私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。 どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ…

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【売却済】 ドクターX(ザ・デストロイヤー) 本人使用

2018年11月04日 00時56分47秒 | マスクコレクション

ドクターX 本人使用済みです。

メーカー不明。

現存する5枚のうちの1枚。

平成17年(2005年)1月、水道橋のプロレスショップバトルロイヤルサイン会にて使用されバトルロイヤルオークションに出品されたドクターXの試合用マスクです。

証明書付き。

ザ・デストロイヤー

ザ・デストロイヤーThe Destroyer1930年7月11日 - 2019年3月7日)は、アメリカ合衆国プロレスラーニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。本名はリチャード・ジョン・ベイヤー(Richard John Beyer)、通称ディック・ベイヤー(Dick Beyer)。

アメリカでは、ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤー(Dick "The Destroyer" Beyer)などのリングネームで知られる。日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして、足4の字固めを武器に力道山ジャイアント馬場と戦ったほか、テレビタレントとしても活躍した。息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。

来歴

デビュー

シラキュース大学教育学部卒業、シラキュース大学大学院修士課程修了。在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、レスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーとしての活動も並行して始める

北米での活躍

デビュー後から1960年代初頭にかけては素顔の「ディック・ベイヤーDick Beyer)」として、地元のバッファロークリーブランドなど、後にNWFの拠点となる五大湖エリアを主戦場にベビーフェイスのポジションで活動ダン・ミラーフレッド・アトキンスジョン・トロスアンジェロ・ポッフォワルドー・フォン・エリックらと対戦し、ボボ・ブラジルのパートナーにも起用された

1962年、白地に赤や青の縁取りを付けたマスクを被り、ヒール覆面レスラージ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤーThe Intelligent Sensational Destroyer)」に変身ロサンゼルスWWAにて、同年7月27日にフレッド・ブラッシーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。その後、1964年にも7月22日にディック・ザ・ブルーザー、11月13日にカウボーイ・ボブ・エリスから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となっている。WWAではハードボイルド・ハガティをパートナーに、世界タッグ王座にも2回戴冠した

NWA圏では1964年上期、オレゴンおよびワシントン州のパシフィック・ノースウエスト地区にてマッドドッグ・バションニック・ボックウィンクルと抗争サンフランシスコのアメリカン・レスリング・アライアンスでは義兄弟ビリー・レッド・ライオンとのコンビで活動し、1965年レイ・スティーブンス&パット・パターソンと世界タッグ王座を争った[8]テキサスでは1966年2月8日、ダラスにてゴールデン・テラー(ミスター・アトミック)と組み、当時アメリカ修行中だったカンジ・イノキ&デューク・ケオムカから東テキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取している

1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターXDr. X)」を名乗り、8月17日にバーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。8月31日にガニアにタイトルを奪還され短命王者となるも、戴冠中はザ・クラッシャーマイティ・イゴール・ボディックビル・ワットらの挑戦を退けている

NWA圏ではザ・デストロイヤーに戻り、ロサンゼルスでは1969年8月15日、後に日本でも幾多の好勝負を残すこととなるミル・マスカラスのNWAアメリカス・ヘビー級王座(かつて自身が戴冠していたWWA世界ヘビー級王座の後継タイトル)に挑戦1970年9月30日にはハワイにてペドロ・モラレスからNWA北米ヘビー級王座を奪取、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで、ザ・シークらを相手に防衛を続けた

以後、1970年代前半もロサンゼルスやハワイ、ドクターXの名義でAWAなどで活動。AWAでは1971年よりベビーフェイスに転向しており、ボックウィンクル、スティーブンス、ラリー・ヘニングラーズ・アンダーソンバロン・フォン・ラシクイワン・コロフダスティ・ローデスなどのヒール勢と対戦。クラッシャー、ロビンソン、レッド・バスチェンワフー・マクダニエルらと組んでボックウィンクル&スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した

その後、1973年より全日本プロレスの所属選手となってからも、ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸を中心に、アメリカのリングに時折出場した。日本へのレギュラー出場を終えた1979年以降は、カナダトロントモントリオール地区などで活動。トロントでは1980年1月13日、ボブ・バックランドWWFヘビー級王座に挑戦。モントリオールでは1983年1月10日、ロビンソンを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、自身のキャリアにおける最後のタイトル戴冠を果たした。同年5月17日にはニューヨーク州シラキュースでのWWFハウス・ショーにおいて、当時アメリカ遠征中だった藤波辰巳と対戦している

日本での活躍

1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界ヘビー級王座を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。アントニオ猪木とも好勝負を残しており、シングルマッチは通算1勝1敗2分であった。

初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした」(このような公式記録はない)と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動。PWF認定USヘビー級王者として、アブドーラ・ザ・ブッチャーミル・マスカラスらと王座を賭けた名勝負を残した1975年3月12日には富士宮において、ジャック・ブリスコが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。全日本では若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田をはじめ大仁田厚渕正信などが教えを受けた。

覆面世界一決定十番勝負

NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる」というアングルに端を発する『覆面十番勝負』は、1974年7月25日のミル・マスカラス戦を皮切りに、1976年8月28日のスーパー・デストロイヤー戦まで2年間に渡って行われた。キラー・カール・コックスが変身したザ・スピリット、ディック・マードックが変身したザ・トルネードなどの急造マスクマンも多く含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリングジ・アベンジャーザ・バラクーダカリプス・ハリケーンブルー・シャークスーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で『タイガーマスク』のストーリーにも似た興奮を醸し出した。なお覆面を模したオリジナルチャンピオンベルトも存在する。

 

Wikipediaより

 

 


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