スマイリー渡辺 ぶろぐ(すまいる a )

私の音楽活動と趣味生活を皆さんと分け合って楽しみたい!(出来事も!!!)

再会 第6話

2006年04月12日 23時19分34秒 | Weblog
 その頃父は益々元気になり、自力で歩くことさえ出来るようになっていました。笑顔も取り戻し大変明るくなったようにおもえました。ただ気管切開し「カニューレ」と呼ばれるものが着いているため、話す事が出来ないんですが・・・。そんな事も気にせず、病院生活を楽しんでるようにも見えました。
 一方、母は除除に悪くなるばかりです。舌にも異常が現れ、舌が落ちて気管をふさいでしまうようになり、母も、父と同じく気管切開をする事となってしまったのです。母はこの時から益々生きる気力を失っていきました。こう言う状況になると、私たちだけでは介護が難しくなり、退院できるようになっても退院させられない状況になっていました。
 私と兄は二人で母を受け入れてくれる施設を探すため、市役所に行き相談をしました。しかし、その時応対してくれた職員がまったく不親切で、「順番待ちで何処も空いてません。」と、言うばかりで親身になって話を聞いてくれません。
「何か良い方法はありませんか。?」と訪ねても、
「わかりません。」の回答が。・・・わかりません・・・・私たちは、その時大声を上げていました。
「役所の人が、わかりません、てどうようことだー。私たちは、何もわからないから、こうやって相談しに来てるのに、そんな言い方はないだろう!」
「一年後、二年後の話でないんだ。今日明日の話なんだ。そんなんで福祉課やってるのか。」
それを聞いていた上司がやってきましたが、話が着かず、私たちは、
「もういい!あんたらには頼まない。俺らでなんとかする。」思わず言ってしまってました。
なんとかする、て言っても・・・・私たちは二人で涙目になっていました。


このたび、muzie.co. にて「再会(空の上の両親へ)」曲をアップロードしました。
歌詞と共に聞いてみてください。”スマイリー渡辺”

http://www.muzie.co.jp/cgi-bin/artist.cgi?id=a040963

再会 第5話

2006年04月08日 00時21分01秒 | Weblog
 その頃、私は母の介護生活をスタートさせていました。母は病状も安定してきたために、病院を退院して自宅での療養になっていました。とは言うものの、母は寝たきりをよぎなくされていました。
 朝は5時に起床。母のおむつ交換から始まり、食事の世話、歯磨き、体拭き、と、忙しく体を動かし、7時30分に出勤。午前中仕事をして、昼時間は家に帰り、食事の世話、おむつ交換。1時間の休憩時間は往復の時間を考えると35分くらいが勝負でした。その頃勤めていた会社には大変迷惑をかけていました。しかし、会社のみんなの協力の中、私は精一杯頑張ってこれました。大変感謝しています。そして夕方は5時で退社させてもらい家に帰ります。おむつ交換、食事の準備と、食事の世話、それが終わったら、母を風呂に入れて体を洗って、服を着替えさせます。介護をやった事のある人は、この大変さは、お分かりかと思いますが、今考えると信じられないほど体は動いていました。
 ここまでは、介護をやった事のない人でも想像は出来ると思いますが、実はこれからが病人と介護人との格闘が始まるのです。今まで自由に体を動かして来た人が、急に自分の体が思うように動かないのです。動かせないのです。そのいら立ちは介護人である私たちに向けられるのです。10分置き、いや、5分置きに呼ばれて行ってみると、お尻が痛いとか、手が痛いとか、オシッコしたからオムツ交換してくれとか、本当に些細な事で呼ばれるのです。それも一晩中です。私の寝る時間など関係ないかのように、呼びつけます。トータルで考えても、2~3時間の睡眠だったと思います。そんな事やっていて外が明るくなっているのは、ほとんど毎日でした。その日も仕事があるので、そのまま出社してました。
 あまりにもわがまますぎる母を、スリッパで殴ってしまって事すらありました。こんな事を約1年間やっていました。その間に兄も退院できて、そんな体で私を助けてくれました。週3回は家に来てくれて、私の代わりに母を見てくれました。とても嬉しかったのを、今でもはっきり憶えています。その3日間はジックリ寝かせてもらいました。