![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/94/18a9489194c840a883da7bf5843b601f.jpg)
(写真は、光明寺の不動明王坐像)
奥州街道踏破のスタート早々に、足の付け根を痛めてリタイア
を余儀なくされたので、帰宅後直ぐに、近くの整形外科に
行きました。
診察の結果、レントゲン写真ではよくわからず、更にMRI
撮影をしたところ、足の付け根の骨の周りに水が溜まっている
ので、安静にしなさいとのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_shock_s.gif)
それでも、何とか奥州街道歩きを続けたい旨を先生に訴える
と、「1日の歩行距離を5キロ程度に抑え、毎週診察を
受けること」を条件に許可が下りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
う~ん・・・、都内を5キロ刻みで歩くことは可能ですが、
電車もバスもない田んぼの真ん中で、1日5キロを終了
しても、その後、どうすればよいの?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
でも、とにかく、何とか英知を絞って、「1日5キロ」の
プランを策定するしかありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_do.gif)
早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインに乗り、宇都宮駅で
東北本線に乗り換え、宇都宮から3つ先の前回ゴールの
JR氏家駅で下ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_train.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
整形外科で貰った足の痛み止めを飲み、湿布薬をたっぷり
貼って、「1日5キロ計画」のもとに、JR氏家駅前を
スタートします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/ab/eee57c87a01cd526ecc6a7c26a39cd32.jpg)
ここ氏家の地は、鎌倉時代、宇都宮氏が勝山に築城して、
この地を支配していました。
そして、宇都宮公頼が、この地域を「氏家郡」と称し、この
地名をとって自ら「氏家氏」を名乗りました。
1597年、宇都宮氏の滅亡に伴う勝山城の廃城で、禄を失った
家臣達の一部がここ氏家に住み着き、宿場としての町並みを
開きました。
ここ「氏家宿」は、もともと、鬼怒川の水路が江戸まで通じて
いたため、宿場町の端の「阿久津河岸」が鬼怒川舟運の起点と
なっていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ship.gif)
そして、1627年には「奥州街道」が開通し、更に1695年に
「会津中街道」(氏家~会津若松)が開かれ、また「会津西
街道」(氏家~大内~会津若松)の整備もあって、「氏家宿」
は、物資の集散地として、また、交通の要衝として繁盛し
ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/1c/2b722f08b620bb7a2be0273552a785af.jpg)
JR氏家駅の東口を出て、駅前の道を右折した小道沿いに、
写真の「蔦地蔵」があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/7b/50d08175e6e55b54832514ccf8e92c18.jpg)
「蔦地蔵」は「定家地蔵」とも呼ばれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/93/6c6c9eea19a15a006a67ee03957e9a65.jpg)
鎌倉時代、宇都宮氏によって形成された”宇都宮歌壇”は、
藤原定家とも親交があったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
その藤原定家との縁で、定家の7周忌に、”定家の面影を
模した”という地蔵がここに建立されました。
う~ん・・・、歌人・藤原定家とは、この蔦地蔵の様な顔を
していたのでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
「蔦地蔵」の奥の敷地は、氏家氏の始祖で、勝山城を築いた
氏家公頼が、1191年に建立した「西導寺」があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/26/d94ca6d517a977bcc1881ba543d5553f.jpg)
上の写真の西導寺の本堂は、1784年の建立です。
西導寺を出て、氏家駅東入口の信号を直進します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0048.gif)
氏家の中心部の街道沿いは、宿場当時の面影は何も残って
おらず、また更地が目立ち、何となく淋しい雰囲気です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6a/53/10a28260c8013a770c69189cb0586b3e_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/9d/453345ceaca3b93dee50b6b0f9ec72ce.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/8c/ed25aa80ed1eb7a006be62d27ec409dc.jpg)
直ぐに「光明寺」の山門が見え、その山門の先に、「青銅
不動明王坐像」(県重文)が、凄い形相でこちらを睨んで
います!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
1759年、宇都宮藩の御用鋳物師が造ったという高さ
3メートルの不動明王が、激しい憤怒の表情で露天に
鎮座しています!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_shock_s.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/fe/0cbb7e85356a9175b3d8d1bf6c67d655.jpg)
うわ~!、ど迫力!、これは見ものです!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_happy_s.gif)
不動明王像の左手は、次頁の写真の本堂です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/05/7947e81946693d9f4c96faa7de8bff72.jpg)
光明寺を出て、更に進むと、下の写真の上町信号交差点に
出ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0048.gif)
この交差点を直進するのが「会津西街道」(氏家~大内~会津
若松)で、奥州街道は、ここを右折して48号線を進みます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/37/8f1fca77980cf3223acdd5e426e32317.jpg)
(赤色線が奥州街道、黄色線が会津西街道)
整形外科の痛み止めと湿布薬の効果か、これまでのところ、
足の痛みはなく、順調なウォーキングです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_happy_s.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/72/8fa69c5bb2947bc5bfde8e3c7b510ca2.jpg)
氏家宿を抜けると、 直ぐに写真の五行川橋を渡り、桜野地区
に入ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/d4/9a2e19c14074b0f6e1dd95ca8508fa63.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/06/ec8c824ce82d946fd7d13700844d6122.jpg)
桜野地区の左手には、江戸時代に庄屋を務めたという上の写真
の「村上家」が残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/f3/aa34a1bce1759e2ddbd741777910ae60.jpg)
村上家の門には、写真の「水位痕」の張り紙がしてあり
ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/95/356b74ff94400dbe5a29bef052c1746e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/d0/4acddb263a14ef3e237781f32eaa2015.jpg)
(赤丸印が「水位痕」の張り紙の位置で、この高さまで洪水が
襲ったことを示しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_shock_s.gif)
その説明書きによると、1683年、日光大地震で、鬼怒川の
上流が堰き止められて五十湖が出来ました。
その五十湖が、1723年の暴風雨で決壊して、鬼怒川沿岸に
甚大な被害をもたらし、死者・千数百人が出たそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0228.gif)
これは、五十里洪水と呼ばれ、この村上家の門の張り紙は、
そのときの水位痕を今に伝えるものでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/a7/6912652ccd4f959816d06712c77b48b4.jpg)
その「村上家」の隣にあり、写真の様な立派な長屋門を
構えるのは、明治25年建築の「瀧澤家住宅」です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/34/0c4917c3cb6be56bff9c8c77d3f1bbe4.jpg)
「瀧澤家」は、明治時代に紡績業を営んで豪商となった家柄で、
第四十一銀行の設立、那須野が原の開拓などに尽力した
そうです。
広大な敷地を囲む白壁の塀に沿って歩いてみると、下の写真の
様に、土蔵の屋根の上に、珍しい形をした洋風の望楼があり
ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_4.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/b8/fede336849fceac423bfcc3bda5e6902.jpg)
失礼して、門から少し中を覗かせてもらうと、次頁の写真の
様に広々とした敷地の中に、県重要文化財だという蔵座敷など
の建物が見えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0139.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/5c/00dd4b82c211450e8fa566bf3ab36ddc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/29/4f/d08943dfc9d3c5f63b06ce63caf6ca46_s.jpg)
瀧澤家住宅の少し先には、鎮守の八幡神社があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/60/75bdbd93f59f671e980063b98032e690.jpg)
そして、奥州街道沿いには、十九夜塔、二十三夜塔(注)、
野仏像などが点在し、街道の名残りを感じさせます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0139.gif)
(注)十九夜塔、二十三夜塔
日本の民間信仰の一つで、十九夜、二十三夜などの特定
の月齢の夜に「講中」と称する仲間が集まり、飲食を
共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を
追い払うという宗教行事(月待ちの行事)。
その月待ちの行事の供養の記念として造立したのが
十九夜塔、二十三夜塔などです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/5a/9e3b8b5bcfa292d43259d0f4c4add0af.jpg)
暫く歩いて行くと、街道沿いの立派なお宅の門の脇に、
上の写真の「一里塚」の矢印がありました。
矢印に従って、このお宅の広い庭の中へ入って行くと、
いきなり犬に激しく吠えられ、立往生してしまいました!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dog_angry.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_6.gif)
すると、家の中から上品なオバサマが、慌てて出て
いらっしゃいました。
「何か御用でしょうか?」
道路の一里塚の矢印に従って門から入ったところ、お宅の
庭の奥まで入り込んでしまった、旨を説明しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
すると、上品なオバサマは、「せっかく来られたのですから、
塀の内側から、一里塚跡の写真を撮っていって下さい。」と、
親切に、門の脇の庭の中にある「一里塚跡」へ案内して
下さいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0068.gif)
そこには、「一里塚」が残っており、塚の上に小さな祠が
ありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0139.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/2a/4928aac3659c39a86962bf5ad08bcdcc.jpg)
そそっかしい私のせいで、すっかりお手数をかけてしまい
大恐縮です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/ed/7f5034d61a3002e419d9ef591b377fa9.jpg)
お礼を言って外へ出ると、オバサマの仰る通り、確かに、
道路沿いに一里塚跡の標識と説明板があり、お宅の庭に
入らなくても、外から、道路沿いに写真が撮れる様に
してありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
その説明板によると、奥州街道で現存する一里塚は、ほとんど
無いらしいです。
そそっかしい性格のお陰で、貴重な遺構を、真近かで拝見
させて頂いたことになります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0140.gif)
親切なオバサマの案内で、お宅の庭先の「一里塚跡」を見学
させて頂いた後、引き続き旧奥州街道を歩いて行きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0a/33/3b69c8bc5512da6f3cad094af9ee1d00_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/f8/3d9228b585acfc322038427557e5c899.jpg)
この辺りからは、ほぼ住宅が途切れて、街道の両側は、長閑な
田園風景が広がっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/dc/7f591adcf221e802a549aad747589997.jpg)
旧奥州街道が右に大きくカーブする地点には、「右折が
喜連川」の交通標識が現われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/a6/7910a10a12a08d070d5a8c750e053a1b.jpg)
この大きなカーブの右手前の自動車修理工場の前に、写真の
新旧2つの「大黒天」があり、その土台には、明治時代の
水準点記号が刻まれています?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/61/11928b2481e5a541fd43522f62521c57.jpg)
かなり見辛いですが、上の写真の赤丸印の部分に、漢字の
「不」(「不朽物」:恒久的に残るであろうもの)を
彫って水準点としています。
説明版によると、明治時代に入って、国が奥州街道を測量した
際に、この辺一帯は水田地帯で、周囲に基準とすべき目安が
ありませんでした。
そこで、昔からある古い方の大黒天の台座に水準点記号を
刻み込んで、水準点として使用したそうです。
なるほど!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
大黒天の水準点のところを右に大きくカーブして、
国道293号を進んで行きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
やがて、江戸を発ってから、最初の本格的な坂だったという
「弥五郎坂」に差し掛かります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0090.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/d4/40d9288e0319a490a1e2519566785516.jpg)
弥五郎坂の一帯は、南の宇都宮氏と、北の喜連川城主・塩谷氏
との合戦場となり、喜連川軍の弥五郎が、ここ弥五郎坂で
敵将を弓で討ち取りました。
(ちなみに、ここ栃木県塩谷郡の地名は、この喜連川城主・
塩谷氏に由来します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
その後、弥五郎は敵将を供養する五輪塔をここ弥五郎坂に
建立しました。
まもなく、この旧奥州街道沿いに、その弥五郎が建立した
五輪塔が見えるハズなのですが・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
暫く坂を上ると、左手に、写真のニッカウヰスキーの円形看板
が見えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/ec/bf90e4c2b8ca533f1ba8a900c2eac26a.jpg)
え~っ?、左手?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
しまった!、左手という事は、どこかで旧奥州街道への分岐点
を見落としてしまったんだ!
というのは、氏家駅前で見た案内地図では、旧奥州街道は、
ニッカウヰスキーの工場を右手に見ながら進む様に書かれて
いました。
右手ではなく、左手に工場の看板があるということは・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
左に入る旧奥州街道への分岐点を見落としてしまったんだ!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_shock_s.gif)
でも、街道沿いの左側に、分岐点の表示がないか、十分に注意
して歩いて来たけどな~?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
唯一思い当たるのは、先程の大黒天の水準点のところに、直進
する狭い道があったのですが、ゴルフ場のセブンハンドレッド
の看板だけしかなかったので、ゴルフ場の専用道で行き止まり
だと思い込んでしまいました。
更に、大黒天の水準点のところには、「右折が喜連川」の交通
標識があり、喜連川宿へ向かう私はこの交通標識に引きずられ
て、右に大きくカーブする国道293号を進んでしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/28/deea61e793b867c423cb13b31b7b6840.jpg)
(赤色線が正しい旧奥州街道、青色線が「右折が喜連川」の
交通標識につられて間違えて行ってしまった国道293号、
黄色丸印がゴルフ場の看板。)
これまでの私だったら、直ぐに、通り過ぎた大黒天の水準点
のところの分岐点まで引き返すのですが、足の痛みを抱え、
1日5キロ制限の今回は、諦めて、このまま、道幅の広い国道
を進みます・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_3.gif)
(従って、見学予定だった弥五郎坂の五輪塔はパスします
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
結局、歩いているこの坂は「弥五郎坂」ではなくて、
「新弥五郎坂」ということになります。
江戸を発ってから最初の本格的な坂だったという弥五郎坂は、
思っていたほどの坂ではありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0090.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/c0/cdbc6e1c4c1728e06dab90b71bb80730.jpg)
これは、坂の両脇を見ると、かなり深く開削されている感じ
なので、きっと「新弥五郎坂」を造る際の工事で、坂を極力
平坦にするために、路面を下げたのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/87/4636e548f34b4e1a583ecb2e19cc053d.jpg)
国道は、緩やかな上り坂となり、道路脇には、木陰でちょっと
見辛いですが、前頁の写真の仲むつましく寄り添うような
かたちの道祖神が建っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/44/6f1c760bda8f4fd1d3758348a4a4fd42.jpg)
間もなく、この辺りが峠の頂上なのでしょう、先が下り坂に
なっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0089.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/3f/a4ac560ff172f644ac66b8ff52d78dd5.jpg)
下り坂を暫く歩いて行くと、Y字型の分岐点があり、ここで
国道293号から分かれて、左手の県道114号に入ると、
直ぐに、「歓迎 喜連川温泉」の大きなアーチが現わました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0147.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/73/e7276b795dece2ffd415f49e15809ba5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/5d/554571676fdaf7ddaa3a0b1517ef2af3.jpg)
「早乙女の桜並木」の看板があり、ずっと桜並木が続きます
ので、桜満開の時期は見事なのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0148.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/6f/93be52fd4398b4f6f4fd54a5ddf2adff.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/5a/958afcba64eb46387a2175c592e45ac2.jpg)
桜並木道が終わると、その先は荒川に架かる「連城橋」で、
橋の右側に歩道橋が併設されています。
その歩道橋の右手前の角に、読み辛いですが、「右江戸道
左下妻道」と刻まれた次頁の写真の道標が建っています。
橋を渡ると、喜連川の宿場町に入ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/a7/a331c912fe6e24e3ac44bf8cb3f70e97.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/d2/4a58a233e41e5377e140566caba8fc0e.jpg)
氏家宿から喜連川宿までは、約8キロです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)