(前回の続きから・・・)
その日、私は子供たちに、
『宿題は?』『明日の用意は?』
と、一言もいいませんでした。
そして、この『何も言わない』と言う行為が、
とても難しいことに気づきました。
がみがみ言うことが、習慣づいてしまっているので、
つい、何か言いたくなってしまうのです。
そこをぐっとこらえ、
子供たちを見守る。
子供たちがちゃんと自分で、やろうとするかどうか、
私が『やらせる』のではなく、
自ら『やろう』と動けるかどうか、
子供の自立を、
『信じて、見守る』
案の定、子供たちは、外遊びから帰ってきた後、
テレビを見て、ご飯を食べて、またテレビを見て・・・・
なかなか動く気配が感じられません。
私は気になって、そわそわしながら、
でも、声をかけるのをぐっと我慢。
しばらくして、子供たちがふっと立ち上がりました。
そして、自ら自分たちの学習机まで行き、机に向かい始めました。
ちゃんと宿題をして、次の日の用意もして・・・・
自分たちが見たいアニメを見終わった後の行動でした。
ああ、
ちゃんと分かってるんだ。
自分たちがするべきことは何なのか。
この子達はちゃんと分かっていたのだ。
自分たちのペースで、
一つ一つをこなしていこうとしていたのだ。
私は、私のペースに子供たちを合わせようとしていたのだ。
『先に宿題をやってからテレビ』
そのほうが、気兼ねなく、ゆっくりテレビを楽しめるでしょう。
やることやらないんだったら、テレビ見せないからね。
・・・・・・
ママのペースに合わせるのは、しんどかったろうな。
子供たちの『遊びたい』気持ちを尊重してる、
なんていいながら、
君たちが、
ママの言うとおりに動いてくれないと、すぐに怒っていた。
宿題をしていかなかったら、君たちが困るだろうと思っていたけれど、
本当に困るのはきっと、君たちではなく、ママのほうだった。
宿題をちゃんとさせてない親って見られるのはいやだったし、
学校でいるものもちゃんと用意できない親だって思われるのもいやだった。
ママは、ママの世間体や、自己中心的な心で、
君たちをママの思い通りに動かしたかっただけなのだ。
君たちは、ママの操り人形ではないのに。
本当に、ごめん。
子供たちのことを思う気持ちに嘘はない。
けれど、
子供たちのことを思うあまり、
つい、『ああしなさい』『こうしなさい』と、
私が『いい』と思っているレールのうえを、歩かせてしまいたくなってしまうのです。
そして、私の言うとおりに歩いてくれる子供たちを見て、
私の『親』としての心が満たされる。
でも、それはやっぱり、違うのです。
そんなのはきっと『子育て』とは言わない。
子供を親の言うとおりに動かすことで、
自らの『親心』を満たそうとしてしまいがちな私は、
まだまだ、『親』としての成長が足りないのだと痛感しました。
でも、それに気づけたことは、
すごくありがたい。
『気づく』ことが出来れば、
そこからまた、伸びていけるから。
私がこれからすべきことは、
子供たちの足元にせっせとレールを作ってやることではなく、
子供たちをおぶって歩くことでもない。
私が『親』として本当にすべきことは、
子供たちが、自らの手で『道』を作り、
自らの足で、その『道』を歩いていく姿を、
信じて、見守ること。
子供たちが、自分で考え、行動する力を身につけるために。