(前回の続きから・・・・)
毎日同じことを、口をすっぱくして言い続けても、
ささっと宿題に取り掛かれない子供たち。
遊びたいだけ遊んで、自分たちのやるべきことをおろそかにするなんて・・・
と、私は子供たちの『困った』行動に、頭を抱えていました。
でも、毎日毎日この状況が繰り返される中で、
私はあるとき、ふと思ったのです。
何かが、違う。と。
それまで、私は、いくら声をかけても宿題にスムーズに取り掛かれない子供たちの行動を、かなり問題視していました。
どうしたら、私が声をかけなくても、自分から進んで宿題に取り掛かれるようになるのか。
どんな言葉をかけたら、この子達はやる気を起こすのか。
でも、何かが違う。
果たして本当に、子供たちだけの問題なのだろうか?
宿題にスムーズに取り掛からない子供たちのことを、
『困った』ものとしてみているけれど、
じゃあ、毎日がみがみ同じことを繰り返し言う私の行動は?
全く問題ないといえる?
子供たちのあり方ばかりに向いていた目を、
そこで始めて、自分自身に向けました。
なぜ私は、口をすっぱくしながら、
何度も何度も『宿題は?』『明日の用意は?』と言い続けているのか。
宿題を忘れたら、学校で困るだろう。
忘れ物をしたら、授業が出来なくて困るだろう。
だから言う。
言われないとやらない。
言われてもなかなかやれない。
だからやるまで言い続ける。
われながら、あまりの過保護さに驚きました。
外で子供が困らないように、先回りして、声をかけて・・・・
子供のためを思ってしていたことが、
実は、
子供をだめにしていることだと気づきました。
親が先回りして、声をかけて、
子供が転ばないように、つまづかないように、
背中におぶって歩くような。
背中におぶわれたままの子は、
転ぶことも、つまづくこともしない代わりに、
自分の歩く道を覚えず、
歩き方も覚えず、
自力で立つことすら、しようとしなくなるでしょう。
私は声をかけすぎたのです。
もしかしたら、
私がいくら言っても子供たちが宿題に取り掛かろうとしないのは、
自分で歩こうと、私の背中から降りたがっていたからなのかもしれません。
宿題をせずに学校に行って、
先生に注意されることや、お友達の前で恥ずかしい思いをすること、授業で気まずい思いをすることも、ひとつの『経験』。
それも、自分の身を持って体験しないと、
決して身につかないもの。
それを根こそぎ削除した道を歩かせようとしていました。
辛い思いや、嫌な思いは出来るだけさせたくないと願う、
いわゆる『親心』と言うやつで。
嫌な思いをすることが、子供をだめにするのではなく、
子供が自分で考えて行動する機会を奪うことが、
その子のもっている行動力や、考える力を乏しくし、
自立できない子にしてしまうのだと言うことを、改めて感じました。
親が先回りし、声をかければかけるほど、
子供は自分で考えることをやめ、
自分で動くことをやめていくのだと。
そして私は、
それまで毎日のように『宿題は?』『明日の用意は?』と、
がみがみ言い続けていたのを、止めてみることにしました。
(またまたつづく・・・・)