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美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

土田御前の墓(津四天王寺)

2013-08-17 21:15:46 | 津のこと


津市栄町の四天王寺、
聖徳太子が全国に建立した四つの四天王寺のうちのひとつで、
1,000年以上の歴史があると言われています。

戦乱で荒れ果てていたのを、津に入府した藤堂高虎公が再建しました。

こちらのお寺には、有名な方々のお墓があるのですが、
墓地の一番奥の、最も高い場所にあるのが
花屋寿栄禅尼こと織田信長の生母・土田御前のお墓です。

土田御前という呼び名は、実家が土田氏だったからという説があり、
その土田氏が美濃可児郡の土田氏であれば「どた」、
尾張清洲の土田氏であれば「つちだ」と読むらしいのですが、
現在においても、どちらが正しいという決め手は無いようです。

土田御前は、織田信長、信包(安濃津城主)と、お市の方の生母で、
1590年、信包を頼って伊勢安濃津城に移り、1594年に死去、ここ四天王寺に葬られました。

夫・織田信秀の死後、「尾張のうつけ者」と評判の変人・信長を嫌い、
土田御前は信長の弟・信行に肩入れしていました(後に信行は信長に誅殺された)。
それが原因となって信長とは不仲だった、という説もありますが、
実際は、家を継いだ信長と一緒に暮らし、信長の子(自分の孫)の面倒を良く見ていたといいます。

本能寺の変の後は、信長の二男・信雄の元へ行き、
信雄が秀吉に追放された後には、津の信包の元へとやってきた、ということです。

こうした親子あるいは兄と弟の確執というのは、武田信玄や伊達政宗においても共通します。
戦国時代においては、武家の女性は、
そのような肉親の間の争いも受け入れ、従うしかなかったのだろうと思います。

四天王寺にはほかに、
・久芳院 藤堂高虎の正室。津城で没し、四天王寺に葬られた。
・斎藤拙堂 津藩の学者、有造館の督学(校長)を勤めた。
・堀江鍬次郎 津藩出身、日本初の写真技術者。
らのお墓があります。

津にも関係のあった、方広寺鐘銘事件


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