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アーユルヴェーダのお勉強

独学でアーユルヴェーダ

医者

2017-05-13 10:27:25 | 医学教育と理想的な医者
すべての医者は自分を幸せ者だと思うべきです。なぜなら、高貴な仕事をすることにより、人の命を救い健康にすることができるからです。
医者の資格を得たら、日々の診療にいそしみます。夜であろうと、昼であろうと、どんなときでも患者を診察し、治療することを拒んではいけません。
正しい医学知識をもち、どんなにむずかしい症例でも確信を持って治療しなければいけません。
ふだんの診療や救急治療にも必要な薬品を常備し、薬の用量と副作用を熟知し、患者の体質、年齢、体力に応じて、さじ加減しなければなりません。
医者は病気を治すだけではいけないのです。均整のとれた体質を取りもどし、身体組織の質を向上させないといけません。
招かれもしないのに患者の家を訪ねてはいけません。患者家族の秘密や短所を漏らしてはいけません。
患者が死に瀕していたり、不治の病いにかかっているときは、治療経験の浅い医者は単独で治療してはいけません。このような状況のときは、先輩の医者や専門医に相談し、意見を聞かなければなりません。

医者は異性の患者と親密になってはいけません。学者も、教師も、貧しい人も、善人も、皆、自分の家族と同様に治療しなければなりません。はっきりとした声で穏やかに話し、わかりやすく、矛盾のないように説明しなければなりません。

医者は自分の患者はいうに及ばず、全人類の幸福を考えるべきです。
正しい知識を身につけていても、それをひけらかしてはいけません。
なんとしても命を救い、健康を回復させることが、医者の任務です。医者は、患者が健康になり幸福であることに、喜びを感じられるようでなければなりません。
病気が重ければ、患者とその家族は、医者を救いの神とみなしますから、その期待に応えるよう、あらゆる努力をはらわなければなりません。




(以上、「アーユルヴェーダ式育児学 アーユルヴェーダの基礎と小児科学」V•B•アタヴァレー著、潮田妙子/クリシュナ•U•K訳、春秋社、1994年発行 より引用)



お医者さんについての記載です。
こういう細かい事が書かれているのが面白いです。病気を診るのではなく、人を診る医学のアーユルヴェーダ。お医者さんの資質が問われています。

教育者

2017-05-11 09:02:23 | 医学教育と理想的な医者
模範的な教官は、自分の知識をすべて学生に伝授するべきです。
自分の専門に完全に精通し、関連の分野も熟知していなければなりません。
さらに、学力の低い学生にもわかりやすく表現し、説明する能力が必要です。

時流に遅れないようにし、自分の専門分野に関しては最新の成果に通じていなければなりません。
自分の経験に基づいた研究成果を、書物や学術誌に発表することもすべきです。
また、学生の研究活動を指導することも忘れてはいけません。

自分が受けもっている学生には純粋な愛情をもち、どの学生をも自ら監督指導しなければいけません。どんな機会にも、思索のための新鮮な食べ物を提供し、自分で考え推論できるように、励まさなければなりません。
古代には、教官はつぎのような誓約を書くように命じられていました。

「わが親愛なる学生よ!君が自分の本分をわきまえ、勉学に励み、私の指導どおり義務を遂行するならば、君に私の知ってることをすべて伝授しよう。もし私がそれを怠れば、私の学問は実りのないものとなり、私は罪人となるであろう」

討論で、自分の学生に出し抜かれることほど、教官にとって愉快なことはありません。「シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド」は教官と学生による祈りの言葉で始まります。

「神よ。私たちを祝福し、まもって下さい。私たちが寝食をともにできるようにして下さい。私たち双方が、すべてのものに輝きを放つほど強固な知識を習得できるようにして下さい。私たちがだれにも憎しみをもたないようにして下さい。どうか安らぎで満たされますように」




(以上、「アーユルヴェーダ式育児学 アーユルヴェーダの基礎と小児科学」V•B•アタヴァレー著、潮田妙子/クリシュナ•U•K訳、春秋社、1994年発行 より引用)


教育者についての記載です。
医学生についての記載同様、どこの世界でも通じるべき姿です。

医学生について

日本語訳で”どんな機会にも、思索のための新鮮な食べ物を提供し”と書かれてもピンときませんが、きっと知識や技術などのことを比喩的に”新鮮な食べ物”と表現しているのでしょう。

”シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド”は注釈でこう書かれていました。(以下括弧内、注釈より引用)

「『ヤジュル・ヴェーダ』に属するウパニシャッド(奥義書)で、成立年代は紀元前三◯◯年から同ニ◯◯年のあいだといわれる。この冒頭の祈りは、インドではしばしば引用される。」


”ヤジュル・ヴェーダ”って、”ウパニシャッド”ってなんぞ??
ということで、ウィキペディアさんです。

”ウパニシャッド”は、サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物のことで、一般には”奥義書”と訳されるそうです。(注釈に書いてあるそのままだ)

ウパニシャッド

”ヤジュル・ヴェーダ”はよくわからないです…そういうものがあるんだぁ…程度の理解です。

ヤジュル・ヴェーダ

医学生

2017-05-08 22:44:07 | 医学教育と理想的な医者
医学生は人と社会に関心をもたなければいけません。学生という言葉は学ぶ人という意味ですから、学生の目的は知識を習得し、自分の専門分野に熟達することです。
では、一日に何時間勉強すればよいのでしょうか。内科の大家であるチャラカは、寸暇を惜しんで勉強せよ、と言っています。
すべての専門職、特に医者は、専門の学問を一生学びつづけなければなりません。
学習には三種類の方法と段階があります。それは、①学ぶこと、②教えること、③臨床討論会や学会で専門家と討論することです。

自分の専門領域に精通するためには、関連学科をそれぞれの専門家から学ぶ必要があります。医学を習得するには、理論と実地訓練とは、同じくらい重要です。
独力で考え、論証する力を養うためにも、学生は討論に参加すべきです。そうすることによって、視野を広げ、医書の解釈や治療法の応用に関して、自分なりの判断を下せるようになります。
学生は教官(指導医)を理想の医師として敬い、忠節を誓います。教官(指導医)の言葉や気持ちを尊重し、教官(指導医)を崇敬し、教官(指導医)から正しい知識と洗練された資質を学びとる努力をつづけないといけません。
医学は医書を読むだけで習得できるものではありません。具体的な詳しいことがらは、専門家から学ばない限り、理解できるものではありません。ですから、学生は教官(指導医)を崇敬しないといけないのです。
古代では、医学生は、教官(指導医)にたいして、立派な息子であり、忠実な学生として振る舞うことを固く約束しなければなりませんでした。




(以上、「アーユルヴェーダ式育児学 アーユルヴェーダの基礎と小児科学」V•B•アタヴァレー著、潮田妙子/クリシュナ•U•K訳、春秋社、1994年発行 より引用)



医学生のあるべき姿が書かれています。
こういう細かいことまで書かれている事に驚きます。
チャラカと出てくるので、”チャラカサンヒター”に記載されているのでしょうか。

”チャラカサンヒター”ウィキペディアさん

どこの世界でも通用するような専門家のあるべき姿です。学び続けること、師を敬い忠節を誓うこと。

医学部の入学審査

2017-05-07 22:29:43 | 医学教育と理想的な医者
偉大な内科医チャラカは、「武器、学問、水は、それによって我々が恩恵をこうむるか否かは、使い手次第である」と言っています。
たとえば、人の命を救うことのできる医学知識や手術用具も、よこしまな人にかかれば人を殺す手段にもなりうるのです。
ですから、医学部の学生選考に際しては、学生の倫理・知性・身体の審査をすることが大切です。
なかでも、倫理観の審査には、いちばん重点がおかれるべきです。

学生が医学生として、また、臨床医として、苦難の道程を耐えていけるかどうかを判断するために、体質が健康か、知覚機能が正常か、特に念入りに検査しなければなりません。
知能が高いことも欠かせない条件です。というのは、種々の緊急事態に即座に対応し、問題点を把握し、人命を救わなければならないからです。




(以上、「アーユルヴェーダ式育児学 アーユルヴェーダの基礎と小児科学」V•B•アタヴァレー著、潮田妙子/クリシュナ•U•K訳、春秋社、1994年発行 より引用)



医学教育についてのアーユルヴェーダの考え方が書かれています。
医学は学んだ事がないので分からないのですが、日本の医学教育もこの様な定義(というのかな?)があるのでしょうか。

この後もしばらく医学教育等についての内容です。

輪廻(サンサーラ)

2017-05-05 21:18:23 | インド哲学
インド六派哲学は、輪廻(サンサーラ)という考え方を発展させてきました。
人にそなわっている我(アートマン)は、人の死によって消滅することはなく、死と再生を無限にくり返していくというのが輪廻の思想です。
人の運命を決めるのは、その人自身の行為以外のなにものでもないと考えています。
裕福な家に生まれるか貧しい家に生まれるか、健康か病弱か、成功するか失敗するかなどは、現世と過去世のその人の行為の見返りなのです。
だからといって、自分の運命を呪ったり、失敗しても落胆したりせず、信念を曲げず、正当な方法で目標を達成できるよう努力しつづけないといけないのです。
そうすれば、その結果が必ず自分の上に現れると説いています。

人の究極の目的は、輪廻も含め、すべての束縛から解き放たれ、永遠至高の幸福の状態であるモークシャに達成することです。
苦悩の根源的な原因であるあらゆる欲望と野望を捨てることと、自分のほんらいの姿を知ることによってしかモークシャに到達することはできません。
人の存在を支えているのは我(アートマン)であって、その人の身体(シャリーラ)や、感覚運動器官(インドリヤ)や、精神(マナス)ではないことに気づくことが大切です。

アーユルヴェーダは、正統派哲学の輪廻の思想を取り入れています。
しかし、哲学が精神面の健康を実際に向上させることだけを論じているのにたいし、アーユルヴェーダは、精神面だけでなく身体面への配慮も同等に重要であると考えています。
アーユルヴェーダによると、身心の健康に気をつけることが人の信仰心を生み出します。
健康を増進するものはすべて神聖で、健康を害するものはすべて神聖ではないとみなします。
肉体的に健康でなければ、求道者として自分を高め、人生の究極の目標に到達することはできません。



(以上、「アーユルヴェーダ式育児学 アーユルヴェーダの基礎と小児科学」V•B•アタヴァレー著、潮田妙子/クリシュナ•U•K訳、春秋社、1994年発行 より引用)



インド六派哲学の項がこれで終了です。
五派しか出てきていないのです。
残る一派はウィキペディアによると、”ミーマーンサー学派”でした。
詳しくはウィキペディアを参考にされてください!

ウィキペディアさん


私は仏教の学校に通っていたので授業で輪廻の話を聞きましたが、その時は「昔の人が言ってただけでしょう」という認識でした。
しかし、今は”我(アートマン)”が肉体が滅んでしまっても生き続けて、また肉体的に生まれ変わってくるのだと信じています。(”我”より”魂”の方がしっくりきます)

なぜそう信じるのか、一つは感覚的にとしか言いようがありません。
また、もう一つはアーユルヴェーダの勉強していてどれも素晴らしいなと思っているにも関わらず、ここだけは信じ難いと否定するのは筋が通らないと思うからです。アーユルヴェーダがそう説くのだから間違いないだろうと思うからです。

アーユルヴェーダがすべて正解であると断言することは出来ないかもしれません。(日本語訳への解釈の違いなども含め)
しかし、こちらのブログはアーユルヴェーダのお勉強ですからこの考え方を信じて学びたいと思います。