父が死んだ。母の後を追うかのように。呆気ない最期だった。
父は死ぬ一週間前に、私の手に書いた事がある。
「死にたくない」と。 私は何も言ってあげられなかった。言葉を無くしていた。 病院からの一本の電話が来たのは、夜八時三十分頃。
「お父さんの容態が急変したのですぐ来てください。」 そう言われました。
そう言われたところで、すぐに駆け付けられる距離ではありません。車で優に四十分は掛かる所に病院は、あったからです。午後九時三十分、私たちが着いた頃には、もう父の身体は冷たくなっていました。実はその日の昼、私と兄夫婦で面会に行ってました。
平成十七年十月八日午後八時四十分、誰に見守られる事も無く、病院のベッド上で七十七年の生涯を閉じました。
父が不調を訴えたのは、それから十年以上前の夏。平成六年八月の終わり頃の事でした。その一年以上前から父は疲れやすくなっていました。今思えば、その頃から発病していたのかもしれません。何をするのにも、すぐ息切れをして、よく休むようになっていました。私の家は昔からの農家でしたから、体力には自信を持っていました。農家といっても小さな兼業農家でしたけど。当然農業だけでは食べて行けず、他の仕事もしていました。当時は力仕事がほとんどでしたので、体力には本当に自信を持っていたようです。そんなそんな父がいつに無く、すぐ息切れをするようになったのでした。
父はそんな身体で、自身でバイクを運転し、近くの病院へ行ったら、すぐ入院となったのです。
次の日から、検査、検査、日々だったようです。そんなこんなで二ヶ月ほど経った頃、
「うちの病院では、十分な検査が出来なくて原因が分かりませんでした。」
「紹介状を書きますから、大学病院に行ってください。」との解答でした。
私たちは、父が直ぐ入院できるように準備を整えてから、大学病院へ行きました。
病院に着いた私たちは、駐車場から病院内まで歩く事になるのですが、その距離百メートル足らず。しかしその距離を歩くのにも二度三度と休まないと歩けない位に父の病気は悪化していました。かなり息苦しそうにしていました。
ヤットの思いで診察を終え、すぐ入院でした。母は父の付き添いで、病院で寝泊りする事になり、私は一人家路につきました。父と母の病院生活のスタートです。
私と兄は交代で金曜日と土曜日、母と交代して病院に泊まることにしました。母の入浴と着替えの為です。
父はこちらでも毎日検査付けでした。そんな中、父は呼吸も間々ならなくなり、血中酸素量が著しく低下しているととの事です。
「このままだと命が危ない。」 と、主治医から言われました。
「どうも、いま一つハッキリしないんでえすよ。症状を診てますと、筋無力症のようにも診えますし、それだけでは無い様にも見えます。とにかく肺機能が著しく低下してるので、すぐ気管切開し、人工呼吸機を取り付けたほうが良いと思います。」 と、主治医は言ってました。
「お父さんには、私のほうから言いますから、宜しいですね?」
「・・はい・・・。」
「今は、主治医の言う事に従ったほうが良いよ。」と、三人で話した事を今でも覚えています。嫌がる父に、無理矢理手術を納得させたようになりましたが、それしか方法が無かった。まだまだ生きて欲しかったから。
父はこの手術で声を失いました。
一ヶ月、二ヶ月と時が経っても父の病気がナンなのか解らなく、私たちは不安になっていました。そんなとき主治医から
「遺伝子検査をやってみましょう。遺伝子を調べる事で、奥に隠れた病気が解るかもしれません。結果が出るまで、一ヶ月ほど掛かりますが。」
「お願いします。」 最期の手段だったようです。
それから一ヵ月後、ようやく検査結果が出ました。
「お父さんは、”筋緊張性ジストロフィー”でした。」
「筋肉が徐々に硬くなってゆく病気です。」・・・
「正直、治らない病気です。今の状況から観て一年、長くとも五年ぐらいでしょう。」 そう言われました。すごくショックでした。治る病気だと信じていましたから。
父は死ぬ一週間前に、私の手に書いた事がある。
「死にたくない」と。 私は何も言ってあげられなかった。言葉を無くしていた。 病院からの一本の電話が来たのは、夜八時三十分頃。
「お父さんの容態が急変したのですぐ来てください。」 そう言われました。
そう言われたところで、すぐに駆け付けられる距離ではありません。車で優に四十分は掛かる所に病院は、あったからです。午後九時三十分、私たちが着いた頃には、もう父の身体は冷たくなっていました。実はその日の昼、私と兄夫婦で面会に行ってました。
平成十七年十月八日午後八時四十分、誰に見守られる事も無く、病院のベッド上で七十七年の生涯を閉じました。
父が不調を訴えたのは、それから十年以上前の夏。平成六年八月の終わり頃の事でした。その一年以上前から父は疲れやすくなっていました。今思えば、その頃から発病していたのかもしれません。何をするのにも、すぐ息切れをして、よく休むようになっていました。私の家は昔からの農家でしたから、体力には自信を持っていました。農家といっても小さな兼業農家でしたけど。当然農業だけでは食べて行けず、他の仕事もしていました。当時は力仕事がほとんどでしたので、体力には本当に自信を持っていたようです。そんなそんな父がいつに無く、すぐ息切れをするようになったのでした。
父はそんな身体で、自身でバイクを運転し、近くの病院へ行ったら、すぐ入院となったのです。
次の日から、検査、検査、日々だったようです。そんなこんなで二ヶ月ほど経った頃、
「うちの病院では、十分な検査が出来なくて原因が分かりませんでした。」
「紹介状を書きますから、大学病院に行ってください。」との解答でした。
私たちは、父が直ぐ入院できるように準備を整えてから、大学病院へ行きました。
病院に着いた私たちは、駐車場から病院内まで歩く事になるのですが、その距離百メートル足らず。しかしその距離を歩くのにも二度三度と休まないと歩けない位に父の病気は悪化していました。かなり息苦しそうにしていました。
ヤットの思いで診察を終え、すぐ入院でした。母は父の付き添いで、病院で寝泊りする事になり、私は一人家路につきました。父と母の病院生活のスタートです。
私と兄は交代で金曜日と土曜日、母と交代して病院に泊まることにしました。母の入浴と着替えの為です。
父はこちらでも毎日検査付けでした。そんな中、父は呼吸も間々ならなくなり、血中酸素量が著しく低下しているととの事です。
「このままだと命が危ない。」 と、主治医から言われました。
「どうも、いま一つハッキリしないんでえすよ。症状を診てますと、筋無力症のようにも診えますし、それだけでは無い様にも見えます。とにかく肺機能が著しく低下してるので、すぐ気管切開し、人工呼吸機を取り付けたほうが良いと思います。」 と、主治医は言ってました。
「お父さんには、私のほうから言いますから、宜しいですね?」
「・・はい・・・。」
「今は、主治医の言う事に従ったほうが良いよ。」と、三人で話した事を今でも覚えています。嫌がる父に、無理矢理手術を納得させたようになりましたが、それしか方法が無かった。まだまだ生きて欲しかったから。
父はこの手術で声を失いました。
一ヶ月、二ヶ月と時が経っても父の病気がナンなのか解らなく、私たちは不安になっていました。そんなとき主治医から
「遺伝子検査をやってみましょう。遺伝子を調べる事で、奥に隠れた病気が解るかもしれません。結果が出るまで、一ヶ月ほど掛かりますが。」
「お願いします。」 最期の手段だったようです。
それから一ヵ月後、ようやく検査結果が出ました。
「お父さんは、”筋緊張性ジストロフィー”でした。」
「筋肉が徐々に硬くなってゆく病気です。」・・・
「正直、治らない病気です。今の状況から観て一年、長くとも五年ぐらいでしょう。」 そう言われました。すごくショックでした。治る病気だと信じていましたから。