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美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

津の唐人踊り、調べてみると奥が深いと思いました

2011-04-05 21:10:09 | 津のこと


毎年10月に開催される津まつりの名物のひとつ、唐人踊りです。
最近は「安濃津よさこい」が津まつりのメインみたいになっていますけれど、
津市民の大多数は、この唐人踊りこそが津まつりのシンボルだと、思っています。

けれど、
「唐人踊りって、何時ごろからやっているの」
「何故、そんな踊りが貿易港でもない津にあるの」
という疑問について
正しく説明できる津市民もまた少ないと思うのです。

「唐人踊り」や「しゃご馬」は、津まつり会場で必ず見られるもの、という認識はあっても、
何故、そういう伝統芸能が津にあるのか、ということは
私もこれまで考えたことはありませんでした。

で、この「唐人踊り」を調べてみると、なかなか奥が深いのです。

まずその前に「津まつり」の起源について記します。
寛永12年(1635)年に、津八幡宮の祭礼として始まった祭りが、
今日の「津まつり」です。

津八幡宮は建武年中(1334頃)、京都・石清水八幡宮の御分霊を千歳山に勧請し、
伊勢国に初めて建立された八幡宮であると伝えられています。
寛永9年(1632)第2代津藩主藤堂高次公が、現在の地に極彩華麗な社殿を造営して神社を還すとともに、
開拓神として藤堂高虎公を合祀、津の街の鎮守神として崇敬されました。
寛永12年(1635)高次公の勧めにて、祭礼と神輿巡幸が始められ、
津の城下の町々が永代おこたりなく賑やかに奉仕するよう、宝前の備え金を貸し渡されたり、
また、寛永21年には垂水・藤方両村の内で三〇〇石を神領として寄進するなど代々崇敬された、ということです。

つまり、津藩主がこの神社の祭礼を
津城下の一大イベントとして、毎年盛大に開催するように指示したということです。

で、高次公は津八幡宮の祭りが始まったその翌年・寛永13年(1636)、
「唐人踊り」を祭礼の出し物として行うよう、指示したということです。
つまり「第2回津まつり」から登場し、現在も続けられているということです。

「唐人踊り」が、江戸時代に日本にやってきた「朝鮮通信使」の風俗を真似たもの、
ということは、津市民なら一度は耳にしたことがあると思います。
では、その朝鮮からの使節を、誰がどこで見たのでしょう?

「朝鮮通信使」については、詳しく解説しているサイトがあるので、
詳細な説明は省きますが、豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、国交が断絶していた江戸幕府と朝鮮の李朝との間で、
このまま断絶していてもお互いに利益は無い、国交を回復し、貿易を再開することが必要という機運になり、
慶長12年(1607)を第1回として、以後7~10年の間隔で通信使節(外交団)が日本にやってきます。
使節は九州に上陸したのち、瀬戸内の航路で大阪に移動、
その先は陸路で江戸に向かいました。
津まつりで見られる唐人踊りのように、使節は楽器などを鳴らしながら賑やかに行列していったので、
沿道には近在から大勢の人々が見物に来たそうです。
「唐人」というのは中国や朝鮮の人々に限らず「外国人」すべてを指していますが、
この時代(江戸初期)に、庶民が見ることのできた「唐人」とは、この朝鮮通信使の行列だけでした。
その後、朝鮮通信使の特異な風俗を真似て踊ることが各地で流行しました。
行列が通過した大阪から江戸に至るまでの各地でまず流行し、その後各地に広まったものと思われます。
で、
行列は通らなかった津の藤堂公も、おそらく江戸で庶民らが面白おかしく踊るのを目撃したのでしょう。
この踊りを、津八幡宮の祭礼でも上演し、
津の人々に楽しんでもらおうと考えたようです。

時代とともに、各地の唐人踊りは廃れていき、
今では、津を含めて全国で3ヶ所に残るだけとなっています。
それだけ、この唐人踊りが津の民衆に愛されてきたということでしょう。

さて、この2代藩主の高次公ですが、
初代藩主であり将軍家康・秀忠の信頼も厚かった藤堂高虎の実子で、
高虎46歳のときに、ようやく生まれた後継ぎでした。
寛永7年(1630)、高虎の病死により、津藩主となりました。

先代高虎公は、武将としての功績(朝鮮出兵や関ヶ原の戦で大活躍したことは有名)もさることながら
「築城の天才」とも呼ばれ、将軍の命令で多くの普請(建設工事)を任されています。
後継ぎである高次も、
寛永9年(1632年)の江戸城二の丸、
寛永16年(1639年)の江戸城本丸消失後の復興、
慶安5年(1652年)の日光の大猷院霊廟(徳川家光の霊廟)
などの数多くの石垣普請を引き受けました。

石垣普請については、高虎の代からの職人集団を抱えていたので、
それほど難しい任務ではなかったと思いますが、問題はそれにかかる事業費です。
この時代、幕府に命じられた普請の費用は、その命じられた大名が負担していました。
皆さんも、中学校の歴史の授業で
「徳川幕府は、大名が力を蓄えないよう、参勤交代の制度をつくり、
 また河川や橋の工事などを命じました」と習ったと思います。

高次公としても「将軍家の信頼の厚い藤堂家」というプライドもあって
将軍(秀忠)から「何々の普請をやってくれんかね」と言われれば、断れなかったのでしょうが、
津藩ではこれらの石垣普請の負担により財政が極度に悪化したようです。

ということで、
津の唐人踊りが誕生した時代のことを、ざっと紹介してみましたが、
高次公が藩主となるまでに、朝鮮通信使が3回来日しており、
その高次公が江戸城の石垣を修繕して財政が悪化し、
その後に津まつりと唐人踊りが始まった、ということになります。

これらのことは、大きく関係しているものと思われます。
出来てから歴史の浅い津の城下町をどのように活気づけていくか、
民衆が生き生きと暮らす町にするには、どうしたら良いか、
そしてまた、財政悪化の解決策として
民衆(特に農民)にはもっともっと働いてもらいたい、
それには喜びも与える必要があると、
そういうところから、民衆が元気になる「祭り」を仕掛けたのだと思うのです。

先代高虎公が朝鮮出兵で多くの朝鮮の人々を捕虜として連れ帰り、
その人々が日本で悲しい思いをしているのを見た高次公が、
津市片田長谷町の長谷寺(ちょうこくじ)に朝鮮半島の仏像を置き、
また朝鮮通信使を真似た唐人踊りを津に持ち込んだ、と書かれたものを読んだことがありますが、
この「高次公の罪滅ぼし説」は少し無理があると思います。
捕虜の多くは、朝鮮通信使が来る度に一緒に帰国しており、
この高次公の時代に、どれだけの人がまだ帰国できていなかったのかは分かりませんが、
帰国の制度が整ってきた時代に、そのような悔悟の気持ちは持たないのではないでしょうか。

上記のように、当時の唐人踊りは津固有のものではなく
東海道沿線でブームになっていたものを真似た、というのが正しいようです。
「祭り」によって津城下の民衆のパワーを呼び起こし、
江戸のような活気のある町にしたいという狙いがあったのではないか、と思うのです。

長谷寺(ちょうこくじ)の石像仏は、藤堂高虎が朝鮮から持ち帰ったもの


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