空に問う。

空に問うても果てがない

お隣さんの木もばっさり

2014-11-10 17:38:38 | 日記
隣はつい最近まで空き家だったんだけど、今は老犬とおばちゃんが住んでる。が、近所との協調性なし。まあ病気みたいなのであまり言えないけど、玄関前の通路で老犬がおしっこするから匂う。ホースでジャージャー水を撒けばいいのに、ホース持ってきてちょぼちょぼ。だから匂うので、ウチのホースから水をかけて流す。ああ、まともな隣人が欲しい。

前の隣人はおばさんが熱心な〇理教の信者で夕方からポンポン太鼓を叩いていた。この宗教って教義が恐いんだよね。端的に言うと、人間の幸福は限られいるから、他人から奪っちゃえってこと。ただし教団以外の人からってヤツ。とにかく三軒並びなんだけど、隣家はちょうど真ん中。向こう隣の家はおいらの遠縁なんだけど、ここもある意味不幸続き・・。本当に酷い目に合わされてきたと思う。だから未だに隣家の前を通る時は息を止める。・・それに意味があるかどうかは分からないけど。

変な偶然だけど、隣家と揉めれば親父が病気、隣家の誰かの病になれば、ウチにも飛び火して誰か病気になる。そしたら隣家の病人はけろっと治る。姉は変なライバル視されて、精神的な病にかかった。それも高校受験を控えた大切な時期に。だから病状を考えて高校のランクを落とした。隣家には姉の同級生の娘がいて成績は芳しくなかったらしいけど、そこからめきめきスキルアップして神学校に合格した。本来、姉が受けるはずの高校だった・・・。こうしたイタチごっこが40年近く続いた。

先におばさんが亡くなったけど、奇妙な偶然はおじさんが亡くなるまでしっかり続いた。でもおじさんが亡くなっても、しばらくは居たのかな?おばさん。門番みたいに玄関の前にいた。おいら鼻がいいので、そういう匂いを嗅いでしまう。生前おばさんが利用していた柔軟剤と線香の匂いがした。今は全然しなくなくなった。これで一安心って思ったら今度はいろいろ問題のある人物が越してきた。今は沈静化してるけど恐いなぁ。それこそ諺ではないが、類は類を呼ぶ。今度は病気持ちの独居おばさん。

ウチの家の前のノリ面は竹も刈ったし、向こう隣の親戚の前のノリ面はキレイに整備されてて花を植えていたりしてる。その真ん中のノリ面だけは鬱蒼と草木が茂ってる。借主は家の前のノリ面は無視で草ぼうぼう。なので、いい加減業を煮やした母が雑草を刈ると言い出した。隣の一部であると告げても「私がもうイヤなんよ」ととっととノリ面に掛けた梯子を登りはじめたので結局手伝うことにした。

前の隣人である宗教おばさんが、何故かウチの敷地の境目にあたるノリ面に植えたという、花もつかず飾りにもならない木を植えていた。前から気味が悪いと思っていたので、ついでだから知らん顔して切った。なんか宗教を熱心にやっていた人が「境目」に植えた木って意味ありげで恐いよね。だからこの際だからノコを入れた。文句を言う人もいまい。

改めて考えると、生まれながらにして「霊的」なもんに支配されている人生だなぁと思う。それも隣人や知人が行う邪道な方のだけど。

でも疾しかったんだろうなぁ。結局隣のおばさんと顔を見て話した記憶は一度もない。すまなそうにしていたけど、それこそ呪う〇〇じゃないけど、呪詛を仕掛けておいて「すまない」はないだろう。守りたいものは誰にだってある。自分の力で守るのならば分かる。それは努力したり働いたりすること。でも他人から幸福を奪うことが仮に出来たとしても出来ないとしても、それを行おうとする心の黒さが何だかイヤだ。

おいらはこういう体質だからいろいろ独学で学んできた。だからいろいろ知識はある。だから邪な人の何気ない行動に自然と目がいく。分かるんですよねぇ、ここで何をするつもりか、何かをしてしまったのか。何をこれからしようとしているのか。不信な行動には必ず不実な理由が存在する。

一度おいらもやってはいけないと思いつつ、ノーリスクで簡単だからとある「まじない」をした。そしてこっぴどくひどい目にあった。それは超簡単に出来て、ノーリスクだと言う「塩まじない」ってヤツ。願い事を紙に書いて、燃やしてトイレに流す。願い事は簡素に、金運を授かりたいならば具体的に「金がない」とだけしめす。それを書いて燃やして流す。実にシンプルで、リスクがないと言う。

元来、願掛けがノーリスクな訳はない。でもリスクは「何」もないと心から思い込める心境だった。それくらい思い悩んでいた。要は死にたくて堪らなかったからだ。弱い人間だ。でも願いはことごとく叶わなかった。しかし、それらはおいらの人生に跳ね返り思いもよらないような禍いとして戻ってきた。リスクのない「まじない」なんてない。だってまじないを漢字で書くと「呪い」なんだからね笑。だから自死してしまいたいくらいの強い恐怖にかられても、そういう願掛けはしてはいけないんだ。死ぬ気になってたなら他にやるべきことはたくさんあったはずだ。でももうそれしかまるで方法がないような心境だった。それから逃れたくて、つい「塩まじない」なんて安易なものに手を出してしまった。後で知ったけど,この塩まじないも相当な呪詛だった。バカなことをしたと今でも後悔してる。

呪いを掛ける事は、どんな理由があろうと、正しくないことだ。それは痛いほど知っていたのに、その時のおいらは完膚なきまでに弱っていた。まともな思考ではなかったと思う。まるで目の前に意図的に人参を用意された馬みたいに。自分で自分を呪うような事を気づけば行っていた。どうして死にたかったのか、全然理由は思い出せない。ただただ消えてしまいたかった。1日1日を生きるのが精一杯だった。

でも、どんなに言い訳をしても、不実な行為をしたのは、おいらだ。それは呪う〇〇のせいではない。

要するに、呪われた経験があると、「自分も呪われた」ことがあるから、「人は誰かを呪ってもいい」ような気持ちになる。不条理や不公平さを感じるからだ。それは無力感の中から生まれてくるし、呪われた者は絶対に何か大切なものを奪われるか、抗えない強い力で何かを手放した経験を持っている。だから不当で惨めな自分の存在にいつか気づく。居たたまれなくなる。だから誰かを少し不幸にしてもいいような気持ちになる。負の連鎖ってこうして受け継がれる。でも、それは絶対にダメだ。

呪いなんて氏名と住所があれば出来ることだ。ついでに生年月日があれば完璧。だから地番に掛ける呪詛もある。効力のほどはわからないけど、儀式としてやろうと思えばやることは出来る。お客さんが来店後に不運に見舞われていることを知った。だから、その呪いを解きたい一心で行ったことだけど、それは呪いに対して、願いを返すまじないだ。おそらくそれも呪詛になるんだろう。少しでも状況が改善されればと思う反面、憂さを晴らそうとする自分もいた。ストレスと不当を感じていたのだ。

・・・・しかし、それらは思ってもいなかったカタチで、おいらを打ちのめした。ノンリスクのまじないなんてない。たとえば片思いの相手がいて両想いになるために、まじないをする。願いが叶い結ばれたとする。でも付き合いが始まって相手を知っていく内に、「もしかすると運命の相手ではない」と気づいたとする。さて、どうするか?

きっと相手の気持ちも考えずに別れを切り出すだろう。でももし相手があなたが掛けたまじないであなたに惹かれたとしよう。相手は別れを納得できずに執拗にあなたを追って来るかもしれない。たとえばもうあなたからすれば邪魔で仕方ない存在に代わっていようとも、相手はまだまじないにかかったままだ。毎日待ち伏せされる。毎日ラインが届く。迷惑に思う。苦痛になる。願い事が叶ったのに、その願い事を取り消したくて必死に抵抗する。でも叶っているのだからキャンセルなんて出来ない。両想いになれるようにまじないと掛けたのはあなただ。あなたにも責任がある。責任はどんなカタチであれ、あなたの大切なものを奪うはずだ。それは信用かも知れないし、時間かも知れない。

だから自分を鼓舞するため以外の「まじない」は絶対にしてはいけない。それは自分が信じてるものや信じて生きてきたすべてを裏切る行為でしかないのだから・・・・・。惹かれあうものはどんな障害があろうとも引き合うものでしかないのだから。

おいらの場合、願いの一部は叶ったんだと思う。まじないの中に含んでいなかったけど、悲願は達成されたんだと思う。それが本意とは異なっていても願いは成就した。だからこそ、対価を支払うことになった。必ず何かを奪われるもんだ。だから必然的に奪われた。

でもそれすら願っていたことかも知れない。その時に自分の愚かさを痛感した。でもなんとかそこで踏みとどまれたから今の自分があるのだと思う。その時に感じた無力さを不当感を再度返すことも出来た。でもやらなかった。それでは呪う〇〇と同じではないかと思った。あれほど忌み嫌っている人間と同質の人間にはなりたくなかった。死ぬ運命ならば死ねばいいと諦めた。奪うならば奪えと思った。そして目が覚めた。正しい事をしようと思った。だから何もしなかった。頭も下げなかった。呪うものが喜ぶことは止めることにした。

今考えると、すごく変なロジックだと思うし、そんな遠回りをする必要なんてなかったんだと言える。塩まじないなどしなくても水面下では着々と準備されていた。すでに取り返しが効かないくらいには呪われていた。塩まじないなどに頼ってしまった自分の弱さを恥じたので、その後ムキになることはなかった。すべてを受け入れることにして清算する道を選んだ。もう限界だったんだ。

自分の弱さに惑わされる時に一番良い方法は、どんなに辛かろうと原因を「呪い」にしないこと。そして何も行動しなければことだ。急病になったとしても、それは仕方のないことだし、不慮の事故にあったにしろ、それは自身の慢心が招いた結果にしてしまうこと。そして何よりもひたむきに生きる道を選択することだ。誰かのせいにするくらい簡単なことはないのだし、必ずお天道様は見てくれていますよ。こんな自分でさえ命を救って貰えたのだから・・・・・・。

誰だって本当は死なないために生きているし、日頃はそういう心に抱えてる闇を忘れてる。でもときどき闇に飲まれそうになる。そんな時に人は試されるんだと思う。で、おいらは試されているのも気づかずに、ノーリスクって事を鵜呑みにして安易に「塩まじない」に手を出してしまった。だから今回の出来事は半分は自分のせいにした。残りの半分はしょうがないと諦める事にした。必要とされないのは実力が足りなかったせいだ。

でも気になることがある。神無月(正確には出雲地方以外は神無月だから石見地方は神無月です)のせいじゃないのだろうけど、どこの神社に参っても「神様の不在」を感じる。それに出雲大社に全国の神様が集まり行われるとされる「神議り(かむはかり)」は旧暦で行われるから、旧暦の十月は今年の十二月だから、まだそれぞれの神社におられるはずなんだけど。おいらが嫌われているから姿を隠しているって笑。確かにそれもあるのかも知れないけど笑。しかしどこに詣でても神様が居ない気がする。居るけど居ないのかな?居留守とも違う。災害やトラブルが起きなきゃいいな。東北の震災の時も、広島の土石流の時も、そんな感じだったし・・・・・。まあ、塩まじないなど不当な願い事に手を出した、おいらが嫌われてる事にしよう笑。

正しくあろうね。不当を感じても。。。。


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