美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

軍馬軍犬の碑と陸軍墓地(久居野村町)

2015-08-11 21:15:12 | 津のこと


津市久居野村町、国道165号沿いのセブンイレブン野村店から
東へ110mほどのところにあります、「軍馬軍犬之碑」です。
戦争中の昭和18年に建立されました。

道路沿いの目立つ場所にあるので、
ご存知の方も多いでしょう。

けれど、この碑のすぐ近く(更に80mほど東)に、
「陸軍墓地」と呼ばれる場所があることは、あまり知られていません。



こちらが「陸軍墓地」の入口です。
画像の石標以外には、特に目印になるものはありません。
正式は「津陸軍墓地」という名称です。



敷地に入ってみると、
桜の枝に覆われた参道が、南に延びています。

参道の西側に、墓碑・慰霊碑が3基並んでいます。



3基の石碑のうち、中央にあるのが「合祀碑」、
昭和9年、ここに陸軍墓地が移転されると同時に建立されました。

そもそも、明治41年に陸軍歩兵第51連隊が久居に設置された後、
部隊の射撃場(久居明神町の大釜池付近)あたりに墓地が設置されていたのですが、
場所が不便なこともあって、
「合祀碑」を建てるのに適当な場所を探していた、ということです。



「合祀碑」ほか、この地の石碑の由来を記した説明板、
ここには野村神社がありましたが、
川併神社に合祀されて、当時は空き地となっていたことが記されています。

川併神社(久居元町)津で一番大きい門松のある神社



「合祀碑」の左隣(南側)にある「滿洲事變戰病沒者合同墓碑」、
昭和11年、歩兵第33連隊が満州より帰還したのと同時期に建立されました。

上の説明板に「満州より帰還した兵士が持ち帰った土を墓碑に埋葬した」とあるのは
こちらの石碑のことではないか、とする意見もあります。



「合祀碑」の右隣は、シベリア抑留死没者慰霊之碑「平和の礎」、
こちらは平成18年の建立です。

さて、
「久居の歩兵連隊は最初から33連隊ではなかったの?」と気付きました。
明治41年に樺太から帰還して、久居を兵営に定めた第51連隊は、
その後ワシントン軍縮条約の影響で、大正14年に廃止されています。
(後に再編成され、太平洋戦争ではインパール作戦に従軍している)

その廃止された51連隊の後に、同年、久居に移ってきたのが
歩兵第33連隊だったのです。
昭和になってから、33連隊は中国大陸やフィリピンを転戦していますが、
終戦までずっと、久居を兵営としていたので、
「久居の歩兵連隊と言えば33連隊」というのが定着しているのです。

冒頭の「軍馬軍犬之碑」ですが、
陸軍墓地が6,000㎡と広大であるのに、その敷地内に建てられず、
少し離れた場所に建っているのは何故でしょうか。
「合祀碑」「満州事変戦病没者合同墓碑」が、軍の命令で建立されたもの、
つまり「官設」であるのに対し、
「軍馬軍犬之碑」のほうは民間の有志で建立されたものだったようです。
つまり陸軍墓地にそのようなものを建てさせてほしいと願い出て、
陸軍大臣の許可を得なければ設置が許されない、
しかし昭和18年当時は33連隊がフィリピンで米軍と戦っている最中で、
そのような話には軍も乗り気ではなかったので、
やむなく、陸軍墓地に近い場所を選んで建立したのではないかと想像します。

三重県消防学校の桜/陸軍第一気象連隊跡(鈴鹿市石薬師)

杉野兵曹長の顕彰碑(鈴鹿市磯山駅付近)

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