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無教会全国集会2011

無教会全国集会2011の6つの分科会の「お話しあい継続ブログ」です。

特別講演 「大震災の中からの証し」 (要約)

2012年04月06日 | 特別講演

                                                  吉原 賢二

 老年に達したいま、私は信じる。人はそれぞれに与えられた道を歩む。それを定める大いなる真美の神のみ手があると。

 災害は忘れた頃にやってくる。千年に一度という東日本大震災は東北・茨城・千葉を襲った。地震と大津波は多くの人命と家屋・財産を奪った。さらに東京電力福島第一原子力発電所の事故が発生、原子炉は冷却失敗、その結果水素爆発が起こって、多量の放射性物質が環境中に放出された。そのため福島県内の多くの人々が避難せざるを得なくなった。

 私の住むいわき市は避難の指定を辛うじて免かれた。しかし風評被害により一時は陸の孤島状態になった。家族も家も地震・津波の被害はなかったものの、水道やガスは使えず、ほとんどの店は閉鎖、生活は戦時中を思わせる不便の中に放り込まれた。再々発生する余震にも悩まされた。

 天災・人災こもごも来る中で私は祈った。関東大震災にあった内村が言うように地震は自然現象であるが、その中に何事か創造者のみ心を思わざるを得ない。信仰は科学を超えた世界のものである。

 私は祈り、そして震災に悩む人々に微力ながら援助の手を伸べ、放射線の恐怖におびえる人々には、大学の専門を生かして放射線についての知識をもたらし、過剰な恐怖を拭い去るために働こうと考えた。それを実行に移した。その働きの過程では評価されることも、批判されることもあった。苦難と恐怖の中の人間の心理について学ばされた。学校の講義とは違う戦いの場なのだ。

 この間多くの友人からお見舞いとお励ましをいただいた。信仰者からの祈りの援軍はありがたく、私の未来への希望を強める。


特別講演 「大震災の中からの証し」 (本文)

2012年01月06日 | 特別講演

       大震災の中からの証し

                                                  吉原 賢二

 

 今年3月11日、東日本大震災が発生しました。それに加えて東京電力福島第一原子力発電所の原子炉がメルトダウンと水素爆発を起こし、大量の放射性物質が周辺地域に撒き散らされました。この大震災と原子炉事故の災厄の中にあっての私の想いと行動を、ここで証しとしてお話いたします。

 老齢になった私は自分の来し方をかえりみるとき、幾多の苦難に逢い、迷いに陥ったにもかかわらず、神・キリスト・み霊の導きによって歩んでこれたことを感謝します。私たちの先達が証しした道を私も倣いたく思います。

 

大地震発生

 3月11日午後私はいわき市南部の病院で皮膚科の診療を受け、薬局で薬をもらったところでした。午後2時46分大きな揺れが襲ってきました。気象庁の発表によればいわきは震度6弱の揺れとなっています。今まで経験したこともないはげしい揺れです。私は1978年の宮城県沖地震を経験していますが、このときの揺れもはげしいものでしたが、今回の揺れはそれよりももっとはげしく、しかも長かったのです。奇妙に思ったのは、ひとつの大揺れがまたつぎの大揺れに接続し、3,4回も続くというような状態で、数分続いたことです。気象庁の発表ではマグニチュード9.0という未曾有の大地震でした。方々で地盤沈下や液状化現象が起こりました。そして大津波が発生して最悪の事態になったのです。歴史的には1142年前の貞観地震以来の大規模な被害が生じたのです。地震もこわいが津波はその何倍も何十倍もこわいのです。今回の震災の死者・行方不明者の合計は約2万人ですが、その大部分(92.5%)は津波による犠牲者です。

 さてこの地震のはげしい揺れがおさまったとき、建物から外へ出た私たちは怪我人もなく、建物自体もほとんど大丈夫だったのでほっとしました。病院・薬局は海岸から遠い場所にありましたので津波のことは念頭にありませんでした。私は片側がもりあがった石橋を恐るおそる車で渡り、トンネルを避け、回り道をして高台にある自宅に帰りました。

 家内は大揺れでこわかったと申しましたが、わが家は無事、人形が倒れて傷ついた程度でした。後でわかったことですが、いわき市でも海岸地帯は大津波に襲われ、何百人かの人が逃げ遅れていのちを落としたということです。

 いわきでは水道が止まり、ガスも出ず、市民は不便な生活を強いられることになりました。わが家も例外ではありませんでした。

 マスコミはこの日の夕、首都圏の交通が大混乱に陥ったことを告げました。帰宅困難な人たちがあふれました。何時間も歩いてやっと家に帰ったという話もあとで聞きました。このように災厄は東日本全体に及びました。

 この日の夜、祈りに覚えたのは多くの被災者のことでありました。それとともに反省させられたのは、私自身ふだん神の民としての自覚がどれほどあっただろうかということです。夜一時的に停電があったとき、ローソクに灯をともして思いました。旧約聖書列王記のエリヤのように静けさのうちに神のみ声を聞くことの大切さです。

 

原子炉事故の発生

 翌日3月12日の午後テレビで枝野官房長官が東京電力福島第一原子力発電所で事故が発生したことを発表しました。テレビの映像で1号炉の建屋上部が吹っ飛び、壊れた骨組みだけの無惨な姿で映っていました。水素爆発らしいということです。私は不思議に思いました。原子炉そのものの爆発ならばこんな姿にはならない。水素はどこから来たのか?私自身は原子炉工学の専門家ではないので、事故のさいのメカニズムにうとかったのですが、一般の人はもっと分かりにくかったと思います。あとで判ってきたのは、冷却が効かないため原子炉の内部でウラン燃料棒が自分自身の崩壊熱で高温になり、燃料棒を包んでいるジルコニウム金属が水蒸気と反応して、水素が発生したのです。水素は爆発性の気体で、少し濃度が高くなれば爆発します。軽い水素は原子炉格納容器を漏れて原子炉建屋の上のほうに溜り、そこで酸素と化合して爆発したのです。だから原子炉建屋の屋根が吹っ飛んだように見えたのです

 おおもとの原因は津波でした。津波で冷却水を廻すポンプを含むシステムが駄目になったのです。非常用の電源もやられ収拾のつかないことになりました。原子炉事故の際には(1)止める(2)冷やす(3)閉じ込める、の3つが大切です。この原子炉は(1)の運転を止めることには成功したが、(2)の燃料棒を冷やすことに失敗したのです。そして燃料棒が熔け落ちるメルトダウンの状態になったのです。燃料中の核分裂生成物は水素とともに漏れ出すことになるわけです。すなわち(3)の放射性物質の閉じ込めも失敗したということです。こうして放射性物質は福島県はもちろんのこと、宮城県、北関東、首都圏にまで拡がることになりました(注)。


(注)大量の放射性物質の放出について、原子力安全・保安院の発表が非常に
遅れたことはたいへん遺憾です。政府機関、とくに文部科学省は放射性物質の大量放出の情報をつかみながら公開しませんでした。放射性ヨウ素のように甲状腺にたまり、子どもの甲状腺がんの原因になるものは、吸収をできるだけ抑える方策を立てなければなりません。早い時期の安定ヨウ素剤投与が有効なのです。そのためできるだけ迅速に発表すべきでした。炉心熔融―メルトダウンのことも私たちが知ったのはずっと後のことです。パニックを恐れて公衆を危険にさらすとは国民を守るべき政府の大失態といえると思われます。


 この日の夜、菅総理大臣がテレビで放送、事故の発生を報告し、節電のお願いをいたしました。電力会社がこれほど原子力発電に頼っていたことの現われです。あらためてわれわれがふだん電気の浪費をしていたことを思い知らされました。自然の猛威の中での人間の文明のもろさを痛感するばかりでした。 

 そしてつぎの3月13日には3号炉も危なくなり、結局1号炉同様に爆発。その後2号炉に爆発音が聞こえ、4号炉は運転停止中だったが、燃料棒冷却プールのあたりで火災と続きます。東京電力はどうしてよいか分からず、一時ここから退避を考えたくらいうろたえていました。監督官庁である原子力安全・保安院もはじめは東電の情報を鵜呑みにするだけのように見えました。専門家集団の原子力安全委員会は存在がかすんで見えました。テレビで東京電力が発表する様子はまさにモタモタの状態で、頼りないこと!東電と保安院の発表はどこまで正しいのか、隠しているのではないかという疑問がもち上がってきて、国内国外のメデアに批判されます。もっとも初期段階では原子炉建屋内部に入ることもむずかしく、推測でもの言うしかなかった点も多かったかもしれません。いまでも原子炉の圧力容器や格納容器の内部の詳細はわかりません。前代未聞の事故であるだけに十分理解できないことも多いのです。わが国で信じられてきた原発の安全神話はこうして崩壊したと言えます。

 

住民の避難

 原発事故によって放射性物質が周辺地域にまき散らされ、高い放射線レベルが観測されました。とくに水素爆発のあとで放射性物質が拡がったことが観測で裏付けられています。また放射性物質が雲に乗って雨や雪が降るときにいっしょに落ちたことも推測されます。放射線被曝の危険を避けるため、付近の住民には国から避難の指示が出ました。

 細かい経過は省略しますが、(1)原発から20km以内の警戒区域、(2)20-30km範囲の緊急時避難準備区域、(3)計画的避難区域―これは気象条件により放射性物質の沈降量が多く、放射線レベルの高い区域で飯館村などを含みます―が設定されました。(2)の20-30kmの範囲でもいわき市北部の小区域はいわき市長の努力によって指定をはずされています。そのほかホットスポットとして放射線レベルの特異的に高い場所は避難のサポートが得られるようになっています(特定避難勧奨地点)。

 住民は未曾有の事態に恐怖して、ほとんど着のみ着のまま避難せざるを得ないことになりました。指定区域外に逃げたつもりが、また指定されてしまったという人たちも多かったといいます。車のひどい渋滞が起こったそうです。まったく気の毒な事態が発生したものです。

 指定された区域外の人でも、とくに幼い子どものいる家族は放射線の影響を恐れて自主的に避難しました。一時は相当な数でした。いわき市とくに私どもの団地では360世帯のうち3分の2は避難して、子どもの声はまったく聞かれなくなりました。まさに死にかかった町です。

 隣の家に住んでいる私の長男は心身障害者の施設に医師として勤務しています。この施設はいわき市の北部にあり、事故を起こした原発から30kmをわずかに超える地点にありました。国の指定を外れたというものの、医師としては放射性物質の危険を避けるために、施設にいる障害者を避難させることに懸命でした。関東甲信越圏の受け入れてくれる施設を探し、そこに移送するのです。並大抵の仕事ではありません。何日も泊りがけや出張のきびしい日々が続き、傍目にも健康が案ぜられました。

 

私の決意  

 私の持病のある右足は折悪しく悪化して、歩くのが辛い状態になっておりました。毎朝いわき市の給水車が来て、各人にペットボトル2本の飲料水を配るのですが、それをもらいに行くことが困難になってきました。かかりつけの病院の医師は東京から非常勤で週一度来ている人なので、JR常磐線が不通になったために診察してもらうことができません。わが家が退避することはないと、私は思っていましたが、どこで足を治療するか困りました。専門医は市内から退避して不在でした。わずかな空き時間に帰ってきた長男に応急処置をしてもらい、専門外の外科医にかかって、その場をしのぎました。それでも次第に病状は回復に向ったので幸いでした。

 私は放射線安全についてはかなり専門的な知識をもっています。放射化学の専門家として実験に関わるときには安全の知識がないでは済まされないのです。

いまから半世紀以上前の1954年、ビキニの死の灰事件がありました。ご年配の方はご記憶かと思います。南太平洋上でマグロをとっていた日本の漁船第五福竜丸がアメリカの水素爆弾の実験海域近くで放射性の珊瑚礁の粉―これが死の灰と呼ばれるものですが―をかぶり、23人の乗組員全員が被曝し、そのうちのひとり、久保山愛吉さんが急性放射能症で死亡したのです。この事件で私は死の灰の分析に関わりました。東北大学卒業後東京大学理学部木村健二郎教授のもとで放射化学の訓練をしてもらった、私の初仕事でした。それにつづく仕事で学位論文をまとめるために、私は少し熱心にやり過ぎ、過剰に被曝した被曝者なのです。普通6000-8000ある白血球が4000くらいに減っていました。これはもっとも軽い症状で、研究者仲間では当時これくらいでくよくよしている人はいませんでした。ちょっと実験を休み、デスクワークでもして、おいしいものを食べて栄養をつければ治るということになっていました。私もそのようにしてつぎの検査のときにはすっかり治っておりました。こんな経験があるものですから、私は放射線安全については体験的に知っています。被曝から半世紀以上生きた生き証人ということができるでしょう。

 ただ安全と危険の明確な線引きは難しい。それが放射線安全学の現状であることは認めなければなりません。とくに低い放射線レベルでは学者間でもいろいろな意見があり、統一見解は出ていないようです。

 いわき市の住民は放射性物質の恐怖におののき、デマかもしれないが水素爆発のつぎは原子炉本体の爆発だといううわさに怯えていました。つぎつぎにこの街を逃げ出すのです。そして今まで市内に入っていたトラックを運転する運転手がいなくなり、コンビニは閉鎖されたまま、商店もシャッターが下りたまま、ガソリン・スタンドにガソリンがなく、物流がとまるという状態になってきました。いわき市長はとつとつとテレビでこの状況を打開するよう訴えました。私もここで行きすぎた放射線恐怖を是正し、いわき市の住民が戻ってくるようにつとめるのが私の使命と思うにいたりました。若いときにビキニの死の灰の被曝者たちのための分析にたずさわった体験は生かすべきだと思ったのです。いわきのようなところは福島県復興の最前線に立つべきで、逃げ出すよりは復旧・復興のための責任を果すべきだと思ったのです。

 よく調べてみると、いわき市は比較的原発から近いのに放射線レベルが低いのです。これは原発の水素爆発の当時の気象条件にもより、いわき市には放射性物質がそれほど流れてこなかったのです。幸運なことでした。はじめはおよそ1.5マイクロシーベルト毎時近くあった線量がずっと減り、今では0.16マイクロシーベルト毎時程度にまで下がっています。私の思いは決して無謀な挑戦ではありません。

 

決意の実行

 私はいわき市の窮状を打開するために思い切ってFMラジオ放送にコンタクトしました。なんと番組担当者は大喜びです。その日の午後アナウンサーの女性が早速やってきました。2時間ほどのインタビューが終りました。私は放射線は自然界にもある。いわきの放射線レベルは逃げ出すほどのものではないことをお話しました。また見通しとして原発は今後爆発することはまずないだろうということもです。それを聞いたいわき市民の反響はおおむね良好で、元気づけられたという人が多かったのです。放送は何度も繰返されたようです。思いがけないところで私の放送を聞いたという人もあらわれました。

 そして放送の二次効果がでてきました。それはFM放送を聞いた自治会や学校、商工業者の団体などです。放射線についての知識、とくに安全問題を講演会形式で話してくれということになりました。私は3月から9月までに11回講演会を持ちました。私はいわきの住民が前向きになり、事故被災地のため力を出して欲しいと願い、そのために放射線の話をしたのです。

 放射線安全の問題は低レベル領域では簡単でありません。子どもを持つ親御さんは、子どもが放射線に対して敏感であるといわれているだけに真剣で、いまの放射線医学の学者たちの言うことをあまり信用せず、危険を強調する論者の言うことに耳を傾ける傾向があります。私は自分が被曝者であり、身をもって放射線の危険を知った経験があるから、危険は程度問題であると思っていますが、子どもに危険を強いることは避けたいのです。いわき市では学校の放射線レベルは低く、その上、市の教育委員会では市内の小中学校や保育園全部の放射線レベルを0.3マイクロシーベルト以下に下げる努力をしています。このようなことで安全は保たれると判断してよいと思います。

 ブログやツィッターの反響も見ると大方は私の言うことに同意しています。しかし少数ですが私も御用学者の一人だと決め付ける意見もあるようです。迷惑な誤解です。私は国や県から頼まれたことはありません。地域の復興のために働く決意をしたのです。悪口を言われることは覚悟の上でやっているのです。信仰者として働くからにはみ霊の導きに従うことが第一と思っているのです。

 いまいわきには避難していた人は戻ってきて、その上原発近接地の避難者を受け入れ、空き家がないと言われるほどになっているようです。

 

考察

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は世界的に有名になり、フランスの大統領が飛んでくるほどで、アメリカやフランスの会社が原発の冷温停止状態にもって行くよう協力しています。この事故は1986年のチェルノブイリ原発事故よりも1979年に起こったアメリカのスリーマイル島原発事故に似ています。チェルノブイリでは原子炉が暴走し、核爆発状態になったといわれます。スリーマイル島事故では原子炉の冷却に失敗しウラン燃料棒が熔け落ちて、メルトダウン状態になりました。放射能の飛散は軽度でした。フクシマでは複数の炉が水素爆発を起こしたので、スリーマイル島よりずっと深刻です。

 2011年4月12日、原子力安全・保安院はフクシマの事故を国際原子力機関の基準に照らしてレベル7にランクしました。これはチェルノブイリと同じ最悪のランクです。しかし放出放射能はチェルノブイリよりひと桁したの77テラベクレルでした。その他いろいろな点からみてフクシマをチェルノブイリと同じとするには無理があります。国際原子力機関の基準そのものがおかしいのです。私は同機関の天野事務総長に手紙を書き、改訂するよう働きかけました。返事があって見直しの努力するようです。日本の原子力安全委員会ももっと努力すべきです。事故を事故として科学的に客観的に見ることは必要です。

 福島県に多大の迷惑をかけたこの事故はいったいなんでしょうか。天災ではなく、人災です。津波の予想はしていたが、はなはだお粗末でした。非常電源を低いところにおいて津波のときに使えませんでした。東北電力女川原子力発電所では電源を高いところに置いたために津波の被害を辛くも免れました。少し前にスマトラでもマグニチュード9.2の巨大地震が起こりました。1142年前の貞観地震を無視してよいはずはないのです。津波安全対策を強化する意見が出たことがあってもなおざりにした東電の態度はいい加減なものでした。

このような人災を作った東電の責任は大きいと思います。

 水素爆発を免れるベントの方法をもっとうまく使えなかったかも疑問です。この点はもっとしっかり調査して結論を出してもらいたいものです。

 日本の原子力政策は原発優先、原発が肥大しすぎたことは事実と思います。広い意味での原子力は原発だけではないのです。放射線は分析や品種改良に役立ち、アイソトープは診断治療に貢献しています。この方面を伸ばす必要があります。燃料の処理に問題があり、廃炉にするのも容易でない原発は日本には不向きです。地震国日本でこんな事態になってしまったことは大いに反省しなければならないと思います。原子炉工学の専門ではない私が専門外であるからとして今まで原発に無関心であったことは遺憾に思っています。

      

終わりに

 地震や津波は自然現象ですが、その中にも私たち人間の思いあがりを警告する神のご意志がこもっているかのようにも思われます。苦難にあった人々は助けなければなりませんが、苦難の存在は人を鍛えます。ローマ書5章3節にあるように「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです。アウグスチヌスの言うように人は神のもとに来るまでは心安らうことがないのです。信仰において愛なる神によって定められた運命を受け入れることができます。神によって心の傷は癒され、苦難の深い意味を知るのです。この信仰において大きな希望の大合唱が生まれることを私は信じます。