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無教会全国集会2011

無教会全国集会2011の6つの分科会の「お話しあい継続ブログ」です。

無教会全国集会2011

2013年07月05日 | プログラム

1.上記集会は、下記プログラムによって行われました。

2.これは「無教会2011」の内容についてお伝えし、そのすべてのプログラムについてお話あいを続けるためのブログです。

3.すべてのプログラム内容について、左端カテゴリーから選ぶことによりご覧になることができ、感想を書き込むこともできます。

4.分科会についても、所属分科会に関係なくご自由にお書き込みください。

5.書き込み方は簡単です。ページ下方をご覧ください。

 

 

○2012年全国集会は、11月17日(土)~18日(日)に沖縄で開催されます。
 無教会全国集会2012・沖縄 については こちら

 主題 「希望の根拠」


 ローマの信徒への手紙5章5節
「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 第1日(11月5日土曜日)
13:00~13:30 受付 山崎製パン企業年金会館3F「陽光の間」入口
13:30~15:00 開会式
     1.讃美歌: 286番「かみはわがちから」
       聖書朗読: ロ-マの信徒への手紙5章5節
       祈祷
       開会挨拶
     2.聖 歌: 450番 「なにゆえみ神は」
       聖書朗読:イザヤ書40章27~31節
       主題講演「希望の根拠」
       讃美歌: 527番「わがよろこび」
       祈祷
15:00~15:10 休憩
15:10~16:30 発題
       讃美歌:262番「十字架のもとぞ」
       ① 「高齢者にとっての希望の根拠」
       ② 「若者にとっての希望の根拠」
       ③ 「バーチャル社会における希望の根拠」
       祈祷                       
16:30~16:40 休憩
16:40~18:00 東北大震災特別プログラム
       讃美歌: 515番「十字架の血に」
       特別講演「大震災の中からの証し」
       フロア-ト-ク
18:00~19:00 夕食交流会
19:05~20:35 「チェルノブイリ原発災害地を訪ねて」
            ~その現状と課題~現地の映像と共に
       坂内 義子氏
       NCC(日本キリスト教協議会)元チェルノブイり災害問題プロジェクト委員会
       現平和・核問題委員会委員
20:35   解散


 第2日(11月6日日曜日)
08:30~09:00 受付 山崎製パン企業年金会館3F「陽光の間」入口
09:00~10:10 礼拝             
       讃美歌:146番「ハレルヤ、ハレルヤ」
       聖書朗読:ルカによる福音書24章13~35節      
       祈祷
       聖書講義「もうひとつの現実」
       讃美歌:361番「主にありてぞ」
       祈祷
10:10~10;20 休憩
10:20~12:10 内村鑑三生誕150周年記念シンポジウム
        「今、内村から何を学ぶべきか」
       讃美歌:531番「こころの緒琴に」
       ④「非戦平和と天皇・天皇制」
       ⑤「独立、自由、無教会精神-その根源としての聖霊、神の言葉の力」
       ⑥「世俗と信仰-今、『後世への最大遺物』とは?」
       フロアートーク
       祈祷
       司会者
12:10~12:20 移動と休憩
12:20~15:00 昼食・分科会・グループ別撮影(各会議室)
       写真撮影:  *参加者番号を撮影に活用する。
       ①「高齢者にとっての希望の根拠」
       ②「若者にとっての希望の根拠」
       ③「バ-チャル社会における希望の根拠」
       ④「非戦平和と天皇・天皇制」
       ⑤「独立、自由、無教会精神-その根源としての聖霊、神の言葉の力」
       ⑥「世俗と信仰-今、『後世への最大遺物』とは?」
15:00~15:10 移動と休憩
15:10~16:20 証
       ① 被災地ボランティア体験
       ② 愛農被災者
       ③ 参加者から  *申し込みを確認後決める。
       祈祷
16:20~16:30 休憩
16;30~17:00 閉会式
       讃美歌:169番「きけよや、ひびく」
       次回開催地「沖縄」からの挨拶
       閉会の挨拶
       祈祷
       讃美歌:405「神ともにいまして」
17:00    散会


このブログの書きこみ方について
1.左のメニューの「カテゴリー」からテーマNo.をクリックすると、
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3.当日不参加のかたも、参加したかたが所属の分科会以外の箇所に書き込んで
  いただいても結構です。
4.いったん書き込まれてからの削除は可能です。一部訂正の場合も全文削除
  してから書き直して(再投稿して)いただきます。
  方法は、当日お配りしたマニュアルをご覧ください。
5.このブログは、2012年11月開催の沖縄集会まで掲載いたします。


聖書講義 「もう一つの現実」  ルカ福音書二四:13-35 (その1)

2012年04月07日 | 聖書講義

                                                  内坂 晃

 七月頃の朝日新聞だったと思いますが、東大の政治学者藤原帰一氏が「大国の条件」ということで、日本は世界から見れば押しも押されもせぬ大国であり、その自覚に立って、国内のことだけではなく、国際問題についても、それなりに関心と取り組と役割を果すべきだとの意見を載せておられました。それは具体的にはソマリア難民のことであり、当時国連や主要先進国の関心も、東日本大震災よりもソマリア難民のことに向かっていました。むろん当時日本でも
B.Sの「ワールド・ウェイブ・トゥナイト」などの番組では取りあげられていましたが、一般のニュースでは、NHKでも民放でもほとんど報じられていなかったように思います。さすがに八月半ばには、時々取りあげられるようにはなりましたが、一般の関心がそれほど高いとは言えないでしょう。欧米も今はユーロ危機の問題で手一杯といった感じで、ソマリアのことは以前ほど報じられていないようですが・・・。

 今、ソマリアでは370万人が生命の危機的状況にあると言われ、その内100万人を超える子供達が極度の栄養失調で、深刻な状況にあるとのことです。

 

このようになった主な原因は主として三つあり、その第一はこの地域の旱魃です。旱魃は地球温暖化の影響で、この地域だけではなく、例えばアフガニスタンなどでも起きていることは中村哲医師のペシャワール会の会報などでも報じられていることは多くの方々が御存知でありましょう。

 

次に旱魃に伴う食料の高騰があります。この一年間でこの地域の穀物の値段は実に5倍になったと報じられています。そこに投機マネーの関与も加わって、危機を一層深めています。中東の民主化デモの背景にも食料の高騰があるといわれています。

 

そして内戦。今もイスラム原理主義組織アル・シャバブやその他のイスラム過激派組織の争いが続いていて、人道援助の介入もままならないような状況が続いています。先日もお腹をすかした幼児が、異教徒から食べ物をもらったからとの理由で射殺され、激しく嘆く母親の姿が報じられていました。さらに1028日にはケニア軍がソマリアに侵攻するといったことも起こっています。

 

このような中でも国連は、ケニアの(9万人収容の)キャンプに逃れてきた40万人もの難民に、なんとか手をさしのべるべく、「国境なき医師団」などのNGOと協力して世界に訴えています。

 

日本で東日本大震災ばかりが主たる公的関心事となる中で、私達日本人に突きつけられている「もうひとつの現実」がここにあり、私達日本人キリスト者の祈りを合わせるべき課題があります。

 

さて、三・一一の大震災の後、これを私たちの信仰の問題としては、どのように受けとめるべきか、殊に聖書を講ずる者としては、その問いにまともに向き会わざるをえなかったわけですが、その折、私は礼拝でまず次のように述べました。

 

こうした時、私達が陥りやすいあやまちは、何とか神の弁護人の役割を果たさねばと考えてしまうことである。しかし私達は決して神の弁護人になろうとしてはならない。

 

弁護人は被告のことがよくわかっていないと、適切な弁護はできない。では私たちは神様のことがよくわかっているか、といえばそうではないであろう。それなのに神の弁護人を演じようとすれば、いきおいそれは、自分の抱いている神についての教義を神の座にすえて論じることになる。それは被災された方々への、当たり前の人間としての共感をおおう危険をもたらすであろう。ヨブの友人達の陥った誤りは、まさにそういうものであった。友人たちの賞罰応報主義への信仰が、ヨブへの友情の目を曇らせたのである。

 

ヨブの友人達、彼らは最初ヨブのあまりもの悲惨な姿への変わりように、七日七夜ヨブとともにすわって、話しかけることもできなかった。それほどの深い同情をヨブに寄せた。その彼らをやがてヨブへの冷酷な批判者に変えていったもの、それは彼らの信仰への熱心であった。彼らが「これが信仰」と考えるものへの熱心であった。今回のことで私達は、ヨブの如く神に対して、いきどうり、嘆き、訴えてもいい。しかしヨブの友人達のように、神の弁護人になろうとしてはならない。そのように申しました。

 

今、世界に広まりつつあり、憂慮に耐えないものは原理主義と呼ばれるものです。神だけが神であり、人間は人間でしかない。人間は神ではないということは、人間は誤る者であるということです。これが聖書の信仰の基本的立場だと言ってよいでしょう。ですから本当は、神を信じる信仰は、人を謙虚にするはずのものだと思うのですが、かえって人は信仰によって自己を絶対化する。人間は誤りを犯す者であるということは、信仰においても人は間違いを犯す可能性を持っているということになるはずですが、人間は、自分や自分達の信仰に関してだけは、容易に自己を絶対化します。それは教義論争に鎬を削ってきたキリスト教の歴史を見れば明らかです。内村鑑三は、そうした流れに対して、信仰の人格的理解(例えば「所感十年」の中にある「キリスト教はキリストである」などの言葉)に徹するという仕方において、宗教改革的貢献を果たしたと言えるでありましょう。しかし信仰による自己絶対化は、教義や教理においてだけでなく自己の信仰体験、特に「神の声を聞いた」とか「キリストの御姿を見た」とかいう神秘体験や奇跡的医しの体験や自己の苦難の経験によってもなされます。そういうものが一番の自分の信仰の根拠になってしまう。聖書の御言葉以上に。そしてそういう自分の信仰体験を根拠に、時に他の人々に対して「彼らは未だ信仰の奥義がわかっていない」とばかり他を裁く。傲慢になる。

 

以前高橋三郎先生が、藤井武の「聖書より見たる日本」の中の「聖霊米国を去る」との項目の表題に対して、「人間の分を過ぎた物言い」だとして批判されたのを私は聞いたことがあります。藤井武批判として、それが当を得ているかどうかは別として、私はその時、先生の真理感覚の鋭さに心打たれたことを今でもはっきり思い出すことが出来ます。多くの人が悔い改めを表明し、神を賛美する時、私達はそこに聖霊の働きを見出し感謝する、それはそれでいいのです。しかし、それが、そのような光景のみられない集会、老齢化が進み、早晩解散するしかないと見えるような集会、そういう集会は、聖霊の働きがないという批判につながるのであれば、それはやはり、人間の分を過ぎたる物言いと言わざるを得ないでしょう。私達があやまりを犯しうる人間である限り、神とか神の子とか聖霊とかという言葉に対しては、私達ももっと慎みをもって接しなければならないのではないか。原理主義が横行する現代にあってはなおさらであります。

 

私が中学2年生の時の教会学校(C.S)の教師に小林融弘(こばやしみちひろ:当時大学1年生)という人がいました。彼は物理学者として2年前に68歳で亡くなったのですが、C.S中高科の、教師生徒合わせて10名足らずの礼拝のために5年間にわたって黙々と週報を作られました。そこに式次第と共に毎週御自分の短文を載せられました。その内の1つに次のようなものがあります。

 

“横浜の事故と三池の爆発事故のせいで先週(19631110日)の日曜は朝から暗たんたる心持であった。どうしてこんなにいたましい事故がおこるのであろうか。聞くところによると三池ではどのひつぎにも主人を失い息子を失った家族達があきらめようとしてあきらめきれず、かきむしった爪のあとがいたいたしく刻されていたという。あまりにも悲さんな出来事が平気で起こりすぎる世界である。

 

こういう出来事はぼくらと無縁なものとは考えられない。・・・このように非情な出来事は、つまる所、愛なる神の世界支配という信仰への挑戦だとぼくには思われるのである。どうしてあの人達があゝいう目に合わなければならなかったのだろうという押さえられぬ問がわれ知れずこみあげてくる。運が悪かったのだとしか言い様がない。だが、たとえつもりつもった因果関係のせいにしてもやりきれない気持ちにかわりはない。犠牲が大きすぎる。・・・

 

日曜日のことだったが、礼拝で讃美歌を唱っても説教を聞いても例の問いが、「信仰とはいったい何か」という問いが、ぼくを執念深く追いかけた。とうてい、主観的な信仰心の満足にひたっていることはできなかった。信仰とはこの悩み多き世界を、たくましく、よろこびをもって生きぬくための方便なのであろうか。主観の切りかえを言うのであろうか。だがいくら心の持ち方をかえたとしても現実は依然として残る。いくらぼくの心がよろこびにあふれ感動にみちあふれたとしてもあのいたましい出来事はみじんも変化しない。夜に日本橋の集会に出たが、「信仰は勝利」という勇ましい歌がガンガン響く中で、遠い地にくりひろげられている悲しみを想うといたたまれない気がしてならなかった。

 

そうは言うものの、ぼくはもう一つの現実を忘れてしまったのではない。あのイエスが他人の悲しみと苦しみとを背負って歩まれたという事、「あきらめよ」とは語らず「起きて歩め」と語られたという事、誰からも見離されて十字架につけられたという事、徹底した孤独の中で死と直面しながらなおも人々にゆるしを宣言されたという事、これらもやはり現実である。そして不思議にもこの現実こそあの現実と相互に通いあうことができるのだ。さらに不思議なことは信仰の陶酔と逃避および自己満足はこれら二つの現実のいずれとも何の関係ももたぬという事実である。“

 

主イエスが悲しみとやみの現実の中にある者に向かって「起きて歩め」と語られる、その御言葉が私達にとって、どうして深い慰めと力になるのか。それはそう語られるイエスが十字架の悲惨の中からよみがえらされた方であり、今も私達と共にいてくださる方であるからという、復活とインマヌエルの信仰あってのことであります。先の小林融弘兄の短文の背後には、この復活とインマヌエルの信仰が息づいているということであります。

 

マタイは、福音書の終わりを次の言葉でしめくくりました。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)」この「世の終わりまで」私達一人一人と共にいてくださる主は、実は他ならぬあの十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なんぞ我をみすてたまいし)」と叫ばれたイエスその人であります。

 

私達は十字架による処刑というこの闇の深さ、そのリアリティーをしっかりと受けとめるところから出発しなければなりません。すぐに贖罪信仰という教理から出発してはならない。十字架の死の暗さ、絶望の深さをしっかりと受けとめることなしには復活の出来事の衝撃はわからない。

 

ある牧師が次のように記しています。「イースターの喜びは、決してあの十字架の暗さを解消し、あの苦悶の叫びを中和させるものではありません。いや、むしろそれは、イエスの死を新しく確認し、それを肯定する喜びなのです」。

 

復活の出来事なくしては、イエスの死は、単に敗北と絶望の死としてしか受けとめられませんでした。それは、たとえば暗い顔をしてエマオへと向かう旅人の、次の言葉からも明らかであります。

 

イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。(ルカ24:17-21a)

 

イエスの死が敗北と絶望の死ではなく、実にわれらの罪のあがないの死であり、主はわれらの絶望のどん底にまで身を置いて、とりなしをしてくださる方であることをしめすものであったということは、このことは復活を通して、十字架の死をみる時にはじめて明らかにされたことであります。繰り返して申しますがこの意味で復活は、十字架の死を否定するものではなく、それを肯定する喜びなのであります。

 

十字架刑という、文字通り残虐極まりない闇の現実がある。しかし、それが思いもかけぬ救いの道へと変えられる。十字架が神の救いの御業の場と変えられた。しかし、それはまた人々の罪が罪として、はっきりと白日の下にさらけ出されるということでもありました。祭司長や律法学者が、神を汚す者としてイエスを断罪することによって、彼らが神の御前に如何に根本的な倒錯の中にあるかが明らかにされた場所、それは復活の光にてらされた十字架の場面であります。そして罪の中にあるのは、むろん祭司長、律法学者だけではありません。それはまた私達自身の姿でもある。この告白を抜きにして、私達のキリスト信仰というものはありません。

 

十字架刑という形ではないけれど、私達の囲りには、人間的な闇の現実というものが一杯あります。私達はそれを恐れ、しばしばその前に身を固くして身構え、戦々恐々とした余裕のない態度に陥ってしまいます。しかし目の前の闇の現実が、それだけが決して全てではなく、それをひっくり返すもう一つの現実、神の現実というものがあることを知っている者は、目前の闇の現実に対して、もっと余裕をもった態度で応じることが可能となります。

 

ユダヤ人はジョークの天才だと言われます。それは彼らが、キリスト教徒とは違った根拠においてであれ、目前の現実以外に、もうひとつの現実、神の現実というものがあることを知っていて、そこから生まれた余裕が生み出したものといえるのではないかと思います。このことを抜きにして、あの半世紀にわたるバビロン捕囚期をユダヤ人としてしぶとく生き抜くことは出来なかったでありましょう。また一六00年にわたるキリスト教徒による迫害下を、ユダヤ教徒として生き抜くことは出来なかったでありましょう。この辺のことを宮田光雄先生が、次のように述べておられます。

 


聖書講義 「もう一つの現実」  ルカ福音書二四:13-35 (その2)

2012年04月07日 | 聖書講義

ユダヤ人は二○○○年にわたってメシアを待望しつづけてきた伝統を持つ人たちである。つまり、現実にまったく埋没してしまったら、ジョークやユーモアは成り立たない。しかし、彼らのメシア待望は、現実を超えて未来を見る視点を可能にしてきたことを意味する。ユダヤ人は、つねに現実が、唯一の現実ではないことを知っていた。未来を待望していたからこそ、彼らは現実に一定の距離をおいて、それを批判的に眺めることができた。そこに彼らの辛辣なジョークを生み出す精神の根があると思われる。 

  

ではどんなものがあるか。ユダヤ人のジョークのいくつかを御紹介させていただきます。

 

ナチ親衛隊の隊長がユダヤ人をつかまえて言った。

「本官のどちらの目が義眼であるか言い当てたら、今日のところは逃がしてやろう」。

ユダヤ人はじっとそのSS将校の顔をみつめて答えた。

「左の目にちがいありません」。

「フン、うまく言い当てたな。しかし、どうして分かったんだ」。

「ハア、実は左の目の方が人間らしく見えたものですから」。

(ラントマン編『ユダヤ・ジョーク集』実業之日本社)

 

スターリンが死んだときに、クレムリンの鐘が鳴った。クレムリンに電話がかかって、どうして鐘が鳴っているのかと問い合わせが来た。クレムリンの当直者は、スターリンが死んだからだと答えた。しばらくすると、また同じ声で同じ問い合わせがあった。当直者は、親切にスターリンが死んだからですと返事をした。その後も同じ声の主が、ひっきりなしに電話をしてきて、同じ質問をくり返した。親切に答えていた当直者も、ついに怒って問い返した。「もう二回も同じ質問に答えている。スターリンは死んだんだ。一体、どういうつもりで同じ質問をくり返すのだ」と。電話の主は言った。「何遍聞いてもいいものですから」。

 

ソ連のブレジネフ時代のジョークです。

 

世界の三大指導者が全能の神と会見した。まず、フランスのジスカールデスタン大統領が神に尋ねた。フランス国民はいったいいつになったら、みんな幸福な暮らしができるでしょうか。神は答えた。あと一○○年後に。ジスカールデスタンは泣き出した。私はとてもそれまで生きてはいられないだろう。次に、アメリカのカーター大統領が尋ねた。アメリカ国民はいったいいつになったら、みんな百万長者の暮らしができるでしょうか。神は答えた。あと五年後に。カーターは泣き出した。私はとてもそれまで生きてはいられないだろう。最後に、我がソビエトのブレジネフ書記長が尋ねた。ソビエト人民はいったいいつになったら、人間らしい暮らしができるでしょうか。今度は神が泣き出した。私はとてもそれまで生きてはいられないだろう。

 

ところでキリスト者においては、こうしたユダヤ人的ジョークではなく、ユーモアがその信仰の本質をよく示すものだといわねばならぬでありましょう。ジョークとユーモアの違いは、ユーモアは相手への愛を含むものであるといえるでしょう。神のユーモアということを盛んに言った人物は、作家の椎名麟三でありました。

椎名麟三は、イエスの復活について、そこに神のユーモアがあると申します。椎名麟三はルカによる福音書二四章4142節の復活のイエスが焼魚を食べられたという箇所について次のように記しています。

 

全く、あの復活したイエスが、生きている事実を信じさせようとして、真剣な顔で焼魚をムシャムシャ食べて見せている姿は、実に滑稽である。だがその私にとっては、そのイエスにイエスの深い愛を感ずると同時に、神のユーモアを感ぜずにはおられなかったのである。・・・そしてイエスの誕生もその十字架もその復活も神のユーモアにほかならなかったように思われるのである。(「私の聖書物語」)

 

椎名麟三が人生に絶望し疲れ果てていた時友人に誘われ、初めて教会の門をくぐったのが、イースター礼拝の日でありました。そして初めて聞く説教の箇所が、復活したイエスが焼魚を食べて見せるというところで、友人は「しまった。こんな話の時に連れてくるんじゃなかった」と思ったそうです。しかし椎名麟三自身は、その時全く別のことを感じていました。それは、十字架上で確かにイエスは無残な死を遂げたという、まぎれもない人間の現実が一方にありしかし他方それをひっくり返すもう一つの現実、復活したイエスが焼魚をむしゃむしゃたべているという神の現実があるということを聖書が語っているということに彼は感激していたのでした。即ち人間の現実だけを唯一絶対とすることから自由にされる根拠を、彼はイエスの復活に見出したのであります。

 

ところで復活のイエスに神のユーモアを感ずるというのはまだわかるとしても、あの悲惨な十字架がどうして神のユーモアなどでありうるのかと問う方がおられるかもしれません。しかし、ユーモアとは「自己にとらわれない、自己防衛の心から解放されて、自由に自己を展開出来る姿」から生み出されるものだとすれば、十字架こそは、神が自己にとらわれず、自己防衛の心などかなぐりすて、限りなき愛の故に自由に自己をすてられた姿であったといわねばなりません。この十字架の主が、私達一人一人と共にいて下さる、これがインマヌエルの信仰であり、それを保障するものが復活なのであります。この復活の主に出会った時、暗い顔をしてエマオ途上の道を歩いていた弟子たちの心が燃えたとの同じ経験を私達もすることが出来る。

 

では如何なる仕方で、この弟子達は復活の主に出会ったのでしょうか。まずイエス御自身がこの弟子たちの方に近づいて来られたとあります。

 

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。(24:1315

 

しかし彼らは、それがイエスだとはわからなかったとあります。

 

しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。24:16

 

 


聖書講義 「もう一つの現実」  ルカ福音書二四:13-35 (その3)

2012年04月07日 | 聖書講義

私達が信仰に導かれた道筋も、本質的にはこの弟子たちと同じでありました。たとえ自ら求めて求道し、信仰に入ったのだとしましても、事の本質においては、私達が主を選んだのではなく主の方が私達に近づき私達を選んでくださったのであります。しかも私達は最初は主がどのような方なのかを全く知りませんでした。では、この弟子達は、イエスのことがどうしてわかったのでしょうか。それはまず聖書のときあかしを受けてであります。

 

そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。24:27

 

私達においてもまた、イエスとの出会いをなさしめるものは、まず聖書に深く沈潜し学ぶことからであります。そして聖書のときあかしを受ける中で、この弟子達の心が燃え、その眼が開かれて、ハッとイエスのお姿を見るのは、イエスの祈りの姿を見たときでありました。

 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。24:3032

 

私達もまた、祈りにおいてこそ、自己の思いにこり固まっていた自分から、徐々に解き放たれ、沈黙の時を通って、しだいに自分の思いではなく神の御旨をたずね求め、御旨に従う者とならしめ給えと祈る者とされるその時、イエスのとりなしの祈りに導かれている自己を、しかと感ずることが出来るのであります。

 

そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、 パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。24:3335

 

復活の主に出会った弟子たちはそのことを告げるべく、エルサレムへ戻って行きました。エルサレム、それはイエスをあざけり、イエスを十字架につけた人々がまだ一杯いた町であります。その現実の中へ、この弟子達は、復活というもうひとつの現実、神の現実をたずさえて戻っていったのであります。私達においても、事柄の本質は同じであります。あらゆる不条理と悲惨と不正がはびこり、力あるものが弱いものをふみにじり、そして不条理と死が絶対的な力をもって支配しているこの世の現実、私達自身が、この罪の身をもって、その中でキリキリ舞いさせられている闇の現実、その真只中に主イエスの復活というもうひとつの現実、神の現実をたずさえ、これを証言すべく私達も召されているのであります。この意味で、復活信仰とは、死後も天国があるという逃避的な来世信仰とは全く別のものでありまして、それは義と愛なる神の、この世の闇の力(虚無の霊)にたいする勝利を信じて生きるということであり、また私達一人一人の罪の現実に対する神の勝利の現実を信じて生きるということであります。従ってそれはこの世にあっては本質的に戦闘的な生涯たらざるをえませんが、それはまた、この世の闇の力を相対化させ、それにユーモアをもって対処しうる生き方となるのであります。

  

現実の私達の姿は自己が傷つけられることを恐れて、すぐに身を固くし、目の前の現実だけが唯一の現実のように思い込んで、それにふりまわされて余裕を失った態度になってしまいますが、私達には、主イエスの復活において、もうひとつの現実、神の勝利の現実が与えられていることを信じて、どうか余裕とユーモアをもって生きて行く事のできる者とされたい、そう願うのであります。

最後に賛美歌361番をうたいますが、これは亡くなられた小林融弘兄の愛唱賛美歌でありました。共に御唱和いただきたいと存じます。

 

1

主にありてぞ

われ主に、主われに

われは生くる

ありてやすし

 

2

主にありてぞ

主にある死こそは

われ死なばや

いのちなれば

 

3

生くるうれし

主にあるわが身の

死ぬるもよし

さちはひとし

 

4

われ主に、主は

天こそとこよの

われにありて

わが家となれ


特別講演 「大震災の中からの証し」 (要約)

2012年04月06日 | 特別講演

                                                  吉原 賢二

 老年に達したいま、私は信じる。人はそれぞれに与えられた道を歩む。それを定める大いなる真美の神のみ手があると。

 災害は忘れた頃にやってくる。千年に一度という東日本大震災は東北・茨城・千葉を襲った。地震と大津波は多くの人命と家屋・財産を奪った。さらに東京電力福島第一原子力発電所の事故が発生、原子炉は冷却失敗、その結果水素爆発が起こって、多量の放射性物質が環境中に放出された。そのため福島県内の多くの人々が避難せざるを得なくなった。

 私の住むいわき市は避難の指定を辛うじて免かれた。しかし風評被害により一時は陸の孤島状態になった。家族も家も地震・津波の被害はなかったものの、水道やガスは使えず、ほとんどの店は閉鎖、生活は戦時中を思わせる不便の中に放り込まれた。再々発生する余震にも悩まされた。

 天災・人災こもごも来る中で私は祈った。関東大震災にあった内村が言うように地震は自然現象であるが、その中に何事か創造者のみ心を思わざるを得ない。信仰は科学を超えた世界のものである。

 私は祈り、そして震災に悩む人々に微力ながら援助の手を伸べ、放射線の恐怖におびえる人々には、大学の専門を生かして放射線についての知識をもたらし、過剰な恐怖を拭い去るために働こうと考えた。それを実行に移した。その働きの過程では評価されることも、批判されることもあった。苦難と恐怖の中の人間の心理について学ばされた。学校の講義とは違う戦いの場なのだ。

 この間多くの友人からお見舞いとお励ましをいただいた。信仰者からの祈りの援軍はありがたく、私の未来への希望を強める。


主題講演 「主は、いま活きておられる」(要旨)

2012年04月06日 | 主題講演

 「希望の根拠 一主はいま、活きておられる-」
                                                     浦和キリスト集会  関根 義夫
 「希望の根拠」要旨

「主は、いま活きておられる」
  内村の生涯において、そのもっとも大きな霊的危機は、破婚の痛みに耐えず、異郷の地に渡らなければならなくなった8寺であるに違いない。彼は「余は如何にして・・・」の中て「余が病院勤務に入ったのは、・・・ただ、余はそれを「来たるべき怒り」からの唯一の避難所であると考え、そこで余の肉を服従させ、内的状態に達するように自身を訓練し、かくて天国を継ごうとしたためである。・・・
余がその要求に自分自身を合致させようと努力する中に、余の生来の利己心はそのあらゆる恐ろしい極悪の姿を持って余に現れた。そして余自身の中に認めた暗黒に圧倒されて、余は意気消沈し、言うべからざる苦悩に悶えた。・・・」と綴っている。しかし、その彼が後に、「余はそこで、故国で洗礼を受けてから、約十年の後に、本当に回心させられた、すなわち向きを変えさせられた、のであると信ずる。」と記すにいたる。この魂の再生のきっかけとなったのがシーリー先生との出会いであったことはよく知られている。しかし内村に起こった霊的変化は、それ以上のことであったのではないか。それは彼自身が「主はそこにて余にご自身を現したもうた。(The  Lord  revealed  Himself to me there)」と記しているからである。彼はこの時、主ご自身に出会ったのである、と思う。もちろんこのことはシーリー先生なしには決して起きなかったことではあるが。聖書の中には、多くの先人たちが、その霊的危機の中で、いま活きて働いていらっしゃる主にお会いすることによって新しい命を与えられ、その後の生涯を主に向かって生きたことを伝えている。わたしたちの主は、ゴルゴダの丘で絶命されてから三日目によみがえられ、いま活きて働いていらっしやり、信じる者に、聖霊としていつも臨んでくださっている。そればかりではなく、時満ちて、必ずわたしたちの肉の目に見える姿でお出でくださる。ここに、わたしたちの尽きない希望の根拠があるのである。








主題講演 「主は、いま活きておられる」 その1

2012年04月06日 | 主題講演

                                                  関根 義夫

ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、

わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた、と。

あなたは知らないのか、聞いたことがないのか。

主はとこしえにいます神

地の果てに及ぶすべての物の造り主。

倦むことなく、疲れることなく、

その英知は究めがたい。

疲れたものに力を与え、

勢いを失っているものに大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、

主に望みをおく者は 新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。

走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

                        イザヤ書402731

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださるように。

ローマの信徒への手紙1513

 

内村の生涯において、その最も深刻な霊的危機は、浅田タケ女との破婚であったと言えるでしょう。

破婚そのものも重大な事態ですが、彼の場合、それがなぜ霊的な危機であったかというならば、彼が札幌で受け入れたキリスト教が、破婚による彼の痛手を癒すことができなかった。そのために彼は故国に留まることが出来なくなり、異教の地に渡らなければならなくなったのでした。

彼は後に「余は如何にして基督信徒になりし乎」の、第8章「基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッジ生活」の冒頭で、「余はニュー・イングランドをぜひとも見るべきであった、余のキリスト教はもともとニュー・イングランドから来たものであって、彼女はそれによって引き起こされたすべての内心の争闘に責任があったからである。余は彼女に一種の請求権を持っていた、・・・」と記していることからもそれがうかがえます。

 

ところで「余は如何にして・・・」の中で、内村自身の、最も苦悩に満ちた言葉が記されているのは、その第七章「キリスト教国にて ― 慈善家の間にて」の次の部分です。

そこには、彼がペンシルベニアの、知的障害を持つ子どもたちのための一施設で、看護人として働くことになった時の心境が記されています。鈴木俊郎訳 岩波文庫版で引用させていただきます。

 

「ここに記させてもらいたいのは、余が病院勤務に入ったのは、マルチン・ルーテルをエルフルト僧院に遂いやったとやや同じ目的を持ってである。余がこの歩みをとったのは、世界がその方面に余の奉仕を必要とすると考えたためではない、いわんや(たとえ貧しくとも)余はそれを職業として求めたためではない、ただそれを「来るべき怒り」からの唯一の避難所であると考え、そこで余の肉を服従させ、内的純潔の状態に到達するように自身を訓練し、かくして天国を嗣ごうとしたためである。

心底ではそれゆえ余は利己的であった、そして利己主義はいかなる形で表れても悪魔のものであり、罪であることを、余は幾多の苦しい経験によって学ぶにいたった。慈善の要求するものは完全な自己犠牲と全部的の自己没却であるが、余がその要求に自分自身を合致させようと努力するなかに、余の生来の利己心はそのあらゆる恐ろしい極悪の姿を持って余に現された、そして余自身の中に認めた暗黒に圧倒されて、余は意気消沈し、言うべからざる苦悩に悶えた。」

 

慈善によって自らの魂の救済を達成しようと考えた内村は、間もなく行き詰まり、働き続けることが出来なくなり、そこを去ることになります。

 

「悲しい心を抱いて余は病院とそこで得た多くの善き友人たちとを後にした、余の不完全な勤務と余の身を親愛なドクターの配慮に委ねてから、かくも速やかな計画の変更とを深く後悔しつつ」彼はニュー・イングランドのかの地に向かうことになります。

かの地で、彼がどのようにして、遂に魂の新生を迎えることになったかについては、改めてここで述べるまでもありません。

 

しかし、ここで、どうしても確認しておかなければならないことがあります。

それは、この書の第八章「キリスト教国にて ― ニュー・イングランドのカレッジ生活」の末尾に近いところに記されている彼の次の文章です。

 

「以上の様な回想を持って、余のニュー・イングランドのカレッジ時代は終わりに達した。

余はそこに重い心を抱いて入った、そして余の主なる救拯主にある勝利の誇りを持ってそこを去った。その時以来余はなお多くを知った、しかしただ余のカレッジの古典的な丘の上で知ったことを確証するにすぎなかった。余はそこで、故国で洗礼を受けてから約十年の後に、本当に回心させられた、すなわち向きを変えられた、のであると信ずる。主はそこにて余にご自身を現したもうた、特にかのひとりの人を通して ― 鷲のような眼、獅子のような顔、小羊の様な心の、余のカレッジの総長を通して。」

 

私たちは、彼内村が、その魂の新生、回心を経験することになったのは一重に、彼が敬愛し、尊敬して止まないシーリー総長との出会いによる、と考えております。それは彼の次の言葉からも充分知ることが出来ます。

 

「総長先生彼自身にまさって余を感化し変化させたものはなかった。彼がチャペルで起立し、讃美歌を指示し、聖書を朗読し、そして祈ることで充分であった。余は尊敬すべき人を一目見るというただ一つの目的のためにも、決して余のチャペル礼拝を『カットした』(すなわち欠席した)ことはなかった。彼は神を、聖書を、またすべてのことを成就する祈りの力を、信じた。・・・余には、一日の戦闘に備えるために、彼の澄んだ、響き渡る声にまさる何物をも必要としなかった。・・・・。

 

余は告白する、サタンの余を支配する勢力は余がかの人と接触するにいたって以来弱まり始めたことを。徐々に余は余の原始の罪と派生した罪とを払い清められた。カレッジ生活二年後、余は天の方を指した途にあったと思う。余が躓くのを止めたというのではない、余は依然として絶えず躓くからである、  

しかし主は憐れみ深くありたもうこと、そして彼は余の罪を彼の御子にありて消し去りたもうた事、彼に依り頼んで余は永遠の愛から遠ざけられていないことを今や知るが故である。」(「余はいかにして・・・」(157~158p

 

彼は、シーリー総長と出会うことによって、このような深い人格的感化を受け、福音の何であるか、何でないかを深く把握するにいたったのですが、実はそれ以上に、彼が得た最も深い霊的体験は、「主はそこにて、余にご自身を現したもうた」という彼の言葉によって示されています。

彼が「主はそこにて、余にご自身を現したもうた」(The Lord revealed Himself to me there,内村鑑三英文著作全集第一巻p.166 教文館 昭和4612月)と記していることこそ、何重にも特記されるべき記述であると思います。

reveal という語は、辞書によれば、「今まで隠されていて見えなかったものが姿を現す」とあります。

また「ご自身」という訳語は、元の言葉は「Himself」と、最初のHが大文字で記されています。これは「ほかならぬ主ご自身」、ということです。ほかならぬ主ご自身が彼内村に、ご自身を現してくださった、ということです。

もちろんここで忘れてならないことは、内村が、この後に続けて、especially through that one man, the.・・・President of my college 特にかの一人の人を通して、と記し、それがシーリー総長先生を介して、であることを明示しています。

ということは、彼内村は、シーリー総長との出会いを欠いては、この霊的体験にあずかることが、恐らくは、なかったであろう、ということです。

 

内村は後年(「クリスマス夜話-私の信仰の先生」192512月「聖書之研究」)という文章で次のように記しています。

「私は先生において、私の理想のキリスト信者を見んと欲した。しかるに、何ぞ図らん、先生は私の理想とは全然違った人であった。先生において見るべきものは、学識でも威厳でも活動でもなかった。嬰児のごとき謙遜であった。

先生は神学と哲学において偉大であったが、その偉大は少しも外に現れなかった。先生がその偉大なる人格と学識とを全部主イエス・キリストに捧げておるを見た。これを見し私のキリスト教観は一変した。私はその時初めてキリスト教に接したように感じた。」

 

内村は、このように、シーリー先生を介して、あるいは経由して、シーリー先生の背後に、その向こう側に、シーリー先生とは全く別の存在である方の存在、シーリー先生を生かし、シーリー先生を満たし、先生が、その偉大なる人格と学識とを全部捧げている、その当のお方を確かに示されたのです。

 

彼内村が、たぐいまれなる深い人格と信仰の持ち主であるシーリー総長に出会うことが出来たのも神の深い配慮でありますが、それと同時に、否それ以上に驚くべきことは、彼内村はここで、十字架に架

けられた後、三日後に復活され、いま活きて働いておられる主キリストの顕現に接した、ということです。もちろん顕現と言っても、イエス・キリストが、肉の目に見える姿を持って内村に現れたも歌ということではないでしょう。しかし、内村は、この時に、シーリー先生が、自分のすべてを捧げておられる、今活きて働いていらっしゃる、その当のお方の存在を確かに、目に見えるように確実に、霊的に確信したといってもよいかもしれません。

 

先にも引用いたしましたように、内村は、「余の主なる救拯主にある勝利の誇りをもってそこを去った。その時以来余はなお多くを学び多くのことを知った。しかしただ余のカレッジの古典的な丘の上で知ったことを確証するにすぎなかった。」と述べています。

このことは、このカレッジでの、主ご自身が彼に現れて下さった、という経験が彼にとってどんなに根本的な、決定的なものであったかを示しています。

 

彼はここで、その後40年余にわたる彼のすさまじい闘いの生涯の固き礎となる、キリストの福音の根本を把握したのです。そしてそれは、肉の目には見えないとしても、確かにいま活きて働いておられる主にお会いしたことこそ、その根底をなしている、と私は考えているのです。

 

 

よくよく思い起こして見ると、私たちに与えられている聖書は、この内村の経験と同じような、活きて働いておられる主にお会いする、という深い霊的経験を与えられて歩んだ、何人もの先人の記録

をわたしたちに残してくれております。

 

父テラに導かれて、偶像の支配するカルデアのウルを出たアブラムに、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」(聖書協会訳)と語りかけたもうたのも、この方でした。

それ以後アブラハムとなった彼に度々現れて、彼に語りかけたもう、このお方の言葉に従って、彼は、まさに行く先を知らずして、その生涯を歩み続けたのでした。

 


主題講演 「主は、いま活きておられる」 その2

2012年04月06日 | 主題講演

                                                  関根 義夫


自分がエジプト人ではなく、エジプト人に、奴隷のようにこきつかわれているヘブライ人であることを知ったモーセは、一度は力を持って同胞を立ち上がらせようとして失敗し、追われる身となり、ミデアンの地に逃れ、そこで人知れずに自分の人生を終わらせようとしていた時、燃えているのに決して燃え尽きることのない芝の中から、彼に現れたのもこの方でした。

「わたしはあってある者」と言われたこの方は、躊躇しているモーセに、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と言って彼を励まし、あの出エジプトを敢行させたのでした。

 

またこの方は、イスラエルの王アハブの時代に、主に対する熱心から、バアルの預言者と争って勝ち、キションの河原で彼らを皆殺しにしたエリヤが、アハブの妻イゼベルの手に追われ、這う這うの体で、ホレブの山に辿り着きますが、そこで自分の命が絶えることを願ったとき、静かにささやく声で、彼に「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問いかけ、「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」と語り、「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ」と、彼を励ました方でもあります。

 

その後、イスラエルの民が、モーセをして、自分たちをエジプトから導きだしてくださったこの方のことを忘れて、偶像崇拝に身を委ねようとした時に、アッシリアに、そして、さらにはバビロンによって亡国の苦難を備えたもうたのも、このお方でした。

 

しかし、亡国の中にある民の深い悲しみと悔いの思いをしっかりと見てとって下さり、一人の無名の青年を起こし、イスラエルの民に現れて下さったのも、この方でした。

この方は

「わたしの僕イスラエルよ。

私の選んだヤコブよ。

わたしの愛する友アブラハムの末よ。

わたしはあなたを固く捉え、地の果て、その隅々から呼び出して言った。

あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。

たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与え、あなたを助け、

わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ書41810)と語りかけ、さらに

 

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、

イスラエルよ、あなたを創られた主は、今、こう言われる。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。

あなたはわたしのもの。

わたしはあなたの名を呼ぶ。

水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。

大河の中を通っても、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」(イザヤ書4313

 

と呼びかけて、望みを失っていたイスラエルの民に深い慰めと、勇気と希望を与えてくださった方でもありました。

 

時代が下って、主の弟子たちがその新しい歩みを始めた時、この道に従うものを見つけ出したら、男女を問わず、縛りあげて、エルサレムに連行しようとしていた、ユダヤ教の逸材サウロに現れて、彼の心の向きを180度変えて、神の子の十字架による贖罪の福音宣教者パウロとして生まれ変わらせたのもこの方でした。

 

このようにわたしたちの先人がせん方つき、絶望の淵に沈むほかなくなった時に、あるいは民の罪が極まったときに、主は御自らを顕現なさり、ご自分が活きて働いておられることを確かに彼の民に示し、民の霊的命を新たに回復せしめて、生き返らせて下さったのでした。

 

 

話は変わりますが、今からもう二十年も前のこと、その年の正月のある日、わたしは一人の友人と共に、二泊三日の会期で開かれる、通称アシュラムと呼ばれる超教派のある集会に参加すべく、滋賀県琵琶湖のほとり近江八幡の国民宿舎に向かいました。

そこに、日本各地から約150名ほどの信徒が集いました。その集いは、終始沈黙を大切にしまた、会の主なプログラムの進行と並行して、参加者がかわるがわるに自ら登録して行う、二十四時間の連鎖祈祷が、全会期中、絶えることなく続けられていました。

この会の中心的なプログラムは、「聖書静聴の時」と名付けられ、参加者の一人一人が、聖書に向きあう、一回、一時間から一時間半の、全部で34回に及ぶプログラムでした。

この時間は参加者誰もが、たった独りで、あらかじめ定められた、聖書の箇所に向かい、聖書を通して語られる霊的な恵みをいただくべく、聖書に集中して聴く時間でした。

そして、この時間の後に、必ず、「ファミリー」と名づけられたグループごとの集いが設けられ、聖書静聴の時に与えられた、御言葉を通しての恵みについてファミリーのメンバーにかたり伝えるために設けられた時間で、「恵みの分かち合い」と呼ばれていました。

わたしはこの集いを貫いている考え方、精神、特に「聖書静聴」という姿勢に大きな衝撃にも似たものを感じ、その時以降10年の間、毎年この集会に参加してまいりました。時には韓国からも、台湾からも、またブラジル在住の方もお見えになったこともありました。

 

この10年はわたしの信仰の歩みにとって、とてつもなく大切な、豊かな実りをもたらしてくれたと思い、主なる神に感謝するものです。

何が私にとってそれほど大事なものであったか、をそのいくつかに絞ってお話しさせていただきます。

 

まず最初に、この集いでしばしば聞かされたことは、「聖書は、読む物ではなく、聴くものだ」、という言葉でした。これはわたしにとっては、それまで聞いたことのないことで、まさに「青天の霹靂」ともいうべきものした。この言葉は、聖書と私の関係に大転換をもたらすこととなりました。

 

聖書は、確かに神の真理がそこに封じ込められている宝庫ではありますが、しかし聖書も書物であり、活字によって文字が記されているのですから、これを読む、という行為は全く当然のことであり、それまでの私は何の疑問も感じなかったのです。

私にとって、聖書はまさに他の書物と同じく私が読む、読んでそこから、そこに封じ込められている真理、神の言葉を読み取るべき対象でした。

つまり聖書は、わたしの研究対象でした。聖書を自由に出来るのは私でした。

だから、聖書と私の関係は、あくまでも、わたしが主、聖書は従、という関係でした。

このようなわけですから、わたしは、聖書を対象物として、私の知恵と知識と思考の力と、私の努力で、聖書に関する解説書はもちろん、有名な注解書や先人の著書を読み漁ることによって聖書の真理を研究し尽くそうと思い、そのための努力は惜しまない、それが聖書の正しい読み方である、と思っておりました。

 

ところが、「聖書に聴く」、となりますと、聖書が主で、私は、その聖書が語る言葉を聴く立場に置かれることになり、わたしの立場は、聖書に対して従の立場になることになります。ここに、聖書と私の位置関係が、それまでの関係と逆転する、という事態が起こってまいりました。聖書が語ることをそのままに、ありのままに受け留め、聖書の言葉そのものに、全身全霊を傾けて聴く、その「聴く」姿勢こそ大切なのだ、ということを学んだのでした。

そして、そのことは、これまでの、聖書に対する私の考え方、聖書に向かう私の態度,姿勢が、根本的に倒錯していたことを示されたのでした。

 

このことを示されて以来、わたしは難しい参考書や、注解書を読むことをほとんど止めてしまいました。わたしの日曜礼拝の講話は、毎朝決まって聖書に向かう時に、聖書からわたしに示されることをそのままに語ることで守られるようになりました。

勿論聖書だけ、というのは極端な表現ですが、聖書が、これまでとは違った意味で、私の中で決定的に中心となり、これまでとは全く逆の姿勢、聖書が主で、わたしが従ということが最も基本となったのでした。

 

この事実はわたしにとっては、まさに、聖書と自分との位置関係に関してのコペルニクス的転回(これは私が親しくしていただいている村瀬俊夫牧師が、私に教えて下さった言葉ですが)、天動説から地動説への転換となりました。

 

このようなことを示されて以来、わたしは、毎朝、決められた時間を、自分の部屋にこもり、ただただ聖書に向かい、聖書のみ言葉に聴く、密室の時を持つようになりました。それは、まさに、わたしの祈りの時であり、あの「聖書静聴の時」を自分の生活に取り入れ、わたしの生活の中心とする習慣を確立するためでした。

もっとも、そうは言っても最初の頃は、ただ我武者羅に時間を守ることに汲々としてしまい、、あるいは眠さのために、頭がボーっとしたままに過ぎてしまったり、という時もありましたが、徐々にわたしの生活のリズムの中に確かな時間として組み込まれてまいりました。

 

わたしは毎朝、出勤前の1時間ほどのこの時間を、自分の最も大切な時間として聖書に向かい、聖書を通して語られる主のみ言葉を聴かせていただく時として守ってきました。

それはまさにわたしがたった一人で、聖書を通して語ってくださる、主イエスにお会いすることの許された密室の時間となりました。

 

もう一つ、わたしに決定的な態度変換を迫られたことがありました。

それは、聖書の中の主イエスの言葉、パウロの言葉、また旧約での神の言葉を、主が、いま聖書に向かっている私に直接語られた言葉として聴く、ということでした。

もちろん聖書の言葉は、その時代々々に生きた人たちに語られたものでありますが、それは時代を超越して、いま私に語られているものとして聴くということです。

このことはわたしが言うまでもなく、ほとんどの皆さんが経験されていることと思います。

 

こういうことがありました。

マタイによる福音書23章には、律法学者やパリサイ人を激しく非難するイエスの言葉が記されています。

「律法学者たちとファリサイ派の人々,あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」「あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」「あなたたちは・・・白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。」「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を逃れることができようか」・・・。(聖書協会訳では「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、あなた方は、わざわいである。」文語訳では「禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ」と、もっと強烈に訳されています。)

 


主題講演 「主は、いま活きておられる」 その3

2012年04月06日 | 主題講演

                                                  関根 義夫

かつて、私はこのイエスの言葉を読み、ああ、律法学者やファリサイ人たちは、とんでもない人たちだ、と内心思って、自分をいつの間にかイエスと同じ立場において、何の疑問も感じなかったものでした。

ところがある時から、それは全く間違いで、主イエスがこの言葉を投げかけているのは、実は当時の律法学者やファリサイ派の人たちではなく、まさにいま聖書に向かってこの言葉を耳にしている私に対してである、と気がついて愕然といたしました。

 

しかし、イエスの言葉をその都度そのように、お聴きすることによって、イエスの十字架の私にとっての意味するところが少しずつ、見えてまいりました。

主は、そのような偽善者である私のために十字架にかかって下さったのだ、ということが少しずつ分かってまいりました。

 

先ほどお話しいたしました、アシュラムの集いに何年か出てからのことでした。

第二日目の朝の、早天祈祷会のことでした。その朝は、愛媛県今治にある三島真光教会の金田福一牧師が担当されました。金田牧師のとりあげた聖書の個所は、イザヤ書43章1、2節でした。

先ほども読みましたが、もう一度読んでみます。

 

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、

イスラエルよ、あなたを造られた主は、

いま、こういわれる。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。

あなたはわたしのもの。

わたしはあなたの名を呼ぶ。

水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。

大河の中を通っても、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

 

金田先生はその時、「皆さん、このヤコブというところに、そしてイスラエル、というところに、ご自分の名前を入れて読んで御覧なさい。」と言って、先生ご自身が、こう読まれました。

 

「金田よ、あなたを創造された主は、

福一よ、あなたを造られた主は、

いま、こういわれる。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。

あなたはわたしのもの。

わたしはあなたの名を呼ぶ。

水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。

大河の中を通っても、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

 

わたしは、この勧めに深く感動してさっそく実行いたしました。

朝、たった一人で密室にこもり、わたしは自分の名をそこに入れて、繰り返し繰り返し、口ずさみました。

 

「関根よ、あなたを創造された主は、

義夫よ、あなたを造られた主は、

いま、こういわれる。

恐れるな。私はあなたを贖う。

あなたはわたしのもの。

わたしはあなたの名を呼ぶ。

水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。

大河の中を通っても、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

 

このようなことが習慣になってしばらくが過ぎた、ある日の朝、いつもの通りただ独り、自分の部屋で聖書に向かっていたとき、ふと、あのお方が、時を超え、場所を超えて、今、聖書のみことばを通して、わたしにも、その細き静かな声でもって、語りかけて下さっている、という思いが、突然私の中に湧き上がって来ました。

もちろん、肉の耳にその声が聞こえたわけではありませんし、肉の目に主のお姿をはっきりと認めたわけではないのです。がそれでも、深い沈黙の中に、肉の感覚を超えて、わたしに語ってくださる主イエスがここにいらっしゃる、という静かな思いが、わたしを満たしたのです。

 

その時以来わたしは、わたしに、聖書の言葉を通して、このように語りかけて下さっている方が確かにいらっしゃるということを、もう決して消すことのできない事実として、わたしの魂の最も深いところに刻印されたのでした。

 

今から思い返してみると、わたしはまったく自覚しておりませんでしたが、あのときこそ、主が、最初に、私に語ってくださったのだ、と思い起こすことがあります。

わたしは、田舎から東京に出てきて学生生活を始めようとした時、時代の荒波に翻弄されて、完全に自分を見失いそうになった時、矢内原忠雄の名を知り、それを通して内村に、そして無教会に導かれて今があるのですが、そのような中に出会った、マタイによる福音書1128節からの、あの言葉でした。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙そんな者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

この言葉は、それ以来、いつも、主の語って下さる言葉として、わたしの耳に残っております。

 

そしてもう一つ、これはもっと後になってからの事ですが、ヨハネによる福音書153節から5節の言葉です。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。・・・ブドウの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。・・・人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶことができる。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

ここで、主は「あなたがた」と、複数で、語って下さっていますが、わたしはあるときこれをこのようにお聴きしました。 

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている。・・・ブドウの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。・・・人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶことができる。わたしを離れては、あなたは何もできないからである。」

 

主はいま活きて、聖書のみことばを通して、確かにわたしに語って下さる、という、この確信はわたしのキリスト信仰の最も固い礎となりました。それは、無教会で育てられたわたしの信仰をなお一層固いものにしてくれました。

 

わたしの罪の贖いのために罪のない神の御独り子が十字架にかかって死んでくださった、しかも、十字架で死なれた神の御独り子キリスト・イエスは、その三日後に復活なさった、ということが私が無教会の群れに加えていただいた当初から、最も大事なこととして教えていただいたことであり、わたしたちの誰もが,最も大切なこととして信じていることです。

そしていまわたしは、復活なさった神の子キリストは、いまこの時に、確かに活きて働いていらっしゃる。そればかりではなく、いつでもどんなときにも、わたしたちに臨んで、わたしたちを、キリストの聖霊で満たしてくださっていることを知りました。

 

さらに主は、この世の終わりを超えて、永遠にわたしたちを導き、新しい天と新しい地とを、主が愛してくださるわたしたちに用意してくださっている、しかも時満ちて、主は、私たちの肉の目に見える姿で、再びお出でくださる、ということを最も確実なこととして、わたしは信じているのです。

 

主は生きておられる。主はいま活きて働いておられ、わたしたちを聖霊によって満たして、導いて下さっている。

わたしの救い主、真理であり、命であり、道であり、希望そのものである主キリスト・イエスが、いま活きて働いていらっしゃる、ということこそ、わたしの、わたしたちの、決して尽きることのない希望の根拠である、とわたしは考えているのです。

 

終わりに、内村の言葉を読ませていただき私の話を終わらせていただきます。

これは「聖書之研究」(19082月)の所感として載せられたものです。

 

キリスト教の極致

「キリストは今なお活きて我らとともに在したもう」、キリスト教の極致はこれなり、

キリストにしてもし単に歴史的人物ならんか、

キリスト教の倫理はいかに美にして、その教義はいかに深きも、

そのすべては空の空なり。

キリストにして今なお在ますものならざらんか、

われらは今日ただちにキリスト教を捨てて可なり。

キリスト教の存在いかんは単にキリスト現在の一事に懸る。

 

これでわたしの話は終わりです。ご静聴ありがとうございました


証1 被災地を体験しての証(1)

2012年04月06日 | 

                                                 池田 献

 .被災地(石巻・陸前高田・南三陸町・大船渡)の様子

  3月11日、今となっては「3.11」や「東日本大震災」等と呼ばれるようになったあの日、まさか自分が被災地で半年を過ごすことになるとは、またこの全国集会でその話をすることになろうとは思ってもいませんでした。今振り返ってみても、私は、私自身が何故東北の地へ行くことにしたのか、はっきりと決意した、或いは啓示を受けた、そのような瞬間を覚えていないのです。私は学生ですし、何かのプロフェッショナルでもありません。被災地へ赴くにあたって当時でも「学生が簡単に行けるところではない、周囲で働いている人の邪魔になるだけだ」などの批判もありましたし、私自身もその覚悟は持ち合わせて居りませんでした。時同じくして、大学側からも「学生は自粛しなさい」との旨の通達も届き、いよいよ先の道が閉ざされようとしていた時、病床の母親から連絡が入りました。

 「貴方は行きたいのでしょう、腐ってないで行ってきなさい。」癌を抱え、命も、その体も消えるような細い母親がかけてくれたその言葉が、私の中へ入って来、不安や迷いを取り除き、被災地への一歩を踏み出せるように勇気を与えてくれたのでした。急ぎ買出しを済ませ、高校時代に使っていた登山ザックにシュラフ、着替え、大量の食料(缶詰、α米、パン)と飲料水、救急セットなどの装備を詰め込み、半年間という期限付きで東北の地へ向かいました。これからお話しますのは、一基督者ではありますが、被災地に赴き働いた一人、としての報告でもあります。その中で、今も尚私の心の内に大きく渦を巻いている出来事を二つ、聞いていただきたいと思います。

  両親に背中を押してもらった形で東北におりた私は、まず石巻専修大学キャンパスでベースを張っていた男性に拾ってもらい、活動をはじめました。ベースといっても個人テントを張るだけの簡易なもので、海辺に近いキャンパスでは風も強く、とても寒い日々が続いていました。被災地へ入って初めての活動は、福島への物資搬送でした。3月末、皆さんも承知の様に、すでに原発はメルトダウンを起こして居り、20キロ圏内へ通じる道には検問が敷かれていました。私たちが乗った「緊急車両」の車も検問の入り口で「この先ではなるべく車両から降りないようにお願いします。」と勧告を受けました。南相馬へ向かう途中、道路が冠水していたり、地割れで通れない道を迂回しながら双葉郡あたりへ入った時、多くの家畜やペット達が道路の上を歩いていたり、寝そべっていたりした光景を目にしました。後に被災ペットを対象に活動をしていたNPOからの話を聞くところによりますと、福島から避難のバスが出る際、「ペットはバスが発車するまでに処分して下さい。」と言われたようです。

 放置されたペットが大半だったのか、首輪がついていても手綱がついていませんでした。少しでも長く生きてほしい、殺すのは忍びない、そんな気持ちを思い浮かべましたが、飼い主達の悲しみの程は量ることが出来ません。さて、双葉郡の広野町にある「東北に春を告げる町」の文字が見えてきた時、一匹の小さな犬が脇から飛び出し、飼い主の車かと思ったのか、しばらく私達に向かって吠えていました。扉を開けようかと思った矢先に、「拾ってどうする気だ、そいつだけ助けてやるのか。世界は救えない。」と同乗していたメンバーに咎められました。道路には犬だけでなく、豚や牛といった家畜、猫.・・・たくさんの動物がいます。目の前に居る数でさえも車には乗り切ることは出来ません。私はついに扉を開けることをしませんでした。目の前にあった命を見捨てました。今でもあの犬の吠えている姿が、バックミラー越しに小さくなっていく動物達の姿が、頭から離れません。祈れば与えられる、からし種一粒の信仰があれば山を動かせる....様々な聖句が頭を横切りましたが「救えない。」という私の置かれている状況がよくなることはありませんでした。瓦礫の撤去作業を行う消防や自衛隊の姿もありましたが、それに手を出すことも出来ません。彼等は遺体の収集もして居ますので、民間人が手を出すことも出来なかったのです。また、道路脇には津波の際に巻き込まれたのだろうペットや家畜の無残な姿も転がっています。装備も持っていない私達には、弔うための穴を掘ってやることも叶わず、ただ素通りすることしか出来ませんでした。あの時、何をして、何をすべきでなかったのか。そしてそれ以上に、自分で決断する覚悟を持っていなかった私の弱さを思い知らされた気がしました。

 南相馬市へ物資を届けた帰路、一匹の柴犬が「おすわり」の姿勢でこちらを見ていました。吠えることもせず、黙ってこちらを見ている目には、私の姿がどのように映っていたのでしょうか。リーダーの制止を無視し、私はこの柴犬を拾いに向かいました。この時の心境については、「全ての命を助けることなど出来はしない。ただ、手を伸ばせば助けられる存在を、無かったことにしたくは無かった。」と、日記に書いてありました。リーダーもそれ以上言及することはなく、逆に「サクラ(春を告げる町で拾ったので)」という名前を付けてくれ、可愛がってくれました。この日、サクラ以外に出会った犬の数は4匹、猫が3匹、豚と馬が2頭ずつ。あの日見捨ててきた命の姿を、決して忘れることはしまいと、何度も思い出しています。サクラは、私と2週間程小さなテントで寝食を共にした後、被災ペットの保護をしているNPOに引き取られて行きました。
  賛否のわかれることに対して、自分なりの考えを持とう。そして、たとえ批判される対象になろうともそれに覚悟を持つこと。そして、その覚悟は祈りの中で与えられるものでありたい。そんなことを考えた出会いでありました。

  当然ながらサクラとの出会いは予期していたものではなく、ひょんな偶然から与えられた機会でありました。被災地での活動にはこのような「ひょんな偶然」から繋がる出会いもあれば、出会いによって活動拠点が変わることもしばしありました。安定した働き手が確保された石巻を見て私は、出会った仲間数名と共に陸前高田へ移ることにしました。未だにボランティアが少ないと聞いていたからです。15万の人口を持つ石巻市から見ると、人口2万の高田市は少しばかり小さく思えました。山村があり、海にも開けた町があり、主に海に面した所は津波によって大きな被害を受けたようです。震災前、水産物の加工工場で賑わっていた海辺は波によってキレイに流され、辺りには秋刀魚の缶詰、ホヤ、牡蛎などが散乱して居り、それぞれが強烈な腐敗臭を発していました。ところどころに積まれたままの瓦礫には、海鳥や野良猫や犬達が群がって居り、埋まったまま放置されている何かを突いているのだろうと想像できました。避難所に指定された体育館や学校は、それら自体が波をかぶり、多くの方が犠牲になった場所になったようです。

  高田では身内(家族、親族、内)の人間との付き合い、結びつきが強く、外から入ってくる人間は攻撃(反感)的な視線に晒されることがありました。ボランティアが少ないと言われていたのも、アクセスのし難さ(当時は大きく迂回する道しかなかった)と、そういった閉鎖的な空気の為だったのではないかと思います。身内の悲しみに対しては皆で立ち向かうという場面も見られました。瓦礫の撤去もすすみ、道が整備されると大型の観光バスで乗り付け、ところかまわずカメラを向ける人達が増えてきたのです。ある日、一緒に働いていた高田の方が、「観光地じゃねえんだぞ、写真撮りに来ただけなら他所行ってやってろっ〃」と、バスに向かってヘドロを投げ出しました。私達が「瓦礫」と呼ぶものは「瓦礫と化してしまった彼等の生活の一部」であり、決してゴミなんかではないのです。