号について
http://www.nippon-kako.co.jp/patent.html

この特許は専売特許条例が施行された7月1日に出願されて、8月14日に登録されている。8月14日は「特許の日」となっている。
しかし認められた特許のうち、同じく7月1日に出願されたものは12件あり、そのうち6件は同じ8月14日に登録されている。「堀田式錆止塗料とその塗法」は登録番号が第1号であるが、必ずしも最初の特許とは言えない。

知財アナリストのひとりごと 知られざる特許の旅 忘れ去られた特許第2号
http://oukajinsugawa.hatenadiary.jp/entry/2015/07/08/060000

惜しくも特許第1号になれなかった専売特許を見てみましょう。(原紙は旧字体で書かれていますが、わかりやすいように私のほうで極力現在の漢字に直しています)



なぜこのように、登録日にばらつきが出ているのかは、審査が難しかったのか、何か出願に瑕疵があったのか、など、今となっては「藪の中」??ですね。


当時は現在の先願主義ではなく、先発明主義が採用されていたが、出願された特許の発明日を特定することは難しかったと思われるため、必ずしも発明日順に登録されたというわけはないだろう。そこで特許第1号となってもおかしくなかった12件のうち、8月14日に登録されたものの第2~5号となった特許について見てみよう。 (残念ながら特許第6号の松井兵治郎ほかによる「工夫かんざし」については具体的な情報を得られなかった)
特許第2~4号を同時に取得したのは高林謙三だ。

高林謙三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9E%97%E8%AC%99%E4%B8%89

1859年に欧米列強と通商条約を結んだ日本の輸出品は生糸と緑茶しかなく、貿易の不均衡は拡大する一方であった。川越は河越茶(狭山茶)の産地で、また茶葉は当時、薬でもあった。後に農商務大臣に提出した履歴書に高林は、茶の増産こそが国家百年の大計である、とその思いを記している。
「茶の振興が急務」と一念発起した高林は、1869年、川越に林野を買って開墾して茶園経営を始めた。しかし従来の手揉製茶法では、緑茶の量産は無理で生産費用ばかりが増大し製茶業者たちは困窮を続けた。「茶葉の加工を機械化するしか道はない」と高林は、私財を投じて製茶機械開発に全人生を賭けることになる。
1881年、高林は茶壺の中の茶が壺が動くたびに動くのをヒントに焙茶器開発を思いつき、3年間の試行錯誤で回転円筒式の「焙茶機械」を考案、焙炉製より品質が優り茶葉が無駄にならない器械で、今日も茶店の店頭にある。続けて高林は「生茶葉蒸器械」と「製茶摩擦器械」を発明。
1885年、専売特許法が施行されると直ちに出願し、それぞれが日本の特許第2号・第3号・第4号となった。民間発明家としては日本初の特許取得者である。高林はその後も「改良扇風機」や「茶葉揉捻機」で特許を取得した。


公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会 100年をこえて稼働する製茶機の発明者、高林謙三
https://www.jataff.jp/senjin3/24.html



宮本孝之助の回転式稲麦穀機は、難しくて長期間を要する作業であった脱穀を人力機械化することを可能にしたものである。

足踏み式回転脱穀機の発明 : 特許資料からみた成立前史 近藤雅樹
https://minpaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4180&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

「稲麦扱機械」(特許第5号)
セノハコキ (千歯扱き) を回転させる足踏み式回転脱穀機のアイテアは、思いのほか早く出現していた。宮本孝之助の考案した「稲麦扱機械」(特許第5号) は、専売特許条例が施行された当日の明治18年7月1日に出願されていた。満を持して出願した自信作だったのたろう。
そのアイデアは機械としての構造を理論的には構成しており、充分に現実味を感しさせる。しかしこの機械に結実したアイテアの欠陥は、これを人力によって稼動させようとした点にある。実際に稼動させたとしても、考案者の宮本か予期した成果をあげることは困難たったように思う。この機械を使いこなすには、かなりの熟練を要しただろうから。とはいえ足踏み式回転脱穀機の初出てある「稲麦扱機械」には、早くも人力機械として完成したセノハコキの理想的な形態が描きたされている。




このように見ていくと、特許の審査過程や登録順が決まった経緯は全くわからない。おそらく当時は深い理由はなかったのだろうが、後世になると第1号だけが史実としてハイライトされてしまう。
日本では鎖国の影響もあり特許に対する理解が遅れたが、明治維新後に特許制度整備の必要性が高まり、それまでに考案されたアイデアが1885年7月1日の専売特許条例施行とともに多く出願された、という背景の理解が重要だ。



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