ねぇムスク、パパとママね、やっぱりどんなに想いかえしてみても「愛してるよ。ありがとう。」しか出てこないや、、、
ムスクとおんなじ気持ちだったんだね^^
ねぇムスク、わたし達ほんとうに幸せだったよね。。でもね、これからもね、いつだって一緒なんだよ。パパとママね、いつだってムスクを想っているし、いつだって近くに感じているんだよ。また絶対に会えるからね。その時まで、パパとママとテンの想いはずっと、ずっと今までとおんなじなんだよ。だから安心してね☆
先に、ステキなところへ行っちゃった。。ムスクが、3月10日・土曜日の夕方、天国に旅立ちました。13歳と8ヵ月でした。
あの、先にお礼を言わせてください。。ムスクと私たちの日々に慈悲の気を贈ってくれた友人たち、ムスクのために祈ってくれた素敵な方たちへ、ものすごいパワーをありがとう。心からありがとうございました。
ムスクの目が見えなくなってから~慢性腎不全と闘ってきた、この約2年間強。。もうダメだ・・・となすすべもない分岐点となる要所要所で、ムスクの力や病院の先生や私たちの力だけじゃ説明がつかない、なにかキセキのような、目に見えないけど、なにかものすごい大きな力で何度も助けられました。
安曇野のおばあちゃんやおびんずるさん、たっくさんの神様たちにも、ほんとうにありがとう☆わたしの願いどおり、わたしの中でムスクを看取れました。
そして、わたし達家族4人は、これ以上はない!!!ってくらいやりきりました。なので今、わたし達に後悔や辛さや悲しみはこれっぽちも微塵もありません。なんでなんだろう??変だよね。
不思議なんだけれど、ムスクがいた全ての日々をJと共に想い返しては話して笑って。。そしてたくさんの思い出のムスクが可愛すぎて・・その可愛さに心は微笑んでいるんだけど、涙と鼻水だけが勝手に水のように流れてきて、あれ?悲しくないのになんで涙がでるんだろう?って、そんなとても穏やかな気持ちで過ごしています。
振り返ってみると、その2日間はすごく神秘的で、正直なところ、どっちがムスクの命日だと思う?ってJと迷ったくらいの最期でした。
1回目は3月9日の夕方・会社の就業中にわたしの腕の中でとつぜん息をひきとり、命日の2回目は、前日の9日とほぼ同時刻の病院・酸素室の中でした。
まず、ムスクが「なにクソー!」って闘ってきた慢性腎不全とは、腎臓の3/4以上の機能がすでに蝕まれた病態で、この時点にならないと病状が表にでてこず本人も飼い主も気づきません。なぜなら、腎臓とという臓器はそれほど強いから。そして、腎臓の3/4以上の機能が低下した時点で、それが分かった時点で、すでに手遅れな酷な病気です。その蝕みは、早かれ遅かれ徐々に進行していきます。
腎臓は唯一「再生」しない臓器なので、破壊されてしまった部分は治ることはありません。。そして病状がさらに進むにつれ、下痢や嘔吐や食欲不振、体重の減少、貧血などの症状が目立ってきます。最終的には、体内の老廃物や毒素を尿で排泄できず尿毒症におちいり、痙攣や昏睡などの神経症状が目立つようになります。
そしてムスクの腎臓は、もともと2つある人間や他のワン・ネコちゃんと違って、「もともと1つ」でした。獣医師さんとわたし達がこの10か月間必死になってやってきたことは、この大事な一つしかない腎臓の腎機能低下をなるべく、なるべく遅らせること。そのさまざまな症状の悪化を先回りして防ぐこと、でした。
ちっちゃなムスクは、この慢性腎不全末期の闘いに最後のさいごまで耐え、ソレ自体に勝ちました。そりゃあ進行はしていたけれど、数値もムスク自体も安定していたの。それから、ムスクが生まれた時から背負っている、動脈管開存症(PDA)という心奇形にも勝ちました。心臓はさいごまで強かった!
最期の原因は肺炎でした。そう、人間の老人がよくなる、喉の筋肉やその老化による誤飲の肺炎(本来ならば飲食が消化器を通って胃に入るべきなのに、体がまちがって肺に入れてしまい肺が炎症して呼吸ができなくなった)でした。
でもね、そのさいごを可哀想なんて思わないでほしいの。だって、
健常であるポメラニアンの寿命は、一般的に12歳~16歳と言われていて、そんなこと今まで調べようとも知ろうともしなかったけど、そっか、、、
こんなにいっぱい病気したのに、ムスクはちゃんと老体としての完全なる寿命をまっとうできたんだね^^って、なにか、誇らしくも想ったさいごだったから。
<さいごの2日間の話> 長いです。
話はもどって3月9日。Jとわたしは前日からムスクの呼吸が少し速くなっているのに気付いていた。その腹式呼吸の速度が、朝会社に着いてから更に速度をましていた。
それに加え、「グジュっブジュっ」という濡れたような音色の苦しそうな咳をしだす。持病とまではいかないけれど、ムスクは体が小さいせいでの気管虚脱=もともと気管軟骨がつぶれているから、幼少時からしょっちゅうブゲっブゲっと咳するんだけど、その乾いた音のブゲっとはまったく違う咳でイヤな予感がした。
朝、ごはんは食べたしお水も3本だけ飲んでくれた。お昼にはちゃんと自分で立ってオシッコもできた。わたしが午前中銀行の用事から帰った際も、いつもどおりわたしのデスク前で「ママどこ行ったの?」とキョロキョロと甘えん坊の表情で立って出迎えてくれていた。キスもいっぱいしてくれた。でも、いつもと何かが違った。お気に入りのフアフアベッドで寝ようとしないし、まっすぐの伏せのような形で寝ている姿に、「明らかにおかしい。会社帰りに病院に寄ってくるね」とJにメールをする。そのたった3時間半後だった。
ちょうど取締役とお互いのデスク上で、顔は見えず声だけでの打ち合わせをしていたその時だった。半身を起こしたムスクがまた「グジュっグジュっ」と咳をしだした。なにか喉につまったモノを出したいかのようにとても苦しそうにしてるのを見ていられなくなり、ムスクを胸に抱っこして、ムスクどうしたの?だいじょうぶ??と話しかけたほんの数秒後だった。一生懸命呼吸をしようと咳をだしている最中、とつぜんムスクの意識と呼吸が止まった。
その息が止まる瞬間、ムスクはゆっくりと優しい目で、でもハッキリとわたしの目を見て伝えてきた。それはなにか言葉のような、でも言葉じゃないんだけど、「ママ大好きなの、ありがとう」そういう内容の振動だった。
すごく短いけど、今でもその言葉の熱風と温度も覚えてるくらい暖っかいムスクの気持ちが、わたしの胸の中にバンっと、ほんとうにバンっと強く響いてきた。
J以外に信じてもらえなくてもいい。ムスクがわたしの中へダイレクトに「強い短い言葉」を伝えてきたのは、これが2回目だった。
1回目は、転院を決断するキッカケとなった、まだ前病院で治療をしている最中のこと。
そのほんとうに一瞬のできごとに、わたしは動けなくなった。
きっと何分ものあいだ、急な現実を受け入れられなくてムスクを抱きながら震えていたと思う。やっと揺さぶったりしながらムスクの顔を覗き込んだとき、目をむいたとても苦しそうな表情に「違う!」と思った。違う、ムスクこんなとこで死んじゃダメだ!こんなとこじゃパパが悲しむ。テンだって。違う。
なにか取締役の声が聞こえたけど、夢中でムスクを抱っこしながらエレベーターで建物の外に走って出た。雨が降っていた外気にあたれば、ムスクが息をしだすと思った。
でも、どんなに叫んでも声をかけても揺さぶってもそのままだった。もお5分以上は経っていたと思う、ムスクの口を大きくあけて自分の息を思いっきり吹き込んだ。「ゲっ」っていう音がしたような気がした。でもムスクは動かない。
何度も何度もムスクの口に息を吹き込んだ。鼻の横が一瞬ピクピクしたけれど、死後痙攣だと思った。その後やっぱりムスクは死んだままだった。
それからまた何分か雨にあたって、、、これが現実なんだ、と解ったら、誰もいないところで思いっきり叫びたくなった。ムスクを抱っこしたまま会社のエレベーターに乗り、行き先階を押さずに箱の中でしゃがみこんで、ありったけの気持ちを叫んだ。ムスクありがとう。一緒にいてくれて幸せだった。でも寂しいよ。ママを一人にしないで。叫び終わったと同時に箱の中の電気がボンっと消えて、まっ暗闇の無音になった。
急にとてつもなく怖くなって行き先ボタンをバンバン叩き、電気がパっと点いたとき、ムスクがわたしの腕の中で目をキョロキョロさせてた。息も、浅くだけど一生懸命呼吸している!?!?
急いで会社に戻り、ムスクをベッドにうつぶせに乗せた。意識はハッキリしている。でも舌はぜんぶビローンと出ていて、そこから透明の唾液が水道の蛇口のようにあふれ出てくる。
その経緯を震えながら主治医に電話で伝え、「今、わたしは何ができるか?」の指示を仰いだ。先生は、すぐに病院に連れてこれる?ということと、連れてくる間中、頭が下になるように運びつつ、流れつづける唾液をふき取りながら、唾液をぜったいに飲ませないこと。飲み込んだらすぐにまた死んでしまう。と。
早退をもらってすぐに会社をでる。今の病院がムスクにとって、我が家にとってパーフェクトなのは先生ご夫婦が心あるその専門医のプロだけじゃない。会社から病院が近いこと。これも今までムスクが生き延びてこれた理由の一つだった。
駅までの途中、Jに電話をいれる。いつもはケータイを携帯しない男Jが、しかも忙しい時間帯にすぐに電話にでた。いつでも電話にでれるように待っていたらしい。びっくりした。
会社を出てから30分で病院に着く。そのあいだ、山手線の中で、タクシーの中でムスクは「ママ、電車?」「あ、お外だね?^^」とかいつもどおりの、可愛いまんまるのお目めでわたしに確認したりしてきた。
病院に着くと、先生たちが今のムスクにできる全てを用意して待っていてくれた。酸素マスク。。体温、心音、レントゲン、点滴、PDAによる心雑音に変わりはないことから、心臓を信じて強心剤の投与。しかし一度呼吸が止まった体のショックで、血が全身をまわっておらず血液検査のための血が抜けない。。先生が、カラの注射器を刺しながら「こいっ、ガンバレ、きてくれ」と念じながらやってくれていたけど、血は一滴も吸い上がらなかった。
レントゲンには、肺にモクモクと霧がかかっていて、肺炎の峠なのは一目瞭然だった。
ただ、ムスクはこの検査中ずっと、自らの力で立っていたし酸素マスクをあててもらって呼吸がラクなのか、にっこりさえしていた。
酸素室に入るムスクは、とても落ち着いていた。すぐに先生から病態の深刻なお話があり、わたしはその場で究極の二択からどちらかを選ばなきゃいけなくなった。今の病院に転院した初日に、先生たちに了解してもらい取り決めたことがある。わたしが、必ず看取りたいという願いと、夜はぜったいにお家に連れて帰る。ということ。これをベースに、今までどんなに危ない日も先生たちとやってきた。
でもこの日は、酸素室から出したら数時間後にまた逝ってしまう現実と、このまま酸素室で入院しても、今日明日、生きれる可能性がとても低い現実。
わたしはどうしたって選べなかった。どうしよう?ムスク・・「ムスクなんですけど、ムスクは?」知ってる声がした。
Jが病室に入ってきた。来れるはずがないのになんで!?またまたビックリした。ムスクとわたしが病院に着いた30分後には、Jもそこに到着していた。
一通りの説明と現状を受けて、Jがムスクを見ながら「もちろん入院させよう。少しでも生きれる可能性があるなら、それがあたりまえ。」ときっぱり決断してくれた。わたしはすごくホっとした。
酸素室は音が届くつくりになっている。Jが、「ムスクーパパ帰ったよ。ただいま^^」と声をかけると、お座りすような姿勢に体をおこして、「パパーー♪」って、いつものまんまるのお目めでニコニコしだした。その後、安心したのかすぐにウトウトしだして寝てしまった。
その姿を見届け、先生も安心したようだった。
そう、ムスクって子は、この前日までずーーっと、Jがどんなに残業でおそい日が続いても、かならずパパの帰りを玄関に出迎える子だった。もちろんテンも同様だけど、パパが帰宅するまで、本気寝をしない子だった。
この晩、先生たちは2時間ごとの交代でムスクを看病してくれることになり、わたし達はテンが待っている家に帰った。
一晩中、病院からの電話はなく夜が明けた。ムスクがガンバって生きてる♪♪
面会をしに、Jとわたしとテンは朝一番で病院に着く。向かっている車中で、「安定していますよ^^ごはんも食べるかも?」との嬉しい電話をいただく。
ムスクは、わたし達が入院室に入る前からキョロキョロと首を振ってわたし達を探していた。「ムスクーおはよう。よくガンバったね。だいじょうぶだよ。みんないるからね。」と声をかけると、まんまるお目めでじっと私たちの方を見ていた。そしてまた、安心したかのように瞼をゆっくりとじながらウトウトと眠りだした。私たちが、生きているムスクを見たのはそれが、この写真のムスクがさいごだった。
わたしとJは2人でおんなじ事を感じていた。ムスクは、昨日よりも弱っている。。。なにがって明確にはわからないけれど、そう感じた。
それでも、夕方の面会までに「もしもの退院」を期待して、ムスクを万全に迎えるために酸素缶の調達に走った。
それから一度家に寄って、わたしの手からでしかぜったいに食べない飲まないであろう、ムスクの2日分の療食弁当を作った。そのご午後の面会へ出発、、、お弁当を作っている時から、病院へ向かう車中のあいだ中ずっと、わたしは気分が悪くて吐き気がしていた。Jにもそれを訴えていたほど。
ちょうど病院の脇の駐車場に車を停車した時だった。わたしの携帯が鳴る、病院からだった。「たった今、ムスクちゃんが息をひきとりました」
その言葉に、わたしの全部が停止した。
ついさっきまで安定して呼吸していたのに、またとつぜんだったらしい。そしてまた、その「時」は昨日の会社での時刻とほぼ同時刻だった。
駐車場から病院の入口までたった10秒。たった10秒の距離での知らせだった。病院まで2人で走る。Jがまっ先にムスクを抱きしめて「まだあったかいよ」ほんとうに温かかった。そして、ムスクの顔は、まるで温泉に入って美味しいゴハンたくさん食べたあとのように、『テヘっ』って、笑いながら寝てしまったかのような可愛いお顔だった。わたしが、心からホッとできるさいごの表情だった。
「ムスク、えらかったね。よくがんばったね!おつかれさま。」涙でぐじゅぐじゅだったけど、抱きしめながらそうムスクに伝えた。その言葉以外は出てこなかった。
この10ヵ月間、一緒に戦ってくれたわたしよりも2歳も若い先生ご夫妻にも、泣きながらになっちゃったけど、どんなに支えてもらったのか、どんなに感謝してるのか、そのお陰で、日々どんなにムスクとわたし達が幸せで楽しかったのか、、、をちゃんと自分の言葉で伝えられた。ほんとうに言えてよかった☆
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わたしは、わたし達2人は、この先生たちにゼロから鍛えてもらいました。
忘れもしない、家での毎日のチックン(皮下輸液)の針を刺す行為が始まったばかりの1ヵ月間、その難しさに、その怖さに、自分の指はカタカタ震えるし心臓はバクバクいうし、胃が破裂しそうで、あまりの動揺で、針先を付け替える際に何度も何度も、バカみたいに自分の指先をまちがって刺してしまい、その流血事件にはJを呆然とさせる時もあった。Jはと言えば、一度だけ思い切って挑戦したけれど、恐怖のあまり、刺した針が引いた手にくっついて抜けてしまい、それ以降はそれがトラウマで完璧な押さえ役に徹していた。
そしてその都度のチックンの痛さに、ムスクは部屋を逃げ回り、なだめるパパに「イヤだ、イヤなのー」ってしがみつくほど怖がっていた日々もあった・・・
わたしは自慢じゃないけれど、常日頃から本気で自分の手先の器用さと、その手先までの感覚に自信を持っている。粘る気持ちもしかり。
でも、それらが全て打ち砕かれるくらい、その毎日の刺すという繊細な行為は、今まで体験したことのない恐怖感だった。
中にはちっとも平気な人もいるだろうけれど、もし、可能ならば、読んでくれているみなさんに想像してみてほしいの、、愛する3kgほどの赤子に、泣き叫ぶ我が子の柔らかい、かわいい体に、毎日毎日、針を刺す行為を。。そしてその動物用の羽針の太さは、たとえば人間用の、糖尿病患者さん用の極小インスリン用注射針の、その針の5倍も6倍もブっ太いのです。
「せんせい、やっぱり羽針は難しいしとても怖いんです。。ムスク痛がるし・・」と何度か先生たちに弱音を吐いたときもあった。
でも、先生たちは、何度でも皮膚の三角のつまみ方や、刺す場所、針を刺す角度、その刺すスピードをわたしの手をつかんで教えこんでくれた。
一度も、「そうですよね~怖いし難しいですよね~じゃあ、、」なんて、同調しようとはしなかった。いつでも「大丈夫だから。ぜったいに出来るから^^」と、まるで暗黙に、「あなたがしないで、だれが毎日ムスクちゃにそれができる?だれが助けれる?」という想いが伝わってくるくらい、優しいんだけど、静かに、厳しく鍛えてもらった。
そのお陰で、安定して毎日刺せるようになり、ムスクも痛がらず静かに打たせてくれるようになった。思いっきり打っているのに、気づかずウットリ寝ることに夢中なときも多々あった。
2ヵ月ほど前に発症していたムスクの首の神経痛を抑えるための、ユルい効きめの注射でさえ(←内臓に負担をかけるステロイドではない)「痛がってどうしようもない時に、ご自宅で打ってあげてください」と何本も託され、それをわたし達も「よっしゃ、任せてください^^」と平然と言えるほどになっていた。
実際は、ムスクが自力でその痛みを逃がしたため、ソレを打つ機会はなかったけどね。。そしてトラウマを抱えたJも、ホルモン注射を境に、最終的には注射がうまくなっていた。
そうそう、親だからこそ、飼い主だからこそできる事を気付かせてくれて鍛えられ、教えてもらったのは医療行為だけじゃない。死が待っている病気と戦う強さや子の気力を信じる気持ち、まず病気をよく知ることと、それを全部受け止める気持ち。それでもさいごまで諦めない精神。それらたくさんを教わったのでした。
この病院は、日々たくさんの腎不全と闘う子と、その親御さんでいっぱいです。みんな、真剣な者たちの集まる大切な場所。
わたし達にとっても、これからも守りたい、ずっと大切にしたい場所。だから、今後も病院名や先生名を表記することはありません☆
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<一昨年から~去年のお台場での想い出>
ムスクとテンが1歳未満の頃から、ノーリード散歩を求める場所として激しく通ってきたお台場。
10数年前は、建物といえばまだ船型のデックスしかなくってね。。。それがなんとも心地よくって。今はイロイロと建っちゃったけど、ココは、4人が今までもこれからもリラックスできる想いでがい~~っぱいの大切な場所☆
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火葬までの3日間、Jもお休みをもらい、わたし達は体だけになったムスクと向き合って、いっぱいいっぱい泣きました。いっぱい抱きしめました。いっぱいキスしました。
そして、ついたった1週間前に元気なムスクとロングお散歩にいったお台場に、さいごのお散歩にでかけました。
その1週間前の幸せなお散歩のとき、Jとわたしが2人でつまんでいたマックのポテトを異様に欲しがっていたムスク。。
ポテトを持って逃げるJを、まるで見えてるかのように真っすぐ早足で後を追っていたムスク。。。
ポテトのニオイがついたJの指を、幸せそうにカプカプあま噛みしていたムスク。。
もちろんそんなモノは食べちゃダメなので(テンもね)、「ダメなの。いつかいっぱい食べさせてあげるからね」って約束したから。。☆
14日の気持ちよく晴れた春日和、先生たちが古くから信頼している、という
深大寺で「いってらっしゃい^^」の火葬をしてきました。ばむちゃんと同じく、わたし達もそれぞれに想いを綴ったムスクへの手紙と、いっぱいのcuteなお花を、さいごのムスクに添えました。
一貫した個別の立会火葬を希望し、さいごのお骨上げまで丁重にやっていただきました。お骨は、2人で時間をかけて「可愛いカワイイ♪」言いながら、楽しく丁寧に上げました。お骨ね、かわいかったぁ。妙な風に聞こえるかもしれないけれど、だってそのお骨の一つ一つまで、なんにも変らない可愛いムスクだったから。
また不思議なんだけど、火葬中、ムスクが楽になってたのしそうにルンルンしてるのがJとわたしに同時にダイレクトに伝わってきて、わたし達まで楽しくなってくるほどでした。ほんとうに、なーーんにも悲しみは感じなかったの☆
もちろん遺骨はお家へ持ち帰りました。そして、深大寺でお互いに大中小サイズ(小はテンの)で購入した、お骨入れお守りネックレスを毎日身につけています。それもあるのかな?わたしとJが気持ちが楽でさみしく感じないのは。。きっと、ぜんぶムスクのお陰なんだよね^^
お散歩が、走ることが何より喜びだったムスク。旅行が大大大~~好きだったムスク。潮風が大好きだったムスク。川岸が大好きだったムスク。湯沢が大好きだったムスク。
茹でたササミと納豆と白米が大好きだったムスク。若くてかっこよくて優しい男の人を見つけてはアピールするのが大好きだったムスク。(笑)
お子ちゃまの時から、なぜか一眼レフをさげた人たちに唐突に写真を撮られまくっていた美しいムスク。お台場のアニメ系コスプレの人たちに、神扱いされるほど可愛がられて、めちゃくちゃ嬉しそうにポージングまで決めていたお調子者のムスク。
マジで走ったら、ゴールデンレトリバーも追いつけないくらい速かったムスク。目が見えなくなるまでは、自分の子供のようにテンをお世話していた、ものすごい母性本能のムスク。
どこに行っても「かわいい、かわいい」の絶賛をあび続けていたムスク。さいごまで、食べることと、自分で立ってオシッコをすることにこだわっていた、真にプライドの高いかっこいいムスク。さいごのさいごまで、わたしを信じてくれて、そのすべての身をわたしに任せて頼ってくれた愛おしいムスク。
わたしの、自慢の娘であり、誇りだったムスク。
わたしたち4人は、いつも一緒でした。
一緒なら、なんだって乗り越えられました。
4人で過ごす時間が、なによりも幸せでした。
そしてこれからも、わたしたちは4人家族です☆
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最後に2つだけ。
一つは、大震災後、残された方々、傷が癒えぬ方々、光がみえない方々、それでも一生懸命生きている方々、残された動物たち、ずっと帰りを待っているピュアで美しいワン・ネコちゃんたち、そのみなさんそれぞれに、少しでも癒しがありますように。少しでも明るい希望がありますように。少しでも、一歩づつでも、前を向いて生きていけますように。心から、日々願って祈っています。今までも、これからもずっと見守っています。
2つめは、うん、やっと今あえて書きますが、、、ステロイドはけっして悪い薬じゃありません。適切各所に使えば万能薬です。
でもどうか今後、その子の自然な老いによる宿命で失明し見えなくなったキレイな体に、MRI・CT検査で、誰がなん度確認してもなんにも見付からなかったキレイな体に、失明となんの関連性も根拠もないステロイド剤を、1年と5ヶ月ものあいだ処方するような医療行為が、今後一切なくなりますように・・そんな、域を超えた、域を侵した冒険のような、その医療行為が今後蔓延しないように、そんな医療を受ける子と飼い主さんが今後でてこないように、その処方の説明が充分であるように、、、、、心の底から、切に切に願っています。
ワン・ネコは、目が見えなくなっても、お散歩も生活もちゃんとできるんです。どうか医療が、医療を行う人間が誠実で実直でありますように。ここでの、最初で最後のお願いです。
じゃあ、次こそギョーザ特集いかせてもらいます!(笑)がみちゃん、そのときは連携プレーよろしくね~