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CubとSRと

ただの日記

「岸信介かく語りき」より (3回目)

2020年05月20日 | 心の持ち様
2016.07/20 (Wed)

 前回に引き続き、 「月刊Hanada」8月号掲載の、
 「巣鴨プリズン、60年安保、そして家族のこと・・・・『岸信介かく語りき』」 (聞き手 加治悦子)
 から3回目の転載です。もう一回で終わる予定です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「憲法は時勢に合わせて改正」

  もう一つ、大きな政治上の決断を要することがあったんです。誰がやるか知らんけど、憲法改正です。いまの日本憲法はですよ、アメリカが日本に押しつけた憲法であって、その内容は、日本に不適当な条項がたくさんある。
 一つの問題として靖國神社の国家護持がありますね。靖國神社は国家護持しなきゃ、ならん。
 ところが、国家護持する法律を作れば、政府は特殊の宗教団体を保護できないという、憲法の規定がある。
 それからいまの憲法九条で、いったい、自衛隊が憲法違反であるか、どうか。
 いまの自衛隊は、憲法違反ですよ。しかし、国防そのものがだな、憲法に違反するような憲法がですよ、そっちのほうが正しくないと思うんですよ。

 とにかく都合の悪いところは、憲法違反でも、仕方がないから、政府の解釈として押し通すようなことになりますとね。憲法そのものの権威がなくなる。やっぱり、憲法を改正して、日本を正しい姿にしなきゃいかん。これは誰がやるか知らんけど、非常な決断を要する。どうしてもやらなきゃいけない問題です。

 私は総理になる前からね、憲法改正をやるつもりだったんですよ。
 憲法改正をやらなきゃ、いかんですよ。明治憲法以来、日本には憲法ちゅうものは「不磨の大典」だ、手をつけちゃいかんというような考えがある。だが、世界中、三十年間、憲法を一字一句直さないっちゅうのは、日本だけなんだ。三十年間、時勢は変わってるでしょう。国の憲法なんちゅうのは、時勢に合うようにどんどん改正していくんですよ。

 ところが、日本じゃ、いわゆる護憲勢力という社会党や、共産党の連中がだな、憲法制定のときには、国会内で反対したのは、社会党と共産党なのにね。賛成したのは自民党の連中なんで、革新政党はみんな反対したんですよ。それがこのごろ護憲運動の中心になっとってね(笑)
 共産党の天下になったら、こんな憲法なんか、すぐ変えますよ。だから、憲法の護憲運動やってるやつの考え方は、いかがわしい。おかしいんだな。

                    (転載了)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 二つだけ。
 ・明治憲法以来、日本には憲法ちゅうものは「不磨の大典」だ、手をつけちゃいかんというような考えがある。
 ・いわゆる護憲勢力という社会党や、共産党が、憲法制定のときには、国会内で反対したのに、このごろ護憲運動の中心になっとってね。
 
 「不磨の大典」。明治憲法は欽定憲法(君主の作った=天皇にいただいた)ということで、制定された時、提灯行列をして祝ったところが多くあったそうです。
 「とにかく天皇陛下が民草に下されたのだ。有り難いことだ」という捉え方。戦後の憲法も同じだ、と国民は思っているということですね。
 「そんなことはない。現憲法は我々国民の意思で作ったものだ」と言われる人もあるかもしれない。
 けど、現憲法(と言われるもの)は英語で書かれたものであり、御名御璽があるからと言っても、占領下、これの受け入れを拒否する権利はあった、なんて考えるのは能天気過ぎますよね。

 「押しつけだって良いものは良い。それでいいじゃないか。九条は世界に誇れる。ノーベル平和賞の価値がある。」
 これを「奴隷の平和」って言うんじゃないですか?独立国家なら、現憲法が良いというのなら、占領下でない今、もう一度同じものを制定すればいいじゃないですか。

 「共産党はぶれない。敗戦後、ずっと一貫している」
 はい、うそでした。現憲法を定めようとする時は反対したのに、今、「変えよう」と提案すると、今度は「憲法を守れ」。
 確かに、ある意味一貫してますけどね。
 「社会体制を変えよう(=革命)と思ってるのに。今(は)賛成だと言って置かなきゃ社会全体をひっくり返すことができないじゃないか」
 「全ては革命のために」、ですか。
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「岸信介かく語りき」より (2回目)

2020年05月20日 | 心の持ち様
2016.07/17 (Sun)

 前回に引き続き、 「月刊Hanada」8月号掲載の、
 「巣鴨プリズン、60年安保、そして家族のこと・・・・『岸信介かく語りき』」 (聞き手 加治悦子)
 から転載です。(この章は全文転載)

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 「国民の大部分は声なき声」
                           
 その時に、ちょうど大臣が全員おりましたから、各大臣はそれぞれ責任もっとる役所があるから、もうお帰りなさいと言った。
 みんなだんだん各省に戻ったが、弟(注・佐藤栄作)だけが残りましてね。
 「兄さん、ここで一緒に死のうじゃないか」ちゅうんだ。
 弟がブランデーを持って来てね。それを飲みながら、というような状態だったよ。

 デモがあまり騒ぐんで、党からも幹事長が川島(正次郎)君だったが、川島君から
 「安保条約が成立したら辞めると、声明してください。そうすりゃ治まる」
と言う。
 私は
 「そんな馬鹿なことを、言えるものか。俺は死ぬまでやる」
 と、叱りつけたんです。
 やっぱり総理としては最後の瞬間までね、身をあげて死ぬまでやるんだっていう形を示すことが、必要なんですよ。前もっていつになったら辞める、これを言ったら、辞めるちゅうことを言うたらね、総理の権威はなくなる。
 新安保条約が国会の議決をして成立して、批准書を交換しなきゃならん。

 ところが、デモが邪魔したらいかんというので、苦心して宮中で陛下のご署名をいただいて、それを持って帰って、外務大臣の官邸で交換するということになった。それができたので、私は辞めると宣言しましてね。
 総理大臣官邸とか、国会をとりまくデモですよ、樺美智子がデモ隊に踏みつぶされて死んだとかいう状態を見るとね、実に激しい状態でね。いまにでも、革命か内乱かが、起こりそうな状態であるように、新聞、雑誌なんかも書きたてた。
 私はそれに対して、なんでもないんだ、つくられた一部のデモが、総理大臣官邸と国会を政治的な目的で取り巻いて、やってるだけであって、日本全体は極めて平和で安全だ、と。
 ここからわずか三、四キロ隔てた後楽園では、何万人が入って野球を観てるし、ここから一キロばかり離れた銀座には、きれいな着物着てる若い男女が、いつものように歩いているじゃないかと。
 こんな状態の革命とか、内乱は世界中あり得ないんだ。一部だけの人間によって、つくられたものでしかなくてね。

 それだから、国民の大部分は声なき声なんだ。声なき声が、俺を助けてるんだ。声出してるのはごく一部であって、つくられてる声である。
 そりゃね、安保条約に反対だっちゅうようなことを、全国から葉書がずいぶんきましたよ。それは、みんな印刷してあるんだ(笑)。
ところがね、金釘のような字でね、「岸さん、しっかりやってください」ちゅうような葉書も、多かった。
 このごろのマスコミの連中、みんな口をつぐんでおりますけどね。あの当時の新聞だとか、雑誌はもう異常だったんですよ。
 私は誰がなんと反対しても、日本の将来のために、どうしてもやらなきゃならんという非常な決意をした。これが、第二の決断だと思う。
                      (転載了)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 国会前のデモは大変な様子で、御存じのとおり、この時、闘士の一人であった樺美智子さんが亡くなっています。
 機動隊に酷く殴られたから、と書かれたものを読んだ記憶がありますが、先頭にいて乱戦になったわけではないのですから、密集デモの中で押し倒され、踏まれたもの、と考えるのが妥当でしょう。
 また、「岸総理はそれを聞いて震え上がって辞めると言った」とか、「デモの大群衆を見て辞任を決意した」とかいうのも、能く考えてみると変な話です。
 総理が青ざめ、つい「死んだらおしまいだ」、みたいなことを口にしてしまった。それをそばにいた者が聞いていて言い触らした?
 まさか、ね。
 じゃあ、総理の胸の内が研究者には分かった?「死んだらおしまいだ」、という総理の心の声が聞こえたのでしょうか。霊能者??
 そんな馬鹿なことはない。「前後関係からみて、の推察」、でしかないと思いますよ。
 批准書を交換すれば新安保条約は成立する。成立すれば、混乱を招いた責任をとって辞任する。それが既定路線です。

 大鉈をふるって大改革、政治的決断を行う。それで世の中は大きく動く。大半は良い結果となるけれど、そのために苦汁を味わう人は必ず出る。版籍奉還然り、廃藩置県然り。四民平等だって、武士はすぐに苦汁を味わうことになる。
 安保条約改正のことで社会が混乱した。更にその混乱の中で、尊い人命を失うことになった。責任は総理「にも」ある。
 だから苦汁を味わうことになった人々に対する責任として「辞任する」。

 今回の参院選挙で青山繁晴氏が「西郷南洲翁遺訓」にある、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」を何度も口にされていました。政治家たるもの、かくあるべきではないか、と。
 この遺訓は誰しも納得されること、これこそ理想の政治家、となるのでしょうが、能く読むと、これは大変なことです。と言うか、ちっともカッコよくない。下手すると、人格否定どころか存在さえも否定される。国家のために「馬鹿にされ、踏みつけられ、でくの坊と呼ばれ、常に襤褸をまとって、いつでも平気で命を投げ出せる者」。
 例えば青山氏は名誉棄損で文春を訴えた。又、親からもらった大事な名前だから、ひらがなで立候補の届け出はしなかった。
 これは人間の尊厳、また親孝行そのもので、褒められるべきことではあっても蔑まれる謂れは全くない。
 けど、それは「名も要らず」の反対、です。親孝行だって国家のために捨てる。それが「名も要らず」、でしょう。

 以前、こんなことを書きました。
   ↓
 近思録党は、確かに決死の覚悟で改革に取り組みました。
 西郷隆盛が「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」でなければ、国のことはできない、と言ったのは、まずは、近思録党のことだったのでしょう。
 でも、西郷は知らなかった。
 自分が嫌っていた笑左衛門が、きたない手を使ってまでも、藩の財政を考え、250万両の蓄財をしていたことを。
 そして、それを使って、斉彬が自分を育ててくれたことを。
 笑左衛門もまた、汚名を着てまで、藩のために命を投げ出したことを。(2010年3月30日の日記)
 ・・・・・・・
 これは500万両もの借金を片づけ(踏み倒し)藩政を立て直し、逆に密貿易等で250万両の蓄財をし、全責任を取って敢えて卑怯未練に見えるよう、毒をあおいで死んだ調所笑左衛門のことです。おかげで、つい最近まで鹿児島では大変に嫌われていました。
 でも、これが「名も要らず」でしょう。藩のために自分は言うまでもなく、一族までもが「石持て追わるる」ことになるようなことだって、平然として行なった。

 青山氏は「かくあるべき」と提言しました。たとえ「狡い」、「卑怯」、「叩っ切ってやる!」と言われたって、「国家のためと心安く思い込み」、決断する。この時の岸信介は、確かにそうです。
 今の総理は??(私は、やっぱり岸信介の孫、と思いますけど。)

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「岸信介かく語りき」より

2020年05月20日 | 重箱の隅
2016.07/15 (Fri)

 前回、 『岸信介最後の回想 その生涯と60年安 保』(勉誠出版)刊行に際して、監修者加瀬英明氏が書かれた文を部分転載しましたが、今回から数度にわたり、速記録を書き起こしたものから、例によって部分転載をしてみようと思います。
 「月刊Hanada」8月号に
 「巣鴨プリズン、60年安保、そして家族のこと・・・・『岸信介かく語りき』」 (聞き手 加治悦子)
 と題して収録されています。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「戦後三つの判断」
                      (略)
 岸
 まあ、いろんなことがありましたけれども、一つの重大な場面としてですよ、非常な決意で当たったと、思います。
 私はね、政治家として何よりも大事なことは、決断だと思うんですよ。そして、その決断に基づいて、実行するというね。
 考えてみると、非常に大きな決断されたのは、吉田さんです。

 サンフランシスコ条約を結ばれた時に、すべての国がみな講和条約に加わらなきゃいかんという、全面講和議論がありましてね。
 ことに、ソ連という大国が参加しない条約は、いかんという議論が、社会党はもちろんのこと、当時の改進党まで、そう主張していたんですよ。
 吉田さんはそれを押し切って、非常な決断をされて、サンフランシスコへ行かれて、この条約を作った。
 あの時あれができたからこそ、日本が独立したんだ。全面講和なんて言うとりゃ、ソ連というやつが、何を言い出すか分からん。

 第二の決断は、私が安保条約を改定した時。もちろんあの時、安保条約はあったんですよ。
 吉田さんがサンフランシスコ条約と同時に、日本に自衛隊もないし、全く無防備だったから、一切をアメリカに頼んだ安保条約を作られてるんだ。自ら守ろうという力がないんですから。しょうがない。
 それを、やはり独立国である以上、日本の防衛というものは、日本の自衛隊がやるんだ。しかし、自衛隊の力だけでは、日本を取り巻くところの、今は廃棄されたけれども、日本を目標とした中共と、ソ連との中ソ同盟があった。それがなくなっても、強い軍事力を持ったソ連が、周りにいるわけです。日本一国で、日本を守るわけにいかない。

 新しい日米安保条約で、アメリカと日本が対等な立場に立って、一方が一方を占拠したような、勝手なことではない状況を、作り上げた。
                      (略)
 私が総理になる前の鳩山内閣の時に、重光君と一緒にアメリカに行きましてね。その時から、下話として、安保条約を日米対等なものに改正しようじゃないか、とね。
 私が1957年に総理として行った時に、初めてアイゼンハワーとダレスに、それを正式に提案してね。
 私が三年間研究して、結論を得て、やったことでしたから。

 問題は、社会党や、共産党なんかが反対した陰には、日本を弱体化するために、ソ連や、中共のそういう団体に対する援助なり、指導が行われておった。
 中ソ両国は、日本とアメリカが緊密で、強固な同盟関係になるということを、喜ばない。ところが、その後、中共は様子が大きく変わってしまってね。鄧小平が日本に来て、日米安保条約はいい条約で、これは守らなきゃならんと、言うたもんだ。
 社会党のやつらが、さあ困ったんですけど、中共から言うとですよ、ソ連の軍事力に対して、日米安保がその脅威を抑える。日米安保条約がアジアの安定に役立つと、言ってるわけ。

 最後の日に、警視総監がやって来て、「総理大臣官邸をどうも守りきれないから、総理はどこかに逃げてほしい」と、言う。
 だからね、、「ここが守りきれないから、どこかに逃げてみても、俺もデモなんかで命を失うっちゅうようなことはしたくもないけど、ここが駄目なら、警視庁が俺の体、守ってくれるっちゅうところが、どこか、あるのか」ときいた。
 すると、警視総監も黙ってしまいましてね。

 「総理大臣としてどこへ行ったって、絶対に安全というところがない以上は、俺はここにいる、ここで死ぬより他に、ないじゃないか」


                     (転載了)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・「全面講和でないと駄目だ、というのが大半の意見だったが、吉田首相はソ連抜きの講和条約を締結した」。
 この「ソ連抜き」というのが後々までの禍根となった、なんてことを学校では習ったし、テレビ、新聞でもそんな論調だったことを覚えています。勿論、これは私が生まれる前年のことですから、リアルタイムでは知りません。
 ただ、間違いなくこう習ったし、書かれたものにはこのようにありました。

 でも、岸信介の言通りです。
 「あの時あれができたからこそ、日本が独立したんだ」
 「全面講和なんて言うとりゃ、ソ連というやつが、何を言い出すか分からん」

 今、憲法改正について、やっと少しずつ話ができる形が作られつつあります。大体、「国民投票が必要」と明記されているのに、国民投票法がなかった!
 だから国民投票法を作ろうとした。
 そしたら、「憲法について議論をするのが先だ!」と多くの野党が大反対した。そんなこと言われんでも分かっとります。
 でも議論が結してから国民投票法作るの、っておかしいでしょう?泥縄そのものじゃないですか。
 結果としては何とか成立させました。これは大変なことなんですけどね、よくぞ成立させたと思います。
 でも、相変わらず頓珍漢なことを言ってます。
 改憲について議論を始めよう、と言っているのに、「改憲の是非をまず国民投票で聞くべきではないのか」、なんて。
 議論してから、結果を国民に提示するもんでしょ?
 そこで国民に是非を決定してもらうために国民投票をするんでしょ?
 話し合いもせぬうちから国民投票、って、一体何を決めるんです?「改憲について話し合い、してもい~い?」って?

 ・独立国である以上、日本の防衛というものは、日本の自衛隊がやるんだ。 
 ・日本一国で、日本を守るわけにいかない(それだけの軍事力がない)。
  だからこその日米安保条約、なんですが、状況は、今も同じなんです。いや、今の方がよっぽど「日本だけで守り抜く」ことなどできない。

 ・「総理大臣官邸をどうも守りきれないから、総理はどこかに逃げてほしい」 
  こんなこと、警視総監ともあろうものが言いますかね?でも言ったんでしょうね。
  そして間違いなく、これで警視総監は腹をくくったんでしょう。                    
  これは60年の安保条約改正前夜。まさに「革命前夜」、といった国会前であったそうです。

 
                               (続く)
 
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岸信介元総理のこと (安保法案に関して)

2020年05月20日 | 日々の暮らし
2016.07/13 (Wed)

 今日(28年7月12日)の「頂門の一針」に岸 元総理のことについて、記事が挙げられていました。
 このたび刊行された
 『岸信介最後の回想 その生涯と60年安 保』(勉誠出版)』
 を、監修者である加瀬英明氏が紹介したものですが、偶然「月刊Hanada」に書中の速記録を起こしたものが載せられていました。
 それで、今回「頂門の一針」から例によって部分転載、次回は「月刊Hanada」から数回に分けて同じく部分転載をしようと思います。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

━━━━━━━━━━
『岸信介最後の回想』
━━━━━━━━━━
加瀬 英明
                   (略)

 私は岸首相が戦後の日本の歴代の首相のなかで、もっとも傑出した首相 だったと、考えてきた。
 岸首相は1960年に日米安全保障条約の改定を、身命を賭して行った。

 吉田茂首相が1951年にサンフランシスコにおいて講和条約に調印し た同じ日に、日米安全保障条約が結ばれた。
 ところが、この時の安保条約は不平等条約であって、アメリカ軍が日本 に無期限に駐留することを認めていたが、アメリカが日本を防衛する義務 を負っていなかった。
 アメリカ軍が対日占領の形を変えて、駐留を継続するようなことだった が、当時の日本には朝鮮戦争が勃発した直後に、マッカーサー元帥の命令 によって創設した警察予備隊しかなかったから、仕方がなかったといえよう。

 岸首相は、日本を再び独立国家としようという、信念を燃やしていた。 アイゼンハワー政権のアメリカと交渉して、安保条約を改正して、アメリ カに日本を守る義務を負わせるとともに、両国の意志によって、延長をは かることができる期限を設けた。
 新条約は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条 約」と呼ばれ、経済をはじめとする諸分野において、「相互協力」するこ とがうたわれた。
 新条約は日米関係に新しい時代を、もたらすものだった。
 
 新時代を象徴するために、アイゼンハワー大統領が、戦後、最初のアメ リカ大統領として訪日することになった。
 しかし、岸首相は安保条約の改正を成し遂げたが、朝日新聞をはじめと する大新聞や、野党などの左翼勢力によって煽動された反対運動によっ て、志なかばにして辞職せざるをえなかった。
 連日、数万人という左翼のデモ隊が、国会を取り巻き、機動隊と衝突し てしばしば暴徒化した。
 アイゼンハワー大統領の訪日を準備するために来日した、ハガティ秘書を乗せた乗用車が、羽田空港を出ようとする時に、暴徒に よって取り囲まれて、立往生する事態が起った。
 岸首相はそのために大統領が来日しても、安全を守ることができないと いう判断から、大統領の訪日を断らざるをえなくなり、その責任をとって 辞職した。
 もし、あのような大規模な反対運動がなかったとしたら、日本の歯車が 狂うことはなかった。

 戦後、米ソの冷戦による対決が終わると、中国が台頭することによっ て、日本を取り巻く国際環境はつねに厳しいものであり続けたが、日本は アメリカの保護に国家の安全を委ねて、安眠を貪ってきた。
 ところが、いまアメリカが世界秩序を守るのに疲れ果てて、内に籠ろう としている。そのために、日本は好むと好まざるをえずに、自立すること を強いられてゆこう。
 岸氏が日本が先の大戦に敗れてから、日本がどうあるべきか、日本の未 来をどのように描いてきたのか、いまこそ、私たちは学ばなければならな いと思う。
                   (略)
 日本は独立を回復して以来、“吉田ドクトリン”のもとで、アメリカに国 防を委ねて、経済を優先させる、富国強兵ならぬ富国軽武装の道をとって きた。

 アメリカが迷走をはじめた、という。しかし、日本がアメリカによって 占領下で強要された「平和憲法」を護符(おふだ)として恃(たの)んで、こ れまで迷走してきたのではなかったのか。
 “トランプ・サンダース現象”は、オバマ政権がもたらしたものだ。アメ リカは、オバマ大統領が「アメリカは世界の警察官ではない」と言明した ように、世界を守る意志力を萎えさせてしまった。

 いま、日米関係が大きく揺らごうとしている。まさに日本にとって、青 天の霹靂(へきれき)――はげしい雷鳴である。
日本は独立を回復してから、一貫して経済優先・国防軽視を国是としてき たが、「吉田ドクトリン」と呼ばれてきた。
 この“吉田ドクトリン”が破産した。「吉田ドクトリン」は、永井陽之助 氏(当時、青山学院大学助教授)が1985年に造語した言葉だが、今日 まで保守本流による政治を形づくってきた。
 私は吉田首相が講和条約に調印して帰ってから、政治生命を賭けて、憲 法改正に取り組むべきだったと、説いてきた。吉田首相は正しい国家観 を、欠いていた。旧軍を嫌ったために、警察予備隊を保安隊、さらに自衛 隊として改編したものの、独立国にとって軍の存在が不可欠であるのに、 今日でも自衛隊は中途半端な擬(まが)い物(もの)でしかない。

                  (略)

 吉田首相と岸首相を比較することによって、戦後の日本がいったいどこ で誤まってしまったのか、理解することができる。
 私は監修者の序文を一人で書くよりも、吉田茂の優れた研究者である、 堤堯(つつみぎょう)氏と対談して、巻頭に載せたいと思った。堤氏は月刊 『文芸春秋』の名編集長をつとめたが、吉田首相が戦後の日本に対して果 した役割を、高く評価している。
 この4月に、堤氏とテレビで対談を終えた時に、私が「誰が戦後の首相 のなかで、もっとも偉いと思うか」とたずねたところ、言下に「もちろ ん、岸信介だ」という答が戻ってきた。本書のために対談を行ったが、多 年の親しい友人であるために、話がしばしば脱線してしまい、結局、堤氏 から私が一人で書いたほうがよい、ということになった。

 アメリカのダレス特使が、占領末期に対日講和条約の締結交渉のために 来日して、吉田首相に「日本が再軍備しないでいることは、国際情勢から 許されない」と、強く迫った。
 吉田首相はそれに対して、「日本は経済復興のために、国民に耐乏生活 を強いている困難な時期にある。軍備に巨額の金を使えば、経済復興を大 きく遅らせることになる。それに理由なき戦争にかり出された国民にとっ て、敗戦の傷痕がまだ残っており、再軍備に必要な心理的条件が失われた ままでいる」といって、頑なに反対した。
 アメリカは、ダレス特使が来日した時に、日本を完全に非武装化した日 本国憲法を強要したことを悔いていたから、独立回復とともに、憲法を改 正することができたはずだった。
吉田首相が日本が暴走したために、先の戦争を招いたと信じていたのに対 して、岸首相は日米戦争がアメリカによって、一方的に強いられたと考え ていた。

 日本が戦った相手のフランクリン・ルーズベルト大統領の前任者のハー バート・フーバー第31代大統領は優れた歴史家として評価されている が、その回想録のなかで、先の日米戦争はアメリカが日本に不法に仕掛け たものであり、「ルーズベルトという、狂人(マッドマン)一人に責任があ る」と、糾弾している。フーバーは占領下の日本を訪れて、マッカーサー 元帥と三回にわたって会談したが、そう発言したところ、マッカーサーが 同意したと述べている。(『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルト の罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』藤井厳喜、稲村公望、茂木弘道著 〈勉誠出版、2016年〉を読まれたい。)

 岸氏は敗戦直後に占領軍によって、A級戦犯容疑者として逮捕された。 入獄する前に「名に代へてこの聖戦(みいくさ)の正しさを 萬代(よろず よ)までも伝へ残さむ」と詠んで、高校の恩師へ贈っている。
 堤氏は吉田首相が経済を優先して、富国軽武装の道を選んだのを、陸奥 宗光(むつむねのり)外相が日清戦争後に三国干渉を受けて、遼東半島を清 国に返還した時に、「他策なかりしを信ぜんと欲す」(『蹇蹇録(けんけ んろく)』)と述べているのを引用して、アメリカの圧力をかわすための 擬態だったと、語った。
 だが、軍を創建するのは、予算の問題ではあるまい。軍は精神によって 成り立っている。独立国の根幹は、精神である。

                   (略)

 私は1960年の安保騒動を、ジャーナリストとして、毎日、取材した が、後にその時の体験を、月刊『文芸春秋』に寄稿した。
 「国会を囲む道路は、熱狂して、歓声をあげながら行進する人々の長い 列が、あふれるように続いた。歌声、ラウドスピーカーが叫ぶ声、林のよ うに揺れる旗。作業服の動労の一隊が威勢よく声を掛けながら、駆け足で 進んでくる。首相官邸の前の曲り角にくると、激しいジグザグ・デモに移 り、何千という人数が渦を巻く。
 この見通すこともできない人の波は、朝からずっと切れずに続いてくる」

 岸首相が辞職すると、新しい安保条約が発効したというのに、安保条約 の改定に対して国会を囲んで、あれほどまで荒れ狂ったデモが、まるで何 ごともなかったように、沈静してしまった。まるで悪夢をみたようだった。
 反対運動は国民のごく一部にしかあたらない勢力によって、つくりださ れたものだったのだ。

                   (略)

 日米安保条約は、1970年に新条約の最初の期限を迎えるまでは、左 翼勢力などによって動員された人々が街頭に繰り出して、反対することが なかった。
 いまでも左翼勢力は1959年から翌年にわたって、国会の周囲を占拠 して狼藉(ろうぜき)のかぎりを働いた騒動を「安保闘争」と呼んでいる が、マスコミによって1970年の数年前から「70年危機」として喧伝 (けんでん)されたにもかかわらず、ごく一部の撥ねあがった学生たちが新 宿駅構内で騒ぎ立てただけで、拍子抜けしたものに終わった。
 これは、安保条約が改定された時から、日本国民の圧倒的多数が安保条 約に反対する左翼勢力に組することが、まったくなかったことを、証して いる。

 2015年になって、安倍内閣が集団的自衛権の一部行使を認める安保 関連法を成立させた。この時も、民主党や、共産党などの野党や、市民グ ループが、連日、国会を囲んで、デモや、集会を行った。朝日新聞や、大 手テレビがさかんに反対するように煽ったが、またもや、“お祭騒ぎ”に終 わった。
 私は国会の近くに、仕事場を持っている。そこで、何日か続けて国会周 辺に出かけて、安保関連法案に反対して、「平和憲法を守れ」とか、「戦 争法絶対粉碎」というゼッケンをつけた善男善女に、質問を試みた。する と、全員が現憲法も、安保関連法案も、読んだことがないと、認めた。
 堤氏は60年安保の全学連のリーダーだった、唐牛健太郎(かろうじけんたろう)氏と親しかった。堤氏によれば、唐牛氏は安保条約の条文を、 一度も読んだことがなかったという。

 これから、日本はどうしたらよいのだろうか。
 日本は危険な世界のなかで生き延びるためには、急いで憲法を改正し て、独立国としてふさわしい体制を、整えなければならない。なかでも、 憲法第九条は日本の平和を守るどころか、日本の平和を危ふくするもので ある。(現憲法による戦後の呪縛について、田久保忠衛氏と私との対談に よる『日本国憲法と吉田茂』〈自由社、2017年〉を、お読みいただき たい。)

 いま、私たちは岸首相の再評価を行うことが、求められている。



      頂門の一針4055 号  2016・7・13(水)


                 (転載了)
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