空に問う。

空に問うても果てがない

頭の中に何かいる。。。

2014-10-30 11:30:48 | 日記
子供の頃、風邪をひいたり、急に熱が出ると、決まって親類が亡くなった。だから子供の頃は、葬式に出席したことがなかった。大人になるとじょじょにこうした不思議な現象は減ったけど、つい最近またまた似たようなことが起こった。

ここ数年、「これは呪いでは?」みたいな状態で、神社で祓いを受けていたので、極端に仏事(墓参りとか)を避けていた。もちろんお彼岸やお盆は墓参りは行ったけど、それ以外は、まさに神道一筋。今では祈願に出かけても、大祓の祝詞などは宮司さんについて唱えられるように
になった笑。

呪いの最大の山場は8月。神棚にお供えしていた塩は水になるし、しめ縄は焦げてるし(灯明は焚いてません(笑))、本当に恐怖のどん底でした。その頃、家の水周りにも異変があって、親類の人に頼んで風呂の水道管を直して貰った。もう家の中はパニック状態で毎日大ゲンカ。そういう最中に修理して貰った家のおじさんが先日亡くなった。それはそれで偶然とも思えるし無関係に思える。また呪いが流れたとも言えなくもない。しかし死因は原因不明だから・・・・・、胸がギュッと絞めつけられた。

亡くなった日は朝7:31分。

その日は朝から「何か」に呼ばれた気がして、墓参りに行かなければいけない気がして、ショッピングモールで少し高めの線香と母方の祖父母のために花を買った。父方の祖父母の墓は長男の家が管理しているから、花は控えた。10月に入るとシバなどをお墓に飾るので気を利かせた。一応、”つい花”はいけないと知っている。つい花とは、お墓に挿してあるお花に追加で新しい花を足す行為。だから良い線香を購入した。まあそれこそ気持ちだけど。

菩提樹はそれぞれ別々なので、先に父方の墓参りを済ませ、そのあとに母方のお墓参りをした。本当に久しぶりな気持ち。

だって今月だけでも、浜田市内の元会社の氏神さんと大田市の物部神社で祈願をして貰っていた。これはほぼ神様に対してのお礼だったんだけど本当に仏事に気が廻らなかった。でも、その10月24日だけは何も思わずに、素直に心が動いて、墓参りに行く気になった。もちろん風邪をこじらせていたので、本来ならば寺に行く気力もなかったんだけど、「とにかく寺に行かねば・・」という思いに狩られていた。

で、昼頃に家に戻ると、母が「〇〇おじさんが今朝亡くなったよ・・・」と。

あちゃー、それか。風邪もひいてるし・・・・・・・・。

何でも数日前に緊急入院したけど、容体が安定したので3日後には退院予定だったけど、24日の未明に危篤になり、そのまま帰らぬ人となったらしい。家族が病院に訪れた時には、もう手遅れだったようだ。死因は不明。

とにかく、この10月も8月に負けず劣らず奇妙な月だった。もう15日で退社することになっていたのに、急に移動の事例が降りたり、最後の最後まで嫌な思いをして会社を辞めた。まあ最終的には営業所閉鎖による解雇になったので良い結果ではあったけど、同じような仕事ならばスグにでも働ける感じが余計においらをくじけさせたのも事実だったりして少し落ち込んだ。だって17年務めた仕事だったから、後悔しない方がおかしいだろう。

だから、これで「呪い」は終了って思っていた。思っていたはずが、突然風邪をひいたら、親類が亡くなった。・・・もしこの数年一度も我が家に訪れたことがない親戚の家で起こった不幸ならば自責の念も浮かばないんだろうけど、おいらの家では「家族の誰かが死んでしまう」と言う、ありえないような心理状態の恐怖に支配されていた。そんな時に亡くなったおじさんの息子さんが修理に来ていたので、少し不安になった。

「呪い」があったのか、否かは今もわからないけど、それに近いようなモノは確かにあったんだと今更ながら思う。だから、亡くなった報せを耳にした時、呪いに近いモノが憑いて帰ったのではないかと思った。おじさんと息子は二世帯住宅で同居している。

原因不明と言えば、8月においらの親父が倒れたにも原因不明だった。「障り」と言うモノはあるんだと思う。それは感覚でしかないけれど、確かに我が家に「あった」モノなんだと思う。だから何だか申し訳なくて、悲しくて、少しどん底気分になった。

もちろん悪いのは、おいらの自宅を呪ったであろう呪い〇〇にあるのはわかるんだけれど、もっと早くに気づいて、事態が悪化する前に以前の仕事を辞していれば、こういう訳のわからない気持ちに苛まれることもなかったんだろう。

今も平然とウダウダ嘘を繰り返しながら、呪う〇〇は存在している。次の犠牲者は不明だけど、きっとすぐに「気に食わないヤツ」に何かを仕掛けるに決まってる。だって、おいらも辞める15日前になって、通常考えられないような事態に陥って、訴訟寸前にまで追い込まれた。普通にどう考えたって、あんな風に”人の心”が疑心に囚われることはない。操っていたのか、そのあたりはよくわからないけど、最終的に進退を話し合った上司は、あそこまで「酷い」人間ではなかったはずだ。って言うか、呪う〇〇の悪行を知っていても手を貸しているんだとすれば、その上司も邪魔な誰かを追っ払って貰うために、こっそりお願いいたんだろう。万が一、それが叶えば、それは弱みだし、加担する理由も分る。けど、それにもまして常軌を逸していたのも事実。

ウチはそれでも「呪い」に対して予防をしていた。誰かの生命を獲られることもあるんだろうと必死で神様に祈り続けていた。一度放たれたモノは単純には呪った相手には返らないのかもしれない。だから、それは流れて、一番弱っている人に憑いた。何故ならば、最初におじさんが倒れて入院した日は、おじさんの誕生日で、祝いと不幸が重なってる。そういう感じのw効果を齎すのが、この呪い〇〇の術式なんだと思う。本人は大真面目に「祝って」いるのかも知れないが、結果は「不幸」になるんだから。ヘボのくせに祈願を止めない。頼んでもいないのに祈願を行う。イカれた男のすることだから、おいらの今後の人生を祈願してくれたのかもしれない。それは「呪い」としてしか、他人には返らないのに・・・・・・・・。

でも、今回初めて人死には出た。おいらが未確認なだけで、他にもあったかも知れないけれど、おいらに掛けた呪いの末、おじさんが亡くなったのだとしたら、それは呪う〇〇の願いが成就したことになる。それは返るんだろう、何倍にもなって、呪う〇〇や元上司の元に・・・・・。でもそれはおいらの願いとは違う。だから、もうおいらには戻っては来ないだろう。

今日がおじさんの亡くなった初七日で、おいらの体のダルさも頭の重たさも消えた。消えた以上、それは放った元に返ったということなんだろう。でも、もうおいらには無縁で無関係なこと。それ相応な痛手に会うのはおいらの願いではない。ただおいらは止めて欲しかっただけだ。悔いて去って欲しかっただけだ。誰も呪う〇〇など必要としていないことに気づいて辞して欲しかっただけだ。自殺の名所の山の頂にある、その神社で世のため人のために悔いて嘆いて祈り続けて欲しかっただけだ。人と交わることを止めて欲しかっただけだ。

なのに・・・・やっぱりくだらない理由で、他人を欺き陥れることを止めない。まだ殺意を持って幣を振っているんだろう。人を呪うことが生業であるかのように・・・・。

でも、それが事実ならば、おじさんに申し訳ない。あの日あの時、なぜ母が修理をお願いしたのか悔やまれてならない。急に思い出したように電話をかけたらしい。こういう偶然に引きずられて、悪いモノは拡散していくんだ。

おじさん、ごめんなさい。






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