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地名学では、邪馬台国は岡山です。

岡山市に隠された地名「大伯(タイハク)」があります。大伯地名と鯨面出土で邪馬台国に直結します。

林羅山の「神武天皇論」

2014-05-24 06:17:29 | 邪馬台国
林羅山(1583年~1657年)は徳川家康の信任を得て幕府文教政策の基礎を築きました。
江戸時代の朱子学者・林羅山の『本朝通鑑』に中巖圓月説を支持した「太伯皇祖説」があります。

「神武天皇論」で下記のように述べています。
『神武天皇論』に「余霜かに圓月が意を惟ふに、按ずるに諸書は日本を以て呉の太伯の後と為す。夫れ太伯は荊蟹に逃れ、髪を断ち身を文きて交龍と共に居る。其の子孫筑紫に来る。想ふに必ずせ時の人以て神と為ん。」
「渡来した賢人太伯の子孫が当時の人々に神として崇められたのであり、日本の皇室の祖神が、その本源を遡って見れば太伯に当たる」という。
「東山の僧・圓月、かつて日本紀を修す。朝儀協(かなわ)ずして果たされず。遂に其の書を焼く。余、ひそかに圓月が意(こころ)をおもうに、按(あん)ずる諸書、日本を以て呉の太伯の後と為す
それ、太伯荊蛮に逃れ、断髪・文身し、交龍と共に居る。その子孫、筑紫に来る。思うに必ず時の人、以て神と為さん。
これ天孫、日向高千穂の峰に降るの謂か。当時の国人、疑いてこれを拒(ふせ)ぐの或いは、これ有るが、これ大己貴神、順(まつろ)い服せざるの謂か」

太伯論争 藤田幽谷の「修史始末」

2014-05-24 06:17:08 | 邪馬台国
藤田幽谷(ゆうこく) 「修史始末」
安永3年(1774)~文政9年(1826)。10歳の時、立原萬(翠軒)に入門、15歳で史館小僧として彰考館に入り、寛政3年に「正名論」、同9年に「修史始末」、同13年に「勧農或問」を著しています。

大日本史の編集方針をめぐって師翠軒と対立、翠軒が彰考館を去った後、文化4年、高橋広備(坦室)とともに総裁に就任しました。 

太伯論争 安藤為章の「年山紀聞」

2014-05-24 06:17:07 | 邪馬台国
安藤為章(ためあきら)  『年山紀聞』
   万治2年(1659)~ 享保元年(1716)国学者。
   儒学を伊藤仁斎に、和歌を中院通茂に学ぶ。最初は伏見宮に仕えました。
   水戸藩の徳川光圀に招かれて彰考館の寄人となり『大日本史』『礼儀類典』『釈万葉集』の編纂に従事しました。
   光圀の命令で契沖のもとに万葉集の註釈を教わり、ついには契沖の門人となりました。
   伴蒿蹊は「人のなし難き所にして、吾が天を安んずるの節義称すべし」と評すとあります。

『年山紀聞』は、倭国の古代史研究に重要な文献と考えます。「日本を姫姓のよし」とあります。

水戸光圀の王政復古計画説に注目

2014-05-24 06:16:48 | 邪馬台国
水戸光圀が岡山藩の池田光政と連絡し、王政復古計画説が知られています。
この説を筆録した最古の記録が『人見雑記』です。
水戸義公が池田光政と談合し、これに関する書状の往復がありました。
渡辺昌庵の言を記録しています。『水戸学論籔』

太伯論争の回避策 

2014-05-24 06:16:47 | 邪馬台国
水戸光圀と池田光政との特別な関係から、「太伯論争の回避策として『大伯(タイハク)を隠す為にオヽクとルビ』説を考えました。
調査結果は下記の通りです。
1700年の『備前記』に記録が無い。
1739年の『備陽国誌』に記録がある。
1799年の『吉備温故秘録』に記録が無い。

以上の調査結果から、『備陽国誌』のルビは、岡山藩唯一の官撰の領国地誌であり、太伯論争回避策としてルビ付けしたと考えられます。

    丸谷憲二説

備前藩の地誌解析-1

2014-05-24 06:16:45 | 邪馬台国
備陽国誌
  1739年(元文4年) 成立。
  ルビの初見資料。  岡山藩唯一の官撰の領国地誌。
  六国史をはじめとする古今の諸書から、備前の事跡に関する証拠の正しい記事を採り、村は残らず挙げて古名・異名を記し、伝説は出所に係らず妄説を除き採録。



備前記 全 1700年(元禄13年)~1717年成立
   記録無し。

備前藩の地誌解析-2

2014-05-24 06:16:44 | 邪馬台国
東備郡村志 領国地誌。
 1837年(天保8年)~1842年(天保13年)成立と推定。
 考古学的な見聞と記述形式は他に例を見ない。
 典拠を示して諸説を引用、検討しており、学究的な態度が見える。
 『天武紀に字大来に作る。又旧事記にも大伯に作る。 此大伯をも後世略転してオクと称するなるべし
 字は尚大伯に作べきに、誤転して邑久に作れるならんか。』


寸簸(きび)之塵
 1778年(安永7年)成立
 『むかしは邑久郡を大伯(斉明紀)或は大来(天武紀)ともかけり

吉備温故秘録
 1799年~1803年成立と推定
 村落六 邑久郡は神埼村であり大伯の記録無し

徳川光圀『大日本史』

2014-05-24 06:16:23 | 邪馬台国
江戸城に登城した青年時代の徳川光圀(1628年~1701年)は、林羅山の『本朝通鑑』を見せられ、その中に「日本の始祖は呉の太伯の子孫である」といふ記述を見て、版行の停止を要求しました。
1645年(正保2年)に『史記』「伯夷伝」を読み伯夷・叔斉に感銘を受け学問に精励し史書編纂を志しました。




全身に入墨し、滝に打たれ入魂式

2014-05-24 06:15:57 | 邪馬台国
40年ほど前までは裸祭りに多くの入墨者が参加していました。
また、彫物師が西大寺に居られ、全身への手彫りを見せていただきました。
全身に入墨し滝に打たれ入魂式を行う。この事実は西大寺地区に入墨者が多いことを裏付けています。

入墨禁止令の歴史
江戸時代に2回 効果無し
文化8年 (1743年)文身に対する禁令
天保の改革(1830~1843年)文身厳禁
江戸時代には「入墨は刑罰の一つ」であった。
明治時代に2回 効果無し
明治5年 罰金刑・軽犯罪の扱い
明治13年 1日の拘留か罰金
昭和49年 入墨者は会陽参加禁止
(入墨禁止運動推進者は日本史の勉強を。日本人の歴史・文化を否定しています。。)

倭人の文身

2014-05-24 06:15:56 | 邪馬台国
倭人の文身は装飾ではなく、宗教的な神秘的なもので、雲南省から揚子江畔に分布したものが、日本に伝播したものです。
その源流はインドシナ族で、苗族などの文化・習俗の伝播したものです。
鳥居龍蔵氏 『有史以前の日本』『苗族調査報告』

『魏志倭人伝の記録の正確さ』を証明

2014-05-24 06:15:38 | 邪馬台国
『魏志倭人伝』の記録を元に、多くの研究者が発掘された入墨のある黥面や埴輪について研究論文を発表しています。
これらの論文により『魏志倭人伝の記録の正確さ』が証明されました。

設楽博巳氏(東京大学教授)の「男子は大小となく皆黥面文身す-倭人のいでたち」と『イレズミからみえてくる邪馬台国』の要点を紹介します。

「3世紀のイレズミ絵画」に「同種の絵画で最も古いものは岡山県倉敷市上東遺跡の後期後半~中葉、すなわち2世紀の土器絵画」とし、「香川県善通寺市の仙遊遺跡の石棺の蓋に線で彫られた顔」を紹介しています。

1:善通寺市の仙遊遺跡出土
2:愛知県安城市の亀塚遺跡出土、
3:茨城県下館市の女方遺跡出土

黥面の特徴的分布

2014-05-24 06:15:36 | 邪馬台国
① 2~4世紀にかけて、全国で20遺跡、29個体に描かれた43個の人面絵画が類例として知られています。
② 人面絵画の共通項は、頬から目頭を通って額に抜ける二つの向かい合う弧線、目尻からでている弧線、虹彩のない目です。
③ 特徴的分布。
  岡山県の平野部と香川県善通寺市、愛知県と岐阜県の境目あたりと愛知県安城市付近の濃尾平野に集中
しています。
④ その間の近畿地方からは一つも出ていません。
⑤ 線刻人面絵画がなかった近畿地方にも、5~6世紀になり顔に線刻のある埴輪が登場します。弥生時代の入墨はありません。

⑥ 『古事記』に2ヶ所、『日本書紀』に6ヶ所、合わせて8ヶ所の黥面や文身の記述があります。
  5~6世紀のある程度の史実を反映しています。
  死刑の代わりの刑罰としての入墨例の報告もあります。
⑦ 8世紀には公的には、入墨の習俗は無くなりました。