「―チェルノブイリ被災地を訪ねて― 現状と課題」 2011.11.04 坂内 義子
初めに
突然のピンチ・ヒッターと言うことで、不十分な面が多々ありますがお許しください。私は1996年から約15年間NCC(日本キリスト教協議会)のチェルノブイリ委員会に所属し、この間3度チェルノブイリ原発事故の被災地を訪問しました。
NCC はWCC(世界教会協議会)から広島原爆被曝の治療経験などを、チェルノブイリの被災者支援に役立ててほしいと依頼を受け、1990年プロジェクトチームを立ち上げました。そして、チェルノブイリ原発のあるウクライナより被害の大きかったベラルーシ共和国の「サマリアニン診療所」(ロシア正教会所属)を窓口に支援活動を続け、後には甲状腺ガン治療後の子どもたちのための生活・教育支援の方に重点を置いてきました。2008年にはウクライナにも行き、事故炉を中心に15キロ圏内のスタディ・ツアーを実施しました。
1、 地図
初めて訪れたのは1998年、事故から12年目のベラルーシ共和国です。東ヨーロッパにある小さな国で、ウクライナのキエフから10キロ位のところにあります。1986年4月26日早朝に起きたチェルノブイリ事故後の風向きと雨との影響で、放出された放射能の3分の2が隣国ベラルーシ共和国(当時白ロシア)に降り注ぎ、大地が、川が森が汚染してしまいました。旧ソ連ではすぐには事故の情報を発表せず、事故をキャッチして最初に世界に知らせたのはチェルノブイリから1600キロも離れたスウェーデンでした。
これは汚染図です。色の濃い部分ほどセシウム137で汚染されたことを表しています。この地図も初めの頃病院などで掲載するととり外すよう警告を受けたと聞きました。人々は事故について正しい情報を知らされなかったため汚染された空気の戸外で働き、汚染された野菜や果物そして牛乳・水を飲み、次第に身体をこわしていきました。旧ソ連はチェルノブイリ発電所を「世界一」と誇りにしていましたから、事故の真実を発表したがらなかったと言われています。国が調査を依頼したIAEA(国際原子力機関)も当初、「住民に大きな健康被害はない」、という見解を出しました。
原発のあるプリピャチ市では事故の翌日、昼過ぎには身分証明書と3日間の食料をもつように言われ、キエフから来た1,200台のバスで避難しました。30キロ圏だけで避難した人の数は公式に13万人と発表されています。けれどベラルーシでは、30キロ圏にとどまらず、45キロ圏まで強制立ち入り禁止区域になり、さらに後には原発から北に280キロメートルも離れた場所も立ち入り禁止区域にされました。そして避難先が汚染されていたりしていることが分かり、3 年後にも11万人が避難しています。
2、 村の様子
チェルノブイリ事故の5年後、旧ソ連が崩壊して幾つもの小国に分かれましたが、ソ連(後にロシアとなった国)が急激に経済が衰退し、被災国への支援を止めたことなどもあって初めてベラルーシを訪ねた時は大変なインフレで、国民は経済的困窮に陥っていました。ルカシェンコ大統領は強権政治を行い、言論の自由もなく「チェルノブイリはもう終わった」と随分前から終息宣言を出したがっていると聞きました。
事故の前までベラルーシの人々は自然の恵みの中で生きてきました。森や林に出かけてキノコや木の実を採ったり湖や川で魚をとり、畑ではジャガイモや小麦をつくり、草原で牛やヤギを飼っていました。国の広い範囲でそのことが出来なくなりました。初めてチェチェルスク地方を車で訪ねた時は、人が避難先から戻ってきて住むことのできないように、家々はブルドーザーで地中に埋められ、一面赤土だけの広い土地の、所々に門柱やペチカの煙突らしいレンガが頭をのぞかせていたので、「ああ、ここでは以前は人々が幸せな生活を営んでいたのだなあ」と察せられ、しばし呆然とました。道の片側にはいくつかの家、と言ってもほとんど廃屋みたいな木造の粗末な家ですが、残っています。後で知ったのですが、地下水を汚すので埋め立てを中途でやめたとか、予算が足りなくなって止めたのだとか言われてもいます。その後人の住んでいない所は、ただただ草が全面を覆いつくすように茂っています。道路は舗装されていますが側溝や草むらに足を踏み入れると放射線測定器の針は「40キューリもあるのだから」と案内役でもある内分泌科の医師から私は手を引っ張られ道路に戻されました。時には簡易測定器の針が振り切れそうにもなります。でも放射能は目に見えないし、臭いもないので、そこが汚染された地域であることを実感しづらいです。
この写真は、事故後避難先の住居になじめず、本来なら住んではいけない土地に戻ってきてほぼ自給自足の生活をしている老夫婦の家です。最近では数は減ってきたと言われますが、ちらほら高齢者が戻ってきて住んでいます。政府は彼らを「サマショール(わがままな人)」と呼んでいます。放っておけないので、生活必需品を週に一度か二度車に積んで巡回販売しています。
3、 4号炉
これが事故を起こしたウクライナにあるチェルノブイリ原発4号炉の最近の姿です。事故当時は操業停止中で外部電源喪失時に備えての実験を行っていて、制御不能に陥り炉心が融解、爆発したのでした。原子炉内の放射性物質は大気中に約10トン位(520万ベクレル)放出されたと言われます。これは広島原発の400倍位です。(福島の事故での放射性物質の放出量はこの10分の1と言われていますが、数カ月にわたって放出し続けている点が大きな違いでは、と思いますが)。
チェルノブイリ4号炉は事故後すぐコンクリートの石棺で覆われましたが、老朽化し、最近でも近づくと死に至るほどの放射線量<石棺の中は3000レントゲン(h)で500レントゲンの放射線を5時間程度浴びると致命的>が漏れているとのこと。一般人はもちろん立ち入り禁止です。数年前から更にアーチ式の鋼鉄製で可動式のシェルター建設の作業が進められています。費用は7億円かかり、ドイツや日本を含む7,8カ国が資金援助し、11年には完成予定でしたが、今なお未完成です。最後まで運転していた3号炉を含め原子炉はすべて停止しました。
事故後放射性核種は、風に運ばれて世界中に広がりました。大地が汚れると同時に流れる水も、大地に育つ木も草も皆汚染されてしまいます。原発に近い10キロ圏では松の木はたちまち赤茶色に枯れ、リンゴの木も根っこから枯れたと言われます。チェルノブイリ博物館の説明員は、プリピャチの町はもとは「ばらのまち」と呼ばれる美しい町だったのに、今は「ユウレイの町」とよばれている、と悲しい顔で話してくれました。誰も人が住めないゴースト・タウンですから、そこをどのような表現をしても「死の町」であることが事実です。チェルノブイリ市は原発から南東に約15キロの地点にありますが、現在も技師、科学者、消防士など約3800人が輪番制で4日働き3日休むというようなシフトで働いています。1~3号炉の閉鎖、構内にまだ存在する放射性物質の管理、プラント周辺のモニタリング、損傷の激しい4号炉の石棺を覆う新しいシェルターの建設等のため、あるいは放射線を吸収させるための植林などのために働き人が必要なのです。火事も良く起こるようですが、放射性核種をまき散らす原因になるので、消火作業員も欠かせませんし、水質管理も重要な仕事となっています。それらに従事する人のほとんどが立ち入り禁止のプリピャチまで50キロの道を通っているとのことです。これらのことは2008年に現地の「チェルノブイリ・フォーラム」事務所を訪ねて聞いたことです。
ちなみにこの原子炉から3キロのプリピャチという町は毎時3・8マイクロシーベルト位の値を示します。広河隆一氏によると、この高濃度周辺の汚染地から458の村や町が消えたそうです。91年にウクライナ議会が決めた「汚染地域の定義」では年間被曝量は年に5ミリシーベルトですが、日本では福島での事故直後この4倍も高い20㎜ SV の所でも子どもたちが学校へ通ってよいとされました。驚いた母親たちが強く抗議して、後には閾値をもう少し低く1~5ミリシーベルトとしたり、汚染した土を削る等の除染作業が進められているようですが、もともと年間被曝量は1mSV だったはず。緊急時ということでしょうが、数値を20倍にもひき上げました。そして政府や専門家、東電関係者などから「直ちに健康に影響がない」と言う言葉を繰り返し聞かされました。
放射線に対する感受性は子どもの方が大きいし個人差もあると言われます。余り、不安をあおるのは良くないし私も好みませんが、チェルノブイリ事故では原子炉から200キロも離れたところにホット・スポットがあり、ベラルーシのゴメリ州などで低線量被曝や晩発性障害が専門家の間で指摘されています。子どもを含む健康被害、特に肺がんの増加がみられ、その因果関係は証明できないものの人々に深刻な影響を与えていることも聞いています。今直ちに健康に対する影響はないとは言われますが、私たちは正しい情報や知識をもとに、心配し過ぎず、でも次代を担う若い人々が余計な放射線を浴びないための注意を払っていきたいと願います。
4、 開園予定だった遊園地の観覧車
事故の起きた翌日に開園予定だった公園の、これまで誰も乗せたことがない観覧車は雨に打たれ錆びて寂しげな様子でした。
この近くの苔の生えた水たまりは、最も高い数値を示す場所で40マイクロシーベルト以上と案内人が言われ、余り長く滞在しない方がよい、と注意を受けました。
この場所からそれほど離れていない細い一方通行の道の途中に「ごめんなさい、さようなら、私の家」と壁にペンキで書かれている家をガイドさんが指さしてくれました。
一面背丈ほどもある雑草が生い茂っていましたが、その愛する家庭を去らなければならなかった時の方の思いが胸に迫り、一同一瞬言葉を失いました。
5、 事故処理作業者(リクビダートル)の像
原発の爆発・炎上という事態の収束のために消火や放射能の除染をおこなう作業の中心となったのは、軍隊でした。最初は核戦争に備えていた陸軍化学部隊、次第に予備役が召集され、次に「老年兵」に入れ替わったそうです。さらに石棺建設が始まってからは、ソ連各地から愛国的労働者が集まってきました。リクビダートルの総数は60~80万人と言われています。
そしてロシア非常事態相は、事故から20周年の2000年に「5万5千人以上が放射線障害などで過去14年間に死亡した」と発表しました。
このリクビダートルの像には「国民の英雄」と称える文字が刻まれています。
6、 幼稚園や学校を尋ねて
事故から12年目の98年に初めてベラルーシを訪れたとき、幼稚園の応接室で聞いた園長先生の話では、子どもたちは体力が無くなり、病気にかかりやすく、気力もなくて心配だと言われました。そして月に何回か鼻血を出して救急車を呼ぶと、暗い表情で話してくれたことも忘れられません。ベラルーシでは事故後子どもの甲状腺がんが多発したことは広く知られています。それは事故によって放出された放射性ヨウ素を成長期にある子供の甲状腺が取り込んだからです。放射性ヨウ素は半減期が8日を短いので、早く正しい情報を流して処置をすれば被害をもっと小さくできたはず、と多くが指摘しています。埼玉大学放射線生物学の市川教授は「ヨウ素131は寿命は短い放射性物質ながら量が非常に多く、生体内への濃縮が早い。そして植物体内に極端に濃縮され、それを牛が食べ、ミルクなどで人間の体内に入る。呼吸によっても人体に入る。それはほとんど甲状腺に集まる。その吸収は若い人ほど早いとも。そして妊婦の場合は胎盤を通じて胎児に集まり、授乳中の母親からは乳児に移って甲状腺がんを発症させることになる」。と言われています。潜伏期間もあり、事故当時生まれた子どもが20年も経って発病した例もチェルノブイリ子ども基金の報告で聞いています。べラルーシと言う国は、海がなく、普段からヨードを含むわかめなどの海藻などを摂取していなかった事も事故後に甲状腺ガンが増えた理由の一つに挙げられています。
また事故後、大気中には、このほか放射性セシウム、プルトニウム、ストロンチウム等が放出されました。セシウム131は半減期が30年と長く、今でも食物汚染の形で、人間を被ばくさせています。このセシウムは、先の市川教授によると、植物では活発に生長しているところや貯蔵組織に、そして動物では筋肉と卵巣に集まりやすいそうです。生殖線に集まると遺伝的障害の原因となります。ストロンチウム90も半減期は約29年と長く、カルシウムと結びつき、骨髄被ばくを起し、白血病や骨髄ガン、骨ガン等の原因となります。プルトニウム239も発がんの猛毒物質として知られています。この半減期は2万4,100年と気の遠くなるほど長い寿命をもち、重金属極なので空中に飛ばなくとも超微粒子がほこりに付着して肺に入ると肺がんを引き起こすと言われています。これらすべての放射性核種は福島でも排出されているようです。ベラルーシではセシウム汚染値は300キロメートル離れたところにもホット・スポットを形成しています。日本の国土で言うなら半分近くの広がりです。
放射性核種で汚された場所は、きれいな土地になるまでに長い年月がかかります。そのような土地に立ち入ってキノコやのイチゴなど採ったりしないよう立ち入り禁止立て札があちこちに立てられています。ベラルーシの人々はキノコ料理が得意で好物ですので、こっそりはいる人もいると聞きます。幼稚園や学校の先生は子どもたちに野原で走ってはダメとか野イチゴやベリーが大好きなのに摘んで食べてはダメよと言うのは辛いと言われました。
私たちが訪ねる病院の医師や、教会の司祭さんたちは、私たちの訪問をとても喜んでくださいますが、「これからも遠い国でも苦しんでいる子どもたちを覚え続けている人のいることがとても大きな励ましになります」「決して忘れないで、また来てください」と言われます。
甲状腺がんの手術を受けた子どもは大人になってもホルモン剤を飲み続けなければならず、経済的にも大変です。国の経済も貧しく貧困家庭が多く、病院の数も少なく、通院の費用だけで父親の給料のほとんどが消えるという話も聞きました。委員会ではそのような子どもの数人を里子として教育費の支援をしたりもしてきました。里子の一人アリーナちゃんは、甲状腺ガンの手術を受け、看護師資格を得るため看護師養成学校で学び、今は検査技師をしています。私たちのツアーの途中お母さんと一緒に会いに来てくれました。一度は結婚もしたのだけれど病気がちで、・・・と厳しく困難な日々ではりながら、支援に対して感謝の言葉を述べられました。
一方で大人たちの中には「なんでも放射能のせいにする」人、「いつも被曝の恐怖心から離れられない」と放射能恐怖症になって心を病んでいる人も多いようです。私たちが初めのころ連携をもったサマリアニン診療所では、そのような大人たち、アルコール依存症になった人々などを週に1度招いて懇談し、生野菜、みそ、醤油、玄米などを使った自然食の食事指導を行っていました。様々な悩みを抱えていてもなかなか本心を語らず心を閉ざしている人も多いようですが、数時間集まって同じ悩みをもつ仲間の間で心を開くとても貴重な時間になっているようでした。98年に放射線の健康への調査をしていて有名な医学者のラジューク博士にお会いしたとき、たくさんの資料を見せてくださり、健康な赤ちゃんより何らかの異常をもつ子どもの方が(70%以上と)多く、出産率より死亡率が高い、と言われ、けれど「堕胎は道義上許せない」等と若いお母さんには言えません、と苦しい胸の内を吐露されたのが忘れられません。
4年前に病院を訪ねたときは医師から、子どもたちの間で白血病、内分泌異常、呼吸器の病気、糖尿病、目のガンなどが増えていると聞きました。これらは必ずしも被曝によるものとは証明できないけれど、内部被ばくが続いているのは事実だといわれます。かなり厳しい言論統制のあるベラルーシなので、公的機関で働く人々の発言は慎重なことを感じます。
05年にIAEA(国際原子力機関)とWHO(国際保健機構)が主導する共同研究プログラム「チェルノブイリ・フォーラム」は、今後およそ4000人が被曝のために死亡するであろうという見通しを立てました。この数字は低すぎるという批評も多いですが、私自身は数字の問題ではなく、一人ひとりのいのちの大切さ、かけがいのない重いものを感じ取りたいと思います。病気になったり亡くなった方を含め汚染の激しい地域から立ち退いた35万人を超える人々一人一人に物語があります。小動物を含め家族があり、地域があってつながっていた、その人たちの生活の全てが激変し、今なおその傷跡をぬぐい去ることができずにいる痛みに寄り添うにはどうしたらよいのか、考えさせられています。
7、 希望21
「希望21」と言う施設も訪ねました。放射線被曝の影響で甲状腺がんになった子どもや1ミリシーベルト以上の汚染地域に住む子どもを1週間から1カ月程度の期間滞在させ、勉強をしたりゲームや手芸などをしながら楽しく過ごすことのできる施設です。日本やドイツの市民団体や個人が支援しています。ここにたとえ1週間でも滞在すると病気がちだったり、人と接するのを嫌がっていた子どもも見違えるほど元気になって帰宅すると聞きました。NCC の委員会でもスポーツ用品、学用品、楽器などを買うために全国から送られた義捐金を利用させて頂いて送り、とてもよろこばれています。こういう施設が福島の被災地の子どものためにも出来るといいな、と思います。
8、 困難な子どもたちのための設備
ゴメリ(ベラルーシ共和国)の小児外来病院の一室を借りて活動している困難の中の子どもたちのための支援組織があります。リーダーはバレンティなさんです。お子さんが7歳の時甲状腺ガンにかかり手術を受けています。政府はなかなか動いてくれないので、テレビで訴え、同じ苦しみをもつ母親たちが協力して組織しました。2004年には約400名の子どもが登録していました。バレンティナさんは甲状腺ガンだけなく、妊娠中の母親が染色体異常が認められたり、乳児の心臓の異常、骨、リンパ腺異常の子どもなども多くいるとたくさんのカルテを示して説明されました。2000年からは脳腫瘍の増加が心配だと言われます。目のガンもふえていると、同じことを医師からも聞きました。すでに触れましたが、子どもたちの病気は甲状腺ガンだけではありません。甲状腺ガンだけが、公式にIAEA などによって事故の影響と認められています。
女性の地位の低い国ですし、発言の自由も制約を受けているとのことですが、バレンティナさんは「政府は怖くない、真実を話しているのだから」、と言います。いつ会っても、とても子どもたちの健康や生活支援のために一生懸命で、彼女の希望へ向かう迫力は、お見舞いに行った私たちがむしろ勇気や活力を頂きます。今回の全国集会のテーマに即してあえて言うならば、「希望の根拠」の一つをこの逞しい市民(特に女性)パワーに感じます。
9、 最後に
チェルノブイリ事故の時の日本の輸入食品の放射線暫定基準は350~370ベクレル(㎏)でした。それ以上の輸入食品は厚生省の検査体制でチェックされ積み戻さました。主にキノコ類、ナッツ類、ベリー類などで、これらはセシウムを取り込みやすい植物です。また香辛料やハーブ類は放射能を取り込みやすい性質に加え、乾燥重量当たりの濃度が高まるので注意が必要です。でも福島の事故後閾値を500ベクレル(ただし飲料水、乳製品は200ベクレル)とし、基準値が食品においても引き上げられています。主食となるお米や水などはゼロベクレルであるべきと主張される方もあります。
日常の食生活について富永国比古さんが「放射性物質から身を守る食事法」という本を河出書房から出版されています(1,200円)。子育て中の人には特に参考になると思います。
原発は事故が起きなくても常に環境を汚染し、原料のウラン採掘現場で少数民族や弱者が犠牲になっています。更に原発の現場で働く人に日常的に健康被害を与えています。チェルノブイリの25年目が福島元年になってしまいました。チェルノブイリでも0.75マイクロSv/hで免疫機能に異常が見られると聞きました。でもそれが事故を原因とするものか実証は難しいようです。
日本でも事故の完全な終息までまだまだこれから何年もかかるでしょう。私たちは多くの人の犠牲の上に成り立つ潤沢な生活を満喫することに疑問を思い、自然との共生を図って生きていかなければ、きっとまた同じ悲劇がどこかでおこるのでは、と心配です。神様から預かる地球をもっと大切にし、きれいなまま次の世代にひきつぎたい、という思いを皆さんと共有できたら、と願っています。
私は全く科学にはうとい素人ですが、素人だからこそ「取り込んでも安心な放射能なんてないのでは」との思いを持ち続けています。今は大丈夫でも、子どもたちが数年後、数十年後も大丈夫であるように、余計な放射能はとりこまない方が賢明ではないでしょうか。明日への希望を持ちつづけるために。
福島の事故では海に流れ出た放射能汚染水は4千キロかなたに迄及んでいると聞きますが、どうしたら元のきれいな海に戻せるのでしょうか。撤去した瓦礫の行き場所もありません。それらのことを思うとき、私たちみんなが地球に対して責任をもっていることを強烈に示していると思います。科学技術の進歩は、誰しもが望むことかもしれませんが、同時に人類と地球上の生命を脅かす危険を大きくしています。にもかかわらずエネルギーへの飽くなき渇望によって、原発政策を進める世界中の指導者たちが、平和といのちを脅かす企てに駆り立てられ続けているのは残念です。
大地は神様のもの、大地を守ることは、地球に住む人・動物・生きとし生ける者すべての幸せにつながることをいつも念頭におき、未来を担う若い人々が安心して生きていく社会であるために、私たちは何ができるか、何をしてはいけないのか、問われ続けているように思います。(NCC(日本キリスト教協議会)元チェルノブイり災害問題プロジェクト委員会 平和・核問題委員会委員)
★2011年無教会全国集会で話したものをもとに加除訂正しました。