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地名学では、邪馬台国は岡山です。

岡山市に隠された地名「大伯(タイハク)」があります。大伯地名と鯨面出土で邪馬台国に直結します。

呉越と呉国よりの渡来人地名山田庄栗田(瀬戸内市邑久町山田庄)

2014-05-24 06:21:42 | 邪馬台国
呉国の縁地名として、「呉(くれ)」や「越前・越中・越後」が知られています。

「呉国」からの渡来人によって、「呉服」と漢字の読み方「呉音」が伝来しました。
古代日本国の基礎作りに貢献した文化人や技術者集団が呉国からの渡来人です。

『邑久町史』に近くの「山田庄の栗田は呉人にゆかりのある地名かも。」とあります。
『改訂邑久郡史上巻』に『播磨風土記』によれば、「呉人は応仁天皇の御世より帰化土着したるが如し」とあり、『改修 赤磐郡誌全』の漢・呉人に、「日本書紀 雄略天皇十四年の記録に、高月村大字牟佐(むさ・身狭村主は呉の帰化族)」とあります。
呉国よりの渡来人地名を高句麗の渡来人地名とする説があります。
呉を呉国ではなく句麗(クレ)とする説です。
高句麗は呉国からの渡来ルートの通過点です。

呉音と呉鏡の伝来

2014-05-24 06:21:41 | 邪馬台国
和音(わおん)、平安時代中期以降、呉音と呼ばれました。
呉音(六朝時代・江南=古代日本・仏教語関係) 漢音(唐時代、長安を範とする北方音=奈良時代以後・儒教を含む一般)が重要です。 唐音(宋音、南方・室町期以後・臨済禅関係)もあります。
「行」の字を例にすると、呉音 ギョウ(修行・行者)・漢音 コウ (行動・実行)・唐音 アン (行脚・行燈)と区分されます。

呉の紀年銘鏡が2面出土しています。紀年号に注目です。

山梨県取居原古墳出土      赤烏元年(238年)銘鏡 
兵庫県宝塚市 安倉高塚古墳出土 赤烏七年(244年)銘鏡。 

イネの伝来

2014-05-24 06:21:40 | 邪馬台国
『イネの伝来』は、日本古代史の最重要テーマ です。
 中国の春秋時代(BC5世紀)の「呉」「越」の熾烈な戦いを逃れ、多くの呉国人が黒潮に乗り日本にたどり着きました。彼らが日本に稲作を伝えました。
① 長江の中流域にイネが出来ました。
② イネが北上したり、下流域に来て海岸線などを北上して、洛陽から山東半島先端の文登あたりに伝来しました。
③ 文登から海岸線を通って九州に入りました。
④ 洛陽から文登へ線を引くと、南側はイネが出てくるが、北側はイネが出なくてアワになります。
杉本憲司説(仏教大学名誉教授)

庄田山朝日寺由来記 全 加邉羅大通寺

2014-05-24 06:21:39 | 邪馬台国
庄田山朝日寺(瀬戸内市邑久町庄田1207)
庄田山朝日寺ハ唐土呉国僧智蔵上人日本に来たり大和国龍田法隆寺ニ居シ盛ニ空宗ヲ唱ヘ白鳳元年(673年) 僧正ト成リ復タ当地ニ移リ養老元年(717年)七堂伽藍十三院ヲ開基シ・・・加邉羅大通寺


三論宗(空宗)開基伝承寺院
備前国では日本に最初に伝来した三論宗(空宗)開基伝承寺院は少ない。他に沢田山恩徳寺・勅命山日応寺

智蔵上人 飛鳥時代の僧。 福亮(ふくりょう)の子。斉明天皇の時代(655~661)に父とともに呉から来日。
元興(がんごう)寺の恵灌(えかん)に三論をまなぶ。のち唐にわたり,三論宗の大成者吉蔵に師事。
帰国後法隆寺で教えをひろめた。天武天皇2年(673)僧正。俗姓は熊凝(くまごり)。

白鳳元年(673年):私年号
正史に記録されない年号

狭川宗玄先生(東大寺長老 平成10年4月30日 元管長)の紹介で、西山厚先生(平成10年5月1日 奈良国立博物館 普及室長)のご指導を戴きました。  

金陵山西大寺観音院の山号 金陵山

2014-05-24 06:21:37 | 邪馬台国
呉の都は地名が何回も変わりました。
西大寺観音院の山号・金陵山の意味をご存知ですか。

① 三国時代    建業(けんぎょう)
② 南北朝時代  建康(けんこう)
③ その後     金陵(きんりょう)
④ 現在      南京(なんきん)

司馬遷の『史記』 『呉太伯世家 第一 』

2014-05-24 06:20:53 | 邪馬台国
『史記』(しき)は、前漢の武帝の時代(在位 前141年~前87年)に司馬遷(しばせん)によって編纂された正史の第一、二十四史の一つです。

「呉の太伯と、弟の仲雍は、皆、周の太王の子にして、王・季歴の兄也。
季歴は賢にして、聖子昌有り。太王、季歴を立て昌に及(およ)ぼさんと欲す。是に於て太伯・仲雍二人、乃ち荊蠻(けいばん)に奔(はし)り、身を文にして髮を断ち、用うべからざるを示し、以って季歴を避く。季歴、果たして立つ、是を王季と爲す。
しこうして昌を文王と爲す。太伯の荊蠻に奔るや、自ら句呉と號す。荊蠻之を義とし、從いて歸するや千餘家。立てて呉の太伯と爲す。」
世家(せいか)とは世襲した諸侯のことです。

後漢書の太伯

2014-05-24 06:20:30 | 邪馬台国
『後漢書』は中国の後漢王朝一代の歴史書です。正史です。
『史記』『漢書』と陳寿(ちんじゅ)の『三国志』とを合わせて前四史と呼びます。
選者は五世紀劉宋の范曄(はんよう)です。
97巻に4回(列27・32・57・74)太伯が記録されています。

『晋書』四夷伝 倭人条

2014-05-24 06:20:10 | 邪馬台国
『晋書』(しんじょ: 晉書)は、晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書です。二十四史の一つです。
唐の648年に太宗の命により編纂されました。「巻97」は巻題が「列伝第67 四夷」とあります。

「倭人は帯方郡の東南の海中にあり山島に拠って国を建てている。その土地は山林が多く、良田がないので、海のものを食べる。
百あまりの国が相接して存在していたが、魏の時代には、三十国が魏へ通好していた。戸数は七万である。」

「成人男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている
自分たちを呉の太伯の末裔であると称している
また、大昔から遣使をしており中国に朝貢していたと伝えられています。 遣使はみな大夫と自称していました。」



『論語』・泰伯篇

2014-05-24 06:20:08 | 邪馬台国
『論語』が何時、誰によって、何処で、どのように成立したかは不明です。

「泰伯篇」に、「子曰はく、泰伯(たいはく)は誠に至徳の人と申すべき方だ。将来天下の王となるべき地位を固辞し(て身を隠してしまわれ)たので、名声すら残らないで終わった。」とあります。


後漢の班固の『前漢書』地理志・燕地の條

2014-05-24 06:19:45 | 邪馬台国
中国人は日本を『随書』以前は倭(倭人・倭国)と称し、『新唐書』以後は日本としています。
『旧唐書』は倭国・日本の両伝です。唐朝を境にして変化しています。

後漢の班固(~72)の『前漢書』巻二八下・地理志・燕地の條に、 「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時(さいじ)をもって来たり、献見(けんけん)すという」とあります。
「東の海のかなたに倭人が住む素晴らしいところがある」の意です。

『三国志』『魏書・東夷伝』 「倭人の条」・魏志倭人伝 の要点

2014-05-24 06:19:24 | 邪馬台国
最初の倭人から最後の二十匹まで、二千字あまりが改行も句読点もなく続いています。

① 「倭国」ではなくて「倭人」としています。
② 何故、倭の位置を平城の70Kmほど南の帯方郡からの位置にしたのか。
③ 住んでいる土地を「山島に依り」としている。山島は熟語であり地形を説明しています。
④ 「国邑をなす」の国邑(こくゆう)は小都市のことです。
⑤ 鬼弥呼を始め10人の倭人の名前が記録されています。
⑥ 倭人の時代に支配者層は漢字を書けました。
⑦ 帯方郡の役割と公孫氏(3代50年)の出現。 帯方郡が倭との外交を担当していました。
⑧ 魏は女王国に注目しました。女王国5回、女王7回です。
⑨ 都市とは市(いち)を管理する役人のことです。
⑩ 『倭人伝』は80年間の記録です。 森浩一説(同志社大学名誉教授)

『神社啓蒙』記載の鹿児島神宮の太伯末裔説

2014-05-24 06:19:05 | 邪馬台国
『神社啓蒙』白井宗因著は江戸時代の神道調査の参考文献として必読書です。
「太伯末裔説」は記紀成立前に日本に伝来していましたが、記紀編纂には採用されませんでした。
鹿児島神宮(大隅正八幡宮・鹿児島県霧島市隼人町内2496)に陣王伝説があります。
1667年(寛文七年)成立の『神社啓蒙』に呉太伯を祭ったと記録されています。

陣王伝説により江南地方との交流が古くから行われていたことがわかります。




北畠親房『神皇正統記』とは

2014-05-24 06:18:34 | 邪馬台国
『神皇正統記』は、北畠親房(1293年~1354年)が、幼帝後村上天皇のために吉野朝廷(南朝)の正統性を述べた史書です。

「大日本は神国なり。天祖始めて基を開き」で始まります。
「異朝ノ一書ノ中二、『日本ハ呉ノ太伯ガ後也トイヘリ。返す々当ラヌ事ナリ。」と批判しています。








山鹿素行と『中朝事実』

2014-05-24 06:18:14 | 邪馬台国
山鹿素行(1622年~1685年) は、江戸時代前期の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖です。
山鹿素行の神武観は『中朝事実』(寛文九年・)に最も濃厚に表れています。

「或る人疑ふ、中華は呉の泰伯の苗裔なり。・・・嘗て東山の僧圓月、日本紀を修し、以て泰伯が後と為す。朝議協はずして遂にその書を火く。大概、中華の朝儀は多く外国の制例に襲ると。否らずや。」と批判しています。



中巌圓月『日本紀・日本書』

2014-05-24 06:17:52 | 邪馬台国
建仁寺の中巌圓月(臨済禅僧・1300年~1375年)が歴史書『日本紀』に「太伯皇祖説」を書き禁書となりました。
『日本紀』又は『日本書』は中厳圓月著です。圓月は禅僧であり、朱子学者です。
中巌圓月は「神武天皇は呉の太伯の末」と説きました。


中巌圓月は朱子学の知行統一論を実践する為に、商船に乗り九州から江南へ渡り、七年間、江南で呉や越の習俗等を学びました。
しかし、当時の朝廷に受け容れられず、自らその書を焼きました。