兄の手術は成功でした。左の肺の半分を摘出したとの事。その後は、抗がん剤を服用し徐々に抗がん剤の量を減らすといった治療をしていました。1年後、再発の心配は無いだろうとの事で、1ヶ月に一度の通院のみとなったのです。
”捨てる神在れば、拾う神が在り。”だったかな?そんな言葉が頭を過りました。お前達にはまだやる事があるから、終わりにしないよ。と、神様が思ったのだろうか!
そんなこんなで、またいつもの生活が戻って参りました。
母はいつもと変わらず、寝たきりで、自分の気持ちは目でする事しか出来ずにいます。正直、こんな母は見たくなかったし、見る事になるとも全く考えもしなかったです。母は、いつも笑ってばかりいた人でしたし、本当に明るい人でした。その分私達には口うるさかったですが。私の友達(今でも親しい仲です。)は、高校の頃、母を亡くしてましたので、いつも家に遊びにくると家の母が、その友達を叱ってたものでした。本当の息子のような付き合いをしていた事を今でも思い出します。
そんな母とは対照的だったのが、家の父でした。本当にブッキラボウで、無口で、農作業していました。だけど、一生懸命明るくしようとしている様子は、伺えましたね。不器用な人でした。父は。そんな父と母だからうまく行ってたのかも。
こんな毎日でしたから、まさかこのような事になるとは全く思ってもいませんでした。仕事も定年になり、これから残りの人生を楽しむはずなのに。やっと自分の時間が持てるようになったのに。その楽しむはずだった残りの人生のほとんどを二人は、病院と特老で過ごしたのです。その悔しさは、二人でないと分からないだろうと思います。私達にも分かりません。ただ、その思いが伝わっては来ました。正直、二人の病気は良くなる事は無かったので励ましの言葉も浮かびませんでした。
同じ病院や施設の家族が帰り際に「早く良くなって一緒に暮らせるように、頑張って病気を治してね。」
などと、言いやがるんです。その言葉は、当の本人には、どう聞こえるのか考えた事が無いんだろうか。そう思ってしまいました。無責任な励ましの言葉なんじゃないか、とも思いました。私だけでしょうか?本人達がその病院や施設を出る時は、亡くなった時だけとしか、私には思えません。
こんな事は書くつもりはありませんでした。しかし、その言葉は、本人達にとっては、一番残酷な言葉なのではないのか。そう思えたのです。
”捨てる神在れば、拾う神が在り。”だったかな?そんな言葉が頭を過りました。お前達にはまだやる事があるから、終わりにしないよ。と、神様が思ったのだろうか!
そんなこんなで、またいつもの生活が戻って参りました。
母はいつもと変わらず、寝たきりで、自分の気持ちは目でする事しか出来ずにいます。正直、こんな母は見たくなかったし、見る事になるとも全く考えもしなかったです。母は、いつも笑ってばかりいた人でしたし、本当に明るい人でした。その分私達には口うるさかったですが。私の友達(今でも親しい仲です。)は、高校の頃、母を亡くしてましたので、いつも家に遊びにくると家の母が、その友達を叱ってたものでした。本当の息子のような付き合いをしていた事を今でも思い出します。
そんな母とは対照的だったのが、家の父でした。本当にブッキラボウで、無口で、農作業していました。だけど、一生懸命明るくしようとしている様子は、伺えましたね。不器用な人でした。父は。そんな父と母だからうまく行ってたのかも。
こんな毎日でしたから、まさかこのような事になるとは全く思ってもいませんでした。仕事も定年になり、これから残りの人生を楽しむはずなのに。やっと自分の時間が持てるようになったのに。その楽しむはずだった残りの人生のほとんどを二人は、病院と特老で過ごしたのです。その悔しさは、二人でないと分からないだろうと思います。私達にも分かりません。ただ、その思いが伝わっては来ました。正直、二人の病気は良くなる事は無かったので励ましの言葉も浮かびませんでした。
同じ病院や施設の家族が帰り際に「早く良くなって一緒に暮らせるように、頑張って病気を治してね。」
などと、言いやがるんです。その言葉は、当の本人には、どう聞こえるのか考えた事が無いんだろうか。そう思ってしまいました。無責任な励ましの言葉なんじゃないか、とも思いました。私だけでしょうか?本人達がその病院や施設を出る時は、亡くなった時だけとしか、私には思えません。
こんな事は書くつもりはありませんでした。しかし、その言葉は、本人達にとっては、一番残酷な言葉なのではないのか。そう思えたのです。