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地名学では、邪馬台国は岡山です。

岡山市に隠された地名「大伯(タイハク)」があります。大伯地名と鯨面出土で邪馬台国に直結します。

「大」の漢音は「タイ」、呉音は「ダイ」

2014-05-24 06:24:32 | 邪馬台国
昨日まで「おおく」と読み、今日から「、」を付けたので「たいはく」はありえません。
「大」の漢音は「タイ」、呉音は「ダイ」です。
最初は呉音で太伯と書き、漢音の時代に「、」の無い大伯(タイハク)と表記が変更されました。
古代から地名は「たいはく」でした。歴史学の初歩です。


参考文献も全て間違えています。
『角川日本地名大辞典』には「明治22年から昭和28年の邑久郡の自治体名・・・大伯が太伯と書かれたものと思われる」とある。
『岡山市の地名』には「明治22年(1889)合併し太伯村となり」とある。
これらの著者は調査しないで、文献をコピーして紹介しているだけです。
岡山県の郷土史家には、「郷土史研究とはコピーする事」と理解している人が多いように感じます。

「倭人は太伯の子孫説」

2014-05-24 06:23:39 | 邪馬台国
日本人の祖先が呉の太伯である」という話は、『翰苑』に記録されています。
「倭人は太伯の子孫説」とは、記紀成立以前に中国を訪問した倭国の外交使節が「私達は太伯の子孫であると名乗っていた」との記録です。「呉」とは春秋時代の呉です。夏王禹から6代目が夏后帝少康です。この裔が呉太伯です。太伯は句呉(こうご)と号し国を興し呉の太伯と呼ばれました。

『翰苑(かんえん)』巻三十『魏略』逸文が、「倭人は太伯の子孫説」の初見です。
魏書は『魏略』を参照し、『日本書紀』も『魏略』を引用しています。

『魏志倭人伝』のみでは、邪馬台国の位置は見えません
この記録に林羅山(儒学者)が注目し、徳川光圀の『大日本史』の執筆動機として知られています。

国宝『翰苑』

2014-05-24 06:23:38 | 邪馬台国
『魏略』逸文五に収載 『翰苑(かんえん)』巻第三十

唐(618~907)の張楚金に書かれた類書です。
原本は「大宰府天満宮」にあり国宝です。『翰苑(かんえん)』は、「幻の史書」としても高名です。
その内容から660年以前に成立していたことがわかります。


倭人は太伯の子孫説の要点

2014-05-24 06:23:37 | 邪馬台国
魏は朝鮮半島の北部に楽浪・帯方郡という植民地を持っていました。
帯方郡から1万2千余里、つまり、遠く離れたところに女王卑弥呼の邪馬台国があります。
① 邪馬台国から来た使者たちは、「自分たちは太伯の子孫である」と名乗っていました。

② 邪馬台国の風俗を見ると、男は身分の高さに関係無く、皆入墨をしていました。
  男は一定の年齢になると全員が入墨をしなければいけません。
  「入墨は男子が戦士となる儀式」です。つまり、入墨は「通過儀礼」です。


「倭人は太伯の子孫説」の解読

2014-05-24 06:23:37 | 邪馬台国
「文身點面(ぶんしんげいめん)して、猶(なお)太伯の苗(びょう)と称す。」

『隋書』では「黥臂點面文身」、『魏志』では「黥面文身」とあります。點面とは顔の入墨です。
『史記』趙世家では「黒歯雕題」、つまり「黒い歯をして額に入墨」をするのが呉人の風俗です。

太伯の苗裔とは呉人で、周の王族、太伯が弟に国を委ねて呉に逃れたと伝えられています。(史記呉太伯世家)。

「魏略曰く、女王の南、また狗奴国あり。男子を以て王と為す。その官はクコウチヒコという。女王に属さず。帯方より女(王)国に至る。万二千余里。

その俗、男子は、皆、點にして文。その旧語を聞くと自ら太伯の後という。
昔、夏后少康の子は会稽に封じられ、断髪文身して、蛟龍の害を避けた。
今、倭人はまた文身し、もって水害をはらう(厭)。」
倭人は自ら「太伯の後」と記録され呉人が渡来していた。

『翰苑の解読と分析 塚田敬章氏』より抜粋 
http://www.eonet.ne.jp/~temb/8/kan_en.htm



吉備国からの東遷説の証明

2014-05-24 06:23:19 | 邪馬台国
『太伯と邪馬台国 倭人は太伯の子孫説』説は、岡将男氏の『吉備邪馬台国東遷説』を補説しています。
邪馬台国の位置は、卑弥呼の時代迄は吉備国、台与の時代にヤマトに移転したという東遷説です。

古墳出現前夜になると、特殊器台は吉備よりも畿内の最も古い前方後円墳に分布の中心が移っています。
河内、大和地方から吉備の遺物が散見されます。分銅形土製品、細頸壺、孤帯文・撥形文の描かれた土器などです。
特殊器台は箸墓古墳のほか、初期の前方後円墳から出土しています。

古墳時代の幕開け期に吉備がヤマト王権の成立過程に、邪馬台国が見えています。
古墳出現前夜には特殊器台は吉備よりも畿内の最も古い前方後円墳に分布の中心が移っています。

邑久の誕生と嘉字地名

2014-05-24 06:23:01 | 邪馬台国
邑久の誕生は713年(和銅六年)です。
『風土記』編纂に当って好字の邑久に改められました。

奈良時代に『風土記』の撰述に際して、和銅六年(713年)に下された詔勅「郡、郷名を嘉字二字を以って示せ」があります。
地名には縁起の良い字(嘉字=好字)を当てよとの詔です。

柳田国男氏は『地名の研究』で、「間の行為であるとすれば、その趣旨や目的の無いはずはない」とし、「先住民の縄文人がつけたか、アイヌ人がつけたか、または、新たに侵入した渡来人がつけたにしても、地名をつけた目的が必ずあった」としています。

柳田国男説を受け、「渡来人の故郷の地名・人名説を追記」しました。丸谷憲二説です。

大伯の初見 『邑久町史・邑久町史通史編説』

2014-05-24 06:22:43 | 邪馬台国
昭和47年発行の『邑久町史』に
「邑久郡の誕生」として、『日本書紀』(720年)の斉明天皇七年(661年)正月の項に、「御船大伯海(おほく)に到る、・・・大伯(おほく)皇女と曰う」とあります。 ・・・?
これが、大伯(おほく)の初見とされていますしかし、この記録は「大伯(たいはく)」の初見です。
大伯は「おほく」とは読めません。「間違い」です。
『日本書紀』に、ルビが付いていないことを確認して下さい。
ルビの付け間違いです。





オクの表記『邑久町史通史編説』

2014-05-24 06:22:23 | 邪馬台国
平成21年発行の『邑久町史通史編』「第一章 倭王権と邑久地域」の冒頭に、「オクの名称そのものが重要な意味を持つことを、はじめに述べておきたい。」、「倭王権の政策上も重要な拠点」とあります。 ・・・?
「和銅六年(713年)以前、オホクの公的な地名表記は、大伯であったと考えてよいだろう。」とあります。・・・?
この説明には大伯にルビをつけておりません。ルビがなければ正しい調査結果報告です

大伯は「オホク」とは読めません。「間違い」です。『邑久町史通史編説』は、大伯(たいはく)に間違えて「オホクとルビ」してしまいました。ルビの付け間違いを出版後も、誰も発見指摘しておりません。




正解は大来 『邑久町史通史編説』は間違い

2014-05-24 06:22:04 | 邪馬台国
木簡に「太来」とあります。「太来」が、邑久の最古の表記です。呉音表記です。
写真の二つの木簡が発見されています。どうして、「太来(オホク)」と「太伯(タイハク)」との二つの地名がありましたと直に読まれないのでしょうか。理解できません。

呉越と呉国

2014-05-24 06:21:43 | 邪馬台国
呉語を話す漢民族を呉越民系、呉越人、江南民系と呼びます。
上海市、江蘇省南部、安徽省南東部、浙江省や江西省東北部、福建省北部に居住しています。
昔は江南とも呼ばれていました。

中華文明で最も早く興ったのが江南一帯です。
上海、蘇州、杭州、常州、無錫、湖州、嘉興,紹興,寧波などが知られ、周庄,南潯,烏鎮,西塘、同里、木渎、等が呉越情緒あふれる場所です。