7月18日通りにある、お金の博物館。一番手前の建物の中にある。
ラプラタ川(ウルグアイ側)に座礁した船は、16世紀初頭から20世紀の海軍の公式記録に残るものだけで、1583船.いわゆる密輸船は含まれておらず。ボリビア、ペルーから降ろしてきた金銀のお宝を運ぶ船も無論その数の中に含まれている。
この博物館には、座礁した船から発見された17-18世紀の金貨を展示している。この金貨は、1752年モンテビデオ港からスペインのカディス港にむけて運ばれるはずが、港をでてすぐに座礁。船の名前は、「ヌエストラ・セニョーラ・デ・ルス」(200トン・西船籍)。座礁の後、記録によると、大きな荷は1年以内に引き上げられたが、ペルーで採れサンチアゴで造幣されたこれらの金貨は、その後20年経ってもその当時、潜ればできたとか。市内には、BUCEO(ブセオ)と呼ばれる地区があるが、これはスペイン語のBUCEAR(潜水する)という意味から付けられた地名。人々がお宝を求めて潜水していた場所としてそのまま地名となった。今日でも、ウルグアイの海岸線・ラプラタ川沿岸の底には未知なる大航海時代からの遺物が存在することは間違いない・・・・
この灯台の名前 ”険難岬灯台”(FARO PUNTA BRAVA)とでも純日本風に訳しましょうか。
モンテビデオ市内だけで 灯台が3つもある。モンテビデオ港に出入港を補助すために、いっきに船数が増加する19世紀後半に建設が始まる。この灯台は1876年から今日に至るまで操業中。このレンガ造りの灯台が建てられた当時は救いの神だったでしょう・・きっと。海難事故が絶えなかったその当時・・・・
モンテビデオから対岸までの川幅はおよそ150キロ(この写真は灯台から撮影したもの)。しかしながら、船の平均航路幅は、11キロほどしかないと以前、船乗りさんから聞いたことがある。水深が浅く、バンカー(砂洲)、岩礁などが乱在している為に、GPSがなかった頃は、パンペーラ(南から吹き上げてくる風)も手伝って、ウルグアイ側の川岸近くに船の座礁が絶えなかったらしい。逆にそれゆえに、地理的にウルグアイ側のラプラタ川岸の方が美しい。今日も、赤と白の信号を照らす海軍の水兵さんが常駐している。「衛星システムの発達で灯台の役割は以前より減ったけど、このポイントはこの界隈でブイが多く一番危険な領域だからこそ僕たちは仕事を続けているよ、安全の為にね・・」と。ご苦労様です。
モンテビデオ市内だけで 灯台が3つもある。モンテビデオ港に出入港を補助すために、いっきに船数が増加する19世紀後半に建設が始まる。この灯台は1876年から今日に至るまで操業中。このレンガ造りの灯台が建てられた当時は救いの神だったでしょう・・きっと。海難事故が絶えなかったその当時・・・・
モンテビデオから対岸までの川幅はおよそ150キロ(この写真は灯台から撮影したもの)。しかしながら、船の平均航路幅は、11キロほどしかないと以前、船乗りさんから聞いたことがある。水深が浅く、バンカー(砂洲)、岩礁などが乱在している為に、GPSがなかった頃は、パンペーラ(南から吹き上げてくる風)も手伝って、ウルグアイ側の川岸近くに船の座礁が絶えなかったらしい。逆にそれゆえに、地理的にウルグアイ側のラプラタ川岸の方が美しい。今日も、赤と白の信号を照らす海軍の水兵さんが常駐している。「衛星システムの発達で灯台の役割は以前より減ったけど、このポイントはこの界隈でブイが多く一番危険な領域だからこそ僕たちは仕事を続けているよ、安全の為にね・・」と。ご苦労様です。