goo blog サービス終了のお知らせ 

恋哀心書

三十路になった『むるあ』の、現在や過去の恋愛や失恋、心境、想い出等をつらつらと書いていきたいと思います。

あなたは今、どんな人になりたいですか?

2004年07月16日 16時24分55秒 | 
連休や出張で更新されない日が増えそうなので、今のうちに色々更新(^^)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

突然ですが、あなたは今、なれるならどんな人になりたいですか?

そう質問した時、皆さんはどう答えるでしょう?

明るい人?
優しい人?
お金持ち?
スポーツマン? 

言葉の幅は広いですし、色んな言葉で指し示す事ができると思います。

「じゃあむるあは?」

そう問われたら、昔はきっと「強い心をもち、他人に優しい人」と答えていたかな?
勿論、そういう想いは今もあるのですが、現実に今同じ問いかけをされたら、自分はこう答えると思います。


【ラフ・メイカー】

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

これを聞いてピンと来る人も、「へ?」と思う人もいるかと思います。
(疑問符の方の方が多いかもしれませんね(^^;)

『ラフ・メイカー』とは、BUMP OF CHIKINというグループの歌のひとつです。
(ちなみにこの曲、なんとアルバムに入っていないんですよね(^^;)

どんな歌なのか、まずこちらを見て(聴いて)もらうといいかと思います。
(このFlashは某巨大掲示板系のものなので、その辺知らないと配役とかわかりにくいかもしれないですが、歌詞の意味は十分伝わるんじゃないかと思い、紹介しています)

歌の主人公、ラフ・メイカー。
悲しんでいる人に笑顔を持ってきたけれど、その相手の言葉に傷ついてすぐ泣いてしまう、そんな弱い主人公。
それでも笑顔になってほしいと諦めない主人公。
そして、最後まで自分らしさで行動し、その人に笑顔をもたらした主人公。

そんな、決して強くはないけれど、それでも誰かを笑顔にしてやりたい。
そういう気持ちを持つこの歌の主人公「ラフ・メイカー」に、自分はすごく憧れるようになりました。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

当たり前ですが、人は決して強くはないのです。
悲しんでしまうと笑顔を忘れてしまうかもしれないのです。
でも本当は、それでもささやかなきっかけで、笑顔を取り戻せます。
ただ、それを悲しんでいる人は、見つけられないだけ。
今回も、それをすごく痛感しました。

でももし、誰かが同じように落ちこみ、悲しんでいるそんな時。
できたら笑顔になるきっかけを、まるで勝手なお節介かもしれないけれど与えてあげたい。
弱くて不器用で、それでも思いやりあふれる彼のように、自分も弱いけれどなっていきたい。

それが、自分が今なりたいと思う自分です。
強くなくてもきっと、人のためになれるんだと、そう思うから。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

歌の話をどんな人の例えに出すなんて、笑う方もいるかもしれませんね。
でもそれでいいんです。
だって、それであなたは笑えたでしょ?
自分はそれで、幸せです(^^)

心の原点

2004年07月12日 16時53分34秒 | 
正直メンタル的にあんまり余裕がなく、でもネットゲームを離れて時間を持て余したときにしていたこと。
それは、音楽を聴く事でした。

悲しい曲、元気付けられる曲、誰かに想いを寄せる曲。
むるあの選曲はさまざまです。
(主に歌詞が好きだったり、それに見合う曲調がハマるものという、非常に感性的な選曲なので(^^;)

そんな中、ここ数年外せない曲が1曲あります。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

皆さんは『槇原敬之』さん(以下、ファンらしく「マッキー」と呼びます(苦笑))を知っていますか?

全盛期であれば『どんなときも。』『北風』『もう恋なんてしない』なんて曲は、耳にした事がある人も多いでしょう。
最近では『世界に1つだけの花』をSMAPに提供した事でも知られてます。
まあ後はよくない話なのですが、一時覚醒剤を使用していたことで知った方もいるでしょうか(--;

自分は高校時代くらいから、姉の影響でずっとマッキーの曲を聴いてきました。
元々自分はルックスも性格も自信のない人間で、マッキーの曲に多くある、そんな同じ印象の主人公が恋愛・失恋する曲っていうのが、すごく共感できたのですね。
一時知り合いに『俺の恋愛についての心の聖書』とまで言っていたことがありました(苦笑)

そんな彼が先の件で逮捕される前くらいから、彼の曲が今までと違うな、っていうのに気づいていました。
その辺で若干熱が落ち、そして逮捕。
昔の曲は聴けるけれども、好きだったアーティストをその理由で批判もされたりして、自分もマッキーから離れていました。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

逮捕から数年たって、ついに復帰の時。
彼が出したアルバム【太陽】は、全体的にいうと、昔らしさは若干失われていました。
それは自分にとって少しショックでした。

ただ、そんな折に聴いた、このアルバムのタイトルにもなっている曲【太陽】。
この曲を聴いた時に、自分自身にとってすごく衝撃的な印象を受けました。

以下はその歌詞の全文です。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

僕らにかかった雨雲は
すべてを隠し試した
信じたもの全て嘘にするなら
この雨をやませてやると

僕はそのとき思い返してた
あの夜風に追いやられ
逃げる雲さえきれいに染める
夕焼けを見たことを

美しさは変わらない
もしも変わるとすれば
それを映す人の気持ちが
変わるだけだから

何も求めずに 何も変わらずに
いつも僕らを照らす太陽を
この暗闇の中 雨に打たれながら
ずっと待ち続けた

そうして今僕は 明るい日差しの中で
ずぶぬれになった僕に
変わらない あのぬくもりを
また感じ始めていた


確かに一度も迷わずに
いられた訳じゃないんだ
疑うことで本当の事が
確かめられる事もある

例えばあの時の雨雲が
僕らにかからなければ
前より強いこの気持ちを
感じられていただろうか

誰かのための幸せを
当たり前のように祈りたい
今の僕に必要なのは
ただその一つだけ

何も求めずに 何も変わらずに
いつも僕らを照らす太陽を
この暗闇の中 雨に打たれながら
ずっと待ち続けた

そうして今僕は 明るい日差しの中で
このぬくもりをあたりまえに
感じていた僕に 初めて気付いた


今まで一度も自分に
嘘をついたことは無いか?
違うのに正しいと
やり過ごしたことは無かったか?

問いかけた時僕は気付く
喜びも悲しみも
自分がすべて選び心に
招き入れていることに

何も求めずに 何も変わらずに
いつも僕らを照らす太陽を
この暗闇の中 雨に打たれながら
ずっと待ち続けていた

当てのない不安で 容易く変わるような
ものを僕は もう信じたくない
僕の見上げた空に 太陽があるから

それがとても嬉しいから

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

人の心は当たり前ですが、不変的ではありません。
だから、弱くなる時もあるし、不安になる事もあります。
そして、安易にそこから逃げたくなる事もあります。
だけど、そんな時にでも、誰かを思いやり、いつか辛く悲しい雨が止むのを待って、温かい陽射しが射すのを信じ続けていく。
そして、何時も変わらない太陽のようになりたいと心に願う。
その想いを詩から感じ取り、曲として聴いた時、涙しそうになりました。

それくらい、自分の心に残った曲でした。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

今の自分の心の原点は、この曲です。

この歌の中にある歌詞に込められた想いを胸に刻んで、毎日を生きています。

昨日も何度となくこの曲を聴き、少しだけ心を軽く出来ました。
こういう支えになる曲があることを、自分は誇りに思いますし、こういう曲に出会えたことに、凄く感謝しています。

皆さんにとって、こういう心の原点になるような曲は、ありますか?

詩の想いは、たったひとつの言葉

2004年06月23日 15時08分37秒 | 
いやはや、昨日はなかなかドタドタしてましたのでまともに何も書けなかった(--;

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

最近は、もっぱら詩をUPすることが多いですが、詩を書く事自体は、結構前からやっていたりします。
目立って始めたのは初めてネットでサイトを運営した時かな?
小説歴よりはずっと短いのですが、実際小説よりも簡単に書ける印象、そして特にはまった型にはまる必要がない点などから、気軽にできるかな、と思いながら書きつづけて今に至ります。

そんな詩の数々ですが、自分は主にふたつの書き方をしていたりします。

ひとつは、思いの丈を物語にする。
描写的な詩は基本的にこの書き方をしていますね。
なんというのか、ふと見た景色とか、ふと触れた人の感情とかに対して思う事を、自分の頭の中で物語にしてしまうところがありまして(まあ、空想家なのです(苦笑))、そういうのをイメージして書くと、意外にすらりと書けるのですよね。

もうひとつは、なんとなく曲が頭に流れてくる時があって、それに合わせて書いているもの。
だいたい曲が流れてくる時って、派手派手しいロックとかはなくて、スローな感じの、なんか落ちついて聞けるようなものが多いのです。
それに合わせてふと思う感情をぶつけて書いていたりします。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

今までで書いた5編の詩。
実は過去に書いたものの転載もあるのですが、基本的に見ていくと、むるあが書きたいと思っているものひとつに行きつく事に気づくでしょうか?

その流れとは「元気になろう」「頑張って欲しい」といった想いだったりします。

時にふと気づいた事で元気になれる。
時に支えてあげたいと願う。

そんな気持ちをそのまま書き上げていくのが自分の詩のスタイルというか、個性になっています。

でも、変な話ですけど、詩って人それぞれで色々書き方も変わるし、それこそ落ちこんでブルーになっている時の詩とかも世の中には数多くある中で、自分は何故こういった詩にこだわるのか。
それには、実は理由があります。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

それは高校を卒業する頃の話。
自分は夢を追って上京を決意しました。
まあ、その夢というのは恥ずかしながら、ゲームのシナリオや小説なんかを書いてみたい、というものだったのですけどね(^^;

で、その話を両親はあまりよくは捉えませんでしたが、それでも長男だったのもあったりして、自由にやらせてあげたいからと了承を得ました。
ただ、その際ひとつだけ、母親が自分にお願いしてきたことがあります。

「そういう創作物を作る際、夢のないものは作らないで欲しい」

正直な話、詩だけではなく、小説、マンガ、アニメ、映画などなど、色んな物が世に出ていて、面白さを競おうと奇抜なものも多いです。
でも確かにそれが決してみていて気持ちいいものではない作品も多々あると思います。
そういう中で母親から言われたその一言は、自分の信念のひとつとして根付きました。

確かに面白いかもしれないけれど、人の心に傷しか残らないような物語とかはいや。
紆余曲折あってもハッピーエンドであって欲しいし、未来に希望があって欲しい。
そんな物語や詩を、以降は書いていました。
多分その一言がなかったら、こういう形の詩を書きつづけることも、できなかったんじゃないかな? と今でも思います。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

時代にあってないと言えば、それまでかもしれない考え方。
だけど。
折角何か書き、見てもらうなら、やっぱり何か感じるものが、できたら元気がでたり希望がもてるものであったらなぁ、と思いつつ、これからも頑張っていこうと思います(^^)

過去に戻ってやりなおせるなら

2004年06月17日 14時38分17秒 | 
むるあも人生29年。
色々あったわけです。
そんな中、よく人に聞くことがあります。

「あなたが今の記憶を持って、過去に戻りやりなおせるとしたらいつ?」

むるあも昔はこれについて色々考えたことがあります。
で、数年前くらいからかな。
ある時期をきっかけに、以降ずっとこう返すようになりました。

「戻らなくていいよ」

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

記憶を持って過去に戻れるって、すごく憧れるものだと思います。

例えば

「あの時告白出来なかったことを告白して、あわよくばその人と付き合いたい」
「あの日失敗したことを注意して成功させてやれば、俺もっとスゴイ人生歩めるかも」
「今ある知識で小学生から優等生になってやる」
「その日の勝ち馬覚えているから馬券で一儲けだ!」

などなど。
そう思う方は非常に多いと思いますし、自分もそう思ったことがあるので気持ちはよくわかります。

「じゃあ何故むるあは今でいいの?」

って思われるかもしれないですよね。
自分の人生も、全てが誇れて、自信があり、満足した人生ではなかったです。
失敗や過ちで後悔したりなんて頻繁で、贔屓目に見てもいいことばかりの人生ではなかったし、時期によってはすごくつらいことも多く、逃げたいと思ったことも多かったですからね。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

考え方の転機、っていうのにはふたつありました。

そのひとつであり根本は「IF」の考え方。

むるあって、いわゆるパチンコやスロットをやったりします。
勿論やっている人だとわかるのですけど、あくる日は大勝し、またあくる日は大敗したりもするんですよ。
それに合わせてお金も動きますから、正直よい趣味とはいえません(^^;

閑話休題。

そのパチンコやスロットで、こんなことがあります。
最初の台にお金をつぎ込んだけど出ず、残りのお金で仕方ないので、何気なく打った台で大当たり。
連続して当って、それまでの負けを取り返した。
こういう時、大抵の人がいうコメントがあります。

「あの時、あの台(注ぎこんだ台)に座らずに、この台(出た台)に先に座ってたらなぁ」

IFって大抵そういう、自分によく考えると思うのですよ。
じゃあ、このIFが叶い、もしこの人が、最初から出た台に座っていたら、快勝できたのでしょうか?

自分はそうなるとは限らない、と思っているんですね。
パチンコって、玉がある場所を通ってデジタルを回す瞬間に大当たりするか決めています。

最初の流れとIFの流れって、結局その玉がデジタルを回すタイミングって違うのですよね。
最初にはまった台を打った時間がないのだから。
そうすると、IFで考えていたいいイメージに、ならないこともあるのですね。

一応言っておくと、勿論予想以上の成果を上げる可能性もあります。
ただそれで勝ったのは=先ほどと同じIFではないのですよ。
たまたま違うタイミングでの当りを引いただけ。
つまり、思ったイメージの通りにやりなおしても、同じになることはないし、イメージ通りにならないことも普通にあるんです。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

そして、先のIFの概念を踏まえて、自分はもうひとつこう考えました。

「これは、人の出会いも、自分の性格も、変えてしまうことになる」

ということ。

例えば過去に戻って競馬で大金をゲットしたとしましょう。
その瞬間に、人生って変わってしまうのですよ。

それはどういうことか。
先ほどのIFの話と一緒で、なかった時間が生まれたり、あった時間がなくなります。
過去では本来負けていたとしたら、換金せずにまっすぐ帰っていた。
しかし、当ったら、換金しますよね? そのお金で何か買おうとしますよね?
そう思う瞬間に、もう過去とは変わっているのです。

「いいほうに変わったからいいんじゃないの?」

と言われるかもしれません。
でも本当にそうでしょうか?

例えばお金を得た、という意味ではいいかもしれないですよね。
でもそれにより、それまでの現実とは同じ行動が取れないということは、その後出会えたはずの人と出会えなくなったりするかもしれないということなんですよね。

今まで出会った人との出会いや、友達・親友との語らい。
それにより思い、感じてきたこと。
それらが変わってしまうということなんですよ。

自分は親友と呼ぶ人間がそこそこいます。
勿論その人達には色んなことを語り、語られ、その先で性格的にも、行動的にも影響を受けたりしてきたのです。
そして今の自分がある。

それは、同時に自分が辛いことも逃げたいことも悩んだことも乗り越えて得た、仲間や親友のおかげで今の自分があるということ。
なんていうのか、そういう過去に戻る行為って、それらがまた得られるわけじゃない哀しさもあるし、何よりその人達と歩んだ人生を否定した気持ちになるんですよね。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

細かいことを言えば、いくらだって後悔をしてきました。
悩みも苦しみもありました。

だけど今、過去を思ってそのどれもを、あまり後悔はしなくなりました。
当時は後悔したし悩んだけれど、それも自分の人生だと、思えるようになりましたから。

だから、今もむるあは自分らしく生きています。
過去に戻ることなんて考えないで、自分をこうしてくれた人達に感謝して。

……ちょっと変わった考え方かもしれませんね(^^;
勿論これがいい考えとは思いません。
それぞれの育った環境や状況で変わりますからね。
ただ、変わっているのもまた、自分なんだろうなぁと笑えるからこそ、自分は頑張っていけるのかな? なんて思います。

類は友を呼ぶ

2004年06月10日 10時31分53秒 | 
今日は若干落ちついているようなので、また色々書いていきたいなと思います(^^)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

さて、みなさんも色々と人と交流する事があると思うんですが。
なんとなく「似たもの同士が集ったんじゃ?」と思うことってありませんか?

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

過去にむるあもこういう経験は何度か感じた事があります。

まず専門学校時代。
まあ、当時は結構いい「オタク」だったむるあは、当時も今の比じゃないくらいゲームにはまっていた時期でして、専門学校でもゲームのシナリオ関係のコースを選択していました。

その専門学校は多岐に手を広げていて、映像やら音楽やらといった科やコースも多かったんです。
しかも規模が結構大きかった。
(全体で2000人以上だったかな?)

で、専門学校入学してすぐ、全体の交流会みないな旅行がありまして、そこでなんかコミュニケーションを他の科の人ともとるようにと、変な交流イベントっていうか、お遊戯会っていうか、集会っていうか(汗)をやることになったのですよ。

その際、各科からランダムで人を選んでグループリーダーにし、周囲の人達が「この人だ!」と思う人のところに寄っていって、10人だかのグループになるってのがあったのです。

自分は地元から一緒に出てきた友達二人と友に、リーダーを品定め。
で「あの人に行こう!」って決めた人にダッシュ!
こうしてできたグループメンバーは、違う科の人もいるのにゲーム好きな人ばかりでした(^^;

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

ネットでサイト始めた時もそうかな。

若い頃始めたサイト(今は閉鎖)は、趣味系サイトでそれらの趣味を持った人が勿論多いわけですけど、当時まだ若い(といっても23かな)時期でしたけど、その年齢に近い人達が集ったわけです。

で、現在運営している、明日で2周年になるサイトも、同じように趣味系なのですけど、集った年代の人は、圧倒的に既婚者や近い年齢の人がやっぱり多い。

ネットゲームは、出逢いの質はちょっと違いますが(元々が同じゲーウをやるって意思がありますから、その中でも様々な人といきなり会うことが多い)、時間が経つと、交流を深めている人ってやっぱり、自分にどこかあった感じで、考え方が近い人とメインになったりもします。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

偶然のように見えて、実はこれらって必然なのかな? と最近は思うようになりました。

例えばむるあの場合、お気に入りのブログ選んだりする時もそうですけど、文章としてそこそこ落ちついて見られるサイトやブログが好きなんですね。
なんか弾けているというか、元気過ぎるところは申し訳ないけれど避ける傾向にあります。
やっぱり年齢が年齢になってきて、昔は随分はっちゃけていた? のですけど、やっぱり精神的に落ちついてきた部分ってのも多々ありますしね。

で、そうやって巡回していくと、やっぱり同じような感じの、話したり交流していて考えに納得がいったり、諭されて「ああ、そうか」なんて思うことが多かったり、読んで癒されたり、なんてのを感じる事が多い人達だったりするのですよ。
きっとこれが「類が友を呼ぶ」のかなぁ? なんて考えたりします。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

でも面白い話で

「類は友を呼ぶ」

の意味は一般的には

「似かよった傾向をもつ者は自然と集まるもの」
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

なのですけど、実は……

◆類
性質・性格などが似ていること。また、そのもの。また、類似したものをくくった集まり。
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

と、実はもうこの漢字だけで意味はほとんど同じなのですよね(^^;
で、友とは

◆友
(1)親しく交わる人。ともだち。友人。朋友(ほうゆう)。
「竹馬(ちくば)の―」「昨日の敵は今日の―」
(2)志を同じくする人。同志。
「世界の―よ手をつなごう」
(3)常に好んで親しんでいる物。
「書物を―とする」
(4)道づれ。なかま。
「月を旅路の―とする」
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

……と、もっと親しい間柄の仲間を指す。
つまり、本当は

「似たもの同士が集まる中で、親しい友が出来るんだよ」

というのが正しい意味なんじゃないかな? と思います。

きっと皆さんも何時の間にかこういう経験をしているんじゃないかな?
 と思うと同時に、今後もあるであろう「類」との交流で是非「友」を見つけてもらえたら、とむるあは思うのでありました(^^)

点が線となり縁となる

2004年06月07日 14時20分23秒 | 
なんとなく心当たりがある方も、そんな時期を感じた事がある人も、という、そんなお話。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

コミュニケーションの手段っていうのも、世の中色々増えました。

昔だったら会う以外なら電話や手紙、となるわけですけど、今はそこにインターネットができ、PCや携帯電話なんかの文明の利器が生まれたのも相成って、同じ電話でもテレビ電話、手紙もメールとなり、ネットならチャットやメッセンジャー、そして各サイトの掲示板やblogなど、色んな手段が生まれましたよね。

そんな中で、サイトやblogっていうのはちょっと異質で、やろうと思った人が立ち上げるという能動的な部分と、それを見てもらい返事をくれるのを待つ、という受動的な部分があります。
(メールや携帯はそれがバランスよくあるものだと思いますし、いきなり知らない人との交流とはなりませんしね)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

自分もお気に入りブログさんを探すために、気になるブログ記事に目を通す事が多いのですけど、ちょっと気になる事があります。

blogをちゃんと知らずに始めた方々は、意外に「初めてすぐ誰かの目に止まって、コメントやTrackbackもらえるんじゃないか」と思っている人って多いんじゃないかな? ということ。

実際、その探す際に覗いて、その手のコメントが書かれていたりするのをたまに見かけますし、また見た時に実際コメントされていない、Trackbackもない、というような所もあります。
そうなると、やっぱり人ってヤル気が落ちてしまい、そのまま辞めてしまう、って方も多いと思うんです。

まあ、気軽にやって、気軽に辞められるのがblogなのかもしれないし、サイトなのかもしれないですけど、やっぱりそれって寂しいですよね。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

実際むるあはこのblog、自分の別HNのサイトと、ふたつを掛け持ちしています。
実際言うと、それ以前にサイト運営していた事もありますので、経験は長いほうかな?

だから、昔は同じように上のような期待を持ったりもしていました。
初めて何かをするときって、期待と不安はあるけれど、その中でも特に期待って言うのが最初は大きいですもん。
ただ、やはり経験していくとわかるのですけど、それでもそううまくはいかないものだってのも、よくわかっているんです。

むるあはそういう経験から、こう考えるようになりました。

「今このblogを始めた事は、紙に点を打っただけなんだ」

自分の点。そして他人の点。
これを結ぶには、どちらかが行動を起こさないと結ばれないんです。
勿論偶然のきっかけで結びつく事もあるけれど、それでもその結びつくための文章を書くには、やっぱり行動がいるわけです。

勿論それを待つ事は出来ます。
だけど、待っているだけで広がるかというと、そうじゃない。
コメント書いてもらっても放置していたら、きっと離れていってしまう人もいるはずです。
そういう人達とコミュニケーションとなるコメントとかを交えていくことで、初めて点が線になると思うのですよ。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

結構そういうことを考えると、面倒くさいと思う人もいるかもしれないですね。
だけど、きっと始める時「誰も見ていなくても、こなくてもいい」と思って始めている人はいないはずです。
だって、それだったらネットでなく、自宅のPCでメモ帳に日記を書いて、目のつかないところに置いておけばいいんですもん。

なんらかの形で目に付くようなところに書いているってことは、きっと「誰かに見て欲しい」「できたら共感して欲しい」という気持ちがあるから、だと思うんです。

点を線にするのは実際、勇気もいりますし、手間もあります。
自分もサイト運営がそうです。

サイトにリンクした方のところへは、数が多くて毎日とはいきませんけど、極力訪問して、日記に書かれたことへの感想などを書きこむようにしています。

だけど、同じサイト仲間とオフなんかで会って話した時によく言われたのは「むるあさんマメだよね~」ってことでした。
覗き逃げとかはすることも多いけれど、訪問しても書きにくい日記の人とかのところでもちゃんと書いているし、訪問しているなんて、って驚かれるんですよ。

ただ、むるあはその時言うのは、リンクした以上余程の事がない限り、やっぱり出来る限り訪問してあげたいのですよ。
管理人しているから、何かコメントや書きこみのある時、しかもその内容が日記など、自分の書いたものに関係したものだったら、それはとても嬉しいってことを知ってますからね。
と同時に、そうやって書きこんでくれる人のところなら、余程嫌な感じのサイトじゃなければ、たまには見に行ってあげたい、と思ってもらえるかな? と思うのです。

今回のblogも、実は主に自分が「トラバdeお気に入り紹介」をしたり、それこそ訪問してコメントした方がコメントしてくださる事が多いんですね。
だけど、例えばできたばかりとはいえ、自分として埋もれさせておくのはもったいないし、その方々が少しでも他の方の目に付くし、それこそ、自分も誰との交流もないのは嫌ですから、できれば点を線にしたいと思ってそうした結果とも、思っています。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

点は線になります。
そしてその線でまた別の方が興味を持ち、そこで新たな線が出来る。
そうしていくと、知らぬ間に、雨が川になりやがて海で繋がるように、点同士が線となり、やがて円となり、交流が広がり、それこそ求めていたblog関係に近づくんじゃないかなと、むるあは思います。

みなさん全てにその気持ちを持って欲しい、とは言いにくいですけど、できたらひとつ勇気を振り絞って、点を線としてみてはいかがでしょうか?
そうすることで、幾重にも重なり、繋がる縁を得る事が出来るかもしれないですよ。

初心者さんも、交流もないしblogを辞めようと思っている方も、是非頑張っていってほしいなと思います。
むるあ程度の人間でもそんな勇気が持てるのだから、皆さんにもできますよ(^^)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

ちなみにここだけの話、むるあはお陰でネットでの交流からも、何人かの親友を作る事が出来ました。
すごくそういう縁に感謝してますし、同時にこれからもそういう縁を広げていけたらな、なんて思います(^^)

文章は長くも短くも言葉ありき

2004年06月01日 17時07分39秒 | 
なんかタイトルだけ見るとすごいこと書きそうに見えますが、そんなことはありません(苦笑)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

今日でblogを始めて1週間が経ちました。
その中で書いた記事の数はこの記事除き、ブログ説明も含めると18あります。
休みは書いていないので、実質5日間でこれ。
……書き過ぎですな(汗)

しかも、説明系を除き、読み返すと結構な長文が多いんですよね(^^;
まあ、自分で何度もまとめが下手、と断言しているのもあるんですが、結構自分のサイトでも長文を書く癖があるってのもあります。

まとめが下手なんで伝えたい事が伝わらないんじゃ……と考えて、余計な文章も多いんだと思うんですけどね(^^;

だけど、色々ブログさんを見ていると、それこそニュース紹介含め1日2~3行でさらりと終わられる方もいらっしゃいますよね。
そういう方を見ると、「簡潔に書ける方っていいよね」という憧れと、先にも話した「思ったことは伝えられたのかな?」と思う部分を感じます。

とはいえ、どちらも文章なんですよね。
きっとその文字の中で、自分は何かを語った、伝えた、と満足するまでの文字数が違うだけなんだろうなぁ、と。

ただ、ブログ上どうなんでしょうねぇ。
短い方がいいのか、長いほうがいいのか。
勿論各ブログさんの管理人さんによるところがあるわけですが、皆さんはどう感じていて、どうしていきたいと思っているのか、ちょっと興味があったりもしますが、いかがでしょう?


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

ちなみに「むるあのブログ記事数が多いのか?」という話になると、それは大した理由はなく、単にこういうのを書いたり語るのが好きなだけなんです(^^;

いや、自己紹介でもちらりと触れましたけど、別にサイトを持っていますんで、そっちでは違う日記を書いているのですね。
同じように長文だったりしますけど(^^;

ただ、サイトでの日記って、その日1度しか書かないものって印象があるんです。
一応2~3度書けるCGI使ってますけど、なんかそれって違うよっていうか、むるあとしては、厳選したひとつの話を用意して書く、という感じなのです。

でも、そこで溢れてしまった話とか、過去の話とかは書きにくい。
でもブログなら、書き連ねるだけ書き連ねてもいいんじゃないかな? と思って、今のように時間があれば何か思う事を書いていたりします。

まめに読んでくれる方がいたとしたら、それこそ迷惑極まりないかもしれないですけどね(苦笑)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

とにかく色々と、文字も記事も多いブログですが、せっかく自分は生きていて、文字を書いたり話したりできるのだから、たくさん書いて、たくさん話して、それで少しでも自分のことを知って欲しいし、相手に何かを伝えていきたい。
そんな我侭な人間なので、きっと今後も長文・多筆は避けられないかと思いますがご容赦を(^^;

でも、男でここまで長文ばかりって、実はサイトでの交流相手でもそうそういないのですよね。
やっぱりレアなんだろうか?(汗)

笑顔の行方

2004年05月28日 11時51分52秒 | 
皆さん、ファミレスやコンビニ、その他色々お店や遊び場に入ったりしたとき、店員さんと顔を合わせると思います。

で、店員さんと顔を合わせるとき、店員さんの雰囲気がそこでよくわかると思うのはむるあだけでしょうかね?

昨日のコミュニケーションの話じゃないですが、マニュアル通りの仕事をしていても、視線合わせず笑顔もない店員と、逆に視線も合わせるし自然に笑顔も見せる店員といます。

勿論後者の方が自分にとっては好印象なのですが、これって実は、店員側としても同じことを感じたりするもんなんですよね。

何気なくファミレスで物を買っても、自分からレジの値段とかにだけ視線を向けて、店員さんを見ていないとしたら、きっと店員さんからすれば、何も気にかけないかもしれないですが、もし同じように視線を合わせ、買ったものを受け取った時に笑顔でお礼の言葉を口にしたら、きっと店員さんもちょっと嬉しい気持ちになったりすると思うんです。

ちなみにむるあは過去にファミレスのウェイターや、古本屋の店員なんかをしたことがあります。

対人的に成長したいってのが当時ありまして、専門学校時代にやっていたのですけど、某チェーン系ファミレス時代にはこんな話がありました。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

ウェイターって、マニュアルにお客さんのいる席で注文受けたりした後、席を離れる前に「失礼します」と会釈するように書かれているんですよ。
で、むるあはいつも先輩に「会釈に無駄が多い(=深過ぎる)」って言われていたのですけど、自分は癖になっていてなかなか直らなかったんですね。
ただ、その代わりお客さん相手には極力視線も合わせるようにしたり、笑顔で接客したりしておりました。

あくる日、いわゆるお客様カード(あの店員はどうたら、みたいなのを書くはがきとかですね)が店の本社から届きまして。

すると、それを控え室で見た職場仲間が、まだ仕事中で見られない自分に「お前のことが書かれているよ」と言いにきまして。
仕事が終わったところでそれを見てみたんですね。

とあるお客様からの内容だったのですが

「この間店に来た時に、注文を受けてくれた店員さんの態度が良かったです。
 笑顔だったし、席に来たり離れたりするときも深々と頭を下げてくれて、とても好感が持てました。」

といった内容のものでした。
それを読んで、自分もすごく嬉しかったし、同時に頑張っていきたいな、とも思ったものです。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

常に作り笑いでなく笑顔を向けることや、相手にそういったもので好感を持たせていくのは大変だと思います。
でも、それによってこういう風に、相手も気持ちよくなれたりするし、自分もされたら気持ちいい、ということは多々あると思います。

皆さんも、できたらこういう風な態度を心がけると、思いがけない出逢いなんかも出てくるかもしれませんよ?

「え? そんなヌルい話ないだろ?」

って?

いやいや、世の中ってのは、なさそうな事があるから面白いものなんですよ(笑)
実際、むるあが経験した恋のひとつはそこから生まれましたから(^^;

というわけで、次回はとりあえず(やっと?)、過去のひとつの恋話でもお送りしようと思います(笑)

期待しないでお待ち下さい(^^;

コミュニケーション

2004年05月27日 16時10分27秒 | 
ブログや日記、掲示板やメール、そして電話や、それこそ会って話したりすることって、避けては通れないですよね。

勿論それらが得意か苦手かっていうのはあると思います。
かくいう自分は、コミュニケーションは苦手ではないのですが、やっぱり常に、接し方や文章で悩んだりします。

例えば人と話すときに、きつい言い回しになっていないか、我侭な発言をしてないか、まだ会ったばかりなのに馴れ馴れしくなっていないか、といったことは常に考えます。

勿論言葉だけでなく表情や、目を合わせて話そうとすることも極力していくことで、少しでも自分が伝えたい事をきっちり伝え、マナーとしても相手に変に思われないようにしたいな、と考えつつ、行動すること多いです。

文章にしてもそう。

例えば、むるあは簡単な顔文字を、文章のコミュニケーションではそこそこ使います。
これは表情の見えない相手に、自分は笑ってますよ、とか、そういう意思表示をすることで相手に擬似的に表情を伝えて、少しでもリアルなコミュニケーションに近づけたいな、と思うからです。

ちなみに、極力使わないようにしているのは、

(w

ですね。
今となっては一般的で、ネットゲーム始め、メッセンジャーやメールでもよく見られると思うのですが、むるあはこれが苦手なんです。

というのも、これって笑っている意味にとれるのと同時に、嘲笑として使われる事も多い顔文字だからです。
自分は普通に笑っていても、相手にこれをしたとき、前にある文章次第ではどうしても、相手を嘲笑しているように取られかねないこともあります。
そういうのはやっぱり、相手も気分は良くないかな、と思うのです。

閑話休題。

これだけ色々考えてコミュニケーションしていると、やっぱり時として疲れます。
まあ、得意ってわけじゃないので、やっぱり大変だな、と思うことは多いです(^^;

実際そういう大変さが面倒くさくて、コミュニケーションなんてしたくない、って思う人もいるかと思います。
自分もたまに考えたりする事もありますし。

でも、同時にむるあは経験則から思うのですけど、コミュニケーションって、すればするだけ人を成長させるし、新たな発見も多いんですよ。

実際専門学校を卒業して社会人になって以降、むるあも接する相手は専門学校時代以前の知りあいばかりでした。
新たな人と接する機会もなく、また同じく上京していたその仲間も実家に戻ったりして、そういう仲間ですら接する機会は減っていっていました。

でも、たまたま趣味に関してサイトを運営し始めて、もうすぐ2年になるのですが、そのサイトを通じて、ネットからではありますが、色んな人と出逢い、オフなどで実際に会ったりもして、その中で新たに親友や友達が生まれ、色んな経験をいっしょにしたり、色んな話をして、成長させてもらう事が多々ありました。

こういう経験って、なかなか自分から動かないとできないと思うんですよ。
モテル人とかは別かもしれないですけど(苦笑)

どうしても得手不得手もあるし、新たに出会う人との中で、よい面だけでなく悪い面なんかも見て傷つくこともあると思います。
だけど、同時に自分にとってとてもプラスになる人が現れる事もあるかもしれない。

そういう意味で、むるあは是非、皆さんも勇気を出して、新たなコミュニケーションを結ぶ一歩を踏み出して欲しいな、と思います(^^)