空に問う。

空に問うても果てがない

昨日の続き

2015-10-07 09:02:57 | 日記
歯は無事換装。ただセメント(!?)が外れただけで、歯医者で銀歯をつけ直して貰う・・・・・。あっけなく。

本当に久しぶりに神さんに呼ばれる。もう無理矢理。しかしどうも救っていただいたよう。

実は父の手術の日、帰宅すると二回の西側のカーテンが外れてるし、黒バイオのメールアドレスとか、Gメールの設定とか、狂っていた。ウイルスソフトで検索したけど外部からの侵入ではないよう。誰か侵入?盗まれたのなら分かる。ノートPC全部合わせて4台あるしね。半信半疑だけど、生き霊ちゃんがいると電磁波(!?)や電気エネルギーが乱れて過度に影響するとか。そういう現象は日常茶飯なのでスルーしてますけど。

まあ一時的にモノが消えるとか。そこにあるモノが自然に移動とか。もうさほど驚かなくなりました。無意識の自分が動かしてることもあるだろうし、そうじゃないのもあるんだろう。いちいち気にしていたらこの家で生きていけません。

それもどうやら収まりつつある。

おいらのへっぽこレーダーは、憑いてる人に過剰に反応する。思わず説教したくなる。もちろん自分の意思でないモノに動かされるときもある。つい最近まで父に、父がいないと母に。土地の障りもあるけれど、きっとそれと違って父方のしでかした何かであるのはもうわかってる。

米臭い生き霊も霊体も減ってる。なぜかと言うと圧迫感が今はない。視えないからあくまで想像だけど父にたくさん憑りついていたんだろう。今は家族三人分の意識しか感じない。やたらめったら連れ帰っていたのは、どうも父なのだろう。良く言えば無邪気、悪く言えば無知だから、人を疑うこともないし、半心足りない空っぽだからね。1TBのHDDの空きが、990MB残っているような人間。その隙間を狙ってインストールされているんだろう。神(神社)がなんとなく怖くない大人ってどこか壊れてる。

多くの人は幽霊はお寺や墓で憑くと思っているけど、そんじょそこらにいます(笑)。まっ、普通にお墓が建っていると言うことはちゃんと信心深い家族がいると言うこと。故人が浄土に行くことを願っている証拠。それに普通お坊さんは先祖供養のためにお経を唱えているし・・・・。別にお坊さんとか神職さんが霊能者である必要はない。形式通り、祭式通り、手順を踏んで行うことに意味があるのであって、尊い言葉や能力に意味があるのではない。日々の繰り返しの感謝の気持ちがあればいいんだと思います。生臭坊主が増えているとかは言いますけど。

まあ、神職に関してはその限りではありませんけど。

お経は教えを読んだもの。死ねばどういう経過を辿って霊となり、ある程度この世を彷徨うけどやがて極楽浄土へ旅立つから安心しないねって内容だったりする。それを故人と家族親類縁者に教えるのだ。大事なのは想いであって、儀式の式は儀礼的なもの。しかしね、これが神となると違う。祝詞には教えがない。神道には教えや教義がないのである。あくまで自然崇拝が形を変えたものであるから、自然現象に神の名前があったりする。感覚的なものだ。八百万とは80,000って意味ではなくて、たくさん、無数にという意味。無限も同じで1000を超えて1001から無限なんだとか。言葉の意味って面白いし、言霊信仰もあながち間違っていない。いつも愚痴っていると不幸になるし、楽しいこと考えていると幸せになる。これは脳生理学が証明してること。

祝詞とは作文であって、とにかく神をほめてほめて褒め称えるもの。現在進行形で無数に作られ続けるのが祝詞。神社で天津祝詞とか大祓の祝詞を使用する例が多いのは、それが優れているからであって、お経のそれとは意味が違うのだって。だから新しいお経って訊かないでしょう。

今は簡略化されているけど祝詞は祈願のために毎回作文するものなんだって。だから古い神社にはそれなりに格式のある古い祝詞もある。それが怖いのだ。祝詞は必ず「大和言葉」で書かねばならずイントネーションも読みも今と違う。サクラのサは神で、クラは蔵。春に神が乗る蔵。それが桜なのだ。だからなかなか現代人は新しい祝詞を書けない。ほめる言葉にしてもも千差万別。だからバカではできないのだ。神職さんは。まっ大和言葉に精通して古今東西の神やそれに類する故事拾遺を網羅するスーパーエキセントリックな人もいないだろう。今言われているのは古くから伝わるものを、そういう立場の人間すら忘れていることなんだって。呪う神主が博学には見えないし、隠れた才能もなさそう。だからカバーしてるのが古来から伝わる文献や祝詞であって、祭式と呼ばれる手順や作法を指すのだろう。でもかなりの確率で、呪った相手が不幸に見舞われてはいるので、個人の能力は高そう。もったいない。いい事に使っていれば徳が上がるのにね。人を貶めることを生業とする。それも超個人的に。神から授かりし力は万人のために使わないとね。それが使命、それが役目。だからお寺とか神社の家に生まれた子は特別っていうのに、呪う神主は特別を選民的なものや階級意識ととらえてる。アレに愚弄されて小ばかにされてる人らも可哀想。でも操縦は簡単です。とりあえずヨイショしておけばいいのだから。その辺のコントロールが出来る従者的な存在がいれば今ごろ新興宗教の教祖くらいにはなれた人ではと高評価はしています。

知ってる限りですが、その人が呪いちゃんをかけたお宅は、家人の誰かが一年の内に二回癌に犯されたりしています。ウチを含めて4家族はその傾向でした。あとは交通事故死。それも複数。葬式の帰り道に親類を乗せてての死亡事故。・・・いたたまれんでしょう。仮に「俺は何もしないけど、あれが勝手に」と言い訳を始めそう。しかしあれを自由自在に動かせる目に見えないコントローラーを心で握って操作してるんはアンタですよ。「あいつ憎いか、じゃあ狩ってくるわ」って意識があって判断や判別できるわけはない。感情や言葉は連動する。そのスイッチを押すのはアンタだからね。言い訳は訊かない。氏名だでも相手を縛れると言う。それが住所や生年月日まで知られたら「特定された」人物でしょう。

だから不必要にフルネームと生年月日訊いて来る人間がいたらとりあえず疑ってみるべし。名とは人を縛る最初の呪い(まじない)と言いますからね。だから名前負けって言葉もあるんですよ。SNSで氏名、誕生日晒してる人が居るけど怖くて生年月日など出せません。数字やアルファベットの配列が音となり映像に変換されるネットの世界。怖いでしょ。昔の人が言う三千世界が、いまや誰の掌の上にある。便利な器具だと思ってはいけませんよ。きっとそのうちAIが発達すれば意識も数式の配列化され魂や意識すら変換できる時代がくるかもしれない。もう社員名簿には載っていないけど、コピーも取れるし、写真も可。ホントに恐ろしい時代です。

まあ、基本形の「教え」がないので日本の新興宗教は仏教ではなく、神道が多いんです。お経のように学びや習慣化して唱える必要が極めて低いからです。ちょっとした知識があればだれでも新教は作れます。嘘も方便、尊いお言葉になるんです。その点呪いさんはヴィジュアル的にお猿だし、声はデカいけど意味のないこと繰り返すから信者は作れそうにないけれど。眼の奥が怖い人です。見据えているからではありません。その奥に人を妬む暗がりが広がっていそうだから。噂も耳にしないから適当に呪詛して楽しくやっているんだろう。けど、もう続かない気がする。この間の返しが昨日の銀歯だとしたら、もうそれは皆無と言っていい。おいらは神道は信じてるけど、その人は信じてません。だから影響力は極端に減りました。そこで付け狙われたが父。去年の同じころ(いちばん呪詛の効果が発揮されていた時期)には父によく似た親戚の伯父さんが亡くなった。今回父は無事手術が成功したので、その点でもすでに回避されている。地団太踏んでムキになってる様子がうかがえるけど、これ以上やると社会正義のために公表しますよ。おいらもダメになるけど、噂はアンタの息の根を止めるかもしれない。信頼はひとまず失脚しますし、怖いと思われたら人は必ず塩まいたみたいに霧散していきますからね。それよりは日々平和を願い、仕事あるんだからさぼらずに仕事しろ。それはおいらが頑張ってきた仕事でもあったのだから・・・・・。

ああ、昨日の続きとは、ある神社建立の話。発起人の多くが親類縁者なのですが、おいらも含めて今ではその親類縁者の子孫すら参らない神社の話。典型的な”人が忘れると神は消える”のパターンです。もれなく祟りが付いてくるってスペシャルボーナス付きですね。みんな一様に家が絶えることに恐怖心を抱いていない。自然な流れだと思い込んでる。普通そんな都合があるはずもないのに誰も気づいていない。だからみんな思い通りに祟られている。あがらっているのはきっと我が家だけかなぁ。だからいまんとこ最終事態には突入していない。おいらだって余裕はあるし余力はある。すんでのところで廃人は回避できたしね。

何が祀られているのか?

それは犬神ではないかもしれないが、もっと怖いものかも知れない。神像というものがあるが、現存するものは数少ない。本来、自然崇拝が神と言う高位のレベルの存在になったが、やっぱりそれには形がない。平安時代は神像も作られたと言うが、仏像にとってかわられる。本地垂迹という考え方がある。神仏習合する際に考えられたことだが、神が出現するときの形が仏の形であるいう。すなわち仏が神の姿となり現れたものが神の原型で仏の型枠と言うことだ。姿かたちがあるのであれば描けるし、彫れる。模写できる。権現と言う仏が神の姿を借りて出現することもある。要するに仏教の勢力が増した時に、それでも神の存在も否定できなくて、坊主が祝詞をあげてお祀りしていた時代もあるのだ。それは江戸後期や明治初期にもあったことだよ。今みたいに別々ではなかったし、権現などは仏教に組み敷かれている。でも修験の山には寺も神社も多数ある。出雲大社も仏教に沿った時代もあったよう。そういう意味であまり仏教色にさらされず悠久の時を神の座主場所であり続けたの伊勢神宮だそう。それでも寄った時期はあったそうですけね。

その神社のご神体は港に流れ着いた「何か」だと訊く。おや?

神社で祀るならば、それは神の姿をした神像に他ならない。仏像ならば分かるのだ。洪水に見舞われても木造ならば浮くだろう。でもね、述べたように神像は数少ない。近所にある伊雑宮から勧請された大歳の神を奉る神社には人物を模した神像が座してはいけるけど、それは世にいう神像ではない。

何度も言うけど、普通あり得ない代物が神像なのである。現存する多くは京都や奈良の「寺院」で管理され供養されている。当時はは神仏習合なのだから・・・・。聖徳太子も仏像もあるけど、幼少を模したと言われるもの神像スタイルのものも伝わっている。それはは限りなく神像に近い。人間を模しているから後光は射さない。錫もなければ宝玉も持たない。古代の装束を着ている。で、仏像美に魅せられた貴族は本地垂迹ブームも手伝って、人から少し離れた姿に変化する。男でもなく女でもない。中世的な仏像群。

ご神体なら「光る石」かな。そうとう不思議なものではあるのだろう。先に寺で供養して、のちに神社を建立した代物ってね。想像をくしても鏡とか刀とか。でも文化財系ならば自治体が所有するだろう?

漁師の内では水死したドザエモンを救うのは良い行いと言われている。漁の際にドザエモンを見つけると漁師は喜んで船に乗せた。それはかつて船乗りには大漁の印だった。だからドザエモンの代わりに死者を船に乗せることも昔はあったんだって・・・・。船にも魂が宿ると言われているしね。単純に海を放浪する遺体(魂)を尊い行いは、ご利益があると言う「仕組み」なのだ。人柱と同じで、尊い命は礎となり橋や土手や古くは神を守った。だからあんまし橋のそばの神社や寺には行きたくない(笑)。神は犠牲を欲するし、仏も犠牲心を尊いと説く。

で、もともと隣接するお寺で管理されていたと言う謎の漂流物。銅鏡かもしれないし、自然石がそういう形に削られたものかも知れないけど、神として祀る以上は、それなりの体をしていないとダメだろう。尊い貴人の遺体も聖遺物とされた時代は日本にもあった。遺骨や仏像ならば寺で祀るだろう。わざわざ発起人も立てて漁場組合も手を貸したとなれば、豊漁の神である可能性は高い。蛭子といういざなぎいざなみが最初に産んだ形の整わない神がいる。それはさまざまに転嫁し商売の神となり豊漁の海の神とされた。だから遺体もしくは遺骸が流れ着いた者の可能性は高いが、それを神とするのは筋違い。それこそドザエモンを見つけて神としても陸に上がれば仏として供養したことだろう。

みなは気軽に「〇〇の八幡さん」と呼ぶ。小さな社で拝殿と本殿が一緒になってるタイプだけど、神仏習合のそれではなく神道のそれだ。

今では名称も日付も変わったけど、昔は夏の花火大会をさして港まつりと呼んでいたが、それはひとえにその八幡さんの例祭の日に神楽を奉納するのに合わせて花火を打ち上げていたに過ぎなかった。市をあげての最大のイベントだった。昔は例祭も豪華ったのだ。それが今では小さな神社の地域のお祭りになっている。当時の面影はもはやない。

その花火大会はいつしか独立した市のイベントとなり、会場が埋立地に変わったので例祭に合せることもなく、8月の第1週の土曜日に決まっている。当時は市漁業組合の仕切りだったと言う。それに在住の企業が寄付し市も協力していたんだ。それだけ盛大なお祭りだ。漁も良かった。町は活気にあふれていた。

8月1日のその祭に今年は行かなかった。父の癌が見つかり家族ともどもしゅんとしていた。今でも例祭の日には神楽を奉納しているが、質素なものとんあって久しい。

この町が漁師の町として賑わいを迎えていた時期はとうに過ぎたのだ。漁業は町は死に体になった。それは豊漁の神を粗末に扱ったからではないかと個人的には思う・・・・・。栄華の果てを見るようで侘びしい気持ちになる。今この町は斜陽に満ち溢れている。城下町の面影もない。ともかく活気がない。神の扱いが実に雑になったようだ。地方の三宮も神楽会場にされ、神域とは程遠い空間になっている。でもその地方の一宮、二宮、三宮と言えば正一位の社格を持つ神社である。三宮とは商売の神である。そこの宮司一家は副業が失敗して逃げた。境内の湧水を神の水として販売した。それは神の水ではなかった。商法違反か何かで罰せられた記憶がある。拝殿内は改装され石見神楽会場になった。まあそのお蔭で境内は整備されきれいな状態であるのだが、常日頃祝詞や口上も上げてくれない町の皆を守る気はないのかも・・・・・。ここを訪れると”人が忘れると神は消える”と言う言葉を思い出す。古代の要所で聖地だった場所に立つ社。千年以上の歴史を持つ。三宮ではあるが、商売の神は祀られていない。そもそも通例「三宮」が商売の神を奉る称号であることを知っているんだろうか。おいらも一昨年知った(笑)。一番、二番、三番という順位じゃないのだ。ちなみに一宮とは農業の神を、二宮とは海の神を奉る。石見の三宮を比べると、記紀神話に列記された順位ならば三宮、二宮、一宮だ。当時の政権の順位ならば真逆になる。貴人度ならば二宮が高いだろう。ちなみに一宮である物部神社は明治時代には男爵の爵位を与えられていたと言う。日本全国で十の神舎と五つの寺院が称号を与えられた。神道は国造(当時の朝廷が派遣した国司)家であり、家柄の古いもの、すなわち一族の世襲制を重要視した・・・・。島根県は出雲大社をはじめ4つの神社が旧華族なのだ。考えるとすごい事だよね・・・・。

話はそれたけど漁師に大切にされ、尊びもてはやされた神が座す場所が通称「八幡さん」だった。知らない人はそこが神社であると気が付かないだろうなぁ。元々宮司はおらず、他の神社さんが祭りを執り行っていた。比較的近代の神社であるが、その由来や歴史を知るものは少ない。神が守る海や船着き場は埋め立てられ、目の前は公園になった。目に見えない海への参道は閉ざされてしまったのだ。この町の多くの人が同じだろうけど、神をお祭りする儀礼的な部分よりも神楽を楽しむとした目的に変わっている。神事を重んじる神社は市内には少なく、旧郡部は今も色濃く受け継がれていると言うのに。神楽の神はヒーローであって神そのものではない。本来、神事があって神を喜ばすために神職が行った舞が独り歩きし、人間を喜ばす芸能になった。賽銭も上げずに神楽を見て帰る。それでは本末転倒だ。お賽銭が神社の運営費だからさ、見物したら金を払うのは義務だ。神に感謝の伝えずに楽しんで帰る。こういう姿勢が神様をないがしろにしているとも思わずに。現実社会ですからボランティアで神楽はやってませんよ。もし楽しみにしてる神楽が行われなくなったとしたら、賽銭の十円惜しんだ君らが悪い。お賽銭は神さまに上げると言うよりも、氏神を奉っていただいてる宮司家にお渡しするもの。一億円あげても神さまにすれば無銭と同じかもしれない。それがなんだか願い事訊いてもらうための神への代価になっている。非常に寂しいことです。願いの一つも直接神様に訊いて欲しければワンカップでもいいからお酒を奉納するのが礼儀というものだ。神饌を備えるのと、賽銭を上げるの意味は違うのだからね。それすら知らずにパワースポット巡りと称して全国の神社を廻る人ってイヤだなぁ。せめてそういう輩でも年始には氏神さんにご挨拶に行ってほしいもの。それもしないで伊勢神宮や出雲大社で「パワーを貰ったぁ」なんて正直言えば神道の考えではありえないことなんだよね。だからスピ系でも霊能者系でも、氏神をとにかく参拝すべしって言わない人はまがい物の可能性大です。自分にピッタリくる神社が氏神さんでないときは、それこそその地方の一宮に参拝するべきです。おいらのところの氏神さんは離れていて、名付け親になっていただいた神社の方が近いのだけれど、そこも産土の神さんじゃないみたい。氏神神社は子供の頃の遊びエリアからも遠く馴染みがあまりない。最近は欠かさずに行くようにしてるけど、もっぱら一宮に参拝していた。そこはすごく合う場所。まずは氏神神社から~を知らない薄っぺらい知識の時からも一宮にはお詣りしていたから、今がそれでもなんとかやっていけているんだと、先日父の病気治癒祈願で行った際も心から思えた。

で・・・・・・・・、

父も漁師で組合員であるうちは毎月お布施をしていた。しかし自らの親類縁者も関わっていた社だと知りつつも、仕事を辞めるとお詣りもしなくなった。とんだ信仰心だけど、それを責める気はしない。戦争当時に生きていた人間の多くは貧しくつつましやかで生きることが懸命であって腹を空かせていた。神に願えども満腹にはしてくれない。やがてGHQの手伝いもあり、神と言うか、天皇を現人神とした国家神道のカラクリに疑いに目を向けるようになり、その仕組みやしきたりにあまり意味がなかったことを痛感したのである。

ここらの考え方がキリスト教などと違う点だ。それは二千年もかけて殉死を説いてきた。神のために戦えば人を殺しても免罪符が与えられ天国に迎え入れられると言う。脈々とその教義は教会を中心として語り継がれた。

そもそも死後の世界のために現世があると言う教えは神道にはない。神道はいわば精神論だ。キリスト教徒同様のモチーフならば仏教の教えの方が近い。極楽浄土と言う死後の幸福な世界が説かれているからだ。しかし日本は列強国を見習うべき神道にそれをなぞらえた。勝利とはすなわち現世ご利益だからである。それに大日如来をトップに据えるにしても範囲が膨大だ。そこで今生天皇をその場に据えて収まりが良いのは神道だった。救世主としての意味合いもあったのだろうし。祖神は天照大神とされてるが、記紀神話を読むとわかるけど、あまりの強大な力ゆえに天照大神を遠ざけてしまう場面がある。あんまり知られていないが天皇家の宗教は神道ではなく、仏教なのだ。菩提寺は京都の泉涌寺。祭祀を執り行うからと言っても供養や信ずるものは仏教だったのだ。これは朝廷の歴史を見れば分かること。神仏習合性が高かったゆえに同一性が高く、神仏は神仏なのであって、とても分けることが難しいことだった。だから現代の神社と寺の住み分けに無理が生じてる部分がある。これは切り離せないのである。本地垂迹説が言うように仏が神の化身であり、神もまた仏の化身なのである。明治以前に戻すとするならばそんじょそこらに神仏はそれこそうじゃうじゃいることになるけど、それこそ八百万。たくさんいて当然。もしあなたが今日新しい神を作り、名を賜ってお祀りすれば、それも当然神なのだ。昔は山から石を拾ってきて、神棚(神聖な場所)でお祀りし、翌年に返すなんてこともしていた。金銀真珠(パール)神でも筆で書いてしまえばオリジナル神様は出来上がる。まっ、自分だけの神様でしかないのだけれどね。だから今年神として返した石を誰かが来年の神として迎えることだってあるわけだ。山に返した時点で穢れたものでなくなってるイメージでしょうかねぇ。神道は空みたいに限りなく広い感じ。仏教は例える海かなぁ。深層はぼかしてあるし、有限だから。曼荼羅はあるけど全宇宙的な一位って「神」のイメージだし。

石には何かが宿るような、呪われたホープダイヤ的なことを言う人が居る。波動とか言うけど、おいらは分からない。水晶など加工されているから分からないけどダイナマイトで爆破して取る鉱山もある。その時の「爆破の記憶」を留めてる石があるとか言う。人生長くて100年程度の人間様が語るにはおこがましいといつも思う。確かに40センチクラスの水晶も持っているけど、それが浄化できずに悪い作用をしているとは思わないし、土地を清める名目で水晶を埋める人もいるけれど、それは二度と絶対にしない。人の元にくるように運ばれた石は人が誠心誠意で愛でるものだと思う。ピンと来るから欲しいのだし、大金はたいて買うんだ。ホープダイヤにしてもどこの寺院の仏像の目だったんだ。それくらいの者を据える寺院がその宝石を農地に埋めるなんてないだろう。ああいう逸話は無視してる。今おいらがこうなったのは石のせいじゃない。石に頼り過ぎたからだ。愛でるものを祓うものとして認識したせいだ。清める力があっても半径2Mがいいところ。それを持ってるから、置いてるから不幸がきたなんておこがましい。一時的に所有してるだけだぞ。お迎えしたら水で洗うし、儀礼的に塩もかける。香を焚くこともある。けど念力を注入してくれなくてもいい。石として売れ。いつもそう思う。問屋で石を買うのでいつも思うけど、あんたの手を通して念じたらブラジル産水晶が10万もするのか。この間一連(約40センチ)870円で購入したぞ。人間の念なぞ込めた石ならば絶対に買わない。いくら清浄でも身に着けてるもんが欲望を抱えていちいち浄化なんて間に合うものか。付けてても憑りつかれるときは憑りつかれるわ。多少軽減されるだけ。〇や六芒星のデザインに意味があるんじゃ。実際にイギリス王室に伝わる王冠のルビーがルビーじゃなくてレッドスピネルだと判明したからと言って王室が上質なルビーに交換したなんて話は訊かないぞ。王冠に意味があって経緯があって、宝石に経緯を払う訳じゃない。王冠と言う歴史の積み重ねと意匠がものを言うんだと思う。

おろらく爆破されたり、ノミで削られた石はたくさん持ってる。土地の記憶ならいざ知らず爆破の記憶ってなんだ。波動を刻むってなんだ。金儲けのために掘るんでしょ?みなが幸せになるために掘る人がどこにいる。じゃあブラッドダイヤモンドと呼ばれるものがなぜ売れる。貧しいものが掘っているぞ。世界中で災いに会う人はこのダイヤを購入したせいか。産地偽装して売られるものもあるだろう。しかしすごい透明度とか抜かしてチベット産水晶をうるんじゃねえ。アーカンソーとかブラジル産なのみ透明度がある水晶があれば、それこそ半端なく効果だぞ。嘘つかないでブラジル産で売れよ、自信もって。だから霊能者系でも半端なく安い石を高価に売る人や魔除けで売るのはどうかと思う。石買う前に自分磨きしろって言えよ。

水晶を氷や水の化石だと信じていた古代人の気持ち考えてみろ。キレイだから持っていたんだ。そう信じるから意味が出来たんだ。身に着けた途端に変わるとか、ビビット来たとか言うな。トルマリンなど入れていたら微弱な電気は走るわ。放射線出してる石もあるわけだし効能がないとは言わない。でも効果があるとは言えないと思う。だっておいら石を集めだす前も後もそんなに人生劇的に変わったわけではない。ずっとどん底だし、ずっと居た堪れない。石みてると安心する。悠久や無限ってものが内在している気がするから。星だってそうだ。何万年前に死滅した惑星の光を見ているんだぞ。だけどそれらに一時期力を借りてもいい。人間の物差しで測れないものに力を借りていい。でもね、邪念とか想念とか人間が飛ばしているようなモノが簡単に入り込む様なものに石をするんじゃねえ。石ならばはじくさ、人間ごときの想念なんてね。それくらい言い切るならば買うてやるわ。誰にもわからんことを口にするのは嫌いじゃ。だってね、スーパームーンに月光浴させても、言われるような優しい波動何ぞ感じんぞ。それよりも地球に近づいてる分、引力が増すから潮力に影響したする方が問題じゃ。人の成分は水分なんだから、気圧や節気のときには具合が悪くなる。

石は透明度がいくら高くても目には見えない気泡があって水を吸い込みやすい。曇るのは汗のせいだ。だから水につけると汚れが取れる。一時期クラッシュ水晶(衝撃を与えてひび割れを作る)がブームになったとき、スピ系や能力者系がこぞって不思議を説いたけど、単にひび割れに水が吸収されてくっついて見えただけでしょう。レインボー水晶っていってもひびやかけや混入物があるのが鉱石で、昔はクズ石として廃棄していたんだって。科学的に証明されたり、科学的な現象だって分かると口を揃えて無視すんのはどういうことだ。まずは謝罪するべきなんじゃないの???

石屋をやろうとしてのひっかかりはいつもそこにある。アンチパワーストーン専門店じゃ売れんでしょ。石のささやきが聞こえたり、波動を感じないと。商売でやろうとするといかがわしい売り方になるし、「と、言われていますが保証するものではございません」って注釈入れなきゃなんねぇ。おいらはキレイだとか、何万年って地球の歴史の重さを感じてつけてる。だから腕が凝るし肩がこる。見た目悪くても希少石を尊べず、身に着けると「なんか安心する」じゃ売れないのだ。プラスアルファ。それがご利益、それが邪気の本性だと思う。ここにもあるが色味や意匠なんだ。目で見てるから脳が欲するものがいちばんいいのだ。まあプレゼントするときは、あげる人の喜ぶ顔を想像して一生懸命悩んで作る。幸せになれとか、願いを込めない。ただ一点。渡した時の笑顔が欲しくて作る。だから、貰い上手になって欲しいと思う。つかん子のおいらが作ったものを見に付けても不幸にはなりません。半ら笑いは止めてください。二個目を上げなかった人は喜んでくれなかったからです(笑)。鉱物好きでアンチパワーストーン派って日本にどれくらいいるんでしょうかねぇ。だから石屋をやろうと思うと、志が鈍る気がして出来ない。 

でももし水晶にレコード機能があったとしたら、ウチの子たちはねじくれた子らでしょう。熱があるときに水晶やラピスラズリの石を氷嚢代わりに使ってごめんね(笑)。でも好きな石もあるし、「これはちょっと・・・・」と思うのも確かにある。そういう時は迷わず自然に返す。伝わるのかもしれないね・・・・・波動。でもやっぱりきれいだから身に着けるのがいい。魔除けなら殺菌効果もあるし銀を見に付ければいいし、健康重視ならチタンがあるではないか。水晶ちゃんや貴石をせめちゃいかんです。

---------------それにしても、横道のそれ方が半端なし(笑)

もとい!!

死後に神として祀るのは祟るからだ。恐れからだ。戦中戦後に大人だった人は仏教に帰依する力も強いし、神道に対するしきたりも重んじた。父らの戦中戦後に子供だった者は生きることに専念した。腹いっぱい食べるのがすべてだった。その世代の子がおいらたちだけど、宗教に詳しいものは少ない。それは家にあってもだ。祖父の世代は負の考え方であった様々な伝統や伝承をうわべだけ後世に伝えることが平和だと思ったに違いない。父の世代は自分探しをあまり気にしない。人間がどこからきてどこへいくのか疑問視しない。ただそこにあって腹ペコだった当時を笑いながら語る。そこには戦争の悲惨さはあまりなかった。

おいらたち世代が大人になるともっと仏教も神道も簡素化された。森の鎮守は消えたのだ。戦後は建設ラッシュで木材の仕入れに遁走した。それまで信じた神がいないとなると先祖代々守り続けた巨木信仰(いわゆる森神)の対象であった大木をみなが売り払って材を得た。神が人に忘れられ消え去る前に残す災いを祟りと呼ぶのだと思う。祟りとは崇めることなのだ。あがめなくなるとたたるのだ。森林を売り払って材を得た人の二世の多くは道を見失う。信じるものが信心から現金や富に変換されてしまったからだ。教えれば良かったのだ。国家神道に組み敷かれる前の原型の信仰や信心の形を、そして教えを・・・・・。それをおごなって戦後70年を迎えた日本では愛国と呼ばれる「支え」がなくなり、オカルト(隠された秘儀と言う意味だが、日本では悪い印象がある)で得た知識と習合して癒しのまやかし系であるスピリチュアルが浸食した。パワースポット化しても生き残りをかける神社では再パイ客が増えて喜んでいるが、それがブームであって、ブームである以上それはさる。ご利益がなければ人は二度と訪れない。自分の信心がたりなかったせいだとか、更なる帰依や回帰を考えもしない。これがキリスト教にあるような犠牲心や神を敬う気持ちを骨抜きにした抜け殻の信仰にさせたのだと思う。

本来わが国では神は祟るものであった。だから祭り鎮めて神として守るものに変えてきた。だから神は怖いものなのだ。スピ系の人が言う優しい存在ではない。それは身を以て知ったことだけどね。怖さ視たさで心霊スポットに行くのも物見遊山にパワースポットと称して神社に行くのは同じことだ。欲望を抱えて参ればもれなく災いも憑いて来る。だからお守りをいただいて、祟らないでください、障らないでくださいとお願いする。祟らないでとは守ることを意味し、その代わり神を敬う心持だから、不浄なモノや祀ろわぬものからも身を守っていただけると言うわけだ。たんに縁結びの社に訪れて縁が結ばれたと思うけど、よく考えてごらんなさい。お詣りしようと思う気持ちの時にはすでに意中の誰かが心の中にいて、告白までのあと一押しをしてほしいときなんだ。困ってないなら行かないよ。信心からお詣りしようにも、もうその素地が現代人からは消えてなくなっちゃってるわけだからね。

だから昨日みたいに強制的に呼ばれるとつい二通り考える。

一年守ってやっからお礼に来いと言う意味か、たくさん溜まっているから(不平不満や不浄なモノ)から祓いにおいでと言う意味か。

前者の後者もありかな。信心のない父は土地の神さんに謝ることをこの数か月おいらと一緒にやってきた。今は信心が備わっているから手術する前も術後も今までと違い人が変わったようだ。それがあると人は強い。あるがままでいれる。そしてそれがちょっとうらやましくもある。おいらは知識として身に着けただけで本当の意味での信心は今も心の暗闇を迷い歩いてる。ずっと途中で、ずっと迷っている。伝わらないのは悲しい事だ。それは人でも神でも同じなんだと、おいらの心は今も居直り続けている。それじゃダメなのだ。不思議体験が多すぎて、なぜだか不思議と守られてるおいらからすると、それが何者なのかただ知りたい好奇心に駆られる。好奇心は猫を殺すとはよく言ったものだ。おいらはラスボスを知りたいんだ。

だってあるがままを受け入れると壊れてしまうか、それこそ神仏の世界に帰依しないといけなくなる。どっちにいけない。寺や神社の跡継ぎとして生まれてきたわけではないから、使命やお役目がないのだ。だから心のどこかで呪う神主の出自をうらやんでる自分もかつていた。それが想念の塊である魔物や呪詛をしっかりと成立させてしまった。神がいる以上は当然悪も存在しなければいけない。でも悪ばかりに浸食されて、どんなに助けをこうしても神は助けてはくれなかった。本当は救われ続けていたのだけれど、それに気づけなかった。神もまたあるがまま、信じていようがいまいが、そこにあってたゆたっている。呪詛は別だけど、人を救う願望が強くあった。けれど人を救う力などそうそうない。悪意に用いれると言うことは正しい行いも出来ると言うこと。日本式の考え方はご都合主義で決して一方通行的なモノではない。正しいことにその力を行為しない呪う神主に腹を立てていたのだ。それは自分自身が呪われたことよりも腹を立ててしまっていたのだ。されたことだけに腹を立ててしまえば簡単に心をシャットダウンできたのに、知識がそうさせなかった部分がある。あると思えばある。それが日本の神の本来の姿でもあったのだから・・・・・。

で、対人間と言うか、他者が怖くなった。人は人の中で穢れや汚れをつけないと生きてはいけない。清いままでは流れに乗れない。もまれてもまれて生きるのが人の定めなのだ。その定めが怖くなった。境界線が曖昧になった。だから昨日みたいに呼ばれると不安になる。どっちにも行けない自分。でも岐路を指示してほしい自分。自分では何も決められなくなってしまったのだ。その都度の判断が甘すぎたり、指示されたものであったがゆえに、こうなってしまっている自分が居ても自分で這い上がることを拒否してしまうのだ。だからこそ「守るべき者」を持たない選択をしたのだ。生き恥を晒しても一人であれば誰かを傷つけないですむ。自分で自分を犠牲にする道を選び取ってしまった。それはとても辛く悲しいことなのに、当たり前でもあるのだ。ちっぽけな自分の正義。こんなことなら会社を訴えれば良かった。裏の世界で敵わないのであれば、呪う神主が形成した環境や従うものを減らして、彼の状態をこわせば良かったのだ。所詮は砂の城。移ろうものだとわかってる。脆く脆く脆い。自分がまた呪われることよりも闘えば良かっただけのこと。それなりの材料もあったのに・・・・・。信じるものも神で呪うものも神だとしたら・・・・。

まあだいぶ変化したとは思う。あと一押し。昨日の参拝はそれを貰ったような気がする。この町の空気感や閉塞感が嫌いだったけど、その雰囲気を作り出しているのもまた自分なのだ。田舎は嫌いと思う。この町は自分を受け入れないと思ってる。でもそれは悲しいくらい現実逃避したおいらの概念に過ぎないのだから。今度こそこの町をあるがまま受け入れて好きになろうと思う。邪悪なものは嫌いでいよう。おいらの信じる神さまは邪悪かもしれないけど決して私怨をはらすような小さな存在ではないのだから・・・・・。見上げてる空に、自分も包まれていると言う意識。温かさを感じる心。それを喜ぶ心。原点回帰とはそういう単純なことなのだ。普通って難しかったけど、人はそれぞれ自由に感じて考えていいんだと思う。それこそ人の道を外れずに、時には仏教の教えを借りて、時には神の神威を借りて、時には異国の神の厳しい戒律を借りて、おいらはそんな知識や伝統や古典を神と思えばいい。知識を神と思えばいい。

夢のない仕事はイヤだから断ったのだ。今まで自分を振り回していたのはほかでもない自分。世の理やブームや人の意見や意思に支配されなくても良いのだ。みな言い訳して生きてる。割り切って生きてる。だから今は楽しい仕事をしたい。人を救うのではなく喜ばせるような・・・・。そう言うのが出来る環境がもうすぐやってくる気がした。あと三日。約束の日まで、呪詛が一年と勘定したらあと三日。そんで終わって始めようと思う。

呪う神主は物語の中に閉じ込めた。物語には終わりが来る。あんな邪道なものは世間にいらない。たくさん考える時間があったけど、それは相手も同じ。子を見て親を見る。おいらには子はいないけど、子供は宝物だと思うし、あんなに純粋な子供に恥じない人間でいないといけないとも思う。だからこそ守る意味がある。彼は親を見て子を見て、助けてくれた周囲の人間を見ていて何を思うのだろう。それでも自分は選ばれた人間であって特別な存在がゆえに日が敬うのだろうかとホッとして胸を撫でおそるのだろうか。そんなは嫌だ。もしかする助けてくれた人も伴侶も、神の力を借りて捻じ曲げてでも欲しいと望んだものかも知れないから。彼を知って人は彼は仕事しない人間だと言う。愚かだと言う。でも卓越した能力はあるんだろう。彼は人信じない。だってそれは自分が努力して勝ち得なものであるのかないのか曖昧だから。だからこそ常に人を従わせるために弱みを握る。もっと愛を信じればいいのに。世の中にノンリスクの無償のものがあることをおいらは知っている。それを彼は知らない。はたで見てるとすごくバランスの悪い人だ。人生が上手く行っているようには決して見えない。縁故や贔屓で彼の人生を語る人も少なからずいる。それも本来あったのかなかったのか。誰かに愛される魔法も誰かに必要以上贔屓される魔法もある。でもそれは駆使してはいけない。人の人生を狂わせる力が彼の人生を確実に歪ませている。それは昨年見た彼の眼の中にも弱さや不安として表れていた。鬼になれないのであれば人間でいることだ。おいらは人間でいたい。思いやりで相手を守りたい。決して報われなくても誠実でいたい。本来そういうことが出来る彼をうらやんだと言うよりも、環境をうらやんでいたのかもしれない。小さなお宮でも小さな人間でも世界の平和を祈念する場所があることが羨ましかったのだろう。

そういうことだと判別できれば、あれは神職だろうと宮司だろうと、ただの腐った人間なのだ。同じただの人間ならば奴に負けるわけにはいかない。負ける気もしない。だからあれの存在はおいらの人生の黒歴史に綴られたクロニクルに過ぎない。もう怖いないよ。呪われていても強く生きることにしたからさ。

50過ぎてるのだから、ご先祖が積んでくれた徳ももうないだろう。努力しない人だからもちろん自前の徳はない。呪術で邪魔者を消し去って呪術で手に入れた嘘っぱちな人間関係なんておいらは要らないし。邪魔者ならば自分で消して、素敵な人間かいならば自分の尽力で作る方が楽しいに決まってる。いつも後ろめたさや疚しさではち切れそうな人生は要らない。もう全否定する。泣いて笑って無様で格好悪かろうが惨めだろうが、自分の中の人間力を諦めちゃ終わりなんだ。最後はすべてを道ずれに終焉を企んでいるようだったけど、君に無理。守って貰ってる人間に感謝の「か」の字がないのだから。だって嘘で作った関係でも尊いものなんだぞ。それを知ってる分、おいらはあんたよりも強い。

なんか大幅に道を外れてしまいました。これは物語だから壮大なネットの海を漂流してたゆたえばいい。それこそね。

で、例の【謎】のご神体と八幡さんの由来はまた調べて書こう。その正体を知ることでもし絶える一族を救えるのならば一役買いたいと思う。親戚のおばちゃんに「ここの竈あと悪いからお祓いしてね」なんて言えないしね。それこそ今以上に疎遠になっちゃう。そしてそれが自分を救うことになるのだと思う。

日々感謝。

とか霊能者っぽく終わりますね・・・・・・。あはは。

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