左手が腫れて痙攣する。正座した時のふきらはぎみたいに。右側の頭が痛い。脳梗塞じゃないんだろうか?
って、散々悩むが竹をバッサバッサぶった切ったからの"筋肉痛”だと思う。普段から慢性的な運動不足だから、身体に異常が出てもおかしくない笑。まあ無理矢理脳梗塞でないことにする。倒れた時は倒れた時だ。
ここ最近で今がいちばん辛いのではないかと思う。将来の不安とか、人並みな悩みとプラス呪い。いま自宅に頻繁に顔を出す人のお宅には重度の病人がいたりする。なんとなく家には近づいて欲しくないと思う。家から持ち去るもの、相手側が持ってくるもの、そういうあるのか、ないのかわからないもので、自分が悩み縛られてしまうから。
今、気休めだけど伐採した竹林に塩を撒いた。竹には無関係なところで伐採いたんだから。空を取り戻したいって、まさに人間のエゴ丸出しのことをしてしまった。竹は地下茎でつながってるから、全が個で、個が全なんだなぁ。そう思うと怖くなって根こそぎ切ろうと思った。もう空なんかお構いないし。とにかくまあ、空は開けたわけだが、心を置いてきぼりにされた気もする。
で、先日会社があった氏神さんで神棚のお払いをして貰った際に「朝のコップ一杯のお水でも清められますよ」ってお聞きしたんで試しに飲んでみたら、腕の痺れが収まった。ああああああああ、ある意味だから嫌なんだ。もう呪いと関係ないところで生きたいと願っているだけなのに。何故だか対立軸があって、呪う〇〇と闘わせようとする。でももう辞めた会社のことだし、助けたいと思うほど気持ちがある同僚がいた訳でもない。悪意に取り込まれた会社にはもう一歩も近づきたくないと思う。
まあ呪う〇〇からすれば、自分が現在行っている仕事が滞ってるのは誰かのせいなんだろう。その誰かが「おいら」にされているんだろうなぁ。でもそれはお門違いだ。やんなきゃいいのになんだって祈願せずにいられない自分の責任ってもんをもっと重く受け止めて欲しい。神に出来ることと、神が実際に行うことは違うんじゃないのかなぁ。上手く行かない理由をすべて他人のせいにするのはどうかと思う。けど、それもどうでもいいんだろう。心にある憎しみをはらせる相手さえいればいいんだから。キモイなぁ。邪悪だなぁ。そう言うのが今現在も神主なんてやってるのが、おいらは一番嫌で堪らないんだろう。でも調べたところ神社庁に訴え出てもダメなんだってさ。解任させるには氏子を説得して解任するしか方法はないんだって。
でも何よりも何よりも一番嫌なのは、ああいう人間でさえ褒め称えてくれれば従う「神様」がいると思うこと。だっておいらが信じてる正しい神と同じなんだろう。存在として、あり方として。だからおいらは神様に愛されていないんだろうなぁと思ってしまう。期待しなくなってしまう。信じるたんびに、裏切られ続けてしまう。この矛盾から解放されるには、おいらは神様を捨てないといけないんではないかと思ってしまう。それもこれも呪う〇〇が存在しているからだ。神社や寺の跡継ぎに生まれるとは、特別な存在だと言う。でもいい加減に呪う〇〇に祀られてる神さんも気づいて欲しい。何に手を貸しているのかと。
おいらは自分が清浄だとは思っていない。むしろ邪な部類に入るのではないかとさえ思う。同じような気持ちがあるから、相手の所業に気づいたんだと思ったとき、本当に自分が怖くなった。そして追い込まれながら、相手の不幸しか思えなかった。本当に異様な状態が長く長く続いたからだ。
だから、ある時にこの不運や不幸を選択したのは自分ではないかとさえ思い、自分自身を恥じた。命を救って貰いながら、それ以上を神さんに期待した。それは悲しい願いになって、おいらに返ってきた。だけど呪う〇〇は自身を恥じてもいない。とにかく気に食わないヤツがどうなろうとどうでもいいんだろう。気に食わないヤツの人生や家族や将来なんて関係ないんだろう。そういう正しくない人間に力を貸す「神の存在」が、おいらを孤独にさせた。だっておいらが信じたものも神だったからだ。信心が足りないと言われれば足りないんだろう。だってどんなに思いを馳せても神仏に祈っても、この大きな流れを変えることは出来なかったし、死んでしまう方が楽なのではないかと思わされることの方が多い人生だったし、まだその人生の上にいる気がする。それから外して貰うために一生懸命信じた神と、邪悪でも祀り上げてくれる邪な人間に手を貸す神も高位の霊であることは変わらない。
願いを叶えてくれない神など否定する方が、かなり楽に思えてしまう。
そうした相反する複雑な思いにさらされていると、ふと神の存在があいまいになる。正しくあってほしいと願う。ただそれだけのことを呪う〇〇の存在が否定し続ける。この「否定」が重くのしかかる。
もし、おいらの存在もイレギュラーで正しくないのであれば、おいらも裁かれていいと思う。愛されない理由を外や他に探すのはもう懲り懲りだから・・・・・・・・・・。
見えない糸はなぜ切れないんだろう。地下茎で命を共有する竹みたいに・・・・。存在が存在を肯定する。それじゃおいらは消えてなくなるしか道はないじゃないか。
信じるものを取り戻すためには、おいらにとっても呪う〇〇は邪魔な存在なんだろうか。
って、散々悩むが竹をバッサバッサぶった切ったからの"筋肉痛”だと思う。普段から慢性的な運動不足だから、身体に異常が出てもおかしくない笑。まあ無理矢理脳梗塞でないことにする。倒れた時は倒れた時だ。
ここ最近で今がいちばん辛いのではないかと思う。将来の不安とか、人並みな悩みとプラス呪い。いま自宅に頻繁に顔を出す人のお宅には重度の病人がいたりする。なんとなく家には近づいて欲しくないと思う。家から持ち去るもの、相手側が持ってくるもの、そういうあるのか、ないのかわからないもので、自分が悩み縛られてしまうから。
今、気休めだけど伐採した竹林に塩を撒いた。竹には無関係なところで伐採いたんだから。空を取り戻したいって、まさに人間のエゴ丸出しのことをしてしまった。竹は地下茎でつながってるから、全が個で、個が全なんだなぁ。そう思うと怖くなって根こそぎ切ろうと思った。もう空なんかお構いないし。とにかくまあ、空は開けたわけだが、心を置いてきぼりにされた気もする。
で、先日会社があった氏神さんで神棚のお払いをして貰った際に「朝のコップ一杯のお水でも清められますよ」ってお聞きしたんで試しに飲んでみたら、腕の痺れが収まった。ああああああああ、ある意味だから嫌なんだ。もう呪いと関係ないところで生きたいと願っているだけなのに。何故だか対立軸があって、呪う〇〇と闘わせようとする。でももう辞めた会社のことだし、助けたいと思うほど気持ちがある同僚がいた訳でもない。悪意に取り込まれた会社にはもう一歩も近づきたくないと思う。
まあ呪う〇〇からすれば、自分が現在行っている仕事が滞ってるのは誰かのせいなんだろう。その誰かが「おいら」にされているんだろうなぁ。でもそれはお門違いだ。やんなきゃいいのになんだって祈願せずにいられない自分の責任ってもんをもっと重く受け止めて欲しい。神に出来ることと、神が実際に行うことは違うんじゃないのかなぁ。上手く行かない理由をすべて他人のせいにするのはどうかと思う。けど、それもどうでもいいんだろう。心にある憎しみをはらせる相手さえいればいいんだから。キモイなぁ。邪悪だなぁ。そう言うのが今現在も神主なんてやってるのが、おいらは一番嫌で堪らないんだろう。でも調べたところ神社庁に訴え出てもダメなんだってさ。解任させるには氏子を説得して解任するしか方法はないんだって。
でも何よりも何よりも一番嫌なのは、ああいう人間でさえ褒め称えてくれれば従う「神様」がいると思うこと。だっておいらが信じてる正しい神と同じなんだろう。存在として、あり方として。だからおいらは神様に愛されていないんだろうなぁと思ってしまう。期待しなくなってしまう。信じるたんびに、裏切られ続けてしまう。この矛盾から解放されるには、おいらは神様を捨てないといけないんではないかと思ってしまう。それもこれも呪う〇〇が存在しているからだ。神社や寺の跡継ぎに生まれるとは、特別な存在だと言う。でもいい加減に呪う〇〇に祀られてる神さんも気づいて欲しい。何に手を貸しているのかと。
おいらは自分が清浄だとは思っていない。むしろ邪な部類に入るのではないかとさえ思う。同じような気持ちがあるから、相手の所業に気づいたんだと思ったとき、本当に自分が怖くなった。そして追い込まれながら、相手の不幸しか思えなかった。本当に異様な状態が長く長く続いたからだ。
だから、ある時にこの不運や不幸を選択したのは自分ではないかとさえ思い、自分自身を恥じた。命を救って貰いながら、それ以上を神さんに期待した。それは悲しい願いになって、おいらに返ってきた。だけど呪う〇〇は自身を恥じてもいない。とにかく気に食わないヤツがどうなろうとどうでもいいんだろう。気に食わないヤツの人生や家族や将来なんて関係ないんだろう。そういう正しくない人間に力を貸す「神の存在」が、おいらを孤独にさせた。だっておいらが信じたものも神だったからだ。信心が足りないと言われれば足りないんだろう。だってどんなに思いを馳せても神仏に祈っても、この大きな流れを変えることは出来なかったし、死んでしまう方が楽なのではないかと思わされることの方が多い人生だったし、まだその人生の上にいる気がする。それから外して貰うために一生懸命信じた神と、邪悪でも祀り上げてくれる邪な人間に手を貸す神も高位の霊であることは変わらない。
願いを叶えてくれない神など否定する方が、かなり楽に思えてしまう。
そうした相反する複雑な思いにさらされていると、ふと神の存在があいまいになる。正しくあってほしいと願う。ただそれだけのことを呪う〇〇の存在が否定し続ける。この「否定」が重くのしかかる。
もし、おいらの存在もイレギュラーで正しくないのであれば、おいらも裁かれていいと思う。愛されない理由を外や他に探すのはもう懲り懲りだから・・・・・・・・・・。
見えない糸はなぜ切れないんだろう。地下茎で命を共有する竹みたいに・・・・。存在が存在を肯定する。それじゃおいらは消えてなくなるしか道はないじゃないか。
信じるものを取り戻すためには、おいらにとっても呪う〇〇は邪魔な存在なんだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます