11. 近代西アジアの音楽とヨーロッパ音楽との交渉:トルコを中心に―DSRシルクロードの音楽
〘 オスマン帝国のイェニチェリ軍団と軍楽隊メヘテル
現在のトルコ共和国の前身、オスマン帝国(1300頃-1922)は、1453年にビザンツ帝国を破り、東洋と西洋、キリスト教世界とイスラーム教世界を結ぶ世界屈指の都イスタンブル(旧称コンスタンティノープル)を手中におさめた【図1】。東方や西方から往来する文物や人々を受け入れ、キリスト教徒やセファルド系ユダヤ人など多様な民族や宗教の存在と自治を認めたオスマン帝国は、スルタン(君主)を頂点とする中央集権体制を確立し、強大な軍事力を保持していたことでも知られている。その中心的役割を果たしたのがイェニチェリyeniçeriと呼ばれる親衛歩兵軍団であった。イェニチェリはオスマン軍の最精鋭部隊としてスルタンの護衛、首都の治安維持等にあたり、帝国の地中海世界への版図拡大の一翼をになっていった。
このイェニチェリが擁し、後にヨーロッパの音楽に大きな影響を与える役割を果たしたのが、先述のタブルハーネの系譜を受け継ぐ軍楽隊メヘテルmehter(メヘテルハーネmehterhaneとも云われる)である。…
…メヘテルのヨーロッパ軍楽への影響
メヘテルの響きは、オスマン帝国の西方への侵攻とともにヨーロッパへ伝わった。15世紀半ばにはバルカン半島一帯を、16世紀には中央ヨーロッパ、北アフリカを掌握したオスマン帝国は、1529年、1683年と二度にわたりウィーンを包囲し、ヨーロッパに「オスマンの衝撃」をもたらす。火砲の扱いに習熟し一糸乱れず行動するイェニチェリ軍団とそれにともなったメヘテルの音楽は、西欧の人々に恐れを与えると同時に興味をかきたてる存在となり、この「異国」の音楽は次第にヨーロッパ各国の宮廷や軍楽に取り込まれてゆくことになった。
1720年代初頭、ポーランド王アウグスト2世は、平和外交を展開していたスルタン、アフメト3世(在位1703-1730)より完全編成のメヘテルを贈られ、さらに1725年にはロシアの女帝アンナも、ズルナやダウル、キョスなど12~15名の奏者からなるオスマン軍楽隊をもらい受けた 。これに続き、オーストリアでオスマン式軍楽が採用され、プロイセンでもイスタンブルから本場の楽隊員が雇われることになる。世紀末には海を隔てた英国にもメヘテルの影響が及び、シンバルやダウル(いわゆるバス・ドラム)などの楽器が採用されてゆく。… 〙
東京藝術大学 音楽学部楽理科/大学院音楽文化学専攻音楽学分野
〘 …日本の陸海軍の軍楽隊は、明治2年(1869)から英国陸軍第10連隊軍楽長フェントンに伝習を受けた薩摩藩軍楽伝習生(サツマ・バンド)を母体として、明治4年(1871)に兵部省軍楽隊から分離発足し、昭和20年(1945)まで多くの人材を輩出しました。… 〙
〘 …黛敏郎「涅槃交響曲」
涅槃はサンスクリット語で『Nirvana』。ニルヴァーナというバンドも有名ですね。…
…鐘の音を分析してオーケストラで演奏
黛敏郎さんは、梵鐘(お寺に置いてある鐘)を打つ音を解析した上でその音をオーケストラにて再現するという手法も取りました。
上の曲 Gondwana と同じですが、1958年の当時は IRCAM も無く、スペクトル分析は出来ませんでした。その結果は 第1楽章 – カンパノロジー I でその音を聴くことが出来ます。… 〙