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【非売品】 IWA認定世界ヘビー級チャンピオンベルト 国際プロレス レプリカ

2018年12月18日 21時06分59秒 | プロレスグッズ

海外製。

全長約1,300mm。

重量約4.5kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

 

IWA世界ヘビー級王座

IWA世界ヘビー級王座(アイダブリューエーせかいヘビーきゅうおうざ)は、日本プロレス団体であった国際プロレスがかつて認定・管理していたチャンピオンベルトのひとつである。なお、IWAは「インターナショナル・レスリング・アライアンス (International Wrestling Alliance)」の略称である。

概要

この王座に先駆ける国際プロレスのシングルのフラッグシップ・タイトルとして、1967年ルー・テーズを初代王者として創設されたTWWA世界ヘビー級王座がある。TWWAとはトランス・ワールド・レスリング・アソシエーション(Trans-World Wrestling Association)の略称で、カナダトロント地区のプロモーターであるフランク・タニーが会長職にあった。国際プロレスは1968年1月にテーズを招聘し、次期エース候補だったグレート草津を挑戦させた。しかし、草津はテーズのバックドロップの前に失神KO、「テーズに勝ってTWWA世界王者となった若きヒーロー草津」をエースとして団体の躍進を図ろうとした国際プロレスの目論見は失敗に終わる。

その後、サンダー杉山豊登がテーズに挑戦するが、日本陣営では誰もテーズに勝てず、1968年1月24日、ダニー・ホッジがテーズを破って第2代TWWA王者となる。翌月、ホッジはフレッド・カリーを相手に防衛戦を行ったが、TWWAの設立者の一人であるブッカーのグレート東郷が国際プロレスと決別。外国人選手に試合出場をボイコットさせ、ホッジもベルトを持ってアメリカに帰国したため、TWWA世界王座は自然消滅へと至った。

グレート東郷と決別後、国際プロレスは外国人招聘ルートをヨーロッパに求めた。1968年4月には草津がトニー・チャールズを破りグレートブリテン西部ヘビー級王座を獲得するが、これを日本の団体の看板タイトルにするのは無理があった。渡欧した国際プロレスの吉原功社長は、現地のプロモーターらと協力して、新たな統轄組織であるIWA(インターナショナル・レスリング・アライアンス)を創立。以降IWAは、興行会社であるIWE(インターナショナル・レスリング・エンタープライズ=国際プロレス)に対してのコミッション的役割を果たすことになる。

1968年11月、国際プロレスは第1回IWAワールド・シリーズを開催する。このリーグ戦でジョージ・ゴーディエンコ、豊登との決勝リーグを制して優勝したビル・ロビンソンが初代IWA世界ヘビー級王者に認定された。ロビンソンはその後も日本に定着して、外国人ベビーフェイス第一号として国際プロレスのエースの座につく。

1970年5月19日、ロビンソンをリングアウトで破った杉山が初の日本人王者となるが、翌1971年3月4日にビル・ミラーに敗れて王座から陥落。その後、同年6月19日にアメリカのミネソタ州ダルースにてストロング小林がミラーから王座を奪取して帰国(同日、両者はミネアポリスにて、小林はロビンソン、ミラーはニック・ボックウィンクルと対戦しており[1]、ダルースにおける小林とミラーの試合は記録に残されておらず、この王座交代劇は架空のものともされる[2])。以降、小林が国際プロレスのエースとして一時代を築き、力道山ジャイアント馬場をも上回る25回連続防衛の記録を達成。国際プロレスとAWAの提携路線に乗って来日したブラックジャック・ランザレッド・バスチェンバロン・フォン・ラシクダスティ・ローデスクラッシャー・リソワスキーホースト・ホフマンマッドドッグ・バションエドワード・カーペンティアディック・マードックらの強豪を退けた。1972年1月27日の横浜文化体育館ではタイトルマッチ初の金網デスマッチカーティス・イヤウケアを相手に防衛し、1973年7月9日の大阪府立体育館ではラッシャー木村の挑戦を受けて力道山時代以来の大物日本人対決を実現させている。同年11月9日にワフー・マクダニエルに王座を奪われるも短期間で奪還し、その後もビル・ワットを下して防衛を続けたが、1974年2月に小林はアントニオ猪木への挑戦を表明して国際プロレスを離脱、王座を返上する。

小林の離脱後、王座決定戦で木村を下したロビンソンが再び戴冠するが、タイトルはアメリカでスーパースター・ビリー・グラハムに移動。その後、IWA王者として初来日したグラハムを破ったマイティ井上の短期政権を経て、1975年4月19日に木村がバションを破り初戴冠を果たす。以降は木村の覇権が確立し、第14代王座戴冠時は小林の25回連続を上回る26回連続防衛を達成、金網デスマッチでも多くのタイトルマッチが行われた。挑戦者の顔触れもマイク・ジョージなどの例外はあるが、キラー・トーア・カマタジプシー・ジョークレージー・セーラー・ホワイトワイルド・アンガスアレックス・スミルノフキラー・ブルックスオックス・ベーカーモンゴリアン・ストンパージョー・ルダックなど狂乱・流血タイプのラフファイターが多くなった。1979年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとの防衛戦やボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチも行われたが、1981年8月9日、北海道羅臼町大会を最後に国際プロレスは活動を停止し、IWA世界ヘビー級王座は実質的に消滅。途中、上田馬之助、スミルノフ、バーン・ガニアに短期間奪取されることはあっても、国際プロレス崩壊まで6年間にわたって木村時代が続いた。

最後のIWA世界タイトルマッチは、1981年8月6日、室蘭市で木村がジ・エンフォーサーの挑戦を受け、金網デスマッチで行われた試合であった。プロレス史上には大木金太郎インターナショナル・ヘビー級王座のように団体崩壊後も崩壊当時の王者が個人的にベルトを保持して防衛戦を続けた例はあるが(猪木のNWFヘビー級王座もこれに近い)、王者の木村が身を寄せた新日本プロレスはIWGPを推進中で、猪木のNWF王座や坂口征二WWF北米ヘビー級王座などの主要王座を返上・封印し、タイトルを極力縮小していた時期であり、国際プロレス版のIWA王座戦が出来る状況ではなかった。

IWAは、ヘビー級のシングル王座以外では、タッグ王座ミッドヘビー級王座を認定していた。軽量級のタイトルである後者を「ジュニアヘビー級」ではなく「ミッドヘビー級」と称したのは、国際プロレスの欧州路線の影響である。

なお、IWA世界ヘビー級王座の日本人王者による日本国外での防衛戦は1978年8月2日、韓国ソウルにて木村が梁承揮を挑戦者に迎えて一度だけ行われている

ベルト自体は、初代はグラハムの王座奪取時まで使用され、2代目はグラハムが来日かつ東京12チャンネル(現:テレビ東京)『国際プロレスアワー』開始に合わせて新調された。

Wikipediaより

 

 

 


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