goo blog サービス終了のお知らせ 

無教会全国集会2011

無教会全国集会2011の6つの分科会の「お話しあい継続ブログ」です。

証1 被災地を体験しての証(1)

2012年04月06日 | 

                                                 池田 献

 .被災地(石巻・陸前高田・南三陸町・大船渡)の様子

  3月11日、今となっては「3.11」や「東日本大震災」等と呼ばれるようになったあの日、まさか自分が被災地で半年を過ごすことになるとは、またこの全国集会でその話をすることになろうとは思ってもいませんでした。今振り返ってみても、私は、私自身が何故東北の地へ行くことにしたのか、はっきりと決意した、或いは啓示を受けた、そのような瞬間を覚えていないのです。私は学生ですし、何かのプロフェッショナルでもありません。被災地へ赴くにあたって当時でも「学生が簡単に行けるところではない、周囲で働いている人の邪魔になるだけだ」などの批判もありましたし、私自身もその覚悟は持ち合わせて居りませんでした。時同じくして、大学側からも「学生は自粛しなさい」との旨の通達も届き、いよいよ先の道が閉ざされようとしていた時、病床の母親から連絡が入りました。

 「貴方は行きたいのでしょう、腐ってないで行ってきなさい。」癌を抱え、命も、その体も消えるような細い母親がかけてくれたその言葉が、私の中へ入って来、不安や迷いを取り除き、被災地への一歩を踏み出せるように勇気を与えてくれたのでした。急ぎ買出しを済ませ、高校時代に使っていた登山ザックにシュラフ、着替え、大量の食料(缶詰、α米、パン)と飲料水、救急セットなどの装備を詰め込み、半年間という期限付きで東北の地へ向かいました。これからお話しますのは、一基督者ではありますが、被災地に赴き働いた一人、としての報告でもあります。その中で、今も尚私の心の内に大きく渦を巻いている出来事を二つ、聞いていただきたいと思います。

  両親に背中を押してもらった形で東北におりた私は、まず石巻専修大学キャンパスでベースを張っていた男性に拾ってもらい、活動をはじめました。ベースといっても個人テントを張るだけの簡易なもので、海辺に近いキャンパスでは風も強く、とても寒い日々が続いていました。被災地へ入って初めての活動は、福島への物資搬送でした。3月末、皆さんも承知の様に、すでに原発はメルトダウンを起こして居り、20キロ圏内へ通じる道には検問が敷かれていました。私たちが乗った「緊急車両」の車も検問の入り口で「この先ではなるべく車両から降りないようにお願いします。」と勧告を受けました。南相馬へ向かう途中、道路が冠水していたり、地割れで通れない道を迂回しながら双葉郡あたりへ入った時、多くの家畜やペット達が道路の上を歩いていたり、寝そべっていたりした光景を目にしました。後に被災ペットを対象に活動をしていたNPOからの話を聞くところによりますと、福島から避難のバスが出る際、「ペットはバスが発車するまでに処分して下さい。」と言われたようです。

 放置されたペットが大半だったのか、首輪がついていても手綱がついていませんでした。少しでも長く生きてほしい、殺すのは忍びない、そんな気持ちを思い浮かべましたが、飼い主達の悲しみの程は量ることが出来ません。さて、双葉郡の広野町にある「東北に春を告げる町」の文字が見えてきた時、一匹の小さな犬が脇から飛び出し、飼い主の車かと思ったのか、しばらく私達に向かって吠えていました。扉を開けようかと思った矢先に、「拾ってどうする気だ、そいつだけ助けてやるのか。世界は救えない。」と同乗していたメンバーに咎められました。道路には犬だけでなく、豚や牛といった家畜、猫.・・・たくさんの動物がいます。目の前に居る数でさえも車には乗り切ることは出来ません。私はついに扉を開けることをしませんでした。目の前にあった命を見捨てました。今でもあの犬の吠えている姿が、バックミラー越しに小さくなっていく動物達の姿が、頭から離れません。祈れば与えられる、からし種一粒の信仰があれば山を動かせる....様々な聖句が頭を横切りましたが「救えない。」という私の置かれている状況がよくなることはありませんでした。瓦礫の撤去作業を行う消防や自衛隊の姿もありましたが、それに手を出すことも出来ません。彼等は遺体の収集もして居ますので、民間人が手を出すことも出来なかったのです。また、道路脇には津波の際に巻き込まれたのだろうペットや家畜の無残な姿も転がっています。装備も持っていない私達には、弔うための穴を掘ってやることも叶わず、ただ素通りすることしか出来ませんでした。あの時、何をして、何をすべきでなかったのか。そしてそれ以上に、自分で決断する覚悟を持っていなかった私の弱さを思い知らされた気がしました。

 南相馬市へ物資を届けた帰路、一匹の柴犬が「おすわり」の姿勢でこちらを見ていました。吠えることもせず、黙ってこちらを見ている目には、私の姿がどのように映っていたのでしょうか。リーダーの制止を無視し、私はこの柴犬を拾いに向かいました。この時の心境については、「全ての命を助けることなど出来はしない。ただ、手を伸ばせば助けられる存在を、無かったことにしたくは無かった。」と、日記に書いてありました。リーダーもそれ以上言及することはなく、逆に「サクラ(春を告げる町で拾ったので)」という名前を付けてくれ、可愛がってくれました。この日、サクラ以外に出会った犬の数は4匹、猫が3匹、豚と馬が2頭ずつ。あの日見捨ててきた命の姿を、決して忘れることはしまいと、何度も思い出しています。サクラは、私と2週間程小さなテントで寝食を共にした後、被災ペットの保護をしているNPOに引き取られて行きました。
  賛否のわかれることに対して、自分なりの考えを持とう。そして、たとえ批判される対象になろうともそれに覚悟を持つこと。そして、その覚悟は祈りの中で与えられるものでありたい。そんなことを考えた出会いでありました。

  当然ながらサクラとの出会いは予期していたものではなく、ひょんな偶然から与えられた機会でありました。被災地での活動にはこのような「ひょんな偶然」から繋がる出会いもあれば、出会いによって活動拠点が変わることもしばしありました。安定した働き手が確保された石巻を見て私は、出会った仲間数名と共に陸前高田へ移ることにしました。未だにボランティアが少ないと聞いていたからです。15万の人口を持つ石巻市から見ると、人口2万の高田市は少しばかり小さく思えました。山村があり、海にも開けた町があり、主に海に面した所は津波によって大きな被害を受けたようです。震災前、水産物の加工工場で賑わっていた海辺は波によってキレイに流され、辺りには秋刀魚の缶詰、ホヤ、牡蛎などが散乱して居り、それぞれが強烈な腐敗臭を発していました。ところどころに積まれたままの瓦礫には、海鳥や野良猫や犬達が群がって居り、埋まったまま放置されている何かを突いているのだろうと想像できました。避難所に指定された体育館や学校は、それら自体が波をかぶり、多くの方が犠牲になった場所になったようです。

  高田では身内(家族、親族、内)の人間との付き合い、結びつきが強く、外から入ってくる人間は攻撃(反感)的な視線に晒されることがありました。ボランティアが少ないと言われていたのも、アクセスのし難さ(当時は大きく迂回する道しかなかった)と、そういった閉鎖的な空気の為だったのではないかと思います。身内の悲しみに対しては皆で立ち向かうという場面も見られました。瓦礫の撤去もすすみ、道が整備されると大型の観光バスで乗り付け、ところかまわずカメラを向ける人達が増えてきたのです。ある日、一緒に働いていた高田の方が、「観光地じゃねえんだぞ、写真撮りに来ただけなら他所行ってやってろっ〃」と、バスに向かってヘドロを投げ出しました。私達が「瓦礫」と呼ぶものは「瓦礫と化してしまった彼等の生活の一部」であり、決してゴミなんかではないのです。


証1 被災地を体験しての証(2)

2012年04月06日 | 

 高田に移り活動を続けてきた私達ですが、「機械類は使ってはいけない(危ないので)」「30分に一度は休憩をとること。」「雨の日は作業中止。」などの条件を出す社会福祉協議会に限界を感じていました。そこで、「もっと効率よく仕事をしよう。」と志を同じくする個人で活動に参加していた数名と共にチームを立ち上げました。一方では、それまでテント生活だった拠点を大型機器等装備の保管や車の駐車スペースを確保できる自分達の家の建築班、一方ではチェーンソーや草刈り機、高圧洗浄機を使った活動をする実働班に分かれて高田に根を張る為の活動に着きました。また、材料の調達から機械の整備維持、車も含めた燃料のいずれにも費用がかかる為、それぞれの知り合い(社会人は会社関係)から募金を募ったり、日本財団、赤い羽根基金に援助を申し込んだり、チーム内のポケットマネーを共有したりもしました。私は学生という立場でもあったので、金銭的にはあまりチームに貢献することは出来なかったのですが、「それならば他の作業面で皆に負担をかけさせないようにしたい。」と扱い慣れない草刈機、丸ノコ、チェーンソー等の機械類を練習しました。最早為さねばならぬ、信じられるモノは自分自身の技術とそれらの評価になり、やがては毎夜就寝する前の祈りの時さえ持つことをしなくなりました。「私を導き、助けて下さい」と祈る時間があるならば現場作業に徹し、技術を身につけ、役に立てる、用いられる人になりたい。また、地域住民のニーズ(何をして欲しいか、何が必要とされているのか)調査をし、チームで借りた土地に、やがて拠点となる家を中心にし、調査で必要と考えられる店で作る商店街計画にも着手しました。手掛けた現場の夢が形になって出来上がって来る様子は見ていても楽しく、やりがいもあり、それだけで充実した毎日を過ごせているように思えた、そんなある日のこと。

  その夜、皆が寝静まった頃に大きな揺れを感じ、携帯に津波注意を促すメールが届き、次第に外からも津波注意報のサイレンが聞こえてきました。チームには、仙台で被災した人と陸前高田で生活していて被災した人が居たのですが、すると、その一人が急に怯えだしたのです。現場に立っている時は誰よりも多仕事をこなし、私にも道具の使い方を教えてくれた方でした。日々平然と仕事に打ち込む姿しか知らなかった彼の、震災によって深く傷ついている姿を目の当たりにした夜でした。

 震災で友人を亡くし、自身も被災した彼は、失った悲しみを忘れることがどうしても出来ない、と話してくれたことがありました。全国各地から物資と共に届く「皆の想い」の寄せ書きに対して「気持ちは嬉しい。けれども悲しみは残る。」と表情を曇らせます。それでも必死に、力強く生きようとしています。「遠くから手伝いに来てくれているお前達ばかり働かせるわけにはいかない。」と、自らの働きでチームを鼓舞してくれています。保守的、と捕らわれがちだった山村の風潮は「何とかして乗り切っていこう。」とくくり付けられた団結の志なのかもしれません。たとえ悲しみの中にあろうとも精一杯生きていこう、と皆を励ます年配の方の姿は、かつて戦後の日本の焼け野原を再建させてきた先人達の姿のようでした。「All or Nothing」の考え方はあまり好きではないのですが、コレばかりは、いくら被災地へ赴いていたとしても加わることの出来ない境界線のように感じました。

 自らが受けた苦しみや悲しみを乗り越えるには時間が必要です。「復興」という言葉を使ってどれほどの瓦礫を片付けようと、どれほどの御遺体を収集しようと、どれほどの建築物を建て直そうと、こちらがどれほどの汗を流そうとも、彼等、被災地に生きる人間が再び心の底から安らぎを感じ、笑顔になれる日は、まだまだ先の事になるのでしょう。いつの間にか「誰のために働いているのか、誰のために用いられようとしているのか」を忘れ、ただひたすら働くことで震災の跡、彼等の悲しみさえも拭おうとしていた私の姿は、実に高慢なものだったことでしょう。現場に出て働けば「今日もありがとう。」と感謝の言葉が投げかけられる一方で、私には受け止めきれない、量り得ない悲しみや苦しみを抱えている人たち。私の中で、癒されることのない罪悪感や喪失感が湧き出るようになりました。

 ピエロボランティアで活動していたチームの一人は「たとえ自分には瓦礫を動かせるような力がなくても、子供達を喜ばせて、笑わせてあげられるような働きをしたい。」と、連日のようにピエロ姿で出かけ、子供達と現場の空気を和ませてくれました。子供達の笑っている姿には癒される機会が多かったように思えます。癒される、それだけでなく、不思議とこちらの活力になっていたのでは、と感じる場面さえあった気がします。津波にさらわれた広い河川敷でヒマワリの種を蒔くイベントがあった時「あれ、アタシん家なんだよ。」と、海に浮かぶ家を指差して笑っているのです。こちらは、つい「誰か家族で亡くなった方がいるのだろうか。」とうろたえてしまいますが、子供達は笑っています。「避難所の生活、大変じゃない?」と聞いてみるも「友達皆がいてお泊り会してるみたいで楽しいよ。」と、やはり笑ってます。一人ひとりの悲しみを知ることが出来なくても、一人に対して一つ、笑わせてあげられることが出来るのならば・・・子供達の笑顔に、こちらが救われた思いがしました。
この日蒔いたヒマワリの種は、夏の暑いさなか、きれいに咲いていました。

 復学した今、私は陸前高田に在住しての活動が出来なくなりましたが、チームは今も尚活動を続けてくれて居ります。チームのベースとなる家も建て終わり、今後も規模を拡大しつつ陸前高田の再建の為に働いていくことになるでしょう。もっとも、先ほども申し上げましたように、「復興の一部分を担う」という形になるわけですが。長期に留まることで、私には見ることが出来なかった、違う一面をも見届けることになっていくのではないかと思います。
 そして高田を離れてからも続く嬉しい出来事があります。「池田君、今年もサンマあがったんだよ~食べに戻っておいでよ~。」「オメェがけえったせいで酒盛りの相手が居なくなっちゃったじゃねぇかよ、。」「兄ちゃん、次はいつ来れるの?」現場を離れた今でも繋がってくれている人たちが居ます。
私も継続して、そんな彼らをサポートしていくつもりです。今は、もう背中を押してくれた母は亡くなりましたが、私自らが祈り、そんな彼等と共に歩みを続けていきたいと思っております。

 被災地域における雇用の問題、未だに残る福島原発の危険性、解決すべき課題はまだ残っている部分も多いのですが、どうか今しばらく、ひょっとしたらまだまだ長期になるかもしれませんが、被災地での動き、復興までの過程を見守っていただきますよう、お願い申し上げます。


証2 福島原発事故をとおして

2012年04月06日 | 

                                         村上 真平(「なな色の空」主宰)

 2002年、私はそれまで20年間関わっていた海外協力を終えて、福島県飯舘村の小さな開拓集落にはいった。「自然を収奪せず、人を搾取しない」をモットーに、自然農業による生活を始めた。自然食レストラン、石窯天然酵母パンエ房を作り、親子里山体験や長短期の研修生の受け入れなどしながら共同して支え合う、小さなコミュニティーと持続可能な生き方の学び舎づくりを目指していた。

 2011年3月11日は、私たちにとってお祝いの日だった。研修生が家づくりを習いたいということで、1月から一緒に作っていた小さな家の棟上げの最終日であった。午前中に棟上げを無事終え、午後、最終チェックをしていた時に大震災に遭遇した。今まで経験したことのない大きな揺れあったが、幸いなことに、私たちの飯舘村ではほとんど被害がなかった。ところが、夕方6時ころになって、福島第一原発が津波によって、非常用電源を失い、冷却ができなくなっているというニュースが飛び込んできた。

 26年前のチェルノブイリの原発事故の前から、脱原発の活動に関わっていた私は、その事故の重大性に際然とした。最悪のケースであるメルトダウンによる原子炉爆発を想定して行動しなければならない。軽トラのバッテリーを持ってきて、電話とインターネット、テレビを使えるようにし、原発の'情報を調べていった。その日の深夜に脱原発ネットワークを通じて、1号機のメルトダウンが始まったという情報を得た私たちは、12日午前3時に家族と研修生を連れて飯舘村を離れ、山形に避難をした。

 12日午後、1号機が水素爆発、13日には3号機が爆発する危険ありとの非常事態宣言が東電によって出された。一連の事故に関する政府と東電の対応を見るとき、「絶対安全」という言葉によって、事故隠しをひたすら行ってきた東電の在りようと、国策として原発を進めてきた政府は、この事故に対して、殆ど何にもできないのだということを悟った。そこで、研修生に「残念ながら、もう飯舘村には帰れない。だから、研修は今日をもって終わりにします。明日、あなたの妻が待つ、岐阜県に送ります。」と告げた。

 14日早朝、山形を発ち、新潟、長野を通って岐阜に研修生を送り届け、静岡、浜松市にある、妻の実家に行った。翌15日、浜松から岡山に行こうとしていた私たちに、福島から県外に避難した友人たちからの突然の連絡が入った。総勢15名ほどの彼らは県外に避難する場所がなくて困っていると言う。そこで、三重県の伊賀市にある愛農会と愛農学園に連絡をして、福島原発の避難者たちが一時避難できる避難所として、愛農のキャンパスを使わせていただきたいと頼んだ。幸い、すぐに大丈夫との大丈夫との快諾をいただき、16日に三重県伊賀市の愛農会、愛農学園があるキャンパスに福島からの避難者たちと一緒に移った。そこで、愛農会のサポートを得て、福島原発避難者受け入れの緊急避難所を作り、緊急救援活動を始めることになった。4月までの一か月で、受けれいれた避難者は約80名であった。
 現在は愛農学園から10キロほど南にある古氏家に住まいを与えられ、家族で暮らしている。この一年間は「原発を止めることは未来の子供たちへの、最低限の責務である」という,思いをもって、様々なところで講演活動をさせて頂いている。
 この一年は本当に大変な時であったが、同時に深い学びの時であった。その経緯をこの証しの場を借りて少しお話しさせて頂きたい。

 3月15日、福島から避難してきた友人たちを連れて、愛農に行く前の夜、私は、妻の実家の2階で休んでいた。11日に原発の事故以来、一刻一刻と変わる状況のなかで、常に判断迫られていたが、この日は、久しぶりにゆっくりと今までの状況、そしてこれからのことを考える余裕ができた。「飯舘村にはしばらくは帰れないだろう。何年ぐらいになるのだろうか。今後、家族を養うためにどのような生き方をして行こうか。それにしてもこの原発事故はなぜ福島で起こったのか。自分にとって、この事故の意味は何なのか」など、いろいろと思いを巡らせていた。と、その時、一階でテレビを見ていた妻が急に2階に駆け上がってきて、「大変、飯舘村は-時間当たり35マイクロシーベルトの放射能だよ。」と告げた。

 それを聞いたとき、「飯舘村はホットスポットになった。もう帰れない」という確信に続いて、一つのビジョンが現れた。それは、ソドムとゴモラから逃げるロトー家の姿だった。「後ろを振り向くな,前を向いて進め。」という言葉が私の心の中に響いた時、私がそれまで思い悩んでいたことが、全て消えてしまった。そして、静かな心の中を占めたのは「もう、過去のことに囚われて思い煩うことはない。今、この時に心を静め、祈るとき、今、何をすべきかハッキリと知ることができる。」そして、そのことに真剣に取り組むとき、「何を食べようか何を着ようかと体のことで思い煩う必要はない。」という静かな確信であった。
 その後、1年が経とうとしている今日まで、一度も、失ってしまったものによって不安や絶望の思いに悩まされたことがない。人生の最大の危機において示されたこの恵みによって生かされている日々である。


証3 「無教会全国集会2011」に参加して

2012年01月06日 | 

                        参加者代表 那覇聖研 石原 つや子

 

 私は全国集会への参加は二回目であります。もともと多人数が集まる「全国」と名のつくものはあまり好きではなかったことと、無教会といえばインテリのすごい人達ばかりが集まっているというイメージが強く、敬遠していたのです。ただ一回だけ、徳島の集会に惹かれて参加したのが初めてでした。

 そんな私が、こんなに大勢の参加者の中から何故ここに立っているのか全く不思議なことであります。出発直前に坂内さんから、「お願いしますよ」とのお電話を頂きました。「大勢の参加者なのですから、何も私でなくても」と申し上げましたら、「それがいないのですよ」とのお返事。結局、坂内さんのあの独特の「お願いしますよ」の言葉に負けて、「すべては主のお導き」と思い、「はい」とお返事して、今私はここに立っております。

 私の前に講壇に立って下さった村上真平さんは、愛農学園時代からの深いつながりを持った友人であります。被災者となられた真平さんの真実な言葉の前に胸をつかれ、私は自分の語る言葉を失ってしまいました。真平さんとこうして同じ場所に立っているというこの現実こそは、神様の現実であって、神が私を呼んで下さったのだということがわかりました。

 今回の集会は「希望の根拠」という主題の下に、まず初めに関根先生が、生きて働き給うイエス・キリスト、再臨し給うキリストを明確に希望の根拠として示して下さいました。このキリストがこの集会の中心におられて、最後まで祈りと賛美があったことが一番良かったと思います。

 吉原先生のお話も、放射能の恐怖におびえ避難している子ども達を思って、何とかして呼び戻してあげたい、そのために役に立ちたいという熱い愛の思いを感じました。どんなことも愛から出ないことは空しいことだと思います。放射能については、低レベルでは問題がないとか、専門家の間でも意見が分かれていることをこの集会で論じても意味がないと思います。それよりも第一義なることは、起きてはならないことが起きてしまっているこの現実、この事実を直視して罪の実体を知り、神様は何を私達に語っておられるのか、神様の御声を聴くことこそがこの集会のなすべきことであり、意味だと思うのです。

 内坂先生のお話を通して、人間は人間であって実に誤りやすい存在であること、原理主義に陥りやすいこと、教義ではなく十字架のリアリティーを受け止めること、神の現実という視点を示されました。生きた命なるキリストにつなげて頂いて感謝でした。

 私達は何故、毎年「無教会全国集会」をもつのでしょうか。その意味について考えさせられました。無教会は○○先生の集会というように、各集会が個性的であって独立しています。かつては先生中心主義だと批判されたこともあった程で、縦の関係が強く、集会相互の横の交わりは少なかったと思います。こうした全国集会を通して、横のつながりを深める機会となること、無教会とは何なのかを問い直し、原点に帰り、無教会の役割を確認し合う時としての意味があると思います。

 私にとっての無教会とは、いっさいの枠組を打ち破って罪人なる私達一人一人と出会って下さる、イエス・キリストの命そのものなのです。戦争を繰り返してきた宗教の歴史、そこにある宗教的原理主義とは違うものだと思います。

 そしてキリストは今、最も苦しんでいる人に寄りそって、そこに居て下さると信じます。被災した人々、肉親、友人を失った人々、放射能のために避難している人々、農業ができなくなって土地を離れた人々、原発の中で働いている作業員の方々、そして村上真平さんが語って下さった旱魃(かんばつ)で苦しんでいるアフリカの人々(この旱魃は先進国、すなわち私達が森林を伐採したために起きたのです)、イラク、アフガニスタンなど、戦争のため理不尽な苦難の中にいる人々、今キリストはこのような人たちの所に居られて、涙を流し祈っておられます。

 すべてが滅びたとしても、決して滅びることのないイエス・キリストが共に居られ、「わたしは昨日も今日も永遠に汝らと共に居る」とおっしゃっているのです。この希望の根拠に寄り頼みつつ、私達は己の無力を嘆かずに、ひとつでもキリストのお心に沿うことを行っていきましょう。たとえそれが葉書一枚を書くことであったとしても。祈ることだけであったとしても。そして何よりも、私はこの集会でイエス様にお会いしたいと思って参加しました。そしてここに集まった主にある兄弟姉妹の存在を通して、イエス様と出会うことができたことを感謝いたします。

 もうひとつは、無教会の集会は高齢化に伴って、先細りして自然消滅してしまうのではないかとの危機感を抱いていましたが、この全国集会に出て、たとえ無教会という形あるものがなくなったとしても、生けるキリストの生命は不滅で永遠なのですから、必ず新しい芽が出て成長していく、そしてそこにまたキリストの命が躍動する無教会が生まれていくのだと確信することができました。そして少数の若い人達の真剣な眼差しと出会って、確かな希望と喜びを感じることができました。

 来年、沖縄での開催にあたり那覇聖研として六人で参加して、知恵と力を頂き、祈りを深める機会となったことを感謝いたします。

 この集会を開くために、並々ならぬ御愛労を尽くして下さいました東京の兄弟姉妹の皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

(※当日、原稿なしで話したため、内容に少し変更があります。)