美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

津にも関係のあった、方広寺鐘銘事件

2012-10-18 11:15:51 | 津のこと


津市乙部、フェニックス通りの交差点の角にある、上宮寺(じょうぐうじ)というお寺です。

推古天皇の時代に朝廷の許しを得て創建され、
聖徳太子が紫雲寺と命名、後に舒明天皇から上宮寺の号を賜ったという伝承があり、
津市最古のお寺とされていますが、
「毎年8月の阿漕平治の法要をこちらのお寺が行っている」ことと、
「江戸初期の僧・清韓のお墓がある」ことは、津市民にもあまり知られていません。

清韓(文英清韓)は伊勢国三宅(鈴鹿市)の生まれ、臨済宗の僧、
加藤清正に連れられて、朝鮮出兵にも随行したという。
豊臣秀吉の庇護を受けて、慶長5(1600)年東福寺の第227世となり、同9年には南禅寺(世代不明)に昇住した。
同19年、豊臣秀頼に請われて方広寺の鐘銘を書した。
それだけの位の高い僧であったということです。

この鐘銘というのが、歴史上有名な「国家安康」の銘文で
徳川方の怒りを買い、大坂の陣を引き起こす原因となったとされています。
この銘文が原因と言うよりも、
大坂方を潰すチャンスをうかがっていた徳川方が、銘文を子細に見ていたら、
「国家安康」の文字が見つかって、よし、これで豊臣に文句を言ってやろう、ということになったわけで、
清韓に悪意があったわけではありません。

もっと可哀相なのが、これも秀吉お気に入りの鋳物師だった辻越後守家種、
この当時は津城の北に移り住んでいて、
藤堂高虎公の命で、大門の観音寺の鐘を鋳造したりしていました。
この人も「国家安康」の鐘を鋳造したとして、清韓とともに捕えられました。

鋳物師としては、施主から渡された原稿そのままに銘文を刻んだだけで、
悪意があったとは思えませんが、
徳川方が事件を重大にしていく過程で、見過ごすことができなくなったのでしょう。

結局、2人を良く知る藤堂高虎公が、2人の身柄を預かり、
津城下で謹慎させたことで、命拾いをしたのです。

清韓は元和7年(1621)に死亡、お墓が上記の乙部の上宮寺にあります。

一方、鋳物師の辻越後守家種は、息子2人が跡を継ぎ、
息子らが高田本山専修寺、津四天王寺、松阪の岡寺、白山の成願寺などの
有名な鐘を造っていますが、
事件後の家種が作品を作ることは無かったということです。

追記)秀吉お気に入りの鋳物師だった辻越後守家種
秀吉が、ある人物が持っていた釜が気に入り、
それを自分に譲れ、と言ったところ、その人物が
「これが無くなっては、自分は明日から湯を沸かせなくなります。
 このようなものがあることで争いになるなら、
 いっそ無くなってしまったほうがよろしい」とその釜を叩いて割ってしまった。
この話を聞いた秀吉は、大変反省し、
鋳物師辻越後守家種に命じ、元の釜と同じものを2つ作らせて、
ひとつはその人物に返し、もうひとつを自分が愛用したという。
この釜を「太閤の手取り釜」と呼び、辻越後守家種の名声が高まったという。

伊賀街道の伊賀側の起点から歩いてみた

津市八幡町 旧伊勢街道を歩いてみた(その1)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 若鶏皮串タレ(スーパーヤマ... | トップ | ドアラの「海老天おむすび」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

津のこと」カテゴリの最新記事