「日本人の祖先が呉の太伯である」という話は、『翰苑』に記録されています。
「倭人は太伯の子孫説」とは、記紀成立以前に中国を訪問した倭国の外交使節が「私達は太伯の子孫であると名乗っていた」との記録です。「呉」とは春秋時代の呉です。夏王禹から6代目が夏后帝少康です。この裔が呉太伯です。太伯は句呉(こうご)と号し国を興し呉の太伯と呼ばれました。
『翰苑(かんえん)』巻三十『魏略』逸文が、「倭人は太伯の子孫説」の初見です。
魏書は『魏略』を参照し、『日本書紀』も『魏略』を引用しています。
『魏志倭人伝』のみでは、邪馬台国の位置は見えません。
この記録に林羅山(儒学者)が注目し、徳川光圀の『大日本史』の執筆動機として知られています。
「倭人は太伯の子孫説」とは、記紀成立以前に中国を訪問した倭国の外交使節が「私達は太伯の子孫であると名乗っていた」との記録です。「呉」とは春秋時代の呉です。夏王禹から6代目が夏后帝少康です。この裔が呉太伯です。太伯は句呉(こうご)と号し国を興し呉の太伯と呼ばれました。
『翰苑(かんえん)』巻三十『魏略』逸文が、「倭人は太伯の子孫説」の初見です。
魏書は『魏略』を参照し、『日本書紀』も『魏略』を引用しています。
『魏志倭人伝』のみでは、邪馬台国の位置は見えません。
この記録に林羅山(儒学者)が注目し、徳川光圀の『大日本史』の執筆動機として知られています。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます