2012.09/13 (Thu)
何だか細かいことばかりが気になります。
こんな性格は「重箱の隅をつつく」という言葉があるように、何かにつけ妙に固執しているみたいで、あまり良い印象を持たれません。でも、そんな細かいことが、気になって仕方がない。
重箱の隅をつつくような意地の悪さ、というか、悪意を以て、じゃないんですよ。
気になるものは気になる。それは決して「ボクの悪い癖」、なんて何とか右京さん、みたいに茶化して終えることのできるようなものじゃない。そこが問題解決の重要なヒントになることはよくあるのですから。
そうです。「一事が万事」、です。
現総理は事毎に「大局的な見地に立って」、みたいなことを言って、現与党民主党政権の伝統的手法となってしまった感のある、
「注意深く、しっかりと見守っていきたい(つまり、何もしないことで問題が風化することをひたすら願う)」
という姿勢を堅持しています。
「大局的」と言えば聞こえは良いけど、「大局とは何なのか」、一度でも説明されたこと、ありましたか?
金官デモの代表者にあったこと、「大局的な見地」からは、どう説明されるんでしょう。
大局という言葉を使う時、必ず、一部ではあっても、精確なサンプルが必要となる。それを基にして描かれた大きな絵(この場合は「国家構想」とか「国政」)、が「大局」でしょう。
決して「街ゆく百人の人に聞きました」、みたいな中途な聞き方で「国政」という大局を量ってはならない。
「キザな奴」、の「キザ」は「気障」と書きます。「気に障(さわ)る」からですね。
態度や言葉遣いに苛々させられる。「わざとらしい」と感じる。
だから、「気障り」で、「キザ」。
「耳に障る」のは嫌な音(言葉)です。
だから「気障り」と同じく「耳障り」、と言う。
「障る」は邪魔をするという意味です。
邪魔をして物事を損(害)なわせるのを「障害」というのはそのためです。
「障子」も「陽射しを遮るもの」という意味。
ということで、「耳障りの良い言葉」という言い方、変ですね。
でも、つい使ってしまう。何故でしょう。間違いなく「意味を考えたことがないから」、でしょう?レベルの低い方の「無意識」。
それでも、時々、「何か変だな」と感じる時はある筈です。
その時に考えりゃ、容易に解答は見つかるのに、「今忙しいから」とか「こんなこと、どうだっていいじゃないか」と、考えることなしに放っておく。
けれど、それが積み重なって山になってしまうと、「まさか!」というようなことが起きる。換えるに換えられなくなる。
「注意深くしっかりと見守っていきたい」!・・・?
問題というものは風化なんかしませんよ。自分らに都合の悪いことは風化した「振り」はしますが。
「借りた金は忘れる(忘れようと努める?)けれど、貸した金は死ぬまで覚えている」と言います。
だから、「死んでも借金だけはするな」とか「貸したと思うな。やったと思え」なんて言います。
その伝で言えば「子孫の代になったら良い知恵が~」なんてお笑い種です。
その頃には捏造教育が定着して、心の底から「釣魚島ハワレワレノモノ」と思い込んでしまう。
「行動(考えることも含まれる)」を起こさなければ、いや、「まずは考えること」をしなければ、尖閣諸島、盗られちゃいますよ。
何だか細かいことばかりが気になります。
こんな性格は「重箱の隅をつつく」という言葉があるように、何かにつけ妙に固執しているみたいで、あまり良い印象を持たれません。でも、そんな細かいことが、気になって仕方がない。
重箱の隅をつつくような意地の悪さ、というか、悪意を以て、じゃないんですよ。
気になるものは気になる。それは決して「ボクの悪い癖」、なんて何とか右京さん、みたいに茶化して終えることのできるようなものじゃない。そこが問題解決の重要なヒントになることはよくあるのですから。
そうです。「一事が万事」、です。
現総理は事毎に「大局的な見地に立って」、みたいなことを言って、現与党民主党政権の伝統的手法となってしまった感のある、
「注意深く、しっかりと見守っていきたい(つまり、何もしないことで問題が風化することをひたすら願う)」
という姿勢を堅持しています。
「大局的」と言えば聞こえは良いけど、「大局とは何なのか」、一度でも説明されたこと、ありましたか?
金官デモの代表者にあったこと、「大局的な見地」からは、どう説明されるんでしょう。
大局という言葉を使う時、必ず、一部ではあっても、精確なサンプルが必要となる。それを基にして描かれた大きな絵(この場合は「国家構想」とか「国政」)、が「大局」でしょう。
決して「街ゆく百人の人に聞きました」、みたいな中途な聞き方で「国政」という大局を量ってはならない。
「キザな奴」、の「キザ」は「気障」と書きます。「気に障(さわ)る」からですね。
態度や言葉遣いに苛々させられる。「わざとらしい」と感じる。
だから、「気障り」で、「キザ」。
「耳に障る」のは嫌な音(言葉)です。
だから「気障り」と同じく「耳障り」、と言う。
「障る」は邪魔をするという意味です。
邪魔をして物事を損(害)なわせるのを「障害」というのはそのためです。
「障子」も「陽射しを遮るもの」という意味。
ということで、「耳障りの良い言葉」という言い方、変ですね。
でも、つい使ってしまう。何故でしょう。間違いなく「意味を考えたことがないから」、でしょう?レベルの低い方の「無意識」。
それでも、時々、「何か変だな」と感じる時はある筈です。
その時に考えりゃ、容易に解答は見つかるのに、「今忙しいから」とか「こんなこと、どうだっていいじゃないか」と、考えることなしに放っておく。
けれど、それが積み重なって山になってしまうと、「まさか!」というようなことが起きる。換えるに換えられなくなる。
「注意深くしっかりと見守っていきたい」!・・・?
問題というものは風化なんかしませんよ。自分らに都合の悪いことは風化した「振り」はしますが。
「借りた金は忘れる(忘れようと努める?)けれど、貸した金は死ぬまで覚えている」と言います。
だから、「死んでも借金だけはするな」とか「貸したと思うな。やったと思え」なんて言います。
その伝で言えば「子孫の代になったら良い知恵が~」なんてお笑い種です。
その頃には捏造教育が定着して、心の底から「釣魚島ハワレワレノモノ」と思い込んでしまう。
「行動(考えることも含まれる)」を起こさなければ、いや、「まずは考えること」をしなければ、尖閣諸島、盗られちゃいますよ。