ア-チ石のかみ合う部分にはクサビ石というのがはめられている。
沖縄の他の城には見られない。またア-チの石門も現存するグスク
では最も古いものです。
座喜味城跡は15世紀の初頭、築城家としても名高い読谷山按司護佐丸によって築かれたといわれる。
護佐丸は当初、座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していたが、1416年(1422年の説もあり)中山尚巴志の北山城(今帰仁城)攻略に参戦し、その直後、地の利を考慮し座喜味へ築城したといわれる。
座喜味城跡は1956年に琉球政府の重要文化財に指定され、日本復帰の1972年には国指定史跡となる。翌年の1973年から1985年の間、文化庁・沖縄県の補助を受けて城跡の発掘調査や城壁修理が進められて、日常的に歴史と触れあえる空間としてよみがえる。
2000年12月2日には村民待望の「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の資産のひとつとして世界遺産に登録された。
1943年(昭和18)、日本軍の読谷山(北)飛行場建設にともない、いち早くここに目がつけられ、翌年8月、第21野戦高射砲司令部指揮下の独立高射砲第27大隊第3中隊(光本中尉中隊長)によって陣地構築が進められました。当時、同部隊は仲宗根宅(現曽根)等を接収して宿舎に当てておりました。
城跡は護佐丸時代を経て523年、護佐丸が中城城に移って以来、城砦(じょうさい)として使用された様子はなく、全体が松、その他の雑木に覆われていましたので、先ずそれらの伐採(ばっさい)から始めなければなりませんでした。
最初、兵隊による城内の伐採から始まり、さらに視界を広げるため城跡周辺の伐採もおこなわれました。その後、沖縄県立農林学校の全生徒も動員された大工事になりましたが、構築作業はまず兵隊によって伐採された木の根の掘り起こしから始まりました。真夏の暑い日、汗水流し、体いっぱいの汗疹(あせも)に悩まされながらの苦しい作業となりました。その後、城跡本丸跡に6基の砲座が造られましたが、生徒は主に土と石を運んで砲座の周りに土塁(どるい)を築きました。
こうして苦労して築いた高射砲陣地だったのですが、十・十空襲に際して応戦はしたけれども効果を発揮することは出来なかったということです。もともと高射砲とは読んで字のとおり、高空を飛行する航空機を撃つものですから、低空で襲ってくるアメリカ軍の艦載機に対して下向きには発射できず、逆に攻撃を受けてしまいました。
太平洋戦争時の沖縄戦で日本軍の高射砲が築かれていたこともあって、アメリカ軍の猛攻撃をうけ破壊的な打撃をうけました。戦後は占領したアメリカ軍がレ-ダ-基地として接収し使用していました。(平和資料館)