地名学では、邪馬台国は岡山です。

岡山市に隠された地名「大伯(タイハク)」があります。大伯地名と鯨面出土で邪馬台国に直結します。

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邪馬台国と邑久(大来)と、伊勢神宮斎宮との関係が明確になりました。

2018-07-05 03:38:58 | 邪馬台国

せとうちキラリ☆くらぶ 瀬戸内魅力物語

2016年6月16日 『百枝八幡宮より見える吉備国の古代史』 2016/09/24 公開

https://www.youtube.com/watch?v=V0T9HENojwc



この調査研究が、「地名学では邪馬台国は岡山です」の発想の元になりました。

邑久(大来)と伊勢神宮斎宮との関係が明確になりました。


平成31年1月26日に、岡山市立富山公民館で、「岡山学」としての「地名学では、邪馬台国は岡山です」をお話します。
友信正館長さんより、岡山学としての講演依頼がありました。

要点を、「邪馬台国と大和朝廷」としてお話させていただきます。

コメント (1)

『地名学では、邪馬台国は岡山です』の講演が、youtube で公開されております

2018-07-02 14:36:23 | 邪馬台国

せとうちキラリ☆くらぶ 瀬戸内魅力物語

2017年9月18日『地名学では、邪馬台国は岡山です』2018/03/28公開
岡山県内13箇所を巡回講演しました。

https://www.youtube.com/watch?v=AV-DU7i-1fA




平成29年 4月26日 岡山県生涯学習センター
平成29年 5月24日 倉敷公民館
平成29年 6月27日 児島市民交流センター
平成29年 7月16日 瀬戸公民館
平成29年 7月27日 総社市中央公民館
平成29年 9月 5日 ワンダーシップ(青春の会)
平成29年 9月14日 岡山歴研・歴研サロン ゆうあいセンター2階 
平成29年 9月28日 瀬戸内市中央公民館
平成29年 9月30日 赤磐市中央公民館
平成29年10月15日 矢掛町・中川公民館
平成29年10月16日 岡山市立高島公民館
平成30年 1月24日 笠岡市民会館
平成30年 2月28日 玉島市民交流センター

全て邪馬台国の範囲内です。

瀬戸内市での講演が公開されております。


この写真は、平成29年 9月 5日のワンダーシップ(青春の会)での講演です。
場所は岡山駅前です。
コメント

「地名学では邪馬台国は岡山です」の要点です。

2017-01-04 09:55:01 | 邪馬台国
私は邪馬台国九州説は、吉備説を隠すために創作されたとしています。

邪馬台国の場所が「太伯地名と黥面の特徴的分布」から特定できました。
「岡山県の平野部と香川県の海岸部」です。
漢音のタイハク・大伯をオホクと誤読した人がいます。
現在は呉音の太伯を使用しています。国語学の基礎の基礎です。
邑久郡誌、邑久町史のみの間違いではなくて、万葉集の解説書の著者も全て間違えています。

つまり、図書館にあるすべての本が、初歩的な国語を間違えているのです。
これは、間違えるように仕掛けた人がいると考えました。
江戸時代の水戸学のタイハク論争です。
タイハク論争から隠すために、間違ったルビをしたものです。
仕掛け人は、水戸光圀と池田光政としています。

岡山では、水戸学のタイハク論争と言っても会話できる研究者はおりません。
しかし、高松市へいけば、会話できます。
水戸学への研究レベルが違うのです。


黥面の特徴的分布とは、邪馬台国の時代の入れ墨が岡山県と香川県でのみ発見されています。
九州では発見されていないのです。

1月8日に講演される安本美典先生には、想定外の調査報告です。

ブログのタイトルが変更できません。

1年間のブランクは大きいですね。
コメント

太伯と邪馬台国 『倭人は太伯の子孫説』 邪馬台国吉備説は、「 地名学では、邪馬台国は岡山です」と、タイトルを変更しました。

2017-01-03 16:06:25 | 邪馬台国
太伯と邪馬台国 『倭人は太伯の子孫説』 邪馬台国吉備説 論争参戦 (プログ)は、
「 地名学では、邪馬台国は岡山です」と、タイトルを変更し完成しております。

2018年の新春を迎えました。
今年は、各地で講演していきたいと思っています。
コメント

無錫市出身の方も、岡山の太伯(たいはく)地名を知っておられます。

2014-10-03 10:55:46 | 邪馬台国

古代の呉国である無錫市(むしゃく-し、中国語:无锡市i)の出身者が坂出におられるそうです。
私は岡山県南から坂出を邪馬台国としています。
① 言葉がにているそうです。
② 人間の顔も似ているそうです。
③ 岡山に太伯(たいはく)地名があることも、知っておられたとのことです。

知らないのは地元民だけです。

大伯を「オク」と読めると説明できる先生は見つかりません。
学問の世界は、大先生は絶対に間違わないという発想のようです。
ISO9001との基本的な違いです。

私の説は、大先生の単純ミス、ルビの付け間違い説です。
岡山県の先生たちは、ルビを読んでいるだけです。

江戸時代の古文書に、ルビのついているものは見たことがありません。
明治以降のルビの付け間違いです。
ご意見をお願いします。
コメント

岡山市立太伯小学校『創立100周年記念』 1996年です。説明に納得されますか。

2014-09-21 07:19:11 | 邪馬台国


大伯が「オク」と読むことができると主張されている岡山県を代表する先生です。
私はこれらの先生は、「邑久町史」の大伯の「オク」というルビを読まれただけの先生だと考えます。

大伯の「オク」というルビは、単なるルビの付け間違いだと考えます。
岡山県立図書館にある辞書では、漢音で「タイハク」としか読めません。

これらの先生と懇意な方は、大伯を「オク」と読む根拠を質問して教えて下さい。

コメント (1)

田益田中遺跡(岡山市西花尻)でも黥面土器の砕片が発掘されています。

2014-09-15 06:36:19 | 邪馬台国
田益田中遺跡(岡山市西花尻)でも黥面土器の砕片が発掘されています。

岡山県立博物館の「-発掘調査から見た吉備の歴史-大地からの便り」展で展示されています。
期間は、平成26年9月11日~10月5日です。

吉備国が邪馬台国であることを証明する出土品です。
コメント

単純なルビの付け間違いが定説に

2014-09-09 17:59:41 | 邪馬台国
太伯(タイハク)という地名に注目し40年になる。 太伯(タイハク)地名は、吉備国の古代地名として最も重要な地名です。しかし、太伯地名は歴史研究者に無視されてきた。
中国・日本・李氏朝鮮に「倭人は太伯の子孫説」がある。

「大」の漢音は「タイ」、呉音は「ダイ」です。
最初は「呉音で太伯」と書き、漢音の時代に「、」の無い大伯(タイハク)と表記が変更された。
それを明治22年に呉音のタイハクに戻しました。

単純な「ルビの付け間違い」です。その「付け間違いが定説になってしまいました。
ルビの付け間違いが、平成8年11月から平成26年まで18年間も訂正されていません。
太伯小学校の先生達も、初歩的な間違いを発見しても指摘できません。

「大も太」も小学校で習う漢字です。 岡山県の国語教育のレベル低下に驚かされます。

大伯は(オク)とはよめません。
単純なルビの付け間違いです。

大伯を(オク)と読めると考えられる人は、根拠を説明して下さい。



コメント

参考文献名が分かりません。

2014-08-22 08:03:52 | 邪馬台国

この画像は研究の初期段階で、岡山市埋蔵文化財センター蔵書より、写真撮影したものです。
撮影時に、文献名はメモしていたのですが、紛失してしまいました。
岡山市埋蔵文化財センター蔵書だから、再訪問すれば直にわかると思っていました。
しかし、同じようなタイトルの蔵書が一杯です。
調査しても見つけることができませんでした。

この画像は邪馬台国の位置を説明する為の、非常にわかりやすい画像です。
そして、岡山県古代吉備文化財センター等の若い先生に読まれていない文献です。

ですから、岡山県内の考古学の先生と会話が成立しません。

「入れ墨はあちこちから、出土しています。」という返答しか帰りません。
彼らは、入れ墨の縄文・弥生・古墳時代の違いの層別ができないのです。

文献名をご存知の方は、ご指導願います。
コメント

8月10日、更新しました。

2014-08-10 15:27:56 | 邪馬台国
8月10日、更新完了しました。

岡山県史古代史説(平成2年)を確認下さい。
『考古学上の成果に基づく吉備社会のあり方と、「倭人伝」の記述する三世紀の倭人社会のあり方との間に、何らかの接点を求める必要に迫られる。』
これが、岡山県の考古学者、つまり、プロの限界です。
岡山県史古代史説を補説しました。


一番重要なのは、

① 多くの人たちに『太伯と邪馬台国「倭人は太伯の子孫説」』を知ってもらうことです。
② 大宰府天満宮の宮司様も、「大宰府天満宮蔵の国宝の古文書が正しいという説が岡山で発表されている」ことご存知ないと思います。



③ 邪馬台国を証明する「2~3世紀の線刻人面絵画」が吉備国の古墳より出土しています。

 邪馬台国を証明する入墨「黥面文身」が岡山県の古墳より出土しています。
 「黥面文身」については、設楽博巳先生(東京大学大学院考古学研究室教授)の『男子は大小となく皆黥面(げいめん)文身す-倭人のいでたち』が一番正確です。
設楽博巳先生の古代の入墨研究により特徴的分布が確認されています。
  2~3世紀の線刻人面絵画出土は吉備国のみです。




  3世紀に愛知・岐阜・静岡に移動し、3~4世紀に群馬・千葉・茨城へ移動しています。

④ 吉備国に「お歯黒伝承」があります。香登の「お歯黒」です。

等々、従来の邪馬台国論とは異質な説です。

大宰府天満宮の宮司様と設楽博巳先生(東京大学大学院考古学研究室教授)にブログを読んでいただくことを目標にしています。
中川里志先生(北九州市立松本清張記念館学芸担当主任)は、「文献資料(魏志倭人伝ほか)に基づく研究、論議は尽くした感がある。」としています。「大宰府天満宮蔵の国宝の古文書」の地名学による解読が実施されていないことをご存知ないようです。

ブログをホームページの代替として作成しています。
講演時のパワーポイントをベースにして、紹介しています。
投稿日付が古いのは、投稿時間を後で操作しているからです。



 
  
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太伯と邪馬台国 『倭人は太伯の子孫説』 邪馬台国吉備説 論争参戦 

2014-05-24 06:25:41 | 邪馬台国
太伯と邪馬台国 『倭人は太伯の子孫説』 邪馬台国吉備説 論争参戦


日本人の祖先が呉の太伯である」という記録は、大宰府天満宮蔵の国宝に指定されている古文書『翰苑』に記録されています。

「倭人は太伯の子孫説」とは、記紀成立以前に中国を訪問した倭国の外交使節が「私達は太伯の子孫であると名乗っていた」との記録です。「呉」とは春秋時代の呉です。この裔が呉太伯です。太伯は句呉(こうご)と号し国を興し呉の太伯と呼ばれました。


倭人は太伯の子孫説の要点

魏は朝鮮半島の北部に楽浪・帯方郡という植民地を持っていました。
帯方郡から1万2千余里、離れたところに女王卑弥呼の邪馬台国がありました。

① 邪馬台国から来た使者たちは、「自分たちは太伯の子孫である」と名乗っていました。

② 邪馬台国の風俗を見ると、男は身分の高さに関係無く、皆入墨をしていました。
  男は一定の年齢になったら全員が入墨をしなければいけない決まりがありました。
  「文身點面 猶(なお)太伯の苗と称す。」『魏志』では「黥面文身」です。點面とは顔の入墨のことです。

③ 『史記』趙世家に「黒歯雕題」とあります。つまり「黒い歯をして額に入墨」をするのが呉人の風俗です。
   お歯黒に使用していた黒い色素は、入墨にも使用されていました。

④ 『翰苑(かんえん)』にたどり着くことなしに邪馬台国説を発表している説は全て間違いです。

邪馬台国の決定条件は3点のみです

① 太伯地名があること
② 邪馬台国を証明する「2~3世紀の線刻人面絵画」が古墳より出土していること

「黥面文身」については、設楽博巳氏(東京大学大学院考古学研究室教授)の論文『男子は大小となく皆黥面(げいめん)文身す-倭人のいでたち』と『イレズミからみえてくる邪馬台国』が一番重要です。    
  設楽博巳氏の古代の入墨研究により特徴的分布が確認されています。
  2~3世紀の線刻人面絵画出土は吉備国のみです。




  3世紀に愛知・岐阜・静岡に移動し、3~4世紀に群馬・千葉・茨城へ移動しています。
  
③ 「お歯黒伝承」があること
  香登の「お歯黒」に注目しました。


この3点の決定条件が有るのは吉備国のみです

つまり、邪馬台国は「岡山県の平野部と瀬戸内海をはさんだ香川県の海岸部」となります。

『魏志倭人伝』のみでは、邪馬台国は見えません。
『翰苑』の「日本人の祖先が呉の太伯である」という記録に林羅山(儒学者)が注目し、徳川光圀の『大日本史』の執筆動機として知られています。

このブログでは隠された地名、太伯の場所を明確にし、隠される原因となった江戸時代の厳しい「太伯論争」を明らかにしています

『倭人は太伯の子孫説』の発想の過程を全て公開しております。
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邪馬台国論争の開始

2014-05-24 06:25:40 | 邪馬台国
邪馬台国論争が本格的に始まるのは、新井白石の1716年成立の『古史通或間』です。「魏志は実録に候」と述べています。
  「邪馬台国大和国(やまとこく)説」⇒「筑後国山門(やまと)郡説」。
本居宣長は『古事記伝』で邪馬台国(やまたいこく)と読み、大和朝廷とは繋がらず、九州にあった小国「九州熊襲説」を説いています。

この二人が邪馬台国研究の先駆者です。
明治、 大正、昭和、平成に渡って延々と続く論争の原点です。
明治時代は、内藤湖南(畿内大和説・京都帝国大学)・白鳥庫吉(北九州説・東京帝国大学・1865~1942)の白熱の論争があったそうです。
現代まで長く尾を引く邪馬台国論争は、二人の論争がスタートとされています。

「邪馬台国東遷説」は和辻哲郎(東京大学・1889~1960)が最初です。
邪馬台国は九州に存在し、後に東遷して大和朝廷になったという説です。

邪馬台国畿内説では『吉備国・投馬国説』とされています。
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何故、決着しないのか

2014-05-24 06:25:39 | 邪馬台国
江戸時代からの論戦が何故、決着しないのか。 その理由は簡単です。
邪馬台国で無いところを、一生懸命探しても何も出てこない
製造工場で顧客クレームがあり、クレーム原因を調査している。
クレーム発生原因で無い所を一生懸命に調査している状態です。
関係の無い場所をいくら熱心に調査しても、クレーム発生原因が分かるはずがない。
この当たり前のことに気がつかない研究者がいかに多いことか。
これが、邪馬台国論争の現実・真実です。
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岡山県史 古代説 『プロは、これが限界』

2014-05-24 06:25:39 | 邪馬台国
考古学上の成果に基づく吉備社会のあり方と、「倭人伝」の記述する三世紀の倭人社会のあり方との間に、何らかの接点を求める必要に迫られる。 (平成2年)

岡山県史古代説です。これが、岡山県の考古学者の限界です。 『プロの限界』です。
岡山県史古代説を補説しました。
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昭和51年 国宝『翰苑』復刻出版のことば

2014-05-24 06:25:38 | 邪馬台国
昭和51年1月 大宰府天満宮宮司・文化研究所所長 西高辻信貞氏

当宮所蔵の『翰苑』は、アジア史研究、ひいては古代史研究のなかで重要であり、また「幻の史書」としても高名である。・・・現代では、その解読の困難な『翰苑』に、和文読みの解読本ができることは、古代史、特にアジア史との関連のなかで、一般の研究者から深い理解を得られるとともに、古代大宰府の持つ意味や、文化の伝統を誇る大宰府天満宮の歴史にとっても、非常に重要な意味をもつものと私は考えている。

邪馬台国論への採用
和田英松・橋本増吉博士以下の論文に採用されたとあるが、一般には知られていない。
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