美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

長野藤直、桑名港を占領する

2022-03-23 09:15:31 | 津のこと

(桑名市寺町通り商店街付近)

数年前のことですが、桑名市のボランティアガイド会の皆さんが
津市美里町の「美里ふるさと資料館」を見学されました。
その際に「美里の長野氏が桑名を占領したことがあったのです。
美里の方はそのことをご存知でしょうか」と尋ねられました。
が、美里にはそのような史実は伝わっておらず、
私も初耳だったので、申し訳ない思いでした。

この事件は、日本の歴史上でも稀有な結末となり、
桑名の皆さんにとっては、誇らしい歴史として
語り続けられていたのです。
その思いに少しでも応えようと、
長野氏の地元美里でも記しておくことにしました。

まず、舞台となった桑名港について、
桑名は中世の時代から、北勢・西濃地域の水運の拠点として発達しました。
桑名付近や美濃には、伊勢神宮の領地が多くあり、
そこから取れる年貢米は木曽三川を川舟で運ばれて桑名に集められ、
海を渡る大型船に積み替えられて、大湊(伊勢)に運搬されました。
また近江からも八風街道を陸路で運ばれた物資が、
桑名から船で伊勢に運ばれて行きました。

桑名の港は「十楽の津(じゅうらくのつ)」と呼ばれ、
諸国の商人達による自由な商売が認められていました。
後に戦国大名が自分の領内に人を集めるために
「楽市楽座」の制度を導入した例がありますが、
それら大名が自由を認める一方で、役人や大商人による統制を
行っていたのに対し、桑名では商人らによる自治が行われ、
自治都市として町が形成されていったのです。

もちろん、その当時の桑名にも
「北勢四十八家」に数えられる土豪が
それぞれの城館を置いて活動していたようですが、
誰もこの桑名の町と港を支配し、統治しようとは
思わなかったようです。
が、遂に桑名を征服しようとする者が現れました。
伊勢国の国人領主・長野工藤氏です。
長野家12代当主藤直の時代です。

永正7年(1510)、長野氏の軍勢が桑名の町に侵入、
町のいくつかの出入口を封鎖し、町衆さえも町に入れないようにしました。
桑名には、長野工藤氏がロックアウトしたからではなくて、
桑名の町衆(商人)たちが、抵抗のために町から出て行った、
と伝わっているようですが、いずれにせよ、
「町に入れなければ、商売も生活もできないので
 やがて民のほうから許してと言ってくるだろう」
と思っていたのが、何日経っても町衆は戻ってきませんでした。

これにより、商人たちは町に入れず、
港で船を出す者もいなくなり、
桑名における水運事業はすべて停止しました。
その結果、伊勢神宮へと送られるはずの年貢米は桑名で山積みとなり、
この地方からの年貢が全く入って来なくなった伊勢神宮は大いに慌てました。
伊勢神宮から長野氏へ、再三にわたって事態の解決を要請した結果、
2年後、長野氏の軍勢は撤退し、桑名に自由が取り戻されたのです。
武力に頼らず、政治交渉によって町を解放したという、
歴史上稀有な決着でした。

長野氏とすれば、桑名の町を支配すれば
港に出入りする物資や船舶から税を徴収することができ、
大きな収入になると考えたのでしょうが、
上記の通り、桑名の町衆が恭順しなかったので、
計画はあっさり崩壊してしまった、ということです。

長野氏の撤退後、
有力な土豪であった伊藤武左衛門が海の近くに城を築き、
その城(東城)が後の桑名城として整備されました。
この伊藤氏も工藤一族であると伝えられていますが、
長野工藤氏との近い姻戚関係は無かったようです。
商人による自治はその後も続きました。
江戸時代になって徳川の重臣・本多忠勝が桑名藩主となり、
市街の整備を行いました。
冒頭の画像は、その江戸時代における
桑名城の堀端の風情を再現した親水公園です。

桑名寺町通り商店街

今峯城(美里町足坂)と外山城(美里町五百野)

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